山川出版詳説世界史 

第16章 

二つの世界大戦 

ドイツ

英露協商

三国協商

バルカン同盟

第2次バルカン戦争

第一次世界大戦

二月革命

十月革命

ヴェルサイユ体制

パリ講和会議

国際連盟

ドイツ共和国

ソ連邦

アジアの情勢

トルコ革命とイスラム諸国の動向 

1−第一次世界大戦とロシア革命

国際対立の激化

ヨーロッパ列強の対立は,
ドイツ
世界政策をかかげて
世界分割に登場するにおよんで,
いよいよ深刻になった。

1890年に
ビスマルクが引退して
ヴィルヘルム(ウィリアム)2世の
親政がはじまると,
皇帝は
ロシアとのあいだにむすばれていた
二重保障(再保障・再保険)条約の
更新を拒否した。

そこで
ロシアは
フランスと条約
(1891年〜94年結成,露仏同盟)をむすんで,ドイツ・
オ−ストリアに対抗しようとした。

また
ドイツは
近東に注目し,
ベルリン・
ビザンティウム(イスタンブル)・
バグダードをむすぶいわゆる
3B政策をとり,
バグダード鉄道の建設をすすめて
イギリスの
3C政策に対抗するとともに,
めざましい
資本主義経済の発展にもとづいて
海軍力を強化し,
イギリスの
世界政策をおびやかすようになった。

イギリスは
どの国とも同盟をむすばず,
長く[光栄ある孤立]を誇っていたが,
ロシアの南下を恐れて
1902年
日本と日英同盟

Anglo-Japanese Alliance

をむすび,
また
ドイツに対抗するため,
1904年
フランスとのあいだに
英仏協商を成立させた。

また
ロシアは
東アジアでの南進策を
日本にくじかれたため,
バルカン南下に勢力を集中し,
ドイツ・
オ−ストリアと対抗するようになったので,
イギリスと和解し,
1907年
英露協商

Anglo-Russian treaty

が成立した。

これは
イランにおける
両国の勢力範囲を定め,
アフガニスタンを
イギリスの勢力範囲とし,
チベットにおける
中国の主権を認めたものである。

このような
イギリス・
フランス・ロシアの友好関係を
三国協商という。

イタリアは
三国同盟の一員であったが,
バルカンで
[未回収のイタリア]をめぐって
オ−ストリアと対立したため
フランスに接近した。

オ−ストリアは領内に多くの
スラブ民族をふくんでいたので,
その
バン・スラヴ主義による
反抗をおさえるため
バルカンに勢力を伸ばそうとし,
ドイツもこれを助けるようになった。
こうして
バルカン半島においては,
ロシアに支援される
バン・スラヴ主義と,
ドイツ・オ−ストリアの
勢力伸張をはかる
バン・ゲルマン主義とが
対立することとなった。

1908年
オスマン・トルコに革命がおこり
憲法が復活したが,
これに乗じて
ブルガリアは
トルコから独立を宣言し,
オ−ストリア・ハンガリーは
ボスニア・
ヘルツェゴヴィナの併合を宣言した。

この2州の住民は
スラヴ系で,
セルビアが
バン・スラヴ主義のもとに
おさめようとしていた地方であったから,
バン・スラヴ主義と
バン・ゲルマン主義との
抗争はさらに深まった。

1912年,
ロシアの支持のもとに
セルビア・
モンテネグロ・
ブルガリア・
ギリシア4国間に
バルカン同盟がむすばれ,
バルカン半島にのこされていた
トルコの領土をうばおうとして,
イタリアと戦っていた
トルコに宣戦した(第1次バルカン戦争),

トルコは
イタリアと和して
4国と戦ったが,
2ヵ月で敗れた。

ところが
トルコの放棄した
領土の分割に関して,
ブルガリアと
他の3国とのあいだに
争いがおこり,
トルコ・ルーマニアも
3国側に参戦して
第2次バルカン戦争がおこった。

ブルガリアは大敗し,
その分け前が縮小したので
三国同盟へ接近した。

この2回の
バルカン戦争の結果,
ヨーロッパにおける
トルコの領土は
小部分をのこして失われた。

そして
セルビアは
ロシアの力をたのんでさらに
勢力を伸ばそうとし,
セルビアと
オ−ストリアとの関係はまさに
一触即発の状態となった。

第一次世界大戦

1914年6月28日,
オ−ストリアの皇太子夫妻が
ボスニア州の
サライェヴォで,
セルビア人の一青年に暗殺された。

この事件をきっかけに
オ−ストリアは
7月28日
セルビアに対して宣戦し,
ここに
ドイツ・オ−ストリアの同盟国は,
フランス・ロシア・イギリス・日本など
(これを連合国という)と戦うことになった。

その後,
トルコ・ブルガリアが
同盟国側に参戦したが,
イタリア
中立をまもったのち,
連合国と秘密条約をむすんで
三国同盟を離脱し,
1915年
連合国側に参戦した。

戦況は,
まず
西部戦線
ベルギーの中立をおかして
北フランスに侵入した
ドイツ軍が
パリをおびやかしたが,
マルヌの会戦で進撃を阻止され,
戦線は膠着状態になった。

この状態を破ろうとした
1916年の
ドイツ軍の
ヴェルダン要塞の攻撃,
同年の連合軍の
ソンム反撃はともに失敗におわった。

東部戦線では,
ドイツは領内に侵入した
ロシア軍を
タンネンベルクの戦いで破り,
以後
ロシア領内に進撃した。

また
海軍では
ドイツは
英仏の劣り,
制海権を失って
植民地との連絡を断たれ,
軍需品や
食料調達に困りはて,
もっぱら
潜水艦によって
敵を悩ます策にでた。

アメリカは
中立をまもっていたが,
ドイツが
1917年2月
無制限潜水艦戦をはじめると,
同年4月
ドイツに宣戦した。

一方,
ドイツ国内では
内部対立が激しく,
4月には
社会民主党が分裂して
左派が独立し,
平和宣伝や
ストライキをおこなった。

以後,
日常生活の悪化とともに,
国民の反戦気分が濃くなった。

ドイツは
1918年
ロシアの革命政府と
単独講和をむすんだのを機に,
戦勢をもりかえそうとし,
同年春から
西部戦線で大攻撃をおこなったが,
失敗して退却に転じた。

この年の秋,
トルコ・ブルガリアは降伏し,
オ−ストリアは
単独で休戦条約をむすんだ。ドイツは国政改革によって
本格的な議会政治をしき,
帝政を維持しようとしたが,
国民の動揺はしずまらず,
11月
キール軍港の水兵が
暴動をおこしたのを機に,
革命がひろがった。

皇帝は逃亡し,
帝国内の連邦各君主も退位して
共和国が成立した。

同年11月11日,
共和国政府は
連合国と休戦して
大戦はようやくおわった。
ロシア革命

第一次世界大戦がはじまると,
ロシアの専制政治は
たちまちその弱点をあらわし,
しばしば
ドイツ軍に敗れたので,
士気はおとろえ軍規は乱れた。

そのうえ
国内では物資が不足して
国民の生活が苦しくなり,
労働者のあいだには
不穏な空気がみなぎった。

1917年3月8日,
ペトログラード
(旧ペテルブルク,
現在のレニングラード)で
大規模なストライキ・暴動がおこると,
それが各地にひろがって
軍隊にも反乱がおき,
労働者・兵士のあいだに
ソヴィエトが組織され
革命の推進力となった。

皇帝ニコライ2世は
前線から帰還する途中で
捕えられて退位し,
ロシアの帝政は
一挙に倒れた。

これを
三月革命
(ロシア暦では二月革命)という。

ソヴィエトでは
社会革命党と
メンシェヴィキが多数を占め,
かれらは
自由主義者と協力して,
立憲民主党を主とする
臨時政府を成立させた。

臨時政府は
普通選挙による議会を
召集することを定め,
戦争を継続した。

しかし,
4月
レーニン
亡命地から帰国すると,
ソヴィエト内における
ボリシェヴィキの勢力は増大し,
反政府運動がおこったが,
鎮圧された。

一方,
政府側では
立憲民主党の首相が辞任し,
社会革命党の
ケレンスキーがこれにかわった。

ケレンスキーは
ボリシェヴィキをおさえようとしたが,
帝政派の反革命軍が
ペトログラードに進撃したので,
ボリシェヴィキに援助をもとめて
反革命を平定した。

その後,
ボリシェヴィキの勢力は
全国にひろまり,
11月7日
レーニン・トロッキーの指導のもとに 
武装蜂起して
政府を倒し,
ケレンスキーは
国外に亡命した。

これを
十一月革命(十月革命)という。
ソビエト政権の成立と干渉戦争

革命直後,
議会の選挙がおこなわれたが,
その結果,
社会革命党が第一党となった。

1918年1月
議会がひらかれると,
社会革命党は
議会に基礎をおく政権をつくろうとしたが,
レーニンは
武力で議会を閉鎖し,
やがて
ボリシェヴィキの
一党独裁政治を樹立した。

ボリシェヴィキ政府は,
ただちに
ドイツとの単独講和の交渉をひらき,
トロッキーが外務人民委員として
交渉をすすめ,
同18年3月,
ブレスト・リトフスクにおいて
不利な条件で
講和条約をむすんだ。

その後,
ボリシェヴィキは
共産党と改称し,
首都を
モスクワに移した。

また
全ロシア・ソヴィエト会議は
憲法を採択し,
全国に
ソヴィエトを設け,
18才以上の
労働者・農民・兵士に
選挙権をあたえ,
男女同権を認めた。

しかし
西ヨーロッパの
議会制度とは異なり,
共産党以外の政党は
禁止された。

ソヴィエト制度は
しだいにひろがり,
1922年12月には
ロシア・ウクライナ・白ロシア・
ザカフカースの
四つのソヴィエト共和国が連合して
ソビエト(ソヴィエト)社会主義共和国連邦が
成立し,
24年1月
新憲法が公布された。

ボリシェヴィキの政権が
成立しても,
国内には
旧軍人や社会革命党などの指導する
反革命軍が横行して,
各地に政権を樹立した。

諸外国は
これらの反革命政権を
たすけたばかりでなく,
軍隊をおくって
ロシア領土の各地を占領した。

日本やアメリカの
シベリア出兵がおこなわれたのも
このときである。

ソビエト政権は
これらに対抗するため    
赤軍を組織し,
また
チェカ(非常委員会)を設けて
反革命容疑者を逮捕した。

そして
外国の干渉はかえって
国民の愛国心をよび,
その支持のもとに
ソビエト政権は,
約3年のあいだに
反革命軍の鎮圧に成功し,
外国の占領軍はしだいに撤退した。

他方,
ソビエト政権は,
戦後
第2インターナショナル復活の動きに
対抗し,
世界革命を達成する目的で
1919年3月,
モスクワに
コミンテルン(第3インターナショナル)を
設けた。

その指導によって
ハンガリーなどに
革命がおこったが,     
これらはいずれも失敗した。

コミンテルンはまた
ポーランド・トルコ・中国などの
民族運動を援助した。

これらの民族運動は
はじめ
共産主義とむすんでいたが,
中国の場合をのぞいて,
のちには
資本主義勢力の援助を受けて
これと絶縁し,
ソビエト政権の
世界革命の企図は失敗におわった。

