557 万里の長城の哭き声
“万里の長城の哭き声”と言えば誰もが孟姜女が千里離れた万里の長城に夫の万郎を尋ね、その死を知って後を追う悲話を思い浮かべるだろうが、これは当時にあった別の昔話である。
孟姜女が長城に哭き伏し自死してから、しばらく経った真冬のある寒い晩、山海関から二里余り離れた城楼に老兵羅漢銭は見張りに立っていた。風はないが口もきけないほど冷たい、息は白く変わり、吐く唾は氷の玉になる。羅漢銭は槍を抱え、万喜良が城壁から落ちて惨死し、それを知った孟姜女が夫の後を追って自死した正にその場所を目の前にして感無量であった。既に五十歳に近く、兵として戦場にあること三十年、遂にここまで来た、ここまで来た!
男独り満身の傷 家を離れ軍務に就く
身は異郷に在り 知らず死は何時の日か
と呟き、羅漢銭は八十を越えたであろう父母と床入り前に別れ別れになった妻を想った…
羅漢銭は河南開封羅庄に生まれた。七歳の時、近所の子らが塾に通い読書するのを見て父母に塾へ行きたいと泣いた。だが、二日も三日も鍋も使えない貧しい家の何処に羅漢銭を学ばせる金があろうか!二歳の頃から貧乏な家に育った羅漢銭は貧乏なのは官府が何年も戦争を続け、庶民から税を搾り取るからだとだんだん分かってきた。それから羅漢銭は父母に無理を言わず黙って豚飼いに雇われて働いた。
ある日、羅漢銭が山へ豚を追って行くと、突然、助けを呼ぶ人の声がする、駆けつけてみると、山で野草を摘んでいた桂尼が狼に襲われそうになっている。羅漢銭は体は小さいが生来、義侠心が強く天地も恐れぬ度胸がある。羅漢銭は素早く大きな石を拾い上げると、狼めがけて投げつけた。石はうまく狼の頭に当たり頭が裂けて狼は死んだ。 桂尼の両親は娘が羅漢銭に助けられたと聞くと、すぐ桂尼を羅漢銭の許婚にした。羅漢銭十七歳、桂尼十六歳であった。しかし二人の床入りの前に官府は容赦なく新郎の羅漢銭を徴兵した。桂尼は羅漢銭をしっかり抱き「漢銭、あなたの帰りを待っているわ」と泣いた。その別れから既に三十年が経ったのだ!
…羅漢銭がこんな回想に耽っていると、近くの土の下から陰々と悲しげな哭き声が伝わってきた、その哭き声に引かれ哭き声が響いてくる場所に行ったが、周りに人影もない、羅漢銭は怪しんで「人かそれとも幽霊か?」と言うと「わたしは幽霊です」と言葉が返ってきた。「何の怨みを持つ幽霊か現れて話して下さい」と言うと城壁の門が扇のように開き、ボロボロな着物をまとい、無念そうな顔をした若者がフラフラと現れ、羅漢銭の前に進み、一礼すると涙を流し「羅さん、わたしを覚えていますか」と言った、「あなたは誰?」「羅さんの家の裏にいた小虎です」「エッ!李さんの家の二番目の?」「そうです」
羅漢銭は徴兵されて家を離れた時、小虎がまだ七歳であったことを思い出した。長城で無惨に死んだ万喜良のように若い小虎が異郷で惨死して幽霊になるなんて可哀相だと思い、羅漢銭は「小虎、何時徴発されたんだ?」と聞いた。「十五歳になる誕生日の前でした、家を離れる時、桂尼小母さんから羅さんに会ったら『あたしたちは死ぬまで夫婦だ』と伝えてくれと言われました」「本当か?」「これっぽっちの嘘もありません」「俺の両親はどうした?」「羅さんが家を離れて、しばらくしてお二人とも相継いで亡くなりました」それを聞くと羅漢銭は目の前が真っ暗になり気を失った。
