浦東大道の黒い影
1975年の秋のある日の深夜、上海浦東大道はひっそりとして人影もない。浦東大道から、あまり遠くない処に住んでいる若い農民小張は電灯を消して寝る支度を始めた。すると外で、「ギアッ」と叫び声がした、小張はきっと何か起きたのだと、すぐ寝床から起き上がると、戸の後の天秤棒をとって勢いよく飛び出した。
小張が出てみると目の前の道を黒い影が懸命に走って行く。小張は追いかけながら「止まれ、何したんだ」と叫ぶと、黒い影はいっそう速く走った。小張はこれは悪い事をしたのに違いないと、追いかけ、追いかけ、追いつこうとした時、黒い影は突然立ち止まると、“クルリ”と向き直った、小張はハッとして、思わず10歩あまり身をひいた。黒い影は髪をふり乱し、顔は黒と白に塗り分けられ、光かった目は少しも動かず、じっと睨んでいるのだ、小張は少し怖くなったが、手に持った天秤棒を構え肝っ玉を大きくして「お、お、お前、な、何をしたんだ」と聞いた、黒い影は返事もせず彼に迫ってくる、まずい、幽霊に会ってしまったと、小張は逃げだした。
ちょうどこの時、村の青年たちが走って来た、みんなは小張の話を聞いて半信半疑であった。何人かが大胆に「捕まえろ、この世に幽霊なんかいるわけない」と青年たちは黒い影の向かった方に走り出した。黒い影はむやみやたらに走り、袋小路に入ってしまった、行く手は小さな川にさえぎられているのだ。青年たちは勇気を奮って黒い影を取り囲み、手をだして捕まえようとすると、黒い影はさっきと同じように強く睨んでいたが、向かってはこず、しまいに両手で顔をおおい“ワアッ”と泣き出した、よくよく見れば若い娘である。みんなは娘が泣いてもかまわず、泣いてごまかすのだろうなどと、口々にしゃべりだして、捕まえた青年たちは逃げなかった。
この時、離れた畦道からひとりの男が走ってきて「大変だ、人が死んでる、向こうの畦道に人が、た、倒れて、死んでいる」と言い終わると、それを聞いた娘は「え、死んだ」と驚いて思わず叫ぶと全身を震わせてよたよたと座ってしまった。
「なんだ、人を殺すような悪い事をしやがって、もう少しで騙されるところだった」 「はやく公安局にこいつ連れて行け」みんなは、よってたかって彼女の腕を掴み、こづきながら歩き出した。娘はもがきながら「あたしは人を殺すような悪人じゃあありません、あたしの方が被害者です、皆さん、本当の事を言いますから聞いて下さい」 「お前は幽霊の恰好をして人を殺し、金を取ったりして、まだ被害者だって言うのか」 「こいつの言うことなんて聞くな、証人も証拠もあるんだ、公安局へ行って調べて貰え」
するとさっき人が死んでると知らせに来た若者は「ちょっと待てよ、もう阿根が警察に知らせに行ったんだ、もう直ぐ公安局が来る、どうせこの女は逃げられはしない、それよりどうしたのか彼女に話させたほうがいい」と言った、みんなはこれを聞いて、それは道理だと女を捕まえていた手をゆるめた。そこで娘は一部始終を話し始めた。
この娘は浦西に住み最近恋人ができた。娘はデ−トの時は着飾って、靴をピカピカに磨くので、すぐひと罐の靴墨を使つてしまう、靴墨は人気商品でよく売れ、市場では買えない時がある、そこで彼女は自分の先輩のところに頼みに行った。
この日の朝、先輩が靴墨が二罐用意できたと知らせてくれたので、勤めが終わってから遊びがてら取りに行くと約束をした。先輩は浦東に住んでいて夕飯を食べながら、互いにあれこれおしゃべりをして10時半になるのも知らずにいた、娘は急いで靴墨を貰い、先輩に別れを告げ、バス停へ急いだ。
浦東はもともと西浦の賑やかさはない、それに深夜で寒く道を行く人も少ない、娘は歩いていて後から誰かが来るようなので振り返ると、一つの黒い影が、付かず離れずに自分についてくる、娘は気が小さいので体を固くして少し速く歩き出した。ところが速く歩くと黒い影も速くなり、おそくなると黒い影もおそくなる、娘は心の中でいやな日だな、これはきっと悪い人に違いないと思った。