戦時共産主義と新経済政策

革命後
ソビエト政権は
共産主義の理論を実行しようとして
土地を無償で没収し,
これを
国有地として農民に開放し,
また
工業を国営化して労働者による 
工場の管理をおこない,
銀行・外国貿易などを国営化した。

さらに
外国の干渉と
内乱に対抗するため,
農民から穀物を
強制的に徴発し,
国家による
食料の配給をおこなった。

このような政策を
戦時共産主義とよぶ。

これは
ソビエト政権の防衛に
役立ったが,
農民は徴発を喜ばず,
穀物生産はへり,
労働者は
工場の管理能力を欠いたので,
国民経済は荒廃し,
飢饉もしばしばおこって
多数の餓死者をだした。

そこで
1921年
レーニンは
新経済政策(ネップ)を採用し,
ゆきすぎた国有化や
食料の強制徴発をやめ,
中小企業の私的営業を許し,
農民にも
余剰穀物販売の自由を認めた。

この新経済政策は,
銀行・大工業・貿易などの
国営の原則はかえなかったが,
一定限度内で
資本主義的な
営業の復活を認めたので,
これによって
国民経済は回復にむかい,
生産はまもなく
戦前の水準に達した。

このような
資本主義政策への接近により
対外関係も好転し,
まず
1922年
ドイツと国交がひらかれ(ラパロ条約),
つづいて
イギリス・イタリア・フランス・日本などが
ソ連邦を正式に承認した。

2−ヴェルサイユ体制下の欧米

ヴェルサイユ体制の成立

1919年1月
パリ講和会議がひらかれ,
6月
ヴェルサイユ宮殿で
ドイツと連合国とのあいだに
調印式がおこなわれ,
ベルサイユ条約が成立した。

これによって
ドイツは
いっさいの植民地を失ったほか,
アルザス・ロレ−ヌや
ポーランド・デンマークとの
国境地帯を割譲し,
軍備は制限され,
ラインラントの武装は禁じられ,
ライン川左岸は
旧連合国によって
保障占領された。

また
多額の賠償金
(1921年に1320億金マルク)を
課せられた。

講和会議の基礎となったものは,
アメリカ合衆国大統領
ウィルソンが,
戦時中(1918年)に発表した
十四ヵ条で,
秘密外交の廃止,
海洋の自由,
軍備縮小,
ヨーロッパ諸国民の民族自決,
植民地問題の公正な解決,
国際平和機構の設立などの
原則を定めたものである。

しかし,
講和会議では
フランスのクレマンソーや
イギリスのロイド・ジョージの態度が
ドイツに対して報復的であったので,
この原則の精神はかなりゆがめられた。

オ−ストリア・ハンガリー・ブルガリア・
トルコとの講和条約は
それぞれ別個にむすばれ,
その結果,
旧オ−ストリア・ハンガリ−帝国は
解体して,
オ−ストリアは
ドイツ人だけの小共和国となった。

また
敗北したオ−ストリアと
旧ロシア領内から,
ハンガリー・チェコスロバキア・
ユーゴスラビア・ポーランド・
フィンランド・エストニア・
ラトヴィア・リトアニアが成立した。

トルコ領内の異民族も
トルコからはなれ,
アラビアは独立し,
シリアはフランスの,
イラク・トランスヨルダン・
パレスティナは
イギリスの委任統治のもとに, 
将来の独立にむかって
すすむことになった。

十四ヵ条の原則にしたがって設けられた
国際連盟は,
世界恒久平和を目的とする
史上はじめての大規模な国際機構で,
スイスのジュネーブに本部がおかれ,
総会・理事会・連盟事務局を中心とし,
ほかに
国際労働機関と
国際司法裁判所が設けられた。

しかし
国際連盟は,
提唱国のアメリカ
上院の反対で参加できず
ドイツ・ソ連邦などを除外したため
力が弱かった。

そのうえ
侵略者を制裁するための
軍事力をもたないので,
大国の関係する紛争は
解決できなかったが,
小紛争の解決や
文化・労働などの問題には
多少の功績をのこした。


国際協調主義の発展

ヴェルサイユ体制は
民族の自決と
国際協調を原則としたが,
そこにはなお不合理な点も多く,
はじめは小規模な
国際紛争が続発した。

トルコは,
ケマル・パシャのもとに
ギリシアと戦い,
大戦によってうばわれた
領土の一部を回復してさきの
講和条約(セーヴル条約)を改め,
ローザンヌ条約をむすんだ。

また
ポーランド
ソ連邦と戦って
白ロシアと
ウクライナの一部を得,
イタリアは
ユーゴスラビアと紛争をおこして
フィウメを獲得した。

ドイツは賠償に苦しみ,
ついに
その支払いを停止したため,
1923年
フランスは
ベルギーとともに
ルール地方を保障占領した。

しかし
戦後の混乱がおさまると,
各国間には
国際協調の動きが高まり,
1925年
ロカルノ条約で
ラインラントの現状維持,
平和の相互保障が約束され,
その結果,
翌26年
ドイツは国際連盟に加入した。

1921年〜22年には
アメリカ合衆国の提唱で
ワシントン会議がひらかれ,
海軍軍備制限条約によって
米・英・日・仏・伊の
主力艦保有量が
5・5・3・1.67・1.67の
比率に定められた。

この会議では
東アジア問題も討議され,
中国の主導権尊重・
領土保全を約束した
九ヵ国条約がむすばれた。

なお,
日本の山東省に関する利権は
両国間の交渉により,
中国に返還された。

また
太平洋諸島の現状維持を定めた
日・米・英・仏間の
四ヵ国条約がむすばれた結果,
日英同盟は廃棄された。

その後
補助艦の制限に関する
会議もおこなわれたが,
1927年の
ジュネーブ会議の失敗後,
30年の
ロンドン会議で,
米・英・日の比率は
10・10・7に定められた。

なお
1928年には
フランス外相ブリアンと,
アメリカ国務長官ケロッグの提唱により,
15ヵ国間(のち63ヵ国間)に
国際紛争解決のための手段として
戦争に訴えないことを約束した。
不戦条約がむすばれた。

アメリカ合衆国の繁栄

第一次世界大戦中,
アメリカは
連合国に物資を供給して
莫大な利益をおさめ,
従来の債務国から
債権国にかわった。

その経済は
豊富な資源によって
ますます発展し,
世界の金融市場を
支配するようになった。

アメリカは
伝統的な孤立主義にもとづき,
国際連盟には
参加しなかったが,
しばしば
軍縮会議などの
重要な国際会議をよびかけて,
国際政治のうえで,
指導的地位を占めた。

また,
ドイツの経済復興や
中国の民族運動などを援助した。

国内では1920年,
婦人参政権が実現して,
民主主義はますます発展した。

この間,
1921年
民主党の
ウィルソンの任期がおわったのち,
ハーディング・
クーリッジ・
フーヴァーの3代12年にわたり,
共和党から大統領をだし,
29年
大恐慌がおこるまでは
世界無比の経済的繁栄を誇っていた。

イギリスの変化

イギリスでは
1918年
ロイド・ジョージの
挙国一致内閣のもとで
第4回選挙法改正がおこなわれ,
成年男子と
30歳以上の婦人による
普通選挙が施行された。

つづいて
28年の
第5回選挙法改正で,
すべての成年男女に
選挙権があたえられた。

大戦による不況と
自由党が
内部分裂でおとろえたことにより,
保守党についで
労働党が
第二党となった。

24年
労働党が
自由党と連立してはじめて
政権をにぎり,
マクドナルド内閣が成立した。

この内閣は
1年たらずで
保守党内閣とかわったが,
29年の
総選挙の結果,
労働党ははじめて
第一党となり,
第2次マクドナルド内閣が
成立した。

フランスの内情

大戦の戦場となり,
最大の損害を受けた
フランスでは,
ドイツに対する
国民の警戒心が強く,
ドイツの復興を極度に恐れた。

そこで
フランスは
パリ講和会議では
ドイツへの制裁を主張し,
ベルサイユ条約で
ドイツに対する
重い賠償金をつらぬいた。

その後も
対独強硬政策をとり,
ルール出兵などをおこなった。

また
フランス国民は,
ソ連邦政府が
帝政時代の債務を破棄したので,
ソ連邦への反感を強め,
大戦後は
保守的な右派の諸政党が
政権をにぎっていた。

しかし
ルール出兵が失敗したため,
1924年
右派勢力は
国民の支持を失って
左派連合内閣がこれにかわり,
外相に
ブリアンがでて
ドイツとの協調をはかって
ロカルノ条約をむすび,
不戦条約を提唱して
世界の平和に貢献した。

ドイツ共和国

ドイツでは,
帝政が倒れて
共和国が成立したのち,
1919年1月に
カール・リーブクネヒトと
ローザ・ルクセンブルクを指導者とする
ドイツ共産党が,
ロシア革命にならった
共産主義革命をおこそうとしたが,
政権をにぎっていた
社会民主党政府はこれを鎮圧した。

そして
同年,
ワイマールで
民主的な新憲法
ワイマール憲法)が制定され,
エ−ベルトが
初代大統領となり,
共和国の基礎が定まった。

しかしその後
ドイツは
巨額の賠償金の支払いに苦しんで
経済は安定しなかった。

ことに
1923年,
フランス・ベルギーの
ルール地方占領に対して
ストライキで対抗したため,
生産は低下し,
激しい
インフレーションとなった。

同年
シュトレーゼマンが
首相となり,
新紙幣(レンテンマルク)を発行して
インフレーションをおさめ,
やがて
賠償金支払いに関する
アメリカの援助で経済は復興した。

その後
シュトレーゼマンは外相として
国際協調につとめ,
26年
国際連盟にも加入を許されて,
国際的地位は向上した。

エ−ベルトの死後,
1925年
ヒンデンブルクが
第2代大統領に選ばれた。

しかし
経済の基礎が
まだかたまらないうちに,
29年
世界経済恐慌がおこり,
ドイツは
もっとも深刻な打撃を受け,
国民生活は混乱して
ナチスの台頭をまねいた。

ソ連邦

ソ連邦では
1924年
レーニンが死ぬと
指導者のあいだに争いがあったが,      
ソ連邦一国だけで
社会主義建設ができると主張する
スターリンの勢力がしだいに強まり,
かれは
[世界革命]の必要を説く政敵
トロッキーを追放して
支配権をにぎった。

ソ連邦政府は
スターリンの指導のもとで,
1928年
新経済政策を改めて
第1次5か年計画に着手し,
重工業に重点をおいて
国民経済の工業化に
努力するとともに,
農業の機械化と
集団農場(コルホーズ)・
国営農場(ソフホーズ)の
建設に力をつくし,
当時
資本主義諸国との
交流が少なかったため,
世界恐慌の影響もほとんど受けず,
社会主義体制の
基礎をつくりあげた。

しかし
社会主義建設にあたり
国民の犠牲も大きかったので,
33年にはじまった
第2次5か年計画では
軽工業にも力を入れて
国民生活の向上をはかり,
その結果,
農業の集団化はほとんど完成し,
国民教育も普及した。

