倉頡造字の由来

 古代、象形文字を造った人は倉頡という人です。それには倉頡の賢い妻がかかわっていると言います。倉頡の妻は狐の精で聡明で何事にもよく気のまわる人でした。

 その頃、人はみんな日の明るいうちに狩りをしていました。けれども倉頡の妻は「鳥は昼間飛び、夜になれば飛ばない」と言って、夜になってからそっと狩りをしました、それで食べ切れないほどの鳥を捕まえると生かしたまま残しておきました。また落とし穴を作り、豚、牛、羊を沢山捕まえると食べ切れず、やはり飼っておきました。こうして人々は家畜や家禽を飼ってきたのです。今でも狐やいたち、それに人も小鳥を食べるので人は家禽を飼っても、夜になって鶏などを狐やいたちに盗まれないようにするのです。

 さて、こうして長い間に倉頡の家では家畜を飼い、家禽も多くなりました。すると時々隣近所の人がそれを借りに来ました、倉頡はおおまかな人でしたが、妻は気のきく人でしたから、牛を貸すと獣の皮に牛のしるしを描き、雀を貸すと鳥の形を描いておきました、一つ貸せば一つ、二つ貸せば二つ描きました。

 ある日、鶏を借りに来た人がいました。倉頡の妻は鳥を描きましたが、鶏だからどうしようと考え、鳥の形の傍らに点をつけました。
 ちょうどこの時、古代の帝王、黄帝が世上のことを何かの方法で記すことができる者を史官としてとりたてると令を発しました。倉頡は家に帰りこのことを妻に話しながら、獣の皮の鳥の形に点のついたしるしを指して 「これは何だ」と聞きました、「これは鶏よ、鳥の形に点」 「あれは?」 「あれは馬じゃないの、四本の足」 「なるほど、あれは?」 「あれは牛、これは羊」

 倉頡もまた聡明な人で、すぐ道理を見つけ、一生懸命に考えに考え、多くの象形文字を造り黄帝に差し出しました。黄帝はこれを見て「非常によいことだ」と言って天下の人々に字を造らせました。こうして字がだんだん増えて人はやがて文字を持つようになりました。

 倉頡が象形文字を造ったはじめは、実は倉頡の妻があちこちに物を貸したことからはじまったのです。

           撫順市巻上                                      1996・1・21

はじめに戻る