康煕夢を見る
北陵は清の太宗皇太極の墓であるが、墓は空でただ位牌が供えられているだけだと言う。
東陵は老罕王が埋葬されていると言うが、これも間違いでここに皇太極と皇后が埋葬されているのだと言う。しかし河北省遵化県にも一つの皇后陵があり、皇太極の皇后が埋葬されている。まさか北陵に皇太極だけが埋葬されているわけではあるまいが、これらについてはこう言われている。
北陵に皇太極と皇后が埋葬されていると言うが、この皇后と遵化のあの皇后とは一人の人ではない、どちらも博尓済吉特氏と呼ばれてはいるが、二人の皇后は十何歳も違い、北陵の皇后が正宮で、遵化の皇后は後宮なのである。
皇太極は盛京の宮殿に入ったが、清朝の皇帝になる前に死んだ。その子福臨が即位して皇帝となり年号を順治とした。順治の母は十三歳で昇殿し二十四歳で庄妃に封ぜられ後に孝庄文皇后と称せられたのである。“母は子を以て貴し”庄妃と皇后はどちらも皇太后と敬せられたのである。
皇太極が死んだ後はこの二人が幼い順治を守り、索尓など六大臣が政治を補佐して清朝順治元年とし、北京に都を定めた。
それから何年か過ぎ、順治六年頃に、正宮の皇后が亡くなり、それから皇太后と称せられた庄妃は三十六歳、ずっとわが子順治を補佐し、孫康煕になって太皇太后となり、七十五歳で死んだ。 太皇太后の死で喪が発せられた。既に順治は死んでいて、まさに孫の康煕が政治にあたり全盛期であったので、祖母の葬儀は盛大にしないわけにはいかない、清朝の祖先にならい皇后は死後皇帝と合祀されるので、柩は盛京の昭陵に送られた。
朝廷は大忙しであった、太皇太后の出棺は荘厳にしなければならない。葬送の行列は堂々と北京を出発した、霊を守る官はどんなに多くてなってもかまわず、柩を担ぐ官は一組百二十八人、区間ごとに組みを替えるから何百人もいて柩の前後は人や馬で長い列となった。
城を出ると真っ直ぐ東北に向かい、何日かして河北省遵化県馬蘭峪に到着して休んだ、ところが不思議なことに再び柩を担ごうとしても、柩がどうしても動かない、人を多くしても動かない、これには葬送の大臣も驚いた、ここは東陵の地域で順治帝の陵からも遠くない。“ああ、これは老太后が息子から離れたくないのだ、ここに行列を止どめ野営するしかない、”と考えすぐに、早馬を北京に飛ばし康煕皇帝に報告した。
皇帝はこれを聞き、にわかに昇殿し文官、武官、大臣を招集してこの件を話し、どうすべきかを尋ねたが誰もそのいわれを話しだせないでいた、康煕はふさぎこんで袖を振り払って乾清宮に入ってしまった。
翌日朝早く皇帝は昨夜、夢の中で太皇太后が自分にこんなことを託したと、その一部始終を話した。昨日、皇帝は宮裡に戻ってからも気が晴れず少し疲れ、床に横たわり居眠りをし、うつらうつらしていると音楽が聞こえてきて、目を開けてみると太皇太后が現れ、“このたびお前に会いにきたのは、ほかでもない、我が身の後のことだ、わたしはお前たち父子から離れたくないから、盛京の太宗と合祀しないで、柩の止まったここに陵を立ておくれ”と言われ、康煕は跪いて叩頭の礼を捧げ、頭を上げると太皇太后のお姿は見えなくなっていたというのである。
これを聞いた人々は両手を胸の前に組んで敬意を表して称えた。これで康煕は祖母の墓を馬蘭峪昌瑞山の麓南山口、またの名は龍門口に建てた、ちょうど息子の順治皇帝の孝陵と相対し昭西陵と呼ばれる。
ここは占師によれば確かに好いところで、周囲は山に囲まれ中は大きな平地で、一望すると周りが高く間が低くまさに龍虎の伏する地である、後にこの辺りを清朝の皇族陵墓の専用の地とし附近の民衆は追い出され、陵に参る外は誰の立ち入も許さなかった。
何年か過ぎて陵はだんだん多くなり左右に隣接して建てられ、順治を除いて康煕、乾隆、咸豊、同治と続き、西太后すらここがいいと、ここに陵が建てられ、全部で五皇帝がここに埋葬された。妃もここに葬られていたから、百人以上が埋葬されていると言う。
いろいろ言われるが、孝庄太皇太后が皇太極に合祀されない本当の理由は皇太極が死んだ後、庄妃が多尓袞と通じたからである。康煕はこれは先祖の恥だと考え、孝庄太皇太后を昭陵に葬らなかったのである。ただこれは公にできないので康煕はどうしようかと考え、このように柩が動かなくなったという夢に託したのである。
沈陽市巻上 1993・5・24