36年にいわゆる
スターリン憲法が発布されて,
満18歳以上のすべての男女の
秘密投票による
ソヴィエトの地域別直接選挙が確立し,
民族の平等や
信仰の自由が実現したが,
候補者推薦制と
共産党の一党独裁制はかわらなかった。

一方,
スターリンは
粛正工作によって
反対者をつぎつぎに処刑して
独裁権力を強化し,
1938年からの
第3次五カ年計画では
ウラル・シベリアの
重工業建設や
軍需工業の育成を企てた。 

また
国力の発展にともなって
ソ連邦は,
日本とドイツが国際連盟脱退を通告した33年,
アメリカに承認され,
翌34年には
国際連盟に加入し,
国際政治のうえでも
重要な役割をになうようになった。

3−アジアの情勢

日本の動向

第1次世界大戦中の
ヨーロッパ諸国には,
アジアをかえりみる
余裕はなかった。

日本は
これに乗じて対独宣戦ののち,
まず
中国における
ドイツの租借地
膠州湾(青島)と
太平洋上の
ドイツ領南洋諸島を占領した。

また
連合国などに物資を供給して
国内産業の発展をはかり,
大陸進出も積極的にすすめた。

1915年(大正4)年1月,
中国に対して,
山東における
ドイツ権益の継承などをふくむ
二十一ヵ条の要求をつきつけたり,
大戦末期に
チェコ兵救出を名目として,
米・英・仏などとともに
シベリアに出兵したのは,
そのあらわれである。

二十一ヵ条要求に対して
中国の袁世凱政府は,
自国の主権を
無視するものとして  
はじめは拒否したが,
5月に
日本は最後通告を発し,
要求の大部分を承認させた。

しかしこのため,
中国人の
対日感情は急速に悪化した。

また
シベリア出兵では,
列国の撤兵後も
革命勢力の
波及阻止などを口実に
1922年(大正11)年まで
兵をとどめ,
内外の批判をあびた。

大戦により
日本経済は好景気となり,
戦後の講和会議では
赤道以北の
旧ドイツ領南洋諸島を
委任統治地として獲得した。

また
国際連盟の
常任理事国ともなり,
国際的地位が向上した。

しかし,
東アジアでの
日本の勢力伸張は
列国の警戒心を強めるようになった。

一方,
日本国内では,
政治意識が急速にすすみ,
民主主義運動や
労働運動が発展し,
社会主義思想も発達した。

1918(大正7)年の
米騒動
政党内閣の誕生や,
28(昭和3)年の
男子普通選挙の実施は,
こうした情勢のなかから
うまれたものである。

しかも
資本主義経済は
急速に成長し,
独占的財閥が発展して,
政党とむすびつく傾向が強まった。

文学革命と五・四運動,

モンゴルの独立

袁世凱の死後の
北京では
軍閥政権が交替をつづけたが ,
大戦末期には,
南方の広州でも
孫文を中心に
広東政府が組織された。

また
大戦による
列強資本主義勢力の
後退を機会に
民族資本も成長し,
紡績などの大工場が建てられ。
中国人の出資経営する
銀行もあらわれた。

労働者は増加し,
学生などの
青年知識人もふえ,
文学界や
思想界では,
新文化建設のための
啓蒙運動が
1915年ごろからはじまり,
儒教道徳にもとづく
家族制度がきびしく
批判された。

文学革命といわれる
啓蒙運動に
重要な役割をはたしたのは,
陳独秀刊行の雑誌
「新青年」である。

胡適は
1917年,
同誌上で
白話(口語)文学をとなえ,
魯迅
「阿Q正伝」
「狂人日記」などの
作品をつうじて
白話運動を発展させ,
中国人の人間的・
社会的自覚を
大いに高めた。
また,
その中心となった
北京大学では,
ロシア革命後,
マルクス主義の研究がはじめられ,
陳独秀も
これに参加した。

1919年の
パリの講和会議で
中国が提訴した
二十一ヵ条の取り消しや,
山東における
ドイツ利権の
中国への返還要求が
列国から退けられたことは,
民族的自覚の高まっていた
中国の民衆に
激しい衝撃をあたえた。

同年5月4日,
北京大学の学生を中心とする
デモがおこなわれ,
条約反対や
排日の声は各地に波及し,
日本商品の排斥や
ストライキなどがおこり,
幅広い愛国的運動に発展した。

これが
五・四運動で,
反帝国主義・
反封建主義の
新しい大衆運動の出発点となった。

こうした動きのなかで
孫文は,
同年10月,
国民党の解散以後結成していた
秘密結社の中華革命党を
公開政党とし,
中国国民党を組織した。

モンゴル高原では,
1911年の
辛亥革命を機に
外モンゴルが独立を宣言し,
君主国を建てた。

その後,
ロシア革命の影響を受けて
1924年に
社会主義にもとづく
モンゴル人民共和国の成立を
宣言した。


朝鮮の三・一運動

朝鮮は
日本に併合されたのち,
朝鮮総督府による
武断統治下におかれ,
人民の不満が増大していった。

1919年3月1日,
ロシア革命や
ウィルソンの
十四ヵ条などの影響で
日本からの独立運動をおこしたが,
鎮圧された。

これを
三・一運動(万歳事件)といい,
以後の
朝鮮民族運動の出発点となった。

国共の合作と分離

二十一ヵ条問題は
ワシントン会議で
ふたたび討議され,
日本の大陸進出を警戒する
アメリカ・
イギリス両国の支持により,
中国の要求は
ほとんど受けいれられた
九ヵ国条約)。

1921年には
ソ連邦の支援により,
陳独秀を委員長とする
中国共産党が結成され,
軍閥と
帝国主義打倒,
中国の独立と
民衆の自由,
労働者・農民・小資本家階級による      
民主主義連合宣戦の
結成をとなえた。

一方,
孫文は
ソ連邦から顧問をまねき,
1924年
国民党の組織を改め
国民党改組),
中国共産党員が
党籍をもったまま個人として
国民党に入党することを認めた
第1次国共合作)。

かれはまた,
[連ソ・容共・扶助工農]をかかげ,
打倒軍閥・
打倒帝国主義の
政策をめざした。

孫文は
翌25年病死したが,
この国共合作によって
国民革命は急速に進展し,
国民党の勢力は
急激に伸びた。

また
反帝国主義の運動は
25年の
上海における
五・三〇事件となって爆発し,
7月の
広州における
中華民国国民政府の樹立をもたらした。
ついで
1926年,
蒋介石の率いる
国民政府軍は
広州から
北伐(北方軍閥に対する征討)を開始し,
27年3月には
南京・
上海を占領した。

しかし,このころ
国民党では左右の分裂が
決定的となった。

蒋介石は4月,
上海クーデタによって
共産党員を粛清し,
左派をおさえて
南京に
国民政府を樹立し,
主席となった。

1928年4月
北伐は再開され,
済南で
日本軍と衝突したが(済南事件),
やがて
北京にせまった。

当時,
北京政府の
実権をにぎっていたのは,
日本の援助下に
東北地方を支配し,
南下して
直隷派・
安徽派などの
軍閥諸勢力を破り,
北京に進出した
奉天派軍閥の
張作霖であった。

しかし,
かれは
北伐軍に敗れて
奉天に帰る途中,
日本軍(関東軍)に列車を爆破されて
死亡した。

蒋介石は
北京に入城して
北伐を完成し,
張作霖の子
張学良も
日本に対抗するため
蒋にしたがったので,
中国は
国民党のもとに一応統一された。

蒋介石は,
上海を中心に銀行資本により,
中国の経済界を支配していた
民族資本家の
浙江財閥とむすび,
米英の援助のもとに
一党独裁の統一政権の
樹立をめざしていた。

一方,
1927年に
中国国民党と分離した
中国共産党は,
江南を中心に
都市・農村における
武装蜂起や
土地革命を推進したが,
失敗を重ねた。

そのなかで,
農村工作に重点をおき,
井崗山を拠点に
紅軍を率いて活動した
毛沢東らの政策は成功し,
31年に
江西省瑞金に
毛沢東を主席とする
中華ソヴィエト共和国が成立した。

こうして両党は
中国の支配権をめぐって
激しい抗争を展開した。


インドの独立運動


第一次世界大戦がおこると,
インドの協力を必要とした
イギリスは,
戦後の自治を約束して
インドから物資と
兵員の提供を受けた。

しかし戦後
イギリスは
その約束をまもらず,
かえって
1919年に
ローラット法を施行して
インドの民族運動を弾圧し,
これに反対する民衆を虐殺した。  

怒った
インド民衆は態度を硬化し,
国民会議派の
ガンディーの指導のもとに
非暴力・
不服従の運動をすすめ,
さらに
自治の獲得をめざして
積極的な民族運動をすすめた。

大戦中から
反英敵姿勢をとりはじめていた
全インド・ムスリム連盟も
はじめはこれに同調し,
運動は全インドに発展した。

しかし
24年ごろからは
ヒンドゥー・イスラム
両教徒間の対立がおこり,
これに
イギリスの分割統治策も加わって,
ガンディーの逮捕をはじめ,
会議派内部の分裂などで
運動は一時挫折した。

その後,
ネールの指導のもとに,
1929年
ラホールでひらかれた
国民議会を機に運動は再開され,
翌年から
ガンディーの提唱する
非暴力・不服従主義の
闘争方針にしたがって,
完全独立(プールナ・スワラージ)を
めざして
イギリス商品排斥を
全国的に実行した。

さらに
この運動,
イギリスが
インドの経済を犠牲にして
世界恐慌の影響を
切りぬけようとしたことから,
いちだんと激化した。

こうした形勢に対し,
イギリスは
弾圧を強化したり,
英印円卓会議
ひらいたりしたが効果はなかった。

しかし,
35年に
イギリスが
新インド統治法を制定して
懐柔策をとり,
また
運動自体も
内部対立などで足なみがそろわず,
独立の目的は
容易に達成できなかった。

 

トルコ革命とイスラム諸国の動向 

オスマン・トルコは
青年トルコ内閣のもとで
第一次世界大戦に参戦して
敗れたが,
トルコ国民党を率いる
ケマル・パシャ(のちアタテュルク)は
1922年
ギリシアと戦って
イズミルを回復し,
ついで
スルタン制を廃止した。

かれは
翌23年に
連合国とのあいだに新たに
ローザンヌ条約をむすんで
新国境を確定し,
治外法権の廃止・
関税自主権の回復に成功し,
さらに
アンカラを首都とする
トルコ共和国を樹立して
初代大統領に就任した。

以後
ケマルは,
一党独裁制により
トルコの近代化にのりだした。

24年には
共和国憲法を発布し,
政教分離をおこない,
太陽暦の採用・
法律の近代化・
婦人参政権などを実施するとともに,
アラビア文字を廃して
ローマ字を採用した。

このようにして
トルコは
イスラム諸国中もっとも
近代化した国となった。

第一次世界大戦は
トルコ以外の
イスラム諸国にも
大きな影響をあたえた。

イギリスは
1914年以来
エジプトを保護国としていたが,
戦後
ワフド党を中心とする
民族運動が発展したため,
22年
保護権の廃止を宣言した
エジプト王国)。

