4  昔話をいとおしむ      

 昔話は物語を語るのでも聞くのでもない、自分を語り自分を聞くのである。語り手は自分の内部を昔話に託して語り、聞き手は昔話を自分の内部を通して聞く。だから昔話は語り手と聞き手の間にある。

 語り手と聞き手は二人の間にある昔話の「むかしむかし」から「だったとさ」までをこの状態で語り聞き、昔話をそれぞれのかたちで自分の内部に共有するようになるのである。私は昔話を語り聞くということはそういうことだと思っている。      
 しかし、矛盾するようだがこれを意識して、昔話を語り聞いてもそれはできない。こういうことを通り越して無意識に語り聞いて、はじめてできるのである。だから語り手も聞き手もその時、無意識に自分の内部を互いにさらけだしている筈である。この時、注意深く観察すれば語り手も聞き手も、きっと秘しておきたい自分の内部すら現しているに違いない。伝承の昔話を語り聞くことは命がけであったというのは、こういうことを指していたのではあるまいか。      
 だとすれば、伝承の昔話を語り聞くということは少なくとも、今日いろいろな処で行われている「楽しいお話し会」とは別なものであった筈だ。      

 語り手が自分の内部を語り、聞き手が自分の内部で聞く昔話は語り手と聞き手の真実のぶつかり合いである。そこに共感も生まれるが、時には葛藤も生まれ、語り手と聞き手の相互に抜き難い心の痛みが残りもする。だが、だからこそ昔話は伝承されてきたのではないか。自らの内部をさらけだすがごとき昔話と、その葛藤を避けたいのなら、人は「楽しいお話し会」で楽しいお話を語る聞くしかないのである。しかし、私はおそらくそこに昔話伝承の石は積まれないであろうと思う。

 私は「楽しいお話し会」を否定しているのではない。ただその中での昔話の伝承は難しいと思っているだけである。そして、いまや昔話の伝承が失われつあるのを一人いとおしんでいるのである。(1990年6月)                                     

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