いい具合にこの時、バスが彼女の横を走りぬけた、すぐ前がバス停なので彼女は懸命に走り、心の中でバスに飛び乗れば、もうお前はついて来られまい、こっちのものだと思い、バス停に着いた、とたんにバスは戸を閉めて走り出してしまった。娘はもし余計なことを考えずに走れば、ビクビクしてバスを待たなくてもよかったのにととても後悔した。
さて、娘はバス停でバスを待っていると、ついて来た黒い影も道の向こう側のバス停に立って動かない。しかしバスはいくら待っても来ない、時間は1分1分過ぎて時計をみればもう11時15分だ、道を行く人はいない、振り返えてみると、よかった、黒い影はいなくなっている、彼女はほっとした。
“チリンチリン”と音がして後から一台の自転車が来た、乗っていたのは青年で、娘が一人でバス停に立っているのを見ると、自転車をとめて親切そうに「こんなにおそくどうしたのですか」と聞いた、「バスを待ってるんです」 「アア、あんたここの人じゃないでしょう、この時間じゃあ、終バスはもうとっくに、行ってしまいましたよ」 「エエ、どうしよう」と娘は焦った、若者は「どこへ行くのですか」とまた聞いた、「擺渡口へ行くのです」 「ああちょうどいい、僕も擺渡口へ行くところです、僕が送ってあげましよう」みれば親切な若者なので、娘はさっきの黒い影を思いだし、乗せて貰うことにした。
娘は自転車の後に乗ると気持ちが少し軽くなった、もし今晩この親切な人に会えなかったら、本当にどうしていいかわからなかったと思い、嬉しくて頭をあげ若者を見ると、若者は自転車を走らせながら、あちこち見ているではないか、何か考えているようなので、娘はまた前後左右を見てみると、違う、自転車は浦東大道を走っていない、周りは全部農地で、足もとは一本の農道である、彼女はすぐ怪しんで「ここは何処」と聞くと「ここは、港へ行く近道です」と振り向かずに相変わらず自転車を前にむけて走らせている、田畑には秋の風が冷たく吹きとても寂しい、娘は思わず震え、さっきずっと後からつけてきたあの黒い影が目に浮かび「まさかこの人が彼では」と娘は思わず心配になった。
ではこの自転車の人は何者か、娘が予想したとうりこれはさっきの黒い影であった。彼はバスを待っていた娘をみて、巧妙な手口で誘ったのだ。彼はゆっくり自転車を走らせながら、今日もまた綺麗な娘をだましてやったと思った、しかし娘が後でもぞもぞ動くので、思わず後を見て、びっくり仰天、大声をあげて地面にひっくりかえった。
どうしたのか、男においこまれた娘は、あの二つの靴墨に気がつき、知恵を働かして靴墨を絞りだして命がけで顔に塗り、それから編んだ髪を解いて頭から肩に乱した、男は後には雪のように白い柔肌の娘がいると思いこんでいたのに、振り返ってみると敵役の黒白の顔で、二つの目が光っているのみて幽霊だと思い“アッ”と声をあげ驚いて倒れたのだ。
娘は男が倒れたのを見て急いで起き上がり、すぐそこから離れようとした。走り出してすぐ小張に追いかけられるとは思わず、慌てていた娘は小張をさっきの男の仲間だと思いまた驚ろかしてやったが、小張も驚いて逃げ出すとは思わなかった。
娘が話し終わると、公安局員も来たので、みんなも一緒に現場に行ってみた。あの男は死んだのではなく驚いて気絶しただけだった。公安局員は男をみてみんなに「この男はわれわれが捜査していたならず者の老油条とも言う強盗だ。何か月もこの辺りで事件を起したが、手口が狡猾で捕まえられなかった。まさか今日、娘さんによって捕まるとは思いつかなかったろう」と言った。
これはまさに『流れ者が悪事を重ね、罪もない人を襲い、靴墨が神通力を現し、賊の肝を驚かした
』である。
当代流伝故事選 1993・8・25