羅漢銭が気を失うと小虎は羅漢銭を抱え、扇のように開いた城壁の門の中へ入った、中は冷たく真っ暗な洞穴、一条の光を見ながらしばらく行くと明るく開けた処に出た、そこには村里の家はあるが山、川、樹木がない。見ると大勢の人が道に並んで羅漢銭を出迎えている、白髭の一人の老人が丁重に羅漢銭を一軒の家へ案内すると、お茶を差し出して「あなたを信義に厚い君子と見て、小虎をあなたの迎えにやりました、わしらの大事に一肌脱いで下さいませんか?」と聞いた。「何でも言って下さい、出きる限りの力を尽くします」と羅漢銭が答えると、老人はパッタと地面に跪き、外にいた人々も一斉に跪いた。
羅漢銭は驚いて老人を抱き起こし「ご老人、これは何事です?」と聞くと、老人は涙を流しながら「実を言いますと、わしらはみんな万里の長城建設の犠牲となった幽霊です、あの暴君に山海関の城壁に閉じ込められ故郷の河南へ帰れなくなりました。誰も故郷の家へ帰り父母妻子に逢いたいのですが帰れません。今はあなたにすがって帰る外に方法がないのです」「わたしはどうすればいいのですか?」「来年清明節の前後にあなたは退役になり故郷へ帰ります、その時、城門の左に置いてある煉瓦を九九八百十個買って、その煉瓦ごとにわしら八百十人の名前を書いて下さい、そうするとわしらの霊魂が一人一人その煉瓦に乗り移ります、それをあなたが河南へ運んで下さればそれでいいのです」と訴えた。羅漢銭はすぐ承知したが一文なしの自分には煉瓦が買えない、どうしたらいいんだ?と考えた。
老人は羅漢銭の困った顔を見ると「あなたにお金がなくても心配いりません。城門の東にある七本の柳の中に木の黒い柳があります、その下にわしらが故郷に逃げ帰るために準備しておいた銀貨を詰めた壷が埋めてあります」と言い、懐から紙を綴じた一冊を取り出して羅漢銭に渡し「これがわしら八百十人の名簿です、どうか受け取って下さい、これでわしらが帰れるかどうかのすべてをあなたに托しました」と言って哭いた、外にいた人々の哭き声も天に響いた。
この様子を見て羅漢銭の心は刀で切られたようになり、受け取った芳名録を両手に捧げ身を起こすと、涙をふるい「みなさん、安心して下さい、私、羅漢銭、托されたことに人事を尽くします!」と言って別れの言葉を述べた。人々は羅漢銭を村の外まで送り別れを惜しんだ。
羅漢銭はさっき小虎に連れられて来た道を戻り、あの城壁の門に出ると万丈の渕に落ちる思いがして気を失い、目を覚ますと営舎の床に寝ていた。同僚の兵士が気を失って雪の上に倒れていた羅漢銭を発見して助けてから三日経っていたのである。兵士は「お前どうして雪の上に倒れていたんだ?」と聞いた。羅漢銭は本当の事を言わず、「丘の上に立っていると、哭き声が聞こえてきたが、それっきりでどうして雪の上に倒れていたのか分からない」と答えた、すると兵士は驚いて「それは不思議だ、お前も哭き声を聞いたのか、俺も哭き声を聞いて行き、倒れていたお前を見つけて助けたのだ。これはいったいどういうことだ」と言った。
羅漢銭は夢を見ていたのかと、懐を探ると確かに一冊の芳名録がある、広げて見るとぎっしりと八百十人の名前が書いてある。夢ではないあれは事実だったのだ。
不思議なことにあの老人の話は当たっていた、翌年の清明の三日目、羅漢銭と何人かの老兵に退役帰郷の指令があった。羅漢銭は喜び、すぐにでも鳥になって飛んで帰り、死んだ父母の墓に詣り、桂尼と楽しく暮らしたかったが、指令のあったその晩、先ずあの老人の言った通りに皮が黒い柳の木の下を掘り、土の中から真っ黒な壷を掘り出した、口を開けると中にピカピカ光る銀貨が一杯に詰まっていた。つぎの日、羅漢銭は軍営府の隊長に会い、城壁を築く煉瓦を買いたいと申し出た。それを聞くと隊長は大声で笑い「ここから河南まで千里もある、お前、煉瓦をそんなに買ってどうするのだ?」と言った。羅漢銭は「私は長年この地を守ってきました、その記念に買って帰りたいのです」と答えた。「お前、買う金があるのか?」「隊長、どうぞ値段を言って下さい」「銀五十両なければ駄目だ」羅漢銭は懐から銀貨を取り出して並べた。
