陶公子の結婚
昔、陶と秦という二人の長者がいた。どちらも万貫の財産を持ち、兄弟よりも親しくしていた。
ある日、二人の長者は一緒に世間話しをしていた。秦長者が陶長者に「わしの妻は身ごもったけれど、お前さんの……」と言いかけると、陶長者が「いや、わたしの妻もおめでたです」と言った。
秦長者が「それはいい、お互いにその子を許嫁にしておこう」と言うと陶長者は「わたしも同じ考えです、もしわたしの妻が女の子を生み、あなたの夫人が男の子を生めば、あなたの息子さんは、わたしの娘の大切なお婿さんで、わたしの娘はあなたの息子さんの嫁です」と言った。
「そうだ、そうだ、全くいい話だ」二人はそう言い交わして、自分の屋敷へ帰って行った。事はうまく運んで、こんな話があってから、何か月もたたないうちに陶長者から男の子が生まれたと秦長者へ手紙がきた。それから何日もしないで、秦長者は女の子が生まれたと陶長者に知らせてきた。二人の長者は天から授かった良縁だと大喜びで婚約書を取り交わした。
春が過ぎ、秋が来て、またたくまに三年たち、子供も満三才になった。この年に秦夫妻から、老父母の面倒を見る為に故郷の蘇州へ帰ると言う便りが届いた。秦家は老父の言葉に背けず帰ることにしたのである。別れる日、二人の長者は涙を流しながら十五年後に陶家は秦家へ行って娶る約束をした。
光陰は矢の如く、十五年過ぎ陶家が結婚の準備をしている時、大きな火災になり万貫の財産をすべて焼き尽くしてしまった。陶長者は貴重品を持って外へ出るとき焼けた家の横木が落ちてきて頭に当たり、火の中に倒れ焼死してしまった。陶夫人と息子はこの無残な情景に、とめどもなく涙を流し嘆いたのは言うまでもない。
陶家は火災で一枚の着物すらない貧乏になった。当時は火事をだせば家は没落したのである。陶夫人と息子は嘆きながらも、陶長者が火に中から持ち出した幾らかの貴重品を整理して、小さな家を作って住んだ。
ある日、陶夫人は涙をため金銀の飾り物をだして「息子や、明日、お前はこの飾り物をお金に換え旅費にして蘇州にお行き」と言った、息子は「お母さん、この飾り物をしまってください、私は行きたくありません」 「行かないなんていけません、諺に“男は娶り、女は嫁ぐ”と言います、それにお前と秦家の娘さんとは、生まれる前からの許嫁なのですよ」陶夫人はここまで言うと、暫く黙り、長い嘆息を洩らし「長い旅を供の者もつけずお前一人でやるのは、心配だけれど仕方がない、今は召使がいないのだから」 「お母さん、心配しないでください、私一人で行くけますから」
翌日、陶公子は飾り物を売り、赤毛の馬を買い、靴と帽子と藍の普段着で身を整え、出発した。陶公子は家を出て、夜も昼も歩き続け、その苦労は言い知れなかった。
ある日、馬に乗って丘を越えていると、突然、森の中から強盗が現れ、陶公子の馬を押さえ「金をを出せ」と脅し、うむを言わせず陶公子を馬からひきづりおろし頭を棒で殴り、陶公子はその場に倒れて気を失った。強盗は森の中に陶公子をひきづり込み、行李と金を奪い、馬を牽いて逃げてしまった。
昼近く、山の麓に住む母と娘が山菜を堀りにきて、陶公子が倒れているのを見て驚いたが、まだ息をしているのを見て助け起こした。陶公子はだんだんに気がついて目を開き、自分が強盗にやられたと気がついたがまだ頭に強い眩暈があった。老母が「あなたはどうしたのです」と聞いた「私は強盗に遭い、殺されるところでしたがやっとまた生き返りました」老母はまた「あなたは何処からきて何処へ行くのですか」と聞いた「私は江北から江南の蘇州へ行くのです」と言いながら陶公子は立ち上がって老母と娘に礼を言って歩き出したが、二歩も行かないうちに倒れてしまった。眩暈がもっとひどくなったのである。