しかし
スエズ運河の確保や
政治・軍事・経済上の必要から
なお多くの特権を保留したので,     
エジプト人の反抗はつづき,
ようやく
36年に
スエズ運河地帯の
イギリス軍駐兵という条件つきで,
独立が達成された。

また
イギリスの保護国であった
アフガニスタン
1919年
イギリスの勢力を排除して
独立した。

大戦中,
中立を宣言しながら
イギリス・ロシア両勢力によって
圧迫された
カージャール朝イランは,
両国勢力が後退したことによって
自主権を回復したが,
レザー・ハーン
クーデタをおこして実権をにぎり,
1925年
カージャール朝を廃して
パフレヴィー朝をひらいた。

かれは
ケマル・アタテュルクを
手本にして
イランの近代化につとめ,
35年
国名を正式に
イランと改めるなど,
民族自立を推進したが,
国内の石油利権などはなお
イギリスの手にのこされた。

アラビアは大戦中,
イギリス・
ドイツの争奪の地となったが,
戦勝によって
イギリスの勢力が増大した。

ワッハープ王国再興をめざす
イブン・サウ−ドは,
イギリスの援助のもとに独立して
アラビアの統一をとなえ,         
しだいに勢力を伸ばして
半島の大部分を統一し,
1932年には
サウジアラビア王国を建設した。

イギリスの委任統治領であった
イラク
1932年に独立し,
また
トランスヨルダンは
46年
ヨルダン王国として独立した。

また
フランスの委任統治領
シリアでは,
1941年に
レバノンが
独立を宣言して分立し,
46年には
シリアも独立した。

大戦中
イギリスは
パレスティナに関して,
アラブ人には
1915年
フサイン・マクマホン協定によって
トルコからの独立を約束し,
ユダヤ人には
17年の
バルフォア宣言によって
パレスティナ復帰運動(シオニズム)援助の
態度を示して双方の協力をえた。

ところが
戦後はこの地を
委任統治領としたので,
アラブ・ユダヤ両民族は
おのおの主権を主張して
両者の抗争がおこり,
この紛争は
第二次世界大戦後になっても
まだ解決していない。

4−全体主義の台頭

世界経済恐慌と
アメリカのニューディール

アメリカ合衆国では,
1929年10月
ニューヨークの株式市場(ウォール街)で,
とつぜん
株価の大暴落がおこり,
これをきっかけとして
空前の大恐慌がはじまった。

このため生産は減退し,
失業者が増大し,
銀行は倒産し,
商業や貿易はおとろえ,
国民生活も低下した。

そして
ヨーロッパから
自国の資本を引き揚げたので,
アメリカ資本により復興していた
ヨーロッパ諸国にも恐慌が波及し,
たちまち全世界にひろがった。

アメリカの恐慌の原因には,
農産物の輸出市場の減少による
農民の没落や,
工業製品の生産過剰による
失業者の増大で
国民の購買力があがらず,
高関税政策によって
国際貿易が
さまたげられていたことなどがあげられる。 

ときの
フーヴァー大統領は,
ドイツの賠償や
連合国の戦債の支払いを
1年間停止すること
(フーヴァー・モラトリアム)によって
恐慌を切りぬけようとしたが,
効果がなく,
共和党は
国民の信頼を失って,
1932年の
大統領選挙では,
民主党の
フランクリン・ルーズヴェルトが当選した。

かれは
強力な権限をもってただちに
全国産業復興法(NIRA)と
農業調整法(AAA)によって
国民経済の復興をはかった。

また
金本位制を停止し,
失業者に職をあたえ,
生産の統制をおこなう一方,
労働組合を法的に承認し,
1935年
ワグナー法によって
労働者の団結権と
団体交渉権を認めた。

また
各種の社会政策を拡張し,
テネシー河域開発公社(TVA)などの
国家資本による
大土木工事をおこして
国内を開発した。

かれの政策は
ニューディールとよばれ,
これによって
経済界の混乱もしだいにおさまり,
労働組合は発展し,
1935年
産業別組織会議(CIO)が成立した。

かれは対外的には
1933年
ソ連邦を承認するとともに,
ほぼ
西ヨーロッパ民主主義諸国を
支持しながら
中立の維持につとめ,
ラテン・アメリカ諸国に対しては,
従来の高圧的政策を改めて,
新大陸全体の共同の福祉をはかる
善隣友好政策をとった。

イギリスと
フランスの恐慌対策

1929年
アメリカにはじまった
世界恐慌の影響で,
イギリスもまた
産業不振におちいり,
失業者は激増し,
貿易は急速におとろえた。

この経済危機を切りぬけるため
第2次マクドナルド内閣は
失業保険の削減などによる
国費の節約案を立てたが,
労働党はこれに反対して
党首マクドナルドを除名した。

かれはいったん辞職したが,
ふたたび
第3次挙国一致内閣を組織し,
金本位制の停止や
国費節約を断行した。

また
1932年に
オタワ英連邦会議をひらき,
各自治領間の関税を低くし,
他国に対しては
高関税を課するいわゆる
ブロック経済政策を採用して
景気の回復をはかった。

第3次マクドナルド内閣は
1935年までつづいたが,
国際情勢の悪化にともなって,
保守党のボールドウィンが
これにかわり,
つづいて
37年同じく
保守党のネヴィル・チェンバレン内閣が
成立した。

この間,
アイルランンドの
シン・フェイン党が
完全独立をめざして反乱をおこし,
イギリス政府は
1922年,
自治領アイルランド自由国を
成立させた
(北部アイルランンドをのぞく)。

しかし
独立派は満足せず,
イギリスに対する忠誠をこばみ,
37年,
エ−ル共和国の成立を宣言し,
イギリスの承認を受けた。

フランスは
世界経済恐慌に対して,
右派の連立内閣ができたが,
1933年以降,
ドイツに
ナチス政権が成立すると,
ふたたび
左翼勢力が強くなり,
35年
仏ソ相互援助条約をむすんだが,
さらに同年の
コミンテルン指令の影響で
36年には
社会党・
急進社会党の連合による
人民戦線内閣が成立した。

しかし
伝統的な小党分立の状態がつづき,
政局は安定しなかった。

全体主義

第1次世界大戦後,
後進的資本主義国の一部に,
全体主義(ファシズム)とよばれる
政治形態がおこった。

それは,
国粋主義・
社会政策を協調して,
議会主義・
民主主義を否定し,
人件を軽視し,
国益優先をはかる極端な
国家主義である。

民衆に基礎をおいた
政党の一党独裁にもとづく
ファシスト・イタリアと
ナチス・ドイツが
典型的なものであるが,
軍部の政権収奪による
上からの全体主義とみられる
日本のような例もある。

ファシスト・イタリアの成立と発展

イタリアは
第一次世界大戦の戦勝国であったが,
大きな犠牲を払ったにもかかわらず,
期待していた領土を
十分えられなかったため,
ヴェルサイユ体制に不満であった。

そのうえ,
戦後国内の生産はへり,
物価は上がり,
国民生活は苦しくなった。

このため
共産主義勢力が増大し,
1920年
社会党左派(のちの共産党)の指導のもとに,
北イタリアの工業地帯を中心に
ストライキがおこり,
労働者は一時工場を占領し,
また農民も各地で土地を占拠した。

しかし,
この運動が失敗におわると,
共産主義に対する
国民の信頼は失われた。

このとき,
共産主義打倒をかかげて
資本家・地主・軍人の支持を受けて
ファシスト党を結成し
(1919年),
また
財政難で弱体化していた
政府に反対したので
ムッソリーニであった。

かれは政局の混乱に乗じ,
22年に
政権獲得をめざして
ローマ進軍をおこない,
国王の支持で
ファシスト党を主力とする
内閣を組織し,
さらに
議会に要求して 
一党独裁の
政治体制を確立した。

これ以降,
かれは党の最高機関である
ファシスト大評議会に
絶大な権限をあたえ,
言論・出版の自由を
抑圧するようになった。

一方,
ムッソリーニは
長いあいだ
国交断絶に状態にあった
ローマ教皇庁と
29年に
ラテラン条約をむすび,
イタリア王国と
教皇庁との不和を解決した。

この結果,
教皇庁(ヴァティカン市国)の
独立が認められた。

世界経済恐慌は
1931年
イタリアにも及び,
国民経済が悪化すると,
全体主義による
統制経済を実施するとともに,
対外侵略により
民心を外にそらして
難局を打開しようとした。

たまたま
アフリカの
イタリア植民地と
エチオピアとの衝突がおこったのを
機会に,
イタリアは
35年
エチオピアに侵入した。

国際連盟は
イタリアへの経済制裁を議決したが,
実行は不徹底でほとんど
効果がなかった。

こうして
イタリアは
翌36年
エチオピア征服を完了し,
国際連盟の威信は大いに傷つけられた。
ナチス・ドイツの勃興

世界恐慌の結果,
国民経済に深刻な打撃を受けた
ドイツでは,
右翼のナチスと
左翼の共産党の勢力が
急速に増大した。

ナチスは大戦直後
ヒ詳説世界史 第16章 二つの世界大戦 

1−第一次世界大戦とロシア革命

国際対立の激化

ヨーロッパ列強の対立は,
ドイツが
世界政策をかかげて
世界分割に登場するにおよんで,
いよいよ深刻になった。

1890年に
ビスマルクが引退して
ヴィルヘルム(ウィリアム)2世の
親政がはじまると,
皇帝は
ロシアとのあいだにむすばれていた
二重保障(再保障・再保険)条約の
更新を拒否した。

そこで
ロシアは
フランスと条約
(1891年〜94年結成,露仏同盟)をむすんで,ドイツ・
オ−ストリアに対抗しようとした。

また
ドイツは
近東に注目し,
ベルリン・
ビザンティウム(イスタンブル)・
バグダードをむすぶいわゆる
3B政策をとり,
バグダード鉄道の建設をすすめて
イギリスの
3C政策に対抗するとともに,
めざましい
資本主義経済の発展にもとづいて
海軍力を強化し,
イギリスの
世界政策をおびやかすようになった。

イギリスは
どの国とも同盟をむすばず,
長く[光栄ある孤立]を誇っていたが,
ロシアの南下を恐れて
1902年
日本と日英同盟をむすび,
また
ドイツに対抗するため,
1904年
フランスとのあいだに
英仏協商を成立させた。

また
ロシアは
東アジアでの南進策を
日本にくじかれたため,
バルカン南下に勢力を集中し,
ドイツ・
オ−ストリアと対抗するようになったので,
イギリスと和解し,
1907年
英露協商が成立した。

これは
イランにおける
両国の勢力範囲を定め,
アフガニスタンを
イギリスの勢力範囲とし,
チベットにおける
中国の主権を認めたものである。

このような
イギリス・
フランス・ロシアの友好関係を
三国協商という。

イタリアは
三国同盟の一員であったが,
バルカンで
[未回収のイタリア]をめぐって
オ−ストリアと対立したため
フランスに接近した。

オ−ストリアは領内に多くの
スラブ民族をふくんでいたので,
その
バン・スラヴ主義による
反抗をおさえるため
バルカンに勢力を伸ばそうとし,
ドイツもこれを助けるようになった。
こうして
バルカン半島においては,
ロシアに支援される
バン・スラヴ主義と,
ドイツ・オ−ストリアの
勢力伸張をはかる
バン・ゲルマン主義とが
対立することとなった。

