順治の即位

 清朝の順治皇帝、姓は愛新覚羅、名は福臨。盛京城の皇宮に生まれた。清朝第一代の皇帝である。祖父は努尓哈赤、父は清の太宗文皇帝、母は孝庄文皇后博尓済吉特氏、皇帝の第九子である。
 清朝祟徳八年皇帝が突然病死した、福臨六歳、まだ何もわからぬ幼子であった。その時皇帝の長子粛親王豪格と皇帝の弟睿親王多尓袞はまさに皇帝にならんとして意気盛んであった。しかし最後には幼い福臨が皇位を継いだ。この福臨の即位については一つの物語がある。

 伝えるところによれば、清朝祟徳七年、皇帝が最も寵愛した宸妃が病死すると、皇帝は宸妃を思い出しては嘆き苦しみ、食事もとれず、眠れなかった。朝廷の文武百官は皇帝が悲しみのあまり病気になるのを恐れ、城外の狩猟で気を紛らわせようとした。だが宸妃の墓が既に城外にあり皇帝は狩猟のたびに宸妃の墓前に行き涙を流すとは誰も思いつかなかった。
 日ならずして皇帝は病に倒れた。五十歳を過ぎたばかりであったが再起できず、どんな治療も効を奏しなかった。数年たって皇帝が皇宮で死ぬと、誰がつぎの皇帝になるのかと一時宮廷内に勢力争いが起こった。
 清朝は外の朝廷とは違い、皇位継承は先帝在位のうちには定めず、先帝崩御の後、諸王、皇族、大臣たちが一堂に会し皇子のなかから一人の世継ぎを選ぶのである。
 だから皇帝在位のうちから何人かの親王、皇族が絶えず暗躍して権力を争い、互いに憎しみ合う。見識のある者が見れば先帝の死後は必ず波乱が起きるのがわっていたのである。

 先帝の死後、皇位を継ぐ最も有力な者が二人いた。一人は先帝の長子豪格、戦功も高く正統な皇族であり粛親王に封ぜられ、権力も、叔父たちに劣らない。それに豪格を補佐する内大臣索尼、待衛大臣圖頼などは先帝の有力な大臣であった。
 もう一人は先帝の弟睿親王多尓袞、努尓哈赤の第十四子で、聡明才知、文武両道にたけ、先帝に随い何度も戦い、戦功をあげ、勢力があるばかりでなく信望も厚かった。兄の英親王阿済格と弟の豫親王多鐸が強く補佐していた。
 豪格側の内大臣索尼、待衛大臣圖頼と圖尓頼、凡阿岱、鰲拝などの黄旗大臣は何時も豪格の屋敷で密かに談合し、豪格を一心に扶けることを誓い合っていた。ある晩、豪格は人を遣わして叔父鄭親王済尓哈朗の口ぶりを探らせ、済尓哈朗から豪格に味方するという回答を得た。
 多尓袞の側では阿済格と多鐸などが多尓袞に事を長びかさずきっぱりと決することを勧めた、しかし、策略知謀な多尓袞は首を振って「事を急がぬが得、急いでは壊れる」と言った。

 さて福臨の母孝庄文皇后は先帝が亡くなって力を失い、その苦しみは耐えがたいものがあったが、嘆くばかりでは、何にもならない。皇后は非常に聡明で心に秘めた考えのある女性で、しかも容姿は端正で美しく能力もあり、多尓袞と豪格が皇帝になろうとしていることは、はっきりわかっていた。
 しかしわが子の福臨は幼少で多尓袞と豪格と争うことはできない、皇妃は毎晩眠れず、転々として想を巡らし、最後にわが子福臨を皇帝にしようと考え、義弟の多尓袞に頼ろうと決めた。いままでも多尓袞は皇宮に出入りしていて、二人の仲は悪くなかった。
 皇后は考えを決めると宦官を遣わし多尓袞を招いた。多尓袞が急いで参内してみると、嫂の孝庄文皇后は顔に涙の跡を残しその艶やかさは前よりも増し、思わず哀れみの心情を持って心を動かした、皇后は福臨を多尓袞の前に進ませて「福臨や、叔父様にご挨拶なさい」と言った。多尓袞は胸に福臨を抱き、皇后を慰めて「皇后様、ご心配はいりません、泣いていてははお体にさわります、お体が大切です。何があっても私がついています」と言った。

