王中と幽霊
毎年のように首吊りの幽霊が出る地方があった。そこに五十くらいで酒好きな王中という船頭がいた。
ある晩、王中は酒を飲んで酔い、船倉でぐっすり寝込んでしまった。
夜中になって向う岸から「船頭さん、船頭さん」と呼ぶ声がする、王中はゆっくり起き上がると着物を着て船倉から出た、すると向う岸に一人の女が立っている。月の光で見ると女は三十ほどの年恰好で白い布をかぶり紺の上着、青のズボンをつけている。
顔ははっきりしないが女は河を渡りたいのだろう、王中は“俺は船頭が商売だ、渡してやろう、それにしてもこの夜中に何処へ行くのだろう”と思い、急いで帆を上げ、艪を漕いで向う岸に着けると渡り板をのせ「乗って下さい」と言った、女はすぐに乗り岸に着くと「船頭さん、助かったわ、でもわたしお金を忘れたから、このつぎに払うわ、いいかしら」とさらりと言った、王中も「お金がないなら、このつぎでもいいですよ」と答えると、女は渡り板を渡り真っ直ぐ東へ向かって歩いて行った。
それを見ながら王中は“この真夜中、三十前後の女が一人で行くなんて怖くないのかな、きっと何かわけがあるのだろう、何をするのか後をつけてみよう”と女に知られないように遠く離れて女の後をつけた、七八里もいくと前の方に村が見えた。
村の西の端に入ると北側に南向きの家がある、茅葺きの壊れかかった小さな門があり、貧乏そうだが戸に対聨が貼ってあるところをみると、どうやら嫁を娶ったばかりのようだ。女はこの家へ門も開けずに入った。王中はこれは幽霊だ、人なら門を叩くはずだ、王中は門を叩いて家人を呼んでいては遅いと素早く塀を乗り越え庭に入ってみると、女も庭にいる。
この家は二つの棟の母屋がある。女は一つの棟の中へすっと入って行った。アッ、幽霊だ、間違いない、女は戸も開けずに家の中へ入ったではないか。王中は急いで窓の下により障子の紙を舌の先で舐めて穴をあけ覗いて見ると、部屋には灯りがともり、若い妻が灯りの下で針箱をひろげ、布鞋の底に糸を一心に刺している、やがて布鞋を置くと目に涙を浮かべ「ア−、生きていてもつまらない、いっそ死んでしまおう」と言って、縄を梁にかけて結び、結び目を首にかけ首を吊ろうとした、王中は慌てて戸に行き、力をふりしぼって、戸を蹴破った、すると女の幽霊は蹴り破られた戸口から飛び出したので王中は後を追った。
一方、家の中の若い妻は王中が戸を蹴破ったので、驚き気を失った。王中は幽霊の後を追いながら、大声で「この家の誰か起きろ、嫁さんが首吊り幽霊にとりつかれたぞ」と叫んだ、すると老夫婦が起き出して嫁を介護した。
王中は塀を越え、幽霊女を追いかけた。幽霊女は再び河岸の王中の船着き場に来た。だが船頭は王中である、船頭がいなければ船は動かない、幽霊女は振り向いて追いかけて来た王中に二度三度と打ちかかってきたが勝負がつかない。
首吊り幽霊は舌を一尺も長く垂らし、口を大きく開け“ガ−”と息をふきかけ迫って来る、王中はゾッとして、全身に冷水を浴び、妖気に囲まれたようになり思わず後ろへ下がった、だが逃げてはいけないと思い、俺が幽霊女に迫ったらどうなるか、やってみようと王中は大きな口を開け“ガオ−”と幽霊女に迫った、王中は酒の酔いがまだ覚めていなかったから酒の匂いの息をふきかけた、すると幽霊女が後へ下がった、王中は幽霊女が怖がっていると分かり、また“ガオ−”と息をふきかけた、王中と幽霊女は二度三度と互いに“ガ−”、“ガオ−”と息をふきかけ合っているうちに王中は幽霊女の手首をぎゅうと掴んだ、その時、夜明けの鶏が鳴き幽霊女は姿を消した。
王中は幽霊女が消えると船倉で眠りやっと昼になって目を覚まし飯を食べ、酒を飲んだ、夜になると幽霊女がまた来て王中と争ったが、幽霊女は鶏が鳴くとまた姿を消した。
三日目の夜、また幽霊女が来て、こんどは河を渡りたがり「わたしを渡しておくれ」と迫ってきた、王中は渡さないと幽霊女が何処いるのか分からなくなるから、渡してやって幽霊女の住む所を見届けようと考え、幽霊女を向う岸へ渡してやり、後をつけた、前の方に墓場があり新しい墓が見え、穴に板がかぶせてある。幽霊は後から王中がつけて来たと分かるとまた姿を消した。
“消えるなら消えろ、俺がつきとめてやる”と穴の板をはずし、穴を手で探ったが何もない。王中は明日の晩、早く来て幽霊の帰るのを待とうと帰った。翌晩早くから酒を飲み、暗くなるとまた墓場へ行き穴の中に入って待っていた。夜、幽霊女が来て穴に人がいると分かると逃げようとした。王中は幽霊の手首を掴んで墓の中へひきずり込もうとすると、幽霊女は「あたしは入らない」と言い、互いに引っ張りあった、王中は穴の中では動けないと考え、外に出て争った、鶏が鳴いたが王中は幽霊の手首を掴んで放さず火をつけ、油をかけて幽霊女を焼いた、幽霊女は叫び声をあげて燃え尽きてしまった。
こうして王中が首吊り幽霊の災いを絶ち、それからこの地方に首吊り幽霊は出なくなった。
四老人故事集) 1996・10・7