落とし物です
九番バスがバス停につきました。ドア−が開くと一人の髪の毛の白い老人が乗ってきました。老人は車掌が被っている帽子をみると、眉に皺をよせて“しょうがないな”という風に頭を振りました。この時、誰かが老人の足を踏みましたので、老人は「アッ」と声をあげて下を見ました、すると足の前に光った5銭銀貨があります。老人は腰をかがめて拾い、誰とはなしに「どなたか5銭落としませんか」と声を出して何回か言いましたが誰も返事をしません、すると老人はそのお金をズボンのポケットにしまってしまいました。
車掌はこれを見て“あの爺さんはずるい、拾ったお金を自分のポケットにどうしていれるんだ”と、たった5銭とはいえ気になりました。
そこでキップを売り始め「キップを買って下さい、まだキップを買ってない方はキップを買って下さい」と言いました、すると老人はポケットから、さっき拾った5銭銀貨をだして、車掌に「キップをくれ」と言いました、車掌は5銭うけとり、心の中で“ヘエ、拾ったお金でキップを買うなんて、なんて恥知らずなんだ”と思いながら5銭のキップを切って、老人に渡し憎くらしそうに睨みました、けれども老人は、なんでもないようにキップを貰うとポケットにいれ、腕を組んで目を閉じ、気を静めていました。
バスは一駅、一駅過ぎて、もう三つ駅を過ぎました、老人の5銭のキップの乗車区間はすでに終わっているのに、老人は降りようともせず、まだ目を閉じています。車掌はわかっているので、大きな声で「キップを買って下さい、乗車した方はキップを買って下さい、乗り越しはしないで下さい」とどなりました、けれどもこの老人は聞いていないように、依然として頭も上げず、目も開けません、車掌は癪にさわってきて“お前、拾った5銭でキップ買うなんて、年をとっていながら責任も感じないのか、こんな善悪のわからない奴見たことない、そのうえ5銭で10銭分乗っているなんて、とんでもない話だ。お前、俺が知らないとでも思っているのか、俺がお前のしたことをあばいてやる”と思っていました。
丁度あと一駅で終点なのでその前にキップを集める時がきました。車掌は老人の前に行って、トントンと肩を叩き「お客さん、キップは」老人は目を開けて、上着のポケットからプラスチックのサックにいれた“定期券”をだしました。「アッ」車掌は驚き「お客さん、定期を持っているのにどうして5銭キップを買ったんですか」老人は「あの5銭はわしが車内で拾ったのだ、誰も落とし主がいなかったから5銭のキップを買ったのだ、拾った金は届けねばな。あんたたった5銭だって、一銭だって自分の物にはできないよ」と言いました。
車掌はそれは道理だと思いましたがまだわからないので、「お客さん、届けるならどうしてわたしに届けてくれないのです」と言いますと、「あんたに届ける」老人は首を振って「あんたに届けてはわしは安心できないよ、あんたがアイスキャンデ−を買うかもしれないからな」車掌はこれを聞いて怒り「お客さん、あんたなんてこと言うんです、わたしは乗客のための車掌ですよ、あんたそんなことを言う根拠でもあるんですか」と言いますと「根拠、勿論あるよ」 「どこにあるんです」 「あんたの頭の上さ」老人はそう言うと車掌の頭の上を指して「一昨日、わしは車内で帽子を拾った、落とした人がいなかったから、わしはあんたに帽子を渡した、その帽子をあんたが被っているとは考えつかなかったよ」老人のこの言葉を聞き、車内のお客はみんなひどいことをすると怒り“サッ”と一斉に、この車掌を見つめました。
しかしこの車掌は顔色も変えず、逆に「プウッ」と笑い「お客さん、それは誤解ですよ、見て下さい」と言って体を回すと、帽子のうしろにはっきりと「落とし物です」と書いた紙が貼ってありました。
当代流伝故事選 1993・8・13