張作霖第二夫人の出家

 ある晩、沈陽市大北関広林寺の前に人だかりがしていた。よく見ると青一色の奉天軍の護衛兵と馬丁である。東門の角には特に立派な鉄張りの馬車が止まっている、やがて八時頃に“ギイ−”と音がして門が開き寺の中から小柄で太った男が出て来た、この人が高名な “奉天王”……張作霖である。張作霖は何をしに尼寺へ来たのか。

 この尼寺“白衣庵”が“広林寺”と変わったわけは伝えるところによると、張作霖は歓楽を求め、第二夫人に美しい女学生を娶った。
 式の当日は提燈を張り、飾りつけをし、太鼓を響かせ、多くの賓客朋友を迎え、盃を交わし、たいそう華やかであったのは言うまでもない。
 一日中賑やかしたその晩、客が去ってから、張作霖は酒の匂いをさせながら新居に入った。部屋の戸を推すと、第二夫人は戸に背を向けたまま少しも動かず立っている。張作霖はすぐ戸に閂をし、第二夫人の頭に手をかけると夫人は真っ直ぐ板のように後向き倒れた、張作霖は素早く屈み両手でしっかりと抱き、寝台に寝かせたが昏睡したままで口から白い泡をふき手足を痙攣させている、発作を起こしたのだ。張作霖は大声で「なんてぇことだ」と怒鳴ると、部屋から出て行ってしまった。

 それからこの第二夫人は度々発作を起こし、二年もたたず部屋から出なくなった。 ある日、張作霖は正夫人と話して合っていた「あの女が白衣庵の尼になりたいと言っているそうだが本当か」 「本当です、あの人は何度もわたしに出家したいと言っております、あなたはあの人をおわりまで見てやらなければ……」
 数日して張作霖は大金を使い白衣庵を買い取り、かなり広い寺院として修理再建した。前堂と本堂、それに僧房が五間、周りは人の丈よりも高い塀を巡らし、山門には藍地にきらきら光る金文字で“広林寺”と三字大きく書いた偏額を掲げた。そして張作霖の第二夫人は広林寺の住職となった、法名を “密亮”と言う。

 しばらくして密亮は弟子をとり“印心”と名づけた。こうして白衣庵は広林寺となったのである。 第二夫人は出家して仏門に入り念仏を唱え身を修め養生したが、発作の病はよくならず体はだんだん弱っていった。張作霖も心配してちょくちょく尼寺を見舞っていたが密亮の病気はますます重くなり衰弱してきた。

 ある日の夜、密亮は鏡に向かい髪をすき、顔を整えてから、印心を呼び「印心や、これからはあなたがこの寺の住職になって、しっかり寺を見守っておくれ」と言った、これを聞き印心が泣きだすと密亮は「ごらん、東の空から観音菩薩が童男童女を従えて、わたしを迎えに来る」と言った、だが印心には何も見えない。

 やがて、密亮は弱々しく前方を指さし、力のない声で「早く本堂へ行って、準備をしておくれ、香炉台を用意して、早く、早く」と言った、印心は急いで本堂へ駆けつけると蝋燭をたて、線香に火をつけ、再び戻り師を扶けて本堂に行き密亮を仏前の椅子に座らせた。印心は後ろに下がりそっと見守った。師と観音は一体となり慈悲心を現し、美しい容姿は端正荘重であった。

 やがて笛琴の楽の音が聞こえ師の座る椅子の周りに霧がたち、一片の美しい雲となると師の密亮はゆっくりと上へあがって、真っ直ぐ東方へ漂って行った……じっと見ていた印心は驚いて目を瞬かせると、師は笑みを浮かべ目を閉じて椅子に座ったまま死んでいた。

 印心は密亮の記念塔を本堂の後ろに建て師を埋葬した。60年代の初め慈善教育事業を興すために密亮の三代目の弟子……大惺は塔の遺骨を現在の大東区白衣庵に移し、“広林寺”本堂も残した。  

           沈陽市巻上                                       1996・2・12

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