1908年
オスマン・トルコに革命がおこり
憲法が復活したが,
これに乗じて
ブルガリアは
トルコから独立を宣言し,
オ−ストリア・ハンガリーは
ボスニア・
ヘルツェゴヴィナの併合を宣言した。

この2州の住民は
スラヴ系で,
セルビアが
バン・スラヴ主義のもとに
おさめようとしていた地方であったから,
バン・スラヴ主義と
バン・ゲルマン主義との
抗争はさらに深まった。

1912年,
ロシアの支持のもとに
セルビア・
モンテネグロ・
ブルガリア・
ギリシア4国間に
バルカン同盟がむすばれ,
バルカン半島にのこされていた
トルコの領土をうばおうとして,
イタリアと戦っていた
トルコに宣戦した(第1次バルカン戦争),

トルコは
イタリアと和して
4国と戦ったが,
2ヵ月で敗れた。

ところが
トルコの放棄した
領土の分割に関して,
ブルガリアと
他の3国とのあいだに
争いがおこり,
トルコ・ルーマニアも
3国側に参戦して
第2次バルカン戦争がおこった。

ブルガリアは大敗し,
その分け前が縮小したので
三国同盟へ接近した。

この2回の
バルカン戦争の結果,
ヨーロッパにおける
トルコの領土は
小部分をのこして失われた。

そして
セルビアは
ロシアの力をたのんでさらに
勢力を伸ばそうとし,
セルビアと
オ−ストリアとの関係はまさに
一触即発の状態となった。

第一次世界大戦

1914年6月28日,
オ−ストリアの皇太子夫妻が
ボスニア州の
サライェヴォで,
セルビア人の一青年に暗殺された。

この事件をきっかけに
オ−ストリアは
7月28日
セルビアに対して宣戦し,
ここに
ドイツ・オ−ストリアの同盟国は,
フランス・ロシア・イギリス・日本など
(これを連合国という)と戦うことになった。

その後,
トルコ・ブルガリアが
同盟国側に参戦したが,
イタリアは
中立をまもったのち,
連合国と秘密条約をむすんで
三国同盟を離脱し,
1915年
連合国側に参戦した。

戦況は,
まず
西部戦線で
ベルギーの中立をおかして
北フランスに侵入した
ドイツ軍が
パリをおびやかしたが,
マルヌの会戦で進撃を阻止され,
戦線は膠着状態になった。

この状態を破ろうとした
1916年の
ドイツ軍の
ヴェルダン要塞の攻撃,
同年の連合軍の
ソンム反撃はともに失敗におわった。

東部戦線では,
ドイツは領内に侵入した
ロシア軍を
タンネンベルクの戦いで破り,
以後
ロシア領内に進撃した。

また
海軍では
ドイツは
英仏の劣り,
制海権を失って
植民地との連絡を断たれ,
軍需品や
食料調達に困りはて,
もっぱら
潜水艦によって
敵を悩ます策にでた。

アメリカは
中立をまもっていたが,
ドイツが
1917年2月
無制限潜水艦戦をはじめると,
同年4月
ドイツに宣戦した。

一方,
ドイツ国内では
内部対立が激しく,
4月には
社会民主党が分裂して
左派が独立し,
平和宣伝や
ストライキをおこなった。

以後,
日常生活の悪化とともに,
国民の反戦気分が濃くなった。

ドイツは
1918年,
ロシアの革命政府と
単独講和をむすんだのを機に,
戦勢をもりかえそうとし,
同年春から
西部戦線で大攻撃をおこなったが,
失敗して退却に転じた。

この年の秋,
トルコ・ブルガリアは降伏し,
オ−ストリアは
単独で休戦条約をむすんだ。ドイツは国政改革によって
本格的な議会政治をしき,
帝政を維持しようとしたが,
国民の動揺はしずまらず,
11月
キール軍港の水兵が
暴動をおこしたのを機に,
革命がひろがった。

皇帝は逃亡し,
帝国内の連邦各君主も退位して
共和国が成立した。

同年11月11日,
共和国政府は
連合国と休戦して
大戦はようやくおわった。
ロシア革命

第一次世界大戦がはじまると,
ロシアの専制政治は
たちまちその弱点をあらわし,
しばしば
ドイツ軍に敗れたので,
士気はおとろえ軍規は乱れた。

そのうえ
国内では物資が不足して
国民の生活が苦しくなり,
労働者のあいだには
不穏な空気がみなぎった。

1917年3月8日,
ペトログラード
(旧ペテルブルク,
現在のレニングラード)で
大規模なストライキ・暴動がおこると,
それが各地にひろがって
軍隊にも反乱がおき,
労働者・兵士のあいだに
ソヴィエトが組織され
革命の推進力となった。

皇帝ニコライ2世は
前線から帰還する途中で
捕えられて退位し,
ロシアの帝政は
一挙に倒れた。

これを
三月革命
(ロシア暦では二月革命)という。

ソヴィエトでは
社会革命党と
メンシェヴィキが多数を占め,
かれらは
自由主義者と協力して,
立憲民主党を主とする
臨時政府を成立させた。

臨時政府は
普通選挙による議会を
召集することを定め,
戦争を継続した。

しかし,
4月
レーニンが
亡命地から帰国すると,
ソヴィエト内における
ボリシェヴィキの勢力は増大し,
反政府運動がおこったが,
鎮圧された。

一方,
政府側では
立憲民主党の首相が辞任し,
社会革命党の
ケレンスキーがこれにかわった。

ケレンスキーは
ボリシェヴィキをおさえようとしたが,
帝政派の反革命軍が
ペトログラードに進撃したので,
ボリシェヴィキに援助をもとめて
反革命を平定した。

その後,
ボリシェヴィキの勢力は
全国にひろまり,
11月7日
レーニン・トロッキーの指導のもとに 
武装蜂起して
政府を倒し,
ケレンスキーは
国外に亡命した。

これを
十一月革命(十月革命)という。
ソビエト政権の成立と干渉戦争

革命直後,
議会の選挙がおこなわれたが,
その結果,
社会革命党が第一党となった。

1918年1月
議会がひらかれると,
社会革命党は
議会に基礎をおく政権をつくろうとしたが,
レーニンは
武力で議会を閉鎖し,
やがて
ボリシェヴィキの
一党独裁政治を樹立した。

ボリシェヴィキ政府は,
ただちに
ドイツとの単独講和の交渉をひらき,
トロッキーが外務人民委員として
交渉をすすめ,
同18年3月,
ブレスト・リトフスクにおいて
不利な条件で
講和条約をむすんだ。

その後,
ボリシェヴィキは
共産党と改称し,
首都を
モスクワに移した。

また
全ロシア・ソヴィエト会議は
憲法を採択し,
全国に
ソヴィエトを設け,
18才以上の
労働者・農民・兵士に
選挙権をあたえ,
男女同権を認めた。

しかし
西ヨーロッパの
議会制度とは異なり,
共産党以外の政党は
禁止された。

ソヴィエト制度は
しだいにひろがり,
1922年12月には
ロシア・ウクライナ・白ロシア・
ザカフカースの
四つのソヴィエト共和国が連合して
ソビエト(ソヴィエト)社会主義共和国連邦が
成立し,
24年1月
新憲法が公布された。

ボリシェヴィキの政権が
成立しても,
国内には
旧軍人や社会革命党などの指導する
反革命軍が横行して,
各地に政権を樹立した。

諸外国は
これらの反革命政権を
たすけたばかりでなく,
軍隊をおくって
ロシア領土の各地を占領した。

日本やアメリカの
シベリア出兵がおこなわれたのも
このときである。

ソビエト政権は
これらに対抗するため    
赤軍を組織し,
また
チェカ(非常委員会)を設けて
反革命容疑者を逮捕した。

そして
外国の干渉はかえって
国民の愛国心をよび,
その支持のもとに
ソビエト政権は,
約3年のあいだに
反革命軍の鎮圧に成功し,
外国の占領軍はしだいに撤退した。

他方,
ソビエト政権は,
戦後
第2インターナショナル復活の動きに
対抗し,
世界革命を達成する目的で
1919年3月,
モスクワに
コミンテルン(第3インターナショナル)を
設けた。

その指導によって
ハンガリーなどに
革命がおこったが,     
これらはいずれも失敗した。

コミンテルンはまた
ポーランド・トルコ・中国などの
民族運動を援助した。

これらの民族運動は
はじめ
共産主義とむすんでいたが,
中国の場合をのぞいて,
のちには
資本主義勢力の援助を受けて
これと絶縁し,
ソビエト政権の
世界革命の企図は失敗におわった。
戦時共産主義と新経済政策

革命後
ソビエト政権は
共産主義の理論を実行しようとして
土地を無償で没収し,
これを
国有地として農民に開放し,
また
工業を国営化して労働者による 
工場の管理をおこない,
銀行・外国貿易などを国営化した。

さらに
外国の干渉と
内乱に対抗するため,
農民から穀物を
強制的に徴発し,
国家による
食料の配給をおこなった。

このような政策を
戦時共産主義とよぶ。

これは
ソビエト政権の防衛に
役立ったが,
農民は徴発を喜ばず,
穀物生産はへり,
労働者は
工場の管理能力を欠いたので,
国民経済は荒廃し,
飢饉もしばしばおこって
多数の餓死者をだした。

そこで
1921年
レーニンは
新経済政策(ネップ)を採用し,
ゆきすぎた国有化や
食料の強制徴発をやめ,
中小企業の私的営業を許し,
農民にも
余剰穀物販売の自由を認めた。

この新経済政策は,
銀行・大工業・貿易などの
国営の原則はかえなかったが,
一定限度内で
資本主義的な
営業の復活を認めたので,
これによって
国民経済は回復にむかい,
生産はまもなく
戦前の水準に達した。

このような
資本主義政策への接近により
対外関係も好転し,
まず
1922年
ドイツと国交がひらかれ(ラパロ条約),
つづいて
イギリス・イタリア・フランス・日本などが
ソ連邦を正式に承認した。

2−ヴェルサイユ体制下の欧米

ヴェルサイユ体制の成立

1919年1月
パリ講和会議がひらかれ,
6月
ヴェルサイユ宮殿で
ドイツと連合国とのあいだに
調印式がおこなわれ,
ベルサイユ条約が成立した。

これによって
ドイツは
いっさいの植民地を失ったほか,
アルザス・ロレ−ヌや
ポーランド・デンマークとの
国境地帯を割譲し,
軍備は制限され,
ラインラントの武装は禁じられ,
ライン川左岸は
旧連合国によって
保障占領された。

また
多額の賠償金
(1921年に1320億金マルク)を
課せられた。

講和会議の基礎となったものは,
アメリカ合衆国大統領
ウィルソンが,
戦時中(1918年)に発表した
十四ヵ条で,
秘密外交の廃止,
海洋の自由,
軍備縮小,
ヨーロッパ諸国民の民族自決,
植民地問題の公正な解決,
国際平和機構の設立などの
原則を定めたものである。