それを見て隊長は驚き、心の中で一兵士の羅漢銭がどうしてこんなに銀貨を持っているのか、煉瓦を買うのにこんな大金を出すのならもっと銀貨があるに違いない、これは何かあると厳しい顔で「羅漢銭、お前この銀貨を何処から持って来た?早々に本当の事を白状しろ」と一喝した。羅漢銭は驚きすぐ「お言葉ですが、私は隊長に長年従い、私が悪事を働くことなぞないと隊長はご明察の筈です」「ではこれは何処から来た銀貨だ」「この銀貨は……」と羅漢銭は言葉につまった、本当の事を言っても隊長は信ぜず、怪しい事を言って人を惑わすと言うだろうと思い、「これは長い間に貯めた銀貨です」と答えた。すると隊長は意地悪く笑い「本官の見通しは神の如しだ、お前の慌てたさまを見、逃げ口上を聞けばお前の悪事は明白だ、羅漢銭を捕らえろ!」と命令した。
兵士たちが羅漢銭を押し倒し捕らえようとした時、突然辺りは真っ暗になり、生ぬるい陰界の風が巻き起こり、闇の中に多くの霊魂が現れ怒りの声を上げた、一人の老人の霊が隊長の前に立ち「羅漢銭を捕らえ、煉瓦を与えなければ、吾ら怨みの霊魂はお前らを粉砕する」と怒鳴った。するとほかの霊魂も一斉に「やっつけろ!やっつけろ!」と叫んだ。怖くなった隊長はブルブル震え「そうします、そうします」と助けを求めると、霊魂は風のように消えた。
隊長はこれに懲りてもう羅漢銭を責めず、煉瓦も適正な価額で売った。羅漢銭は更に騾馬と荷車を買い煉瓦を静かな場所に運び、老練な字書きを雇い、芳名録に載った亡霊の一人一人の姓名を煉瓦に書かせた。それから昼夜を通して故郷へ急いだ。
ある日の夕方、河南地方に入り宿に泊まった。夜半、あの老人が現れ、「異郷で霊魂となったわしらはあなたのお蔭で河南に戻れ感謝します。わしらはこれからそれぞれの故郷へ帰りますから、あなたも早く桂尼の待つ家へ帰って下さい」と言って羅漢銭の体を押した。羅漢銭は驚いて夢から醒めると何時の間にか八百十個の煉瓦は無くなっていた。羅漢銭は我が家へ急いだ。
さて、桂尼はどうしていたのだろうか?徴兵された羅漢銭が何時帰るか帰るかと待って三十回の春、夏、秋、冬、を過ごし、若く美しかった娘は初老の女になっていた。この間羅漢銭は死んだと伝える人がいて、何度も再婚を勧められたが桂尼はその度に笑って相手にしなかった。後に父母が世を去り、家を支えることになると朝早くから晩まで畑仕事をし、その重なる苦労と羅漢銭への思慕がつのり病を得て日増しに衰えるばかりであった。
あるの日の朝、眩暈がして今日は畑仕事を休もうとしたが竈の下に薪がない、仕方が無いと無理して鉈を持ち山へ薪を取りに出た。ところが何処にもいい柴が見つからない、やっと崖のふちに枯れ木を見つけ、斧を振り上げるとまた眩暈が起こり崖の下の深い谷に滑り落ちた。桂尼は落ちながら心の中で、漢銭あたしたち二人はこの世で楽しく暮らせなかった、陰界で睦ましく暮らそうと叫んだ。だが桂尼は崖の途中で、何か大勢の人に抱きかかえられた感じを覚えそのあとはもう何も分からなくなった。
桂尼が気がつくと目の前に小虎の父親の李爺さんが髭だらけの初老の男を連れて立っていた、なんとそれは羅漢銭であった。桂尼と羅漢銭の夫婦は抱き合って哭いた。後に夫婦はあの亡霊たちを祭る家を建てそこに八百十人の名前を供えて季節ごとに供養した。そして羅漢銭と桂尼夫婦は小虎の父親の李爺さんを家族として迎え孝養を尽くした。 (薛天智故事選)