陳毅元師故郷に帰る
1959年の秋、農民の共同炊事や、稲の大増産が叫ばれ衛星田ブ−ムの盛んな時期に、陳毅元師は36年も離れていた故郷四川省楽至県労働公社に着いた。元師は北京を出てから心の中で、天府之国といわれる故郷四川省から遠く離れていたこと、親しい故郷の人々がどうしているかとずっと考えていた。
元師が公社の大会堂に入った時は既に暗くなっていた。陳毅元師はその晩、子供の時に住んでいた懐かしい家に案内されて喜んでいた。しかし顔を洗い終わり部屋に落ち着くとすぐ、地区の公社幹部が来て、数字をならべ、優れた状況をべラベラベと総括報告した。陳元師はその煩わしさに我慢できず公社書記の話を打切り「もういい、わしが状況を見てからにしてくれ」と言った。
翌日、空がぼんやりと明るくなると陳毅元師は目を覚まし、綿の上着を着て宿舎を出ると、土手に沿った石畳の道を歩いて行った。朝霧の中を三三五五と一群れになって子供をつれた女性が箸と茶碗を持って共同炊事のあの大会堂へ歩いて行く。陳元師が分かれ道にかかると向こうから一人の老人が来た、老人は手に竹で編んだ弁当籠を持ち、陳元師に道を譲って立ち止まった、陳毅元師は「お爺さん、朝御飯ですか、私に見せて下さい」と声をかけた、老人は手にした弁当籠を持ち上げて見せた、籠の中には三本の薩摩芋が入っていた、陳毅元師は手を伸ばしながら「私は長い間故郷の薩摩芋を食べていませんよ、一つくださいな」と言った、老人はちょっとためらっていたが、それでも、ゆっくりと大きいのをとって手渡してくれた。陳元師はパクパクと美味しそうに食べると、また手をだしてて「お爺さんこの薩摩芋は本当に美味しい、もう一つくれますか」と言った、老人は憂鬱な目をして、目の前のこの体の大きい幹部を見て、手をたれたまま動かさない。
ちょうどこの時、張茜同志がきて、慌てて「この爺さんの分の朝飯を、あなたが食べると老人の食べる分がなくなります」と言った、すると陳毅元師は老人の手を握り、嗚咽して「お爺さん、どうぞしまって下さい、いりません」元師は道を戻りながら「金のかからない、共同炊事はこのまま続くのだろうか」と嘆いた。
この日の午後、陳元師が公社の手配した収穫の多い田を参観した後、三級所有制の幹部は遠来の陳毅元師のための歓迎の宴会を開いた、陳毅元師は何も言わず、彼らの開くままにさせ、ただそっと秘書と護衛に耳うちをしていた。1ム−あたり3000斤の高い収穫を上げた公社の稲の田を見てから、陳元師は三級所有制幹部の開いた歓迎会に出席した。
歓迎会は盛大で主賓のテ−ブルには陳元師が詩を書くように赤い絹布と筆、墨がならべられていた。幹部たちがそれを申し出ると陳毅元師は心よく承知して、筆をとり笑いながら「今回の帰省で見るべきものはみんな見ました。あなたたちの計画も悪くはなかったが、しかし私自身は嬉しくなかった。あなたたちの1ム−3000斤の生産はどうしてできたのですか、鼻を高くして目を欺き、たった三本の薩摩芋を一回の食事にあて、大言を吐くのが罪ではないなんて、それはあまりに酷いやり方だ」
陳元師の言葉は筆を持ったままだんだん激しくなった。周りにいた幹部たちはみん唖然としていた、公社の書記が気をきかして走りより「陳副総理、食事の時間です、召し上がってから詩を書いてください」と言った。
言わなければよかったのに、この一言で陳元師の大砲のような気性を更にひき起こさせた「あんたたちがこの宴席を開いたのはこの陳毅をだしにして“飲み食いの仏”が来たとばかり、飲み食いしょうと企んでいると見当がついているのだ、村の人は薩摩芋もろくに食べられないのに、あんたたちが開いた宴席の料理がわしの喉を通るとでも思っているのかね、わしは“飲み食いの仏”ではない“早耳の神”だ、帰ってこの事情を中央に報告する。宴席はもうできているのだから、みんなで食べればいい、わしはもうあんたたちにいいお客を招いてある」そう言いいながら、指さすと秘書と護衛が8、9人の老人を助けながら入って来た、人々が見ると付近に住む公社の保護を受けている男女の老人だった。
陳毅元師は「私はまだ答礼の詩を書いていない、それでは出鱈目な句を書いてみなさんに贈ろう」と陳毅元師はテ−ブルの上の赤い絹の布に大きな筆で書いた。
今日話郷情 今日の故郷の実情
情真意更誠 真相に誠実に対し
好大喜功事 成果を大いに喜び
万代留罵名 末代に悪名を残す
書きおわると筆を置き大声で老人たちに「どうぞお座りください」と言い、外に向かって「小李、車を回せ」と声をあげ陳毅元師の一行は自動車で走り去った。 陳毅元師が宴席で詩を書いた伝説は、いまも人民の口に喜ばれ伝えられている。
当代流伝故事選 1993・9・7