しかし,
講和会議では
フランスのクレマンソーや
イギリスのロイド・ジョージの態度が
ドイツに対して報復的であったので,
この原則の精神はかなりゆがめられた。

オ−ストリア・ハンガリー・ブルガリア・
トルコとの講和条約は
それぞれ別個にむすばれ,
その結果,
旧オ−ストリア・ハンガリ−帝国は
解体して,
オ−ストリアは
ドイツ人だけの小共和国となった。

また
敗北したオ−ストリアと
旧ロシア領内から,
ハンガリー・チェコスロバキア・
ユーゴスラビア・ポーランド・
フィンランド・エストニア・
ラトヴィア・リトアニアが成立した。

トルコ領内の異民族も
トルコからはなれ,
アラビアは独立し,
シリアはフランスの,
イラク・トランスヨルダン・
パレスティナは
イギリスの委任統治のもとに, 
将来の独立にむかって
すすむことになった。

十四ヵ条の原則にしたがって設けられた
国際連盟は,
世界恒久平和を目的とする
史上はじめての大規模な国際機構で,
スイスのジュネーブに本部がおかれ,
総会・理事会・連盟事務局を中心とし,
ほかに
国際労働機関と
国際司法裁判所が設けられた。

しかし
国際連盟は,
提唱国のアメリカが
上院の反対で参加できず,
ドイツ・ソ連邦などを除外したため
力が弱かった。

そのうえ
侵略者を制裁するための
軍事力をもたないので,
大国の関係する紛争は
解決できなかったが,
小紛争の解決や
文化・労働などの問題には
多少の功績をのこした。
国際協調主義の発展

ヴェルサイユ体制は
民族の自決と
国際協調を原則としたが,
そこにはなお不合理な点も多く,
はじめは小規模な
国際紛争が続発した。

トルコは,
ケマル・パシャのもとに
ギリシアと戦い,
大戦によってうばわれた
領土の一部を回復してさきの
講和条約(セーヴル条約)を改め,
ローザンヌ条約をむすんだ。

また
ポーランドは
ソ連邦と戦って
白ロシアと
ウクライナの一部を得,
イタリアは
ユーゴスラビアと紛争をおこして
フィウメを獲得した。

ドイツは賠償に苦しみ,
ついに
その支払いを停止したため,
1923年
フランスは
ベルギーとともに
ルール地方を保障占領した。

しかし
戦後の混乱がおさまると,
各国間には
国際協調の動きが高まり,
1925年
ロカルノ条約で
ラインラントの現状維持,
平和の相互保障が約束され,
その結果,
翌26年
ドイツは国際連盟に加入した。

1921年〜22年には
アメリカ合衆国の提唱で
ワシントン会議がひらかれ,
海軍軍備制限条約によって
米・英・日・仏・伊の
主力艦保有量が
5・5・3・1.67・1.67の
比率に定められた。

この会議では
東アジア問題も討議され,
中国の主導権尊重・
領土保全を約束した
九ヵ国条約がむすばれた。

なお,
日本の山東省に関する利権は
両国間の交渉により,
中国に返還された。

また
太平洋諸島の現状維持を定めた
日・米・英・仏間の
四ヵ国条約がむすばれた結果,
日英同盟は廃棄された。

その後
補助艦の制限に関する
会議もおこなわれたが,
1927年の
ジュネーブ会議の失敗後,
30年の
ロンドン会議で,
米・英・日の比率は
10・10・7に定められた。

なお
1928年には
フランス外相ブリアンと,
アメリカ国務長官ケロッグの提唱により,
15ヵ国間(のち63ヵ国間)に
国際紛争解決のための手段として
戦争に訴えないことを約束した。
不戦条約がむすばれた。

アメリカ合衆国の繁栄

第一次世界大戦中,
アメリカは
連合国に物資を供給して
莫大な利益をおさめ,
従来の債務国から
債権国にかわった。

その経済は
豊富な資源によって
ますます発展し,
世界の金融市場を
支配するようになった。

アメリカは
伝統的な孤立主義にもとづき,
国際連盟には
参加しなかったが,
しばしば
軍縮会議などの
重要な国際会議をよびかけて,
国際政治のうえで,
指導的地位を占めた。

また,
ドイツの経済復興や
中国の民族運動などを援助した。

国内では1920年,
婦人参政権が実現して,
民主主義はますます発展した。

この間,
1921年
民主党の
ウィルソンの任期がおわったのち,
ハーディング・
クーリッジ・
フーヴァーの3代12年にわたり,
共和党から大統領をだし,
29年に
大恐慌がおこるまでは
世界無比の経済的繁栄を誇っていた。

イギリスの変化

イギリスでは
1918年
ロイド・ジョージの
挙国一致内閣のもとで
第4回選挙法改正がおこなわれ,
成年男子と
30歳以上の婦人による
普通選挙が施行された。

つづいて
28年の
第5回選挙法改正で,
すべての成年男女に
選挙権があたえられた。

大戦による不況と
自由党が
内部分裂でおとろえたことにより,
保守党についで
労働党が
第二党となった。

24年
労働党が
自由党と連立してはじめて
政権をにぎり,
マクドナルド内閣が成立した。

この内閣は
1年たらずで
保守党内閣とかわったが,
29年の
総選挙の結果,
労働党ははじめて
第一党となり,
第2次マクドナルド内閣が
成立した。

フランスの内情

大戦の戦場となり,
最大の損害を受けた
フランスでは,
ドイツに対する
国民の警戒心が強く,
ドイツの復興を極度に恐れた。

そこで
フランスは
パリ講和会議では
ドイツへの制裁を主張し,
ベルサイユ条約で
ドイツに対する
重い賠償金をつらぬいた。

その後も
対独強硬政策をとり,
ルール出兵などをおこなった。

また
フランス国民は,
ソ連邦政府が
帝政時代の債務を破棄したので,
ソ連邦への反感を強め,
大戦後は
保守的な右派の諸政党が
政権をにぎっていた。

しかし
ルール出兵が失敗したため,
1924年
右派勢力は
国民の支持を失って
左派連合内閣がこれにかわり,
外相に
ブリアンがでて
ドイツとの協調をはかって
ロカルノ条約をむすび,
不戦条約を提唱して
世界の平和に貢献した。

ドイツ共和国

ドイツでは,
帝政が倒れて
共和国が成立したのち,
1919年1月に
カール・リーブクネヒトと
ローザ・ルクセンブルクを指導者とする
ドイツ共産党が,
ロシア革命にならった
共産主義革命をおこそうとしたが,
政権をにぎっていた
社会民主党政府はこれを鎮圧した。

そして
同年,
ワイマールで
民主的な新憲法
(ワイマール憲法)が制定され,
エ−ベルトが
初代大統領となり,
共和国の基礎が定まった。

しかしその後
ドイツは
巨額の賠償金の支払いに苦しんで
経済は安定しなかった。

ことに
1923年,
フランス・ベルギーの
ルール地方占領に対して
ストライキで対抗したため,
生産は低下し,
激しい
インフレーションとなった。

同年
シュトレーゼマンが
首相となり,
新紙幣(レンテンマルク)を発行して
インフレーションをおさめ,
やがて
賠償金支払いに関する
アメリカの援助で経済は復興した。

その後
シュトレーゼマンは外相として
国際協調につとめ,
26年
国際連盟にも加入を許されて,
国際的地位は向上した。

エ−ベルトの死後,
1925年
ヒンデンブルクが
第2代大統領に選ばれた。

しかし
経済の基礎が
まだかたまらないうちに,
29年
世界経済恐慌がおこり,
ドイツは
もっとも深刻な打撃を受け,
国民生活は混乱して
ナチスの台頭をまねいた。

ソ連邦

ソ連邦では
1924年
レーニンが死ぬと
指導者のあいだに争いがあったが,      
ソ連邦一国だけで
社会主義建設ができると主張する
スターリンの勢力がしだいに強まり,
かれは
[世界革命]の必要を説く政敵
トロッキーを追放して
支配権をにぎった。

ソ連邦政府は
スターリンの指導のもとで,
1928年
新経済政策を改めて
第1次5か年計画に着手し,
重工業に重点をおいて
国民経済の工業化に
努力するとともに,
農業の機械化と
集団農場(コルホーズ)・
国営農場(ソフホーズ)の
建設に力をつくし,
当時
資本主義諸国との
交流が少なかったため,
世界恐慌の影響もほとんど受けず,
社会主義体制の
基礎をつくりあげた。

しかし
社会主義建設にあたり
国民の犠牲も大きかったので,
33年にはじまった
第2次5か年計画では
軽工業にも力を入れて
国民生活の向上をはかり,
その結果,
農業の集団化はほとんど完成し,
国民教育も普及した。

36年にいわゆる
スターリン憲法が発布されて,
満18歳以上のすべての男女の
秘密投票による
ソヴィエトの地域別直接選挙が確立し,
民族の平等や
信仰の自由が実現したが,
候補者推薦制と
共産党の一党独裁制はかわらなかった。

一方,
スターリンは
粛正工作によって
反対者をつぎつぎに処刑して
独裁権力を強化し,
1938年からの
第3次五カ年計画では
ウラル・シベリアの
重工業建設や
軍需工業の育成を企てた。 

また
国力の発展にともなって
ソ連邦は,
日本とドイツが
国際連盟脱退を通告した
33年,
アメリカに承認され,
翌34年には
国際連盟に加入し,
国際政治のうえでも
重要な役割をになうようになった。

3−アジアの情勢

日本の動向

第1次世界大戦中の
ヨーロッパ諸国には,
アジアをかえりみる
余裕はなかった。

日本は
これに乗じて対独宣戦ののち,
まず
中国における
ドイツの租借地
膠州湾(青島)と
太平洋上の
ドイツ領南洋諸島を占領した。

また
連合国などに物資を供給して
国内産業の発展をはかり,
大陸進出も積極的にすすめた。

1915年(大正4)年1月,
中国に対して,
山東における
ドイツ権益の継承などをふくむ
二十一ヵ条の要求をつきつけたり,
大戦末期に
チェコ兵救出を名目として,
米・英・仏などとともに
シベリアに出兵したのは,
そのあらわれである。

二十一ヵ条要求に対して
中国の袁世凱政府は,
自国の主権を
無視するものとして  
はじめは拒否したが,
5月に
日本は最後通告を発し,
要求の大部分を承認させた。

しかしこのため,
中国人の
対日感情は急速に悪化した。

また
シベリア出兵では,
列国の撤兵後も
革命勢力の
波及阻止などを口実に
1922年(大正11)年まで
兵をとどめ,
内外の批判をあびた。

大戦により
日本経済は好景気となり,
戦後の講和会議では
赤道以北の
旧ドイツ領南洋諸島を
委任統治地として獲得した。

また
国際連盟の
常任理事国ともなり,
国際的地位が向上した。

しかし,
東アジアでの
日本の勢力伸張は
列国の警戒心を強めるようになった。

一方,
日本国内では,
政治意識が急速にすすみ,
民主主義運動や
労働運動が発展し,
社会主義思想も発達した。

1918(大正7)年の
米騒動・
政党内閣の誕生や,
28(昭和3)年の
男子普通選挙の実施は,
こうした情勢のなかから
うまれたものである。

しかも
資本主義経済は
急速に成長し,
独占的財閥が発展して,
政党とむすびつく傾向が強まった。

文学革命と五・四運動,
モンゴルの独立

袁世凱の死後の
北京では
軍閥政権が交替をつづけたが ,
大戦末期には,
南方の広州でも
孫文を中心に
広東政府が組織された。

また
大戦による
列強資本主義勢力の
後退を機会に
民族資本も成長し,
紡績などの大工場が建てられ。
中国人の出資経営する
銀行もあらわれた。

労働者は増加し,
学生などの
青年知識人もふえ,
文学界や
思想界では,
新文化建設のための
啓蒙運動が
1915年ごろからはじまり,
儒教道徳にもとづく
家族制度がきびしく
批判された。

