遺棄されたある日本兵の話

 1945年の冬、冷たい北風が吹き、大雪が舞っていた。物乞いをしていた河南省南召県太山廟村の農民孫邦俊は黒石街の入り口付近で、大勢の人々が一人の乞食を囲み殴ったり蹴ったりしているのを見た。一人の男が棒で乞食の腹を叩きながら「お前は俺たちの仲間を何人殺したんだ、お前なぞどんなに切り刻んでも足りない」と激しい声で怒鳴っていた。乞食の頭の毛は短く、無数の弾で穴のあいた汚いボロボロな軍服を着、恐怖でちぢみ上がっていた。
 それは遺棄された日本兵であった。孫邦俊は可哀相になり、周りの人々にさまざまに頼み込んで乞食を助け連れて帰った。

 さて、こうして孫邦俊にはこの“乞食”、負傷した日本の廃殘兵の“弟”ができた。戦闘で頭部に重傷を負ったらしいが、脳の損傷が少なかったのか意識も身体も正常であった、ただ完全な言葉を発することはできなかった。
 1953年冬、この日本兵は半身不随になり床につき起きられなくなり、自分では動けず、昼間は叫び、夜は泣いた。孫邦俊は昼も夜もつきっきりでご飯、着替えから大小便の世話までした、言葉を話せないこの日本人は感激して何時もしっかり孫邦俊の手を握り、じっと顔を見つめ、ポロポロと涙を流した。孫邦俊は家の金になりそうな物を売ったり、三回も売血して看病の金に換えた。一年たち日本兵は奇跡的に再び起き上がれるようになった。

 月日は流れ十年過ぎた、孫邦俊は階級闘争の真っただ中にずっとこの日本侵略軍の兵士を名前も住んでいた所もはっきりしないまま匿まい、多くの大衆に何と言っていたのだろうか、孫邦俊一家はこの大きな重荷を背負い、一緒に仲よく暮らせたとは不思議なことである。
 1961年孫邦俊の一人っ子、孫保杰は初級中学を卒業し南召師範に合格した、これは農家の子供にとって、鯉が滝に登るようにトントン拍子に出世する足がかりだ。一家が喜びに酔い、あの“乞食”も喜んだ、そんな時、突然村に見慣れない人間が三人来て、孫邦俊の事情を調べ、その結果孫保杰にはとうとう採用通知が来なかった、一家は何処に理由があるかわかっていた。孫保杰は自分の前途を悲観して家を恨み、兵士を恨み、父を恨んだ、すると孫邦俊は涙を流しながら、息子に人に言わない昔の話をした。

 孫邦俊も孤児であった。大雪の舞う冬、雪の中で凍えている時、死んだ孫保杰の祖父に救われ育てられたのだ。孫保杰は父と“おじ”に謝り、黙って不幸な運命を受け入れた。
 1964年夏、孫邦俊は58歳で疲労のあまり、体を壊し病を得て亡くなった、臨終の時、息子を枕もとに呼び「わしはおじさんを見てやれなくなり、お前に頼るしかない、人にはみんな父母、兄弟がある、おじさんは日本からここに来て何十年もわしらと暮らした、食うや食わずの暮らしで可哀相で済まなかった、これからもおじさんの面倒を見てやってくれ。機会があればおじさんの肉親を捜してやってくれ。捜せたらわしにも話してくれ」と言い残した。

 孫邦俊が死んで、生活はわずか20歳の孫保杰にかかってきた、日本の老人にはそれを心配し少しでもできる家事をやろうとした。
 文化大革命の間、孫保杰は外国と通じ、家に“時限爆弾”を隠していると言われ何度も審査を受け、街を引き回され、社会的な苦しみをなめ尽くした、けれども保杰は日本のおじの前にその苦しみを現すことはなかった。災いは一つでは来ず、幸は二つの宝を持って来ない。
 1975年の夏、日本の老人は重い関節炎にかかり、また床について動けなくなった孫保杰は父と同じように方々に借金し、自分で車を引いて老人を病院へ連れていった。保杰の妻はずっと老人の身の周りで看護した、一家はわずかな物を食べ、お金を節約して治療の費用にした。優しい心の努力は報われ、ついに老人はまた起きられるようになった。

 こうして孫保杰父子は日本兵を四十年あまりも世話をし長い間日本兵と寄り添って暮らしたのである。中日両国の関係が正常化したあと1986年、保杰は父の遺言を守り、この日本老人の肉親を捜し始めた、けれども老人は話すことができず、書く字も曲がりくねって誰にも読めず、肉親捜しの話は容易ではなかった。孫保杰は県の外事事務所と日本大使館に連絡したあと、老人が書いた字と三枚の写真を国際赤十字社と日本の民間組織に送ったが老人の書いた字は結局わからなかった。

