“再語り”ということ

 瀬川拓男は“再話論への試み”(角川書店『日本の民話』1〜12解説)で再話は「解体へ向かう民話の文学的再建を意図するものでありた い」(4)と言い、再話の「真の任務は、民話の遺産を発展的に継承 し現代人の意識のうちに定着させることである」(8)と言う。そし て民話は「たとえ文字が、民衆にくまなく普及した世であろうと、 あくまでも語りによって伝えられるということである」(12)とも言 う。

 しかし、瀬川の言う“語り手”とは採集する昔話を伝承する話 者をさし、昔話を文字で読んで語る“語り手”を想定してはいない かに見える。(瀬川拓男『民話=変身と抵抗の世界』“語り手との対話”)瀬川は民話の「文学的再話」を高く掲げ『日本の民話』を刊行し た。が、その再話を読んで語る“語り手”については触れていない。 昔話を文字で読んで語る語りを想定していなかったのか、それとも それは伝承の語りよりも一段低いと見ていたのか。

 もし“再話”に対して昔話を文字で読んで口頭の語りに移すこと を“再語り”という耳慣れない言葉にするのが許されるなら、それ が文学的“再語り”でなかろうと、拙い“再語り”であろうとその 語り手が「全身全霊を傾けて語りかけ」(3)るなら、それはまぎれ もなく昔話の語りであり、語り手であると考えてはいけないのだろ うか。

 瀬川の言葉の「民俗学徒にも問題提起となりうるような、魅力に みちみちた文学的再話を行なうべきであろう」(6)をかりて言うな ら昔話を文字で読んで語る“語り手”は民俗学徒にも問題提起とな りうるような魅力にみちみちた“再語り”を目指すべきであろう。                                         2005年3月