母の心臓
昔むかし、韓尺という若者がいた。「オギャア」と生まれるとすぐ父親が死に、寡婦となった母親は食べるにも着るにも苦労しながら韓尺を育てた。けれども貧乏で韓尺が二十歳を過ぎても嫁を迎えられず、それが母親の悩みの種であり、韓尺の憂鬱でもあった。
ある日、韓尺は南山へ柴を切りに行き、林のわきの小さな家の前で十七八の娘が花を摘んでいるのを見つけた。韓尺は“このあたりに前から家があったかな?それにしても綺麗な娘だ、天女より美しい、もしこんな娘を妻にできたら俺は一生幸せだなあ”と思い、ひとつ言葉をかけてみようと近づくと、その娘が先に「韓さん、どうしたの、水が欲しいなら持って来るわ、お腹が空いているなら中へ入ってご飯を食べたら」と言った。
韓尺は嬉しくなって「いやあ、あの〜、あなたはどうしてわたしを知っているのですか」と聞くと、娘は笑いながら「毎日あたしの家の前を通るあなたを知らないわけないでしょう」と答えた。「わたしはちっとも気がつきませんでした」 「あなたがこっちを見ないからよ」こうして二人は日が暮れるまで喋り、韓尺が帰ろうとすると、娘は恋しそうに「明日も来てくれる?」と聞いた、もちろん韓尺は「来ます」と答えた。
その日、韓尺は一本の柴も切らずに帰った。母親は韓尺が手ぶらで戻って来たので「尺や、どうしたんだい」と聞くと、韓尺は嬉しそうに「おっかさん、今日は俺、素敵な娘さんに会ってお喋りして来たんだ」と答えた、母親も喜んで「何処の娘さんだい?」 「南山の林のそばだよ」 「あそこに家があったかね?」 「おっかさん、気がつかなかったかい」それを聞いて母親はふと気になって「あたしゃ南山へ山菜採りに行くが、南山じゃ人の家を見たことがないよ、その娘は妖精じゃないだろうね?」 「何言ってるんだい、妖精はみんな青い顔で褐色の髪だよ、あんなに綺麗な筈ないよ」 「でもね、妖精は美女に化けて人を騙すよ、その娘さんにも気をつけた方がいい」韓尺は母親の小言に嫌気がしてさっさと寝てしまった。
韓尺は翌朝早く起きると、また柴を刈りに行くと言って真っ直ぐ娘の家へ行った。娘は昨日よりずっと馴れ馴れしく、韓尺をじっと見つめたり、体に手足をからめたりした。韓尺は気のはやる年頃でたちまち娘の虜になってしまった。
日が暮れて韓尺が家へ帰ると言うと娘は韓尺の首に手を回して「明日も来てくれる?」と言った、「来るけど、お袋があなたが妖精じゃあないかと疑って、うるさいんだ」それを聞くと娘はうわ目づかいで冷ややかに「あんた、あたしを妖精だと思ってるの」と言った。「こんな美しいあなたを妖精だなんて思っていませんよ」と答えて家へ帰った。
韓尺はまた柴を刈らずに両手をぶらぶらさせて家へ帰ったので、母親は「お前またあの娘に会いに行ったのかい?」 「おっかさん、もう今日から俺のことはかまわないでくれ、おっかさんが妖精じゃないかと言ったからあの人は気を悪くしたんだ」 「でもお前、おっかさんは今日あのあたりに行ってみたけど、やっぱり家はなかったよ、お前がまた行って、妖精に騙され、もしものことがあれば大変だ」韓尺はまた母親がくどくど言うので、いい加減に返事をしたふりをして寝てしまった。 韓尺は三日目もまた早く起き、母親の言葉に背いてそっと娘の家へ行った。
さて、あの娘は本当に妖精なのだろうか?その通り。母親の勘はあたっていて娘は実は南山の狼の精だったのだ。狼の精は韓尺の母親が疑っていると聞き、牙をむずむずさせ、この日は念入りに化粧してから、大きな青虫、ロバの糞で美味しそうな料理を作って韓尺を騙した。韓尺は母親の文句を聞くより、綺麗な娘のそばにいる方がいいし、料理も食べられるので狼の精と一緒に六日も過ごしてしまった。
毎晩、韓尺が帰って来ないので母親は心配して次の日の朝、明るくなると山を上り下りして、河を越えやっと南山に着き、「尺や、何処にいるの、早く帰っておいで」と三日三晩飲まず食わずで呼び歩いたが韓尺は帰って来なかった。母親はもう韓尺は妖精に食べられてしまったかと思い、家へ帰ると気を病んで寝ついてしまった。
韓尺は娘に化けた狼の精と一緒にすっかり楽しんでいると、七日目に娘は心臓が痛いと言い出し、韓尺に栄養になる物を持って来てくれと言った。「栄養になる物って何がいいのかな」 「あんたの母親の心臓よ」 韓尺は妖精の娘に迷い、何も言わず家へ帰り、ぐっすり寝ている母親の胸を刀で刺そうとすると、足音で息子が帰って来たのに気がついた母親は驚き喜んで泣きながら「尺や、お前が何日も帰らなくておっかさんはとても心配したよ」と言って韓尺を抱こうとした。
ところが、韓尺は刀を持ち、恐ろしい声で「お前がいたから俺は妻を娶れないでいたのに、お前は俺が探したいい人を妖精だと言ったから、あの人は病気になってしまった。俺はあの人のためにお前の心臓を取ってあの人の栄養にするのだ」と言った。
母親は殺気だって赤く光った凶悪な韓尺の目を見て、息子は狂ってしまったと思い「お前のためならおっかさんは何でもしてやる、でもお前、おっかさんの最後の願いを聞いておくれ、しばらくしてお前はおっかさんの心臓をとってあの娘の所に行くだろう、あの娘が人か妖精か、おっかさんが見て娘がもし妖精だったら、おっかさんが叫ぶから、お前はすぐ逃げておくれ」そう言い終わると韓尺の母は覚悟を決めて目を閉じた。韓尺は刀で母親の心臓をえぐり出し、娘に化けた狼の精の所へ急いだ。
山を上って行くと母親の心臓がドクドクと鼓動して「尺や、気をつけな、転ぶよ」と言った、山を下る時に韓尺が石に躓きそうになると母親の心臓が鼓動して「尺や、ゆっくり歩きな、転ぶよ」と言った。韓尺が窪みを通る時、また躓きそうになると母親の心臓が鼓動して「尺や、走るんじゃないよ、足を挫くよ」と言った。河を渡る時に韓尺がザブザブ行くと、母親の心臓が「尺や、ゆっくり渡りな、着物が濡れるよ」と言った。
韓尺はうるさくなって「何グタグタ言ってるんだ」と母親の心臓を殴った。韓尺は汗を流しながらやっと狼の精が化けた娘の家へ着くと、母親の心臓が“サッ”と飛び上がって「尺や、妖精だよ」と叫び“パッ”と砕けた。 韓尺は母親の声に驚き振り返って見ると、娘の姿は牙を剥き出した大きな狼になり、韓尺は逃げる間もなく喉を噛み切られた。
薛天智故事選 00.7.23