<八丈島紀行>2001年
1月12日(金)
○プロローグ
そもそもことのきっかけは、東京3ヶ月勤務が決まって出発準備中、「休日の過ごし方計画」に八丈行きを入れていたことである。さらに、滞在先の横浜で、近辺の散策をしていたとき何の気なしに入った古本屋で、偶然目に留まり買ってしまったのが、そのまんま「流人の島」であった。いや応無しに気分は高まり、さっそく八丈太鼓愛好会にコンタクトをとる。とるやいなや、今は八丈島行きのフェリーの中にいる。行きしな電話で「明ちゃん、今からちょっと八丈にいってくるけん。」
以前両親に「ちょっとアメリカ行ってくるけん」と言ってたまげられ、「あんたちょっと買い物に行ってくるみたいに言うて・・・」と怒られたが、さすが我が妻は慣れたのかあきらめか、「そうなん。気をつけてねー。」あっさり言われ「・・・うん。」とだけ返事。
しかしこの船は相変わらずよくゆれる。すーっとうきあがって、どどんっとおちて、ぐぐーっと斜めになって、これはもう自動寝返り機。

1月13日(土)
○到着〜島内放浪
9時半過ぎに底土(そこど)港着。船から下りても体はゆれる。ゆれながら、海岸沿いに神湊(かんみなと)港に向かって歩く。風は強いが、春一番ぐらいの感覚だ。波打ち際は、真っ黒でごつごつした溶岩が複雑にいりくみ、少し異様な雰囲気。フェリーで島に近づいている時にも感じたが、これに白い波しぶきが高々と上がっている景色は、まさに鬼島と見えよう。
────沖で見たときゃ鬼島と見たが・・・・・─────  
途中に「抜け舟の場。」神湊港の東のはずれにあり、ここからよく舟を盗んで、流人は脱出を図ったのだそうだ。だが1件を除くそのことごとくが失敗し、無念の死を遂げる。
神湊とは、昔難風の時、山上に女神が現れ、舟をここに導いたという伝説に由来する。
事実西南風を遮る位置にあり、江戸へ向かうには最短の地でもあったわけだ。
────八丈神湊にゃふた瀬がござる 思い切る瀬に切らぬ瀬に────
神湊から三根の市街地の方へ向かう。「倉の坂」でたちどまり、振り返ってみると、今は道が舗装されているが、それでもまっすぐに海にくだっており、神湊港に続いている。その向こうに見える大海原の、さらなる向こう。江戸の都を想像せずにはいられない。ここに立っていとしい人を乗せた船がだんだん小さくなるのを見送る女の気持ちは、どれほどのものだったろうか。
────三根倉の坂坂真ん中で 出船見送り 袖絞る────
三根から大賀郷、つまり島の真ん中を横断していく。途中、宇喜多秀家と、近藤富蔵の墓参り。男性諸君が、八丈を打つ時、是非とも覚えていて欲しい名前。流人第1号と、流人の身で島のありとあらゆる文化や風習を記録した、八丈民俗史の最大功労者である。
資料館もゆっくり見てから、さらに樫立へ抜ける大阪峠越えに。島の南北(島の人は坂上・坂下という)を分断する、交通難所。とはいっても、今はトンネルができてるけど。
この峠の途中から見える八丈富士・八丈小島の景色は絶景で、八丈八景のひとつ。新婚旅行では、弁当買って、ここで食べたなあとか考えながら歩く。道端は、どうだと言わんばかりに、見事なあじさいが群生している。おカエばあさんのバチがあじさいだというのが納得できる。
樫立の服部屋敷まできて、名物あしたば茶を飲んで休憩。港からここまで約4時間、約15kmといったところか。少し疲れてきたところに、雨が降り出す。どうせなら中之郷、末吉と、はずれまで行きたいので、バスに乗ることに。ただ、1時間あまりに1本しかないので、ここで待つしかない。
ここは、普段観光ルートで、団体客がくればステージで有名な「樫立踊り」と、「八丈太鼓」のショーがあるらしい。が、今はさびれて、ステージの隅でほこりをかぶっている太鼓を発見。見渡しても私以外に観光客もいないので、店の人に、「すみません、バス待つ間太鼓叩いてもいいですか。」どうぞどうぞの返事に、嬉々としてバチをもつ。
そこへ店主がやってきて(暇なのね)「お相手しましょう。」ということで、第1回八丈即興大会の始まり。向かいで打ちながら「この人、何者?」みたいな顔で、こっちをみている店主の顔がおかしかった。店主は、普段太鼓は打たないが、いつもショーをやっていたのを聞いて、自然に打てるのだという。さすが地元民。樫立では、ドンドラのことをドンドコとよび、さらに私の知らないトンコトンコという太鼓も披露してくれた。感じとしては、九州小倉の、祇園太鼓に似ている。正式名称も「祇園囃子」というそうなので、何か関係があるのかもしれない。実際にこの八丈島は、黒潮海流の通り道にあり、九州地方や遠くはフィリピン沖からも、海流に乗って様々なものが届くそうだ。漁師舟も、東南アジアのカヌーのタイプのものがある。
すっかりうちとけて八丈談議にひと華咲かすが、あっという間にバスの時間。。最近できた八丈のCDをお土産に買って、いざバスに。いや、乗って良かったと心底思ったのは、ここから先の道ったら、もう・・・平家谷をご存知なら、まさにあんな感じ。歩くと、寂しかったろうなあ。
末吉で温泉に。この坂上(島の南半分)のほうは、温泉がいっぱいあっていいのだが、温泉しかないというのが難点である。ちなみに湯は海水で、上がると肌がはりはりして、気持ちが良い。
とか何とかでまたバスが来るまでの間のんびりしてから、練習場のある三根までの帰りはバスで一気に1時間。  
○八丈太鼓愛好会、練習に参加!!
 いよいよ練習に参加。HP上ではお馴染みのけいさんが手配してくれた「樹海荘」という民宿まで迎えにきてくれる。ちなみにこの樹海荘、港のすぐ近くなのに、名前の通りのたたずまい。
 けいさん、想像どおりの感じのいい人で、親切に案内してくれる。愛好会の中では若手の方らしい(高校生達を除いては。実際は47歳だそうだ。)。出身は山形らしいのだが、中でも屈指の打ち手(に見えた。)
 ここでの練習方法は、八丈台の上に置いた太鼓(当たり前だ)が3〜4台。そのうち1台が井上洋子先生専用みたいな感じで、他の人が交代で表拍子を打つ。そのほとんどの下拍子を洋子先生が相手し、個別にいろいろ指導していく。一曲分につきだいたい5分前後で、次々と交代で入れ替わり、他のものはそれを椅子に座って見学しながら順番を待つか、他の教室(練習場所は中学校の校舎内なのだ)に置いてある残りの太鼓で思い思いに練習するか。
 ある程度までレベルが到達しないと、下拍子はできないようである。この日の練習では、洋子先生の他は、けいさんともう一人村井さんという左利きの女性が少し挑戦したのみだった。(実はこの村井さんとけいさん、すごい仲良しで、一緒に住んでいるようだ。)
 練習内容について、気のついた点を列記する。

