513 王義之と将棋
王義之は優れた書家であったが常に研鑚を怠らず、まだ自分の書より優れた書があるのではないかと各地を尋ね歩いた。ある時、旅に出てある村に日暮れに着き、小さな宿に泊まった。この宿は天井に張った高粱の茎で編んだ籠の吊り床で客はここに寝るのだった。
王義之はこの吊り床に横になったが眠れない。宿の主は老夫婦で老夫は七十四、五、老婦は七十二、三で吊り床の下に寝る。老夫婦は灯火を消すとすぐ「将棋をしよう」「いいよ」と話している。これを聞いて王義之は“灯火を消した暗闇でどうやって将棋を打つのだろう、変わった夫婦にぶつかったものだ”といぶかった。王義之も将棋には精通していたのだ。
老夫が「じゃあ、お前は紅駒、わしは黒駒、お前が先手だ」と言うと老婦は「いいよ、手加減しないからね、七歩卒」と応じた。「わしは跳馬」「上象」(もう細かく言う必要はあるまい、こうして老夫婦は一言一句で駒を進めた) 王義之は吊り床で耳をそばたててこれを聞いていると老夫婦の駒の進めに一糸の乱れもなく、たちまち夜半になった。老夫婦は「もう晩くなった寝よう」「そうしましょう」と言葉を交わすと寝てしまった。王義之は“この将棋はまだ勝ち負けが決まってない、どっちが勝つかわかるまで泊まろう”と翌日は町を巡り、暗くなってからまた宿に戻り、夕飯をとると、早々に吊り床に入って老夫婦の様子を探っていた。
老夫婦は食事が済むと鍋や碗などを洗い床につくと灯火を消して、老婦が「さあ、将棋を続けよう」と言い、老夫が「昨夜はわしが手を残していたからわしからだ」と言った。こうして老夫婦はまた将棋を始め、三日三晩打ち合うと老夫が「この将棋は勝負なしだ」と言った。すると老婦が「わしら夫婦の将棋は天下無敵、王義之の書は天下無双」と言った。王義之はこれを聞くと“わしにこの老夫婦の力量はない、世の中には上には上があるものだ、天の外にまた天あり。わしの字はまだ修練が足りない”と思った。
それから、王義之はまた家に閉じこもり修練を重ね、その書はますます深くなり、更に切磋琢磨して遂に書聖となったのである。 (四老人故事集)
<注> 王義之 東晋の書家( 306〜361) “蘭亭序”“十七帖”などの書が有名である。