老母と娘は急いで抱き起こして「あなたその様子ではとても歩けないのではありませんか」と言った。これを聞いて陶公子は胸がつまり、何も言えなくなった。金も行李も馬も盗まれ、歩くことも出来なくなり、家が火事になり苦労したことを思い出して目の周りが赤くなった。老母は可哀そうになって「あなた心配はいりません、もし近所に親戚も知人もいないなら、わたしの家で暫く休み体がよくなってから行きなさい」と言った、陶公子は「あなた方のお陰で助かり、その上ご迷惑をかけ、本当に申し訳ありません」と言うと娘は「ご遠慮いりません、誰でも災難に遭えば困るのですから」と言った、「それでは有難くお世話になります」老婆と娘は陶公子を抱えて家に帰った。
陶公子はこの家に住んでから、老婆と娘の名前は陳といい、母子二人が助け合いながらも食うや食わずの暮らしをしていることがわかった。家は貧しかったが母子の心は優しく、陶公子をまるで家族のように世話をした。たちまち二か月あまりがたち陶公子と娘はだんだん互いに好きになっていった、けれども陶公子には許嫁がいるので二人は心を明かさなかった。陶公子の体は良くなって、歩けるようになった。
ある日、陶公子は陳母子に「あした私は行きます、お世話になりました、あなた方のお力添えにお礼申しあげます、これからも私はあなた方のご恩を忘れません」陶公子は身を寄せる所があるので母子は深くは止めず老婆は夫が生きている時に集めた銀を陶公子に持たせ、娘は夜通し陶公子の旅支度を作り小さな行李にいれてやった。翌日陶公子はまた千万の恩に礼を言って旅に出た。
話をはしょって、陶公子ははるばる遠く旅を続け、あちこちで聞きながらやっと蘇州に着いた。青々と美しい風景であった。陶公子は婚約のことで心が一杯で風景を楽しむ気にはなれなかった。あちらこちらを尋ね、大きな赤い門の前に足を止め、道行く人に尋ねるとこれが秦長者の屋敷であった。門を叩くと、“ガ−”と音がして門が開き一人の召使いが出てきた。
「こちらは秦長者のお屋敷ですか」と陶公子が聞いた「そうです、何か用ですか」 「私は陶と申します、私と秦家の令嬢は幼い時からの許嫁でお迎えに参りました」
秦長者の夫婦は召使からこれを聞くと「早く、お通ししろ」と言った。召使が陶公子を客間の前に連れて来ると「陶公子が来ました、幼い時からお嬢さまと許嫁でお迎えに来たと申しております」と言うと秦長者は「一人で来たのか、ほかに人はいないのか」 「はい、一人です」秦長者は結婚するのにどうして一人で来たのか不思議に思ったが「まず、お通ししろ」と言った。
召使が陶公子を秦長者の前に案内すると、陶公子は前に進み、礼をして「義父上、お目にかかります」と言った。秦長者が見ると堂々とした姿の立派な青年だが着ているものがみすぼらしい「どうして一人で来たのか」 「私の家は大火の不幸に見舞われ一片の瓦も残さず焼かれ、父も大火の中で焼死しました」陶公子は胸がせまり、鼻をすすり、涙を流した。陶公子が話し終わると長者は顔を曇らせ「婚約書は持って来たかね」と聞いた「婚約書は大火で焼かれました」長者はそれを聞くと当時の婚約書が焼かれてなければすぐには顔がわからないので「婚約書がなければ、口約束だけで証拠がない、誰がお前を許嫁とわかるかね」と言った。