・繰り返し繰り返し反復してそれぞれが自分の太鼓を作っていっている。
・複雑なリズムはほとんどないのに、それぞれがオリジナルで、似かよっていない。
(アクセント・強弱・微妙な間などが、同じリズムを打っても十人十色。)
(さらに腕の上げ具合や軌道・タイミングなど、同じ人がいない程。)
・ゆっくりの時、音や所作をかみしめる様に味わっている様なイメージ。
・終わり方も、人それぞれ。
・手首をあまり使わない。その分不器用そうに見えるが、動きは大きい。
・下拍子も手首は使わず、肘が支点になっているようだ。
・千絵子さんを彷彿とさせる(ある意味逆だが)膝の使い方・左手の返し。
・大きな間(ま)をつくり、肩口から両手を大きく広げ、美しい瞬間が。
・ふわーっと振り上げ、急にうち下ろす感じ。
・突然左手が2・3回続けて使うような不自然さが自然でよい。
・左手も肘が上がろうが手首が返ろうがノープロブレム。       
・テンポアップの合図は、枠打ち。なめるようにしつこく感触を確かめながら。
・とにかく、一通り打ったら、みんなでほめる。
・ほめてほめて、「後ここを直したら、もっと素敵になるわ。」
・あまりクレッシェンドという技法は使わない。(これで終わるぞ、という時だけ)
・おもむろに始めて、気分が乗ってくるまでのんびり打つという感じ。
・交代するやりかた。表は斜め後ろから(ウン)カッカッカッカカカカカカカカ
 裏は膝をついて真下から。

