雍正殴られる

 雍正は権力を奪おうとした陰謀家で、父の康煕帝が自分を好きでないことも知っていたし、兄弟も多く、皇帝を継ぐことはできぬと思っていた。だが雍正は父が生前から北京城の最も高い楼閣に遺言として皇帝を継ぐ誰かの名前を書いており、父の康煕帝が死ねばこの誰かが皇帝を継ぐことを知っていた。だから雍正は康煕帝が病気になり、もし死んでも自分に皇位は回って来ないと毎日焦っていた。

 そこで雍正は天下の群雄と手を結び、最高の武芸者を集め「父康煕帝はわしを跡目に選んでいないから父が死んだ後の帝位はわしには回らない、父が遺言に書いた誰かが皇帝になる、どうしたらいいかお前たちで相談してくれ」と告げた。
 するとある家臣が「いい方法があります。楼閣にある遺言を持ち出して誰の名が書いてあるかを見、それがあなたの名前でなければ、それを書き換えるのです」と進言した。雍正は「それはいい」と言って、すぐ忍びの者に命じて真夜中に楼閣に登らせ、この遺言状を持ち出し雍正の住む貝力府に届けさせた。貝力府の主は雍正である。

 雍正は家臣とともに遺書を開けて見ると『立十四子』(十四子を立てる)と書いてある。「これはわしの弟のことでわしのことではない、どうするか」と雍正が言うと、家臣は「よい方法があります、『立十四子』の“十”の上に横棒“一”を書き、下に“はね”を加えると“于”になります、つまり『立于四子』(四子を立つ)となります」と言った。雍正は康煕帝の四男である。こうして雍正は康煕帝の遺書を書き換え、再び遺書を楼閣へ戻しておいた。

 後に康煕帝が亡くなり、文武の大臣たちが遺書を楼閣から下ろし、皇帝の文机に置いて開くと『立于四子』とあったので文武百官一人として反対する者もなく雍正が即位した。雍正帝は権力を奪うと、反権力の人々を殺害した。呂家も雍正帝の迫害を受けた一人である。
 呂家には呂四娘という娘がいた。呂四娘は幼少から才能があり、雍正帝を暗殺しようとしていたが、宮殿には容易に入れず、北京に潜入して三年、多くのつてをたどって、やっと宮廷の釜焚き女になった。呂四娘は武芸に通じて腕前も強い。

 ある晩、雍正帝が小用をたしていると、庭から剣舞の音がする、雍正帝は手を洗い庭に出てみると、美しい十七八の下女が剣を上に下に踊らせ神出鬼没の如く舞っている。雍正帝はうっとりと、しばらく見入って「見事」と言った。すると下女はこの「見事」の一声の間に剣を納めると身を翻して去ろうとした、雍正帝は「何処へ行く、お前の剣の舞いは如何にも見事だ、お前が気に入った、わしの所へ来い」と呼びとめた。 下女は雍正帝について奥の館へ行った。

 館に入ると雍正帝の錦の袋があった、この錦の袋が多くの人を殺害したのである。雍正帝がこの錦の袋を殺害しようとする者の頭にかざすとその者の首がなくなったのである。
 だが、今宵は雍正帝一人でここには誰もいない。雍正帝は「今晩、お前はわしに従わねばならぬ」と言ったが下女は承知しない。
 雍正帝が「許さぬ、今宵お前はここに泊まるのだ、着物を脱げ」と言うと下女はあなたが先にと言う。雍正帝は武術に勝れ、身にすきがなく常に人は雍正帝に近づけない、下女は雍正帝が服を脱ごうとする時、空を切って雍正帝の腋の下の急所を指で突いた。これを“点穴法”という。雍正帝はバッタと床に座り、目を丸くして口を開け、まるで馬鹿のようになった。
 すると下女は錦の袋を取り「雍正、あなたはこれで人を殺した、今宵、あたしがこの錦の袋をあなたの頭に試してみると言って、雍正帝の頭に錦の袋をかざすと雍正帝の頭が落ちた。下女は呂四娘だったのだ。呂四娘は雍正帝の首を持ち、名も告げず遠くへ逃げてしまった。
 雍正帝は死んだが頭がない、誰が殺害したのかも分からない。文武の大臣たちは金の頭を造って雍正帝の亡骸につけた。

 こうして雍正帝は金の頭で閻魔大王に会うことになった。閻魔大王は「おお、雍正来たか、わしはお前を殴る」 「閻魔がどうして俺を殴るのだ」 「お前は娑婆にいる時、多くの人を殺し、良家の婦女を犯すなど千にあまる罪を犯し、その上皇位を奪った、その罪でお前を殴るのだ」 閻魔大王は雍正帝の頭が金であることを知らずに、鬼どもにバシバシと雍正帝の頭といわず顔といわずに殴らせた。だが、雍正帝は「殴るなら殴れ、俺の頭は金だ、殴られても何でもない」と平気でいる。

 雍正帝の頭を鉄の棒で打つと火花が飛んだ。 後に人の頭を叩いたり、壁にぶつかって火花が散ると言ったのはこの雍正帝の伝説によるのである。  

             四老人故事集                                   1999.3.3  

 注 
 汨羅に身を投じた詩人屈原(前340〜278)の亡骸は魚に食べられて頭がなかった。屈原の娘はそれを悼んで父の遺体に純金で頭を造ってつけ丁重に葬った伝説が今も汨羅市に残っているという。(1999.4.12朝日新聞夕刊による)

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