22 昔話と私の言葉
昔話をめぐる私の言葉は意識と無意識の間を行ったり来たりする私の孤独な思索、心の軌跡である。その時どきの私の心のひだと言ってもよい。
1990年から91年にかけて、私は中国山東大学で昔話を通して日本語の指導をした。宿舎での独りの生活は淋しかった。その時、私は「人は淋しいから昔話を語り聞くのではないか」と思った。
冷たい雨の日、プロパンガスで中国の即席ラ−メンをゆで、日本から送って貰ったマヨネ−ズと醤油をかけて食べた。美味しかったが淋しかった。しかし、帰国してみると「あの時は楽しかったなあ」と思う。そして、今は「人は昔話を楽しいから語り聞くのだ」と思っている。
自分ながら、ずいぶん勝手だと思う。だから、昔話をめぐる私の言葉は、その時どきの私の心のひだなのである。
ずっと前、「昔話はどう語るか、聞くかである」と思っていた。しかし、今は「昔話は何を語るか、聞くかである」と思っている。自分ながら、ずいぶん勝手だと思う。だから、昔話をめぐる私の言葉は、その時どきの私の心のひだなのである。(1992年1月)