 女性も大分力強い人が増えた。と言っても前はどうかと問われたらよくわからないけど。イメージとして、おカエばあさんを筆頭に年寄りの女性があること、直接八丈太鼓を習った太田先生がその流れをそのまま受け継いでいることから、この太鼓はもっとおとなしやかなものという思いがあったのだが、時代の流れか、洋子先生の影響か。ただ歴史上八丈の女性は情熱的で美人で、なおかつ献身的でありながら、重たい水桶を担ぎ、黄八丈を織り、家庭を支えるたくましくも力強いという事実もあるのだから、当然というか、自然な姿なんだなと感じた。
 ちなみに、いかにも純情可憐な島娘、というタイプの太鼓を打つ高校生もいて、彼女は今風に「癒し系太鼓」と呼ばれていた。
 ○練習終了。
 このまま帰るのも何だから、と飲み物を買ってイノウエオフィスへ。けいさん、村井さんとしばし団らん。八丈太鼓がどんどんメジャーになり、その影響を受けて地元でも段々様変わりしていく様子を、彼らは彼らなりに受け止め、そうしたなかでしっかりと自分たちの足元を確かめながら、この八丈島に生き、太鼓を打っている。少なくとも、この島のデジタル部長ともいえるけいさんが、一番外部情報も入手しやすい立場にありながら、情報にスポイルされることもなく、自然体でいることに深い感慨を覚えた。(良きパートナーのおかげかもしれない。)
 時とともに芸能が変わりゆくのは、至極当然のことであるが、そこに作為が加わると不自然な変化が生まれる。どうか今のまま、八丈太鼓愛好会の皆様方の、生活の中に溶け込んだ形の活動を、続けていってほしい。

 1月14日(日)
○じゃあ、9時集合ね!!
 船は10時20分発である。なのに9時とは、早過ぎないか。というのも、これは私が言った言葉ではない。井上洋子先生。
「じゃあさ、(何がじゃあなのかは分からない)明日港で稽古しよう。船を見送りながらさあ。あんまり早くても行けないから、9時集合ね。」
 前日の練習の最後の言葉である。こういう太鼓は雰囲気だから、少しでも一緒に叩くのが大事なんだよ、とおっしゃっていたのを思いだした。それにしてもちょっと申し訳ない気がして、けいさんに
「寒いし、見送りなんて恐縮なんですが・・・」
というと、
「いいんです、あの人はああいう人で、実は自分が打たいだけなんですよ。」
 かくして9時に港に向かう。天気はなんと・・・猛吹雪!あずまやのような建物のなかに、コートやマフラーで着ぶくれた洋子先生を筆頭に、愛好会員総勢4名がスタンバイしている。
 「寒いからすぐ始めるわよ!!はやくはやく。」
 切符を買うのもそこそこに私も駆けつける。もうすでに下拍子は始まっている。凍える手にバチを持ち、おもむろに打ち始める。ひとつの太鼓を表裏交代で4人で回す。疲れるわりにはなかなか暖まらない。容赦なく横殴りの雪風が吹きつける。
 これは一種の修行と呼べるのではないか。最初は「さむいねえー!」とか言ってピョンピョンしてたのが、段々無口になり、動きが鈍くなる。もう限界か、と思われたその時、
雪はピタッと止み、晴れ間がのぞきはじめた。やれやれと思いながら続ける。八丈太鼓をしたことがあるものなら、あの態勢で1時間打ちつづけるとどうなるか、想像もできるであろうが、かなりきつい。これ程八丈だけを打ち込む練習は、初めてかも知れない。
 やがて乗船時間となり、それにともない船の真横へ太鼓も移動。私は船に乗り込んで、甲板で下を見おろすが、残りのメンバーはさらに勢いをまして打ち込みだす。
 あずまや下では主に本囃子(ホンバタキ)・ゆうきち(ドンドラ)だったのだが、船横へ来てからはシャバタキ!!何てこの人たちはタフなんだろう(けっこういい年なのに)と感心する。けれどもなんといっても、今この瞬間、この八丈の人たちは私だけの為に、太鼓を打っている(稽古という理由もあるが)と思うと、鳥肌が立つほどである。
○エピローグ
 やがて出航。出航の合図も、ジャーンジャーンと、ケンガリみたいな音。しばらくの間甲板にて空想にふける。別れを惜しむ八丈娘。島に女と子供を残して、赦免され去りゆく船に乗る流人。太鼓の音が波間に消されるまでそこで浸っていようと思ったら、すぐに船員さんがやってきて、「中に入ってください。」と言う。「ここにいちゃだめなんですか?」と聞くと、「危ないです。今日は揺れるから、船底にへばりついていたほうがいいですよ。」という答え。船員さんさえ、揺れる、と表現するその程度とは?
 言われるがままに、船底にへばりつく。いや、つこうとするのだが、つかせてくれない。太平洋の荒波は、あざ笑うかのように私をズルズルと移動させ、引き剥がしては船底に叩きつける(大げさに聞こえるが、事実私の体は2・3度ではあるが、宙に舞ったのだ。)あちこちでものが転がり飛び交っている。生まれて2度目の船酔い。「こんな海、抜け舟しようとする流人、アホちゃうかな・・・」と、もうろうとした意識の中に思う・・・ 
以上

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