文学革命といわれる
啓蒙運動に
重要な役割をはたしたのは,
陳独秀刊行の雑誌
「新青年」である。

胡適は
1917年,
同誌上で
白話(口語)文学をとなえ,
魯迅は
「阿Q正伝」
「狂人日記」などの
作品をつうじて
白話運動を発展させ,
中国人の人間的・
社会的自覚を
大いに高めた。
また,
その中心となった
北京大学では,
ロシア革命後,
李大しょうらによって******
マルクス主義の研究がはじめられ,
陳独秀も
これに参加した。

1919年の
パリの講和会議で
中国が提訴した
二十一ヵ条の取り消しや,
山東における
ドイツ利権の
中国への返還要求が
列国から退けられたことは,
民族的自覚の高まっていた
中国の民衆に
激しい衝撃をあたえた。

同年5月4日,
北京大学の学生を中心とする
デモがおこなわれ,
条約反対や
排日の声は各地に波及し,
日本商品の排斥や
ストライキなどがおこり,
幅広い愛国的運動に発展した。

これが
五・四運動で,
反帝国主義・
反封建主義の
新しい大衆運動の出発点となった。

こうした動きのなかで
孫文は,
同年10月,
国民党の解散以後結成していた
秘密結社の中華革命党を
公開政党とし,
中国国民党を組織した。

モンゴル高原では,
1911年の
辛亥革命を機に
外モンゴルが独立を宣言し,
君主国を建てた。

その後,
ロシア革命の影響を受けて
1924年に
社会主義にもとづく
モンゴル人民共和国の成立を
宣言した。
朝鮮の三・一運動

朝鮮は
日本に併合されたのち,
朝鮮総督府による
武断統治下におかれ,
人民の不満が増大していった。

1919年3月1日,
ロシア革命や
ウィルソンの
十四ヵ条などの影響で
日本からの独立運動をおこしたが,
鎮圧された。

これを
三・一運動(万歳事件)といい,
以後の
朝鮮民族運動の出発点となった。

国共の合作と分離

二十一ヵ条問題は
ワシントン会議で
ふたたび討議され,
日本の大陸進出を警戒する
アメリカ・
イギリス両国の支持により,
中国の要求は
ほとんど受けいれられた
(九ヵ国条約)。

1921年には
ソ連邦の支援により,
陳独秀を委員長とする
中国共産党が結成され,
軍閥と
帝国主義打倒,
中国の独立と
民衆の自由,
労働者・農民・小資本家階級による      
民主主義連合宣戦の
結成をとなえた。

一方,
孫文は
ソ連邦から顧問をまねき,
1924年
国民党の組織を改め
(国民党改組),
中国共産党員が
党籍をもったまま個人として
国民党に入党することを認めた
(第1次国共合作)。

かれはまた,
[連ソ・容共・扶助工農]をかかげ,
打倒軍閥・
打倒帝国主義の
政策をめざした。

孫文は
翌25年病死したが,
この国共合作によって
国民革命は急速に進展し,
国民党の勢力は
急激に伸びた。

また
反帝国主義の運動は
25年の
上海における
五・三〇事件となって爆発し,
7月の
広州における
中華民国国民政府の樹立をもたらした。
ついで
1926年,
蒋介石の率いる
国民政府軍は
広州から
北伐(北方軍閥に対する征討)を開始し,
27年3月には
南京・
上海を占領した。

しかし,このころ
国民党では左右の分裂が
決定的となった。

蒋介石は4月,
上海クーデタによって
共産党員を粛清し,
左派をおさえて
南京に
国民政府を樹立し,
主席となった。

1928年4月
北伐は再開され,
済南で
日本軍と衝突したが(済南事件),
やがて
北京にせまった。

当時,
北京政府の
実権をにぎっていたのは,
日本の援助下に
東北地方を支配し,
南下して
直隷派・
安徽派などの
軍閥諸勢力を破り,
北京に進出した
奉天派軍閥の
張作霖であった。

しかし,
かれは
北伐軍に敗れて
奉天に帰る途中,
日本軍(関東軍)に列車を爆破されて
死亡した。

蒋介石は
北京に入城して
北伐を完成し,
張作霖の子
張学良も
日本に対抗するため
蒋にしたがったので,
中国は
国民党のもとに一応統一された。

蒋介石は,
上海を中心に銀行資本により,
中国の経済界を支配していた
民族資本家の
浙江財閥とむすび,
米英の援助のもとに
一党独裁の統一政権の
樹立をめざしていた。

一方,
1927年に
中国国民党と分離した
中国共産党は,
江南を中心に
都市・農村における
武装蜂起や
土地革命を推進したが,
失敗を重ねた。

そのなかで,
農村工作に重点をおき,
井崗山を拠点に
紅軍を率いて活動した
毛沢東らの政策は成功し,
31年に
江西省瑞金に
毛沢東を主席とする
中華ソヴィエト共和国が成立した。

こうして両党は
中国の支配権をめぐって
激しい抗争を展開した。
インドの独立運動
第一次世界大戦がおこると,
インドの協力を必要とした
イギリスは,
戦後の自治を約束して
インドから物資と
兵員の提供を受けた。

しかし戦後
イギリスは
その約束をまもらず,
かえって
1919年に
ローラット法を施行して
インドの民族運動を弾圧し,
これに反対する民衆を虐殺した。  

怒った
インド民衆は態度を硬化し,
国民会議派の
ガンディーの指導のもとに
非暴力・
不服従の運動をすすめ,
さらに
自治の獲得をめざして
積極的な民族運動をすすめた。

大戦中から
反英敵姿勢をとりはじめていた
全インド・ムスリム連盟も
はじめはこれに同調し,
運動は全インドに発展した。

しかし
24年ごろからは
ヒンドゥー・イスラム両教徒間の
対立がおこり,
これに
イギリスの分割統治策も加わって,
ガンディーの逮捕をはじめ,
会議派内部の分裂などで
運動は一時挫折した。

その後,
ネールの指導のもとに,
1929年
ラホールでひらかれた
国民議会を機に運動は再開され,
翌年から
ガンディーの提唱する
非暴力・不服従主義の
闘争方針にしたがって,
完全独立(プールナ・スワラージ)を
めざして
イギリス商品排斥を
全国的に実行した。

さらに
この運動,
イギリスが
インドの経済を犠牲にして
世界恐慌の影響を
切りぬけようとしたことから,
いちだんと激化した。

こうした形勢に対し,
イギリスは
弾圧を強化したり,
英印円卓会議を
ひらいたりしたが効果はなかった。

しかし,
35年に
イギリスが
新インド統治法を制定して
懐柔策をとり,
また
運動自体も
内部対立などで足なみがそろわず,
独立の目的は
容易に達成できなかった。

トルコ革命とイスラム諸国の動向 

オスマン・トルコは
青年トルコ内閣のもとで
第一次世界大戦に参戦して
敗れたが,
トルコ国民党を率いる
ケマル・パシャ(のちアタテュルク)は
1922年
ギリシアと戦って
イズミルを回復し,
ついで
スルタン制を廃止した。

かれは
翌23年に
連合国とのあいだに新たに
ローザンヌ条約をむすんで
新国境を確定し,
治外法権の廃止・
関税自主権の回復に成功し,
さらに
アンカラを首都とする
トルコ共和国を樹立して
初代大統領に就任した。

以後
ケマルは,
一党独裁制により
トルコの近代化にのりだした。

24年には
共和国憲法を発布し,
政教分離をおこない,
太陽暦の採用・
法律の近代化・
婦人参政権などを実施するとともに,
アラビア文字を廃して
ローマ字を採用した。

このようにして
トルコは
イスラム諸国中もっとも
近代化した国となった。

第一次世界大戦は
トルコ以外の
イスラム諸国にも
大きな影響をあたえた。

イギリスは
1914年以来
エジプトを保護国としていたが,
戦後
ワフド党を中心とする
民族運動が発展したため,
22年
保護権の廃止を宣言した
(エジプト王国)。

しかし
スエズ運河の確保や
政治・軍事・経済上の必要から
なお多くの特権を保留したので,     
エジプト人の反抗はつづき,
ようやく
36年に
スエズ運河地帯の
イギリス軍駐兵という条件つきで,
独立が達成された。

また
イギリスの保護国であった
アフガニスタンは
1919年
イギリスの勢力を排除して
独立した。

大戦中,
中立を宣言しながら
イギリス・ロシア両勢力によって
圧迫された
カージャール朝イランは,
両国勢力が後退したことによって
自主権を回復したが,
レザー・ハーンが
クーデタをおこして実権をにぎり,
1925年
カージャール朝を廃して
パフレヴィー朝をひらいた。

かれは
ケマル・アタテュルクを
手本にして
イランの近代化につとめ,
35年
国名を正式に
イランと改めるなど,
民族自立を推進したが,
国内の石油利権などはなお
イギリスの手にのこされた。

アラビアは大戦中,
イギリス・
ドイツの争奪の地となったが,
戦勝によって
イギリスの勢力が増大した。

ワッハープ王国再興をめざす
イブン・サウ−ドは,
イギリスの援助のもとに独立して
アラビアの統一をとなえ,         
しだいに勢力を伸ばして
半島の大部分を統一し,
1932年には
サウジアラビア王国を建設した。

イギリスの委任統治領であった
イラクは
1932年に独立し,
また
トランスヨルダンは
46年
ヨルダン王国として独立した。

また
フランスの委任統治領
シリアでは,
1941年に
レバノンが
独立を宣言して分立し,
46年には
シリアも独立した。

大戦中
イギリスは
パレスティナに関して,
アラブ人には
1915年
フサイン・マクマホン協定によって
トルコからの独立を約束し,
ユダヤ人には
17年の
バルフォア宣言によって
パレスティナ復帰運動(シオニズム)援助の
態度を示して双方の協力をえた。

ところが
戦後はこの地を
委任統治領としたので,
アラブ・ユダヤ両民族は
おのおの主権を主張して
両者の抗争がおこり,
この紛争は
第二次世界大戦後になっても
まだ解決していない。

4−全体主義の台頭

世界経済恐慌と
アメリカのニューディール

アメリカ合衆国では,
1929年10月
ニューヨークの株式市場(ウォール街)で,
とつぜん
株価の大暴落がおこり,
これをきっかけとして
空前の大恐慌がはじまった。

