2 消えた昔話の伝承
「さる昔、ありしかなかりしか知らねどもあったとして聞かねばならぬぞよ」……
今はこうした伝承の昔話を聞くことはできない。昔話は世間話に 「其寵を奪はれ」(柳田國男『口承文藝史考)「その伝承の息の根をとどめられつつある」(福田晃編『民間説話』)のである。そして口承の昔話は活字に変わった。
今の語り手は「世界中の昔話の文献に目を通し、これを暗記して語る」(野村 『昔話と文学』)のである。私が語っている昔話も活字からの昔話ばかりである。活字の昔話を口承の昔話として語る空しさはおおうべくもない。
それなのに私が敢えて語り続けるのは都会の言葉で「昔話を語ったり、継承していくということは、いつかはどこかで大きな壁にぶちあたる時をむかえるのではないか。そういった危惧を感じる」(野村純一『語り手たちの会』講演1984年)という言葉に抵抗しているのである。
ところが、その「危惧」が、5年もしないうちに全く別なかたちできた。
昔話の伝承は「スト−リ−テリングに取って替られつつあるのではなかろうか」(野村純一『藝能』所載1987年)
「フォ−クロァの終焉を更にはっきりと印象づけるのは、子ども図書館などの『お話のおばさん』の出現である」(野村 『昔話と文学』1988年)
私は昔話の口承の伝承者ではない。だが昔話の伝承に「取って替わる」スト−リ−テラ−、「子ども図書館などのお話のおじさん」にはなりたくない。
私は昔話の伝承が消えた灰の中で、矛盾とたたかいながら、昔話の生きた伝承として語るひとりの人間として埋もれて行きたい。(1989年5月)