人 魚
これはある老人から聞いた遠い昔の話である。ある処に于真という若者がいた。于真の仕事は山や畑ではなく、遼河の漁師として暮らしている。
ある晩、于真は網を河にいれると、河岸に戻り蓑を広げてその上でひと眠りした。うつらうつらしていると、河に大きな船が浮かんでいるのが見えた、船の窓からは灯が洩れ、笛の音とともに女の歌う声が船から聞こえて来る。于真は眠そうに体を起こすと、俺は小さい時からこの河で育ち、魚を捕って十数年も暮らして来たが、こんな大きな船は見たこともないし、こんな美しい音楽も聞いたことがないと、ももひきをまくり上げて河の中へザブザブ入って、船の近くまで行くと船は見えなくなってしまった。
于真は不思議に思いながら河岸に戻り、また蓑の上に横になると、またまた笛の音とともに女の歌う声が聞こえて来る、見るとまたさっきの大きな船が明るい灯をつけて浮かんでいる、于真は今度は水音をたてないように静かに水をわけて船に近かづいて行くとやっぱり船は消えてしまった。
ますます不思議に思って河岸に戻り、あの船が何処から来るのか見とどけようと、じっと河岸に座ってまた船が現れるのを待っことにした。
やがてまたあの大きな船が忽然と河の中から現れた、さっきよりももっと賑やかな音楽が聞こえる、于真は驚き恐れながら、眺めていると、ふいに後ろからパンと肩を叩く者がある、何するんだと振り向くと、明るい月の光の中に白い髭を生やした老人が立っていて、笑いながら「お前さん、なにぼんやりしているんだ、行かないのか」と聞いた。
于真は驚いて「私が行くと船が消えてしまうのです」と答えると、老人は「わしについて来るがいい」と言い于真の手をひき、ふわふわと、水の上を漂ようようにして船に近づき、船べりをあけ于真を船の中にいれた。すると今までの音楽と歌声が消えた。于真が見回すと、船にはゆったりとした部屋が二つ並び、腕ぐらいの太さの大きい紅い蝋燭が七、八本も並び、船の中は真昼より明るい、そして十何人かの花のような娘が、押し合いながら笑い、はずかしそうに于真を見つめている、于真は顔を赤らめて部屋を出ようとすると、老人は于真を引き止め笑いながら「もじもじすることはない、はずかしがらず、入って座るがいい」と言い、于真を窓の前の椅子に座らせ、それから娘たちに「お前たちが毎日毎晩、待っていた于兄が来たのだ、早く歌い、踊ってあげなさい」と言った。
于真はそれを聞いて“娘たちがわたしを待っていたなんて、何だろう”と不思議に思ったが、娘たちは老人の言うとうり音楽に合わせて踊り始めた。
于真は今までこんな美しい娘たちを見たことがなかった、まして美しい娘たちの踊りを見たこともなかった、于真は本当は大きな目を開けて見ていたいのだが、はずかしくて、俯いてちらちらと見ていた、“ア−なんて美しいのだろう”ひとりひとりの舞いは風に揺れる柳のようで、水の中に漂うようであった、すると一人の紅い服を着た綺麗な娘が于真をじっと見つめた、于真はドキドキして顔が赤くなり、“この娘は俺が好きなのかな……”と思い、また“俺は貧乏な独り者だ、がま蛙が美味しい桜桃を食べたいと思うようなものだ”と思った。
しかし、于真は紅い服の娘に心を奪われ、娘を見ずにはいられなかった、すると娘も于真を見ている、四つの目が会い、于真はまるで捕まった子兎のように胸がドキドキし、額に汗をかいた、するとこの時、白い髭の老人が「今日の楽しみはここまでだ、みんな帰ってやすめ、紅い服の娘は于兄さんと散歩に行け」と言って老人はほかの娘たちと帰った。
紅い服の娘ははずかしそうに小さな手をだして于真の手をひき、河の中へ入って行く。于真も思わず紅い服の娘について行った。二人は河の底の大きな街に着いた、街には高い楼や商店が並び、馬車や人々が往来して賑やかであった、ある横町を曲がると一軒の家の前に大勢の人がいて、庭の中から女の人の泣き声がする、于真は紅い服の娘に「あの女の人は何故泣いているのですか」と尋ねた、娘は溜め息をつき「あの人の夫が人に捕られ煮られてしまったので泣いているのです」 「誰がそんなひどいことを…」 娘は頭をふって答えず于真の手をひいてまた進んだ。
そしてまた一軒の家の前に来ると老人が門に寄り掛かり涙を流していた、于真は老人に「お爺さん、どうしたのですか」と聞くと、老人は泣きながら「わしの老いた妻が人に捕られ煮て食べられてしまったのだ、残されたこのわしはどうやって生きて行けばいいのか」と言った、于真は急いで「その悪者は誰です、私が仇を討ってやります」と言うと、老人はぼんやり于真をながめ「お前さん、夢みたいな話で慰めても無駄だよ」 「どうしてですか」 「気持ちは有難いが、あなたの力ではどうにもならないのだ」 于真は老人が自分を馬鹿にしていると思い、むっとしたが、娘は仕方なさそうにまた于真の手をひいて歩いた。
どんどん行くと子供たちが道端で泣いている、于真はまたどうしたのかと尋ねようとすると、紅い服の娘は涙を流し「于兄さんあの子たちはみんな父や母を人に捕らえられて油であげられたのです、こうして孤児になって本当に可哀相……」と言った、于真はもう我慢できず紅い服の娘の手を払い「そんなにはっきりわかっているのに、そのわけを私に教えくれないのはいったいどういうわけです」と怒ると、娘は「わたしはあなたが心からみんなを助けようとするいい人だと思いますが、いまは何も言えません、時が来れば、あなたにもわかるでしょう」と答えた。
それでも于真は執拗にそのことを聞こうとすると、突然美味しそうな匂いがしてきた、于真はお腹が空いて腹の虫がもう喉にでかかっていたので、この美味しそうな匂いは何処から流れてきたのだろうと、四方を見回すと、頭の上に美味しそうな物が浮いている、思い切って口で噛むと、紅い服の娘が叫んだ「ア、駄目、于兄さん針にかかる」于真はその声を聞き、自分の口に針がかかっているのに気がついた、痛くて声がでないし、手で針をとろうとしても、なかなかとれない、両手を使ってもはずれない、バタバタ、ジャブジャブ動きまわり疲れ果ててしまった。
どうして紅い服の娘は助けてくれないのかと思い、周りを見ると、河岸に一人の男が蓑の上で居眠りしている、“あいつは誰だ”とよく見ると、なんとその男は于真自身だ、“俺はここにいる、なのに河岸にも俺がいる、何だこれは”と于真が驚いていると、于真を船に連れて行ったあの老人が来て、笑いながら「腹が空いてお前も食べたのか」と于真の頬をひっぱたいた、そこで于真は目を覚ました。
目をこすって水に写った自分の顔を見ると、叩かれた老人の五本の指のあとが頬についている、そこで自分が今まで魚になっていて、紅い服の娘と一緒に水の中の世界を歩いていた不思議な出来事に気がついた。于真は魚の世界にも人間と同じように家があり家族がいるのだとわかり、自分が魚の家族の妻やこどもを捕って暮らしていたのだと悟った。それから于真は漁師をやめ、畑を耕す百姓になった。
ある日、あの白い髭を生やした老人が紅い服を着た娘を連れて来て、于真に「お前は我々水に住むものを捕らなくなってくれた、この緋鯉の娘を妻にするがいい」と言って消えた。
薛天智故事選 1998.4.20