 皇后は話しているうちに機会をとらえ「福臨は年も幼いから全てあなたに頼らねばなりません」と言った。これから後二人は気脈を通じる仲になり、ある時は公然とある時は密かに往来し睦まじくなった。多尓袞はもとより権力を手に入れ、自分が皇帝になろうとしていたが、今は皇后に全く籠絡されて心を動かし、自ら皇帝になろうという気持ちは薄れていた。
 それからまた十日ほどたって、両派はそれぞれに密かに相談していたが、何の動きもなく、多尓袞は耐え切れずある日、諸王と大臣を一堂に招き誰を皇帝に推すか、会談を開いた。
 内大臣索尼が初めに起ち上がり、筋道をたて意気軒昂と皇子豪格を立てるべきだと主張し、ほかに誰を立てるかは何も言わなかった。索尼はくどくどと先帝の恩情を語り、臣が皇子を扶けなければ、先帝にも申し訳ないことだと言った。
 阿済格と多鐸はそれを聞くとおさまらず、二人は一緒になって大きな声をあげ、多尓袞の戦功をあげ多尓袞をこそ立てるべきだと言った、そして更に反乱が起きたら、誰がすぐ武器を持って戦えるのかと言った。すこし間をおいて、礼親王代善が豪格は皇子でまた戦功もある.豪格を立てるべきだと言ったが.阿済格と多鐸は全く動ぜず強く不同意を示し、多尓袞を立てるべきだと主張した。代善は二人の語気があまりに鋭かったので、改めて多尓袞でもよいと言い、豪格を立てなかった。
 多鐸は多尓袞がずっと何も言わないので、多尓袞を見て強く自分と代善が多尓袞を立てると言い、いまや大臣たちの秩序が乱れ決裂しようとした。多尓袞はいま争って自分が皇帝になっても、この情勢では必ず問題が起きる、もし豪格が立てば自分の勢力はなくなると考えた。
 そして不意に孝庄文皇后の話を思い出し、そうだ、福臨を立てよう、福臨は幼いから自分が補佐するという口実ができる、初めから自分をだしては駄目だと考え、福臨を立てるべきだと言った。索尼はこれを聞くと、福臨はあまりに幼い、豪格を立てるべきだ、豪格は年も大きいし功労もあると主張した。豪格は叔父の多尓袞が権力もあるのに自ら立たず、反対に福臨を立てた心がすぐわかり、また平時は自分には信望がないとも自覚していて、それに自分も多尓袞と争ってもしょうがない、こう考えた豪格はついに多尓袞に譲った、大臣たちは豪格が譲ったとわかると、もう何も言えなかった。

 多尓袞は渡りに船と「わたしは粛親王も立つことを願ってはいないと思う。やはり福臨を立てよう、福臨が幼くても心配ない、わたしと鄭親王済尓哈朗が補佐できる」この一言で大臣たちは再び声をあげることはなかった。
 そしてこの年の八月二十五日、六歳の福臨が即位した。

 この日永幅宮で女官、宦官は忙しく立ち振舞い、小さな皇帝に特別に作った小さな龍袍を着せ皇冠を戴かせた。孝庄文皇后は再三福臨に乳母に抱かれず、自分で龍輦に乗るように言い聞かせたが泣いて乗らなかった、即位の礼の時がくるので乳母が福臨を抱いて龍輦に乗り、あれこれあやしてやっと泣き止んだ。楽器を打ち鳴らすなかを龍輦は大清門を出て大政殿に到着した、文武百官は既に大政殿に待っていた。福臨の身辺につく宦官に抱かれ福臨は宝座についた。諸王、大臣などが大礼参拝が始まり、万歳が三唱された。六歳の福臨はこうして盛京の宮殿で即位し翌年順治元年と改められた。   

        沈陽市巻上                                           1993・5・17

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