 1991年10月 5日の<南陽日報>に、ある中日友好訪問団が南陽市に来ているニュ−スが載った、孫保杰はこれを読んでいい機会だ、老人を連れて行って代表団団長に会わせてみようと思った、多くの日本人が日本語で聞いたり説明したり書いた字を名前と住所を見たりなんども聞いたりして名前は小門野郎、家は松山市らしいとわかった、しかし所属していた部隊の名は書けなかった。訪問団は老人の写真を持ち返り日本の12社の新聞に掲載したそのあと五つの家族から連絡があり何回か連絡したが違っていた。

 また歳月がたち、かって壮健だった日本兵も白髪の老人に変わった、孫保杰も中年になった、考えられることはみんなしたが日本の老人の肉親はわからなかった、保杰は失望して、父親の墓に行き「許して下さい、わたしはお父さんから託されたことができませんでした」と頭を下げた。

 1992年 4月18日、日本の友好訪問団がまた来た、保杰は再び老人をつれて訪問団を訪ねた、こんどは肉親捜しが目的ではない、老人の先のことを考え、ただ老人の同胞に会わせたかったのである、訪問団と話していると<経済ニュ−ス速報>の副編集長津田康道、恒子夫妻が嬉しいニュ−スを伝えくれた。それは老人が同社の編集長石田小太郎の兄ではないかと言うのだ、石田小太郎の家は秋田県で、兄の石田東四郎は1939年侵略戦争に参加、その時石田小太郎はまだ10歳、ただ年齢と名前が違う、津田康道夫妻は決定できないまま帰って、できるだけ早く返事することを約束した。

 訪問団は帰国し津田康道夫妻は石田小太郎に詳しくこのことを話した、石田小太郎は三回南召県の外事事務所に手紙を送り本人と孫保杰の事情を尋ねた、写真を調べこの日本の老人は確かに石田東四郎で1912年 8月生まれ、日本軍の中国侵略のあと名前を小門野郎と名を変えた、1993年正月上旬石田小四郎から託された友人の明治東一道さんは正月21日に南召に来て、石田東四郎の血液を採り帰国して秋田大学法医学研究室の血液鑑定を経て石田東四郎は確かに別れて50年たった兄であることが判明した。

 1993年 6月石田小太郎さんは日本播州中日友好訪問団と共に南陽市に来た 6日梅渓賓館の広い中庭に歓迎の旗がひらめいた、ホ−ルの入口に20人の日本人が並んだ、この時一輌の乗用車“奔馳”がゆっくり中庭に入ってきた、まだ車がとまらないうちに、日本人は車を囲んだ、車から銀髪の老人が降りた、これが戦争で遺棄された日本兵石田東四郎であった、一緒におりたのは孫保杰夫妻である。石田小太郎は急いで走り石田東四郎としっかり抱き合った、石田東四郎は夢を見ているようで80の高齢になって50年会えなかった弟に会えるとは考えられなかった。
 この情景はその場にいた者を感動させずにはいなかった。石田小太郎は孫保杰夫妻に万感の感謝をした。そして兄を連れて帰国した。孫保杰はとうとう父の遺言を完成させたのだ。しかし五か月後に石田東四郎が再び中国に帰り、南召県で暮らすことになり裕福でもない孫保杰の家に戻るとは誰も想像していなかった。老人は石田小太郎の書いた手紙を持って再び孫保杰の家の戻ったのである。

 孫保杰ご一家様  わたしは石田小太郎です、兄が再び御地に帰り、またあなた方に負担をおかけするのは誠に心苦しく思います。あなた方は兄を細かい所までお世話くださり、たび重なる病にも肉親にまさる看護をしてくださり兄は感謝しています、私は兄の晩年を故国でと思いましたが、こちらの食事、住居、交通にも、人にも馴れず、それに言葉も話せず心も通じません、ただ手振りで私たちは兄の要求を探るだけで満足に満たしてやれません。私たちは小さい時から長い間別れていて肉親の情も通じず、私は兄の悲しみを変えることができませんでした、ただ兄の意思を尊重して御地で晩年を過ごさせたいのみです。わたしもできる限りの援助をいたしますので兄を再びお世話してくださるようお願いします。石田小太郎

 この孫父子の純朴善良な心は青い山、綿々たる中日両国の深い情はそれを支えた大地と言うことができる。  

          1994年 5月第 9期“故事報”所載                          1994・8・15

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