陶公子は心の中で義父は我が家が貧乏なので、この婚約を認めないないのだと思った。しかし娘は義父のようではあるまいと「私はお嬢さんと会ってお話ししたい」と言うと、そこへ令嬢が入ってきて陶公子に向かって「わたしの旦那様なら、紗の丸い帽子をかぶり、金の大蛇の刺繍の衣裳を着ているわ、お前の着ているのは何さ」と言うと持っていたあの婚約書を陶公子の目の前でこまごまに引き裂いて投げ捨ててしまった。陶公子は怒り、足を踏み鳴らして「お−、貧をなじり、富を好む」と言うと身を翻して出て行った。
陶公子は一気に家に帰り、旅で遭遇した事、秦家が婚約を認めなかった事などを母に話した、陶夫人は聞き終わると怒りもせず「両家できちんと話し合ったことなのに、変えてしまうなんて、人はみかけによらぬものだね、息子や元気をお出し」 「お母さん、わかりました、安心して下さい」それから母子は生活をきりつめ、陶公子は昼も夜もかまわず三年の間、一心に読書をし文章を作り、都に上り登用試験を受け状元の位に合格した。
宮廷の高官貴人は新しい状元が立派な青年でまだ結婚していないと聞き、多くの縁談をもってきたが、陶公子は幼い時からの許嫁がいるからと丁寧に断った。心の中で自分を助けてくれた陳家の娘が忘れられなかった。人を遣わし陳家の母子を捜させた。すると「陳家の老母は亡くなり娘はある家の女中に行った事がわかった。それを聞くと陶公子は自ら駕車に乗り、従者を従え、陳家の娘を迎えに行った。陶公子の旅は順調で数日で従者の捜した大きな赤い門の前に到着した、見ると秦長者の家ではないか。陳家の娘は秦家の女中になったのである。
従者を遣わし秦長者の召使に「新しい状元の駕車が着きました、陳家の令嬢を迎えに参りました」と告げさせた。召使は秦家の女中を迎えに来たとは思わず、秦長者に「旦那様、表にお嬢様を都に迎えると新しい状元様の駕車が着きました」と言った、秦長者は新しい状元が娘を迎えに来たと聞いて驚いたり喜んだりして、慌てて門に迎えに行った、門に行って見ると、家から追い出した陶公子が新しい状元であった。
長者は娘を迎えに来たと思い込んで慌てて「賢い婿様の駕車が着いたのにお迎えに行かなかったと謝って、早くお通ししろ」と言った。陶公子を屋敷に迎え、召使に言いつけて、娘に髪を梳かせ化粧をさせて、状元と都に行かせようとした、秦長者は嬉しくて笑いが止まらなかった。秦家の令嬢が晴れ着姿で陳家の娘の女中に手を引かれて客間の新しい状元の前に出てきて礼をすると「旦那様参りました」と言った、陶公子は「婚約書がありますか」と言うと「婚約書」と秦家の令嬢はびっくりした、婚約書は陶公子の目の前で破ってしまったのだ。
陶公子は身を翻して陳家の娘にむかって言った「私はあなたを迎えに来たのです」 「わたしを迎えに」 「私を知りませんか」 「覚えています、知っています」陳家の娘は目の前にいる新状元が別れてから昼も夜も思いつづけていた陶公子だとは夢にも思わず、陶公子の言葉を聞いてわかったが、嬉しくて声すらでなかった。
陶公子は「私はあなたたち母子を都に迎えたいのです」陳家の娘は「あなたが行ってからわたしの母は重い病気になり、治療するお金もないまま死にました、それでわたしは秦家に女中にきたのです」 「知っています」陶公子は連れてきた女中に陳家の娘に着物を着替えさせから一緒に駕車に乗って都へ帰った。
秦家の娘は目を丸くして陶公子と陳家の娘が仲よく駕車に乗って行くのを見て部屋にはいり三日三晩泣いた、婚約をこわすべきではなかったと悔やみ、後悔につける薬を捜した、しかし世の中にそんな薬が何処にあるだろうか
姜淑珍故事選 1993・4・5