525 大工村
沈陽市の北に“大工村”という村がある。
この名前を聞けば誰でもこの村にはきっと大工が大勢いるのだなと思うだろうが、村の年寄り連中にこの村の名前の由来を聞くと自慢気に「これは康熙帝が名付けられたのだ」と言う。いったいこれはどういう事かと知りたくなるではないか。話は康熙帝が蒙古の一部族の謀反を平定する事に始まる。
康熙十年、蒙古の西の砂漠地帯のグアルブ部族が次第に力を増し一大勢力にのしあがり、その首領グアルタンは“康熙が南の君なれば、我は北の長ならん”と野心を抱き、他の部族と結束して謀反を起こし、清朝に対抗した。そこで康熙帝は自ら兵を率いて平定にのりだした。
清朝とグアルブの大軍は烏蘭布通地方に展開して大激戦となった。康熙帝は自ら軍の指揮をとり昼から夕暮れまで屍累々の戦闘となった、その時、快刀乱麻のグアルタンの精兵の一隊が林の中から旋風のように現れ、康熙帝親衛隊の軍営に攻め込んで来た。折悪しく親衛隊の軍営には兵馬が少なく、戦闘中の前線からすぐ軍を回すことも出来ない、接近戦で大砲も役に立たない、親衛隊は一丸となって自ら剣を振るう康熙帝を死にもの狂いで守り勇猛に戦った。
突如、林の中から敵の騎兵が躍り出るや康熙帝めがけて矢を続けて放ってきた、すると親衛隊の若い将校が「皇帝を守れ」と大声で叫びながら第一矢を剣で打ち払った、だが第二矢は彼の胸に深く突き刺さった。康熙帝がすぐ馬を返すと若い将校は馬から落ち胸は血に染まっていた。だがどうにか親衛隊はこのグアルタンの突撃隊を一掃した。
康熙帝がこの若い将校のそばに立つと、軍司令官は「この若い将校は満族で家は沈陽の北の双井村、名は呉名仁と申します」と康熙帝に報告した。康熙帝は即座にこの若い将校を“将軍”に任じ、「呉名仁はわしを救った、わしは呉名仁の故郷が永く災害に遭うことなく、千年も安泰であることを願う」と天に祈った。
康熙帝はこの戦闘に勝利し、続いて何度も追討の軍を出し、遂に塔米爾河流域のグアルタンの叛乱を平定した。清の大軍が凱旋して沈陽に戻る途中、五階山の麓の大森林に来ると康熙帝はそこに三日とどまり猟をすると宣旨を下し、付近の村の大工に営舎を作るように命じた。
命を奉じた一人の将校が“双井村”へ行き康熙帝の宣旨を伝えると村長は「わたしたちの村には三、四人の大工しかおりません」と言うと、将校は「細かい事はいらぬ、力のある若者が斧と鋸を持って来ればよいのだ」と言った。
そこで双井村の村長が三十人あまりの若い男を連れて行くと、康熙帝は「これらの者はみな大工なのか」と聞き、将校が「みな大工です」と答えると、康熙帝はまた「何処から探して来たのだ」と尋ねると将校は「双井村から探して来ました」と答えた、康熙帝はハハハと笑い「一つの村にこんなに大工がいるならこの村を大工村と呼べばいい」と言い、同時に自分を救った呉名仁が双井村の出であることを思い出し、「双井村の大工には一等の工賃を払い、一人ひとりに白銀五両、酒一斤、肉五斤を与える」と言った。 それから“双井村”は康熙帝の言葉によって“大工村”と呼ばれるようになり現在に至っていると言われている。 (中国民間文学集成遼寧巻沈陽市巻上)