このため生産は減退し,
失業者が増大し,
銀行は倒産し,
商業や貿易はおとろえ,
国民生活も低下した。

そして
ヨーロッパから
自国の資本を引き揚げたので,
アメリカ資本により復興していた
ヨーロッパ諸国にも恐慌が波及し,
たちまち全世界にひろがった。

アメリカの恐慌の原因には,
農産物の輸出市場の減少による
農民の没落や,
工業製品の生産過剰による
失業者の増大で
国民の購買力があがらず,
高関税政策によって
国際貿易が
さまたげられていたことなどがあげられる。 

ときの
フーヴァー大統領は,
ドイツの賠償や
連合国の戦債の支払いを
1年間停止すること
(フーヴァー・モラトリアム)によって
恐慌を切りぬけようとしたが,
効果がなく,
共和党は
国民の信頼を失って,
1932年の
大統領選挙では,
民主党の
フランクリン・ルーズヴェルトが当選した。

かれは
強力な権限をもってただちに
全国産業復興法(NIRA)と
農業調整法(AAA)によって
国民経済の復興をはかった。

また
金本位制を停止し,
失業者に職をあたえ,
生産の統制をおこなう一方,
労働組合を法的に承認し,
1935年
ワグナー法によって
労働者の団結権と
団体交渉権を認めた。

また
各種の社会政策を拡張し,
テネシー河域開発公社(TVA)などの
国家資本による
大土木工事をおこして
国内を開発した。

かれの政策は
ニューディールとよばれ,
これによって
経済界の混乱もしだいにおさまり,
労働組合は発展し,
1935年
産業別組織会議(CIO)が成立した。

かれは対外的には
1933年
ソ連邦を承認するとともに,
ほぼ
西ヨーロッパ民主主義諸国を
支持しながら
中立の維持につとめ,
ラテン・アメリカ諸国に対しては,
従来の高圧的政策を改めて,
新大陸全体の共同の福祉をはかる
善隣友好政策をとった。

イギリスと
フランスの恐慌対策

1929年
アメリカにはじまった
世界恐慌の影響で,
イギリスもまた
産業不振におちいり,
失業者は激増し,
貿易は急速におとろえた。

この経済危機を切りぬけるため
第2次マクドナルド内閣は
失業保険の削減などによる
国費の節約案を立てたが,
労働党はこれに反対して
党首マクドナルドを除名した。

かれはいったん辞職したが,
ふたたび
第3次挙国一致内閣を組織し,
金本位制の停止や
国費節約を断行した。

また
1932年に
オタワ英連邦会議をひらき,
各自治領間の関税を低くし,
他国に対しては
高関税を課するいわゆる
ブロック経済政策を採用して
景気の回復をはかった。

第3次マクドナルド内閣は
1935年までつづいたが,
国際情勢の悪化にともなって,
保守党のボールドウィンが
これにかわり,
つづいて
37年同じく
保守党のネヴィル・チェンバレン内閣が
成立した。

この間,
アイルランンドの
シン・フェイン党が
完全独立をめざして反乱をおこし,
イギリス政府は
1922年,
自治領アイルランド自由国を
成立させた
(北部アイルランンドをのぞく)。

しかし
独立派は満足せず,
イギリスに対する忠誠をこばみ,
37年,
エ−ル共和国の成立を宣言し,
イギリスの承認を受けた。

フランスは
世界経済恐慌に対して,
右派の連立内閣ができたが,
1933年以降,
ドイツに
ナチス政権が成立すると,
ふたたび
左翼勢力が強くなり,
35年
仏ソ相互援助条約をむすんだが,
さらに同年の
コミンテルン指令の影響で
36年には
社会党・
急進社会党の連合による
人民戦線内閣が成立した。

しかし
伝統的な小党分立の状態がつづき,
政局は安定しなかった。

全体主義

第1次世界大戦後,
後進的資本主義国の一部に,
全体主義(ファシズム)とよばれる
政治形態がおこった。

それは,
国粋主義・
社会政策を協調して,
議会主義・
民主主義を否定し,
人件を軽視し,
国益優先をはかる極端な
国家主義である。

民衆に基礎をおいた
政党の一党独裁にもとづく
ファシスト・イタリアと
ナチス・ドイツが
典型的なものであるが,
軍部の政権収奪による
上からの全体主義とみられる
日本のような例もある。

ファシスト・イタリアの成立と発展

イタリアは
第一次世界大戦の戦勝国であったが,
大きな犠牲を払ったにもかかわらず,
期待していた領土を
十分えられなかったため,
ヴェルサイユ体制に不満であった。

そのうえ,
戦後国内の生産はへり,
物価は上がり,
国民生活は苦しくなった。

このため
共産主義勢力が増大し,
1920年
社会党左派(のちの共産党)の指導のもとに,
北イタリアの工業地帯を中心に
ストライキがおこり,
労働者は一時工場を占領し,
また農民も各地で土地を占拠した。

しかし,
この運動が失敗におわると,
共産主義に対する
国民の信頼は失われた。

このとき,
共産主義打倒をかかげて
資本家・地主・軍人の支持を受けて
ファシスト党を結成し
(1919年),
また
財政難で弱体化していた
政府に反対したので
ムッソリーニであった。

かれは政局の混乱に乗じ,
22年に
政権獲得をめざして
ローマ進軍をおこない,
国王の支持で
ファシスト党を主力とする
内閣を組織し,
さらに
議会に要求して 
一党独裁の
政治体制を確立した。

これ以降,
かれは党の最高機関である
ファシスト大評議会に
絶大な権限をあたえ,
言論・出版の自由を
抑圧するようになった。

一方,
ムッソリーニは
長いあいだ
国交断絶に状態にあった
ローマ教皇庁と
29年に
ラテラン条約をむすび,
イタリア王国と
教皇庁との不和を解決した。

この結果,
教皇庁(ヴァティカン市国)の
独立が認められた。

世界経済恐慌は
1931年
イタリアにも及び,
国民経済が悪化すると,
全体主義による
統制経済を実施するとともに,
対外侵略により
民心を外にそらして
難局を打開しようとした。

たまたま
アフリカの
イタリア植民地と
エチオピアとの衝突がおこったのを
機会に,
イタリアは
35年
エチオピアに侵入した。

国際連盟は
イタリアへの経済制裁を議決したが,
実行は不徹底でほとんど
効果がなかった。

こうして
イタリアは
翌36年
エチオピア征服を完了し,
国際連盟の威信は大いに傷つけられた。
ナチス・ドイツの勃興

世界恐慌の結果,
国民経済に深刻な打撃を受けた
ドイツでは,
右翼のナチスと
左翼の共産党の勢力が
急速に増大した。

ナチスは大戦直後
ヒトラーによって育成された政党で,
正式の名称を
国家社会主義ドイツ労働党と称した。

その綱領は
イタリアの
ファシスト党と似ていて,
ドイツ民族の優秀性を説き,
ベルサイユ条約の破棄・
植民地の再分配・
ユダヤ人排斥をとなえる一方,
戦時利得の没収や
トラスト国有などの一見,
社会主義的な政策をかかげて,
国民生活の安定を約束した。

その過激な言動は,
はじめ国民の支持を受けなかったが,
世界恐慌の結果,
生活の不安に悩んだ
中産階級の人びとのなかには
それに動かされるものがふえ,
また
共産党の進出におびやかされた
資本家や軍部が
ナチスを援助したので,
1930年ごろから
その勢力は急激に発展した。

ナチスは
32年の総選挙で
第一党となり,
翌年
ヒトラー内閣が成立した。

新政府は
国会議事堂放火事件を利用して
共産党を弾圧し,
社会民主党などを解体させ,
ナチスの一党独裁を実現した。

ナチスは
民主主義を否定し,
大規模な土木工事や
軍需工業をおこして
失業者を救った。

1934年
ヒンデンブルク大統領が死ぬと,
ヒトラーは
総統と称して
最高主権者となり,
言論・出版の自由を無視し,
労働組合を禁止し,
教育を国家の支配下におき,
秘密警察(ゲシュタボ)・
突撃隊(SA)・
親衛隊(SS)などを通じて
厳重な統制をおこない,
ユダヤ人を迫害した。

そのため
社会主義者・
自由主義者・
ユダヤ人などで
海外に亡命するものが多かった。

ヒトラーの指導のもとで
国力をたくわえた
ドイツは,
ヴェルサイユ体制の破壊にのりだし,
33年には
軍備平等権を主張して
国際連盟を脱退,
35年には
ベルサイユ条約の規定による
人民投票によって
ザール地方を併合した。

また
義務兵役の復活と
再軍備の宣言をおこない,
イギリスと
海軍協定をむすんで
対英35パーセントの
海軍力をもつことを認めさせた。

この
ドイツの再軍備に対抗して,
35年
フランスとソ連邦が
相互援助条約をむすんだことを理由に,
ドイツは
翌36年
ロカルノ条約を破棄して
ラインラントに進駐し,
列国をおどろかせた。

日本軍部の台頭と満州事変

日本では
1923(大正12)年の
関東大震災前後から
貿易の不振がつづき,
27(昭和2)年には
多くの銀行・会社が倒産した。

ついで
29(昭和4)年におこった
世界経済恐慌の影響を受けて
経済界はまったく混乱し,
労働運動が発展した。

しかも,
社会不安のなかで,
政党はいたずらに
政権争いをつづけたので,
国民の信頼を失い,
かわって軍部の勢力が進出した。

中国東北地方では
張学良が国民政府委員となり,
日本の勢力をのぞこうとした。

そのため
日中両国間の紛争が
くり返えされていたが,
1932(昭和6)年9月18日,
日本の関東軍は
柳条湖(柳条溝)で
鉄道爆破事件をおこし,
これを機に
東北地方全域に軍事行動をおこし,
その要地をことごとく占領した。

これが
満州事変である。

その後,
戦火は上海に及んで
32(昭和7)年1月には
上海事変となった。

日本の行動は
国外で強く非難され,
国際連盟は
リットン調査団を派遣して
調査させることにした。

軍部は一部の反対を押し切って,
同年3月
清朝最後の
宣統帝溥儀をむかえて
満州国を建設し
既成の事実とした。

調査団は
日本軍の行動を
自衛権によるものとは認めがたいとし,
連盟もこれを支持したので,
日本は
1933(昭和8)年に
国際連盟脱退を通告した。

その後,
日本の軍事行動は
熱河方面におよび,
一時は
長城をこえて
北京にせまり,
華北への武力進出をも
企てるようになった。

抗日民族戦線の成立と日中戦争

国民政府の成立以来,
国民党は
完全な中国統一をなしとげないうちに,
1931年
満州事変がおこった。

国民政府は一方では
満州事変に対処しながら,
他方では
共産党と戦わねばならなかった。

34年,
瑞金の共産党軍が
国民党軍の圧迫をのがれて,
江西省から延安を中心とする
陝西・甘粛省の奥地をめざす
長征(大西遷)に移ったので,
中国国内の政情大きく変化した。

35(昭和10)年
日本は防共の名目で
内モンゴル・華北に進出し,
河北省東部に
国民政府から分離した
冀東防共自治政府を建てた。

同年
国民政府は英米の援助で
通貨を統一したが,
この経済的措置は,
地方に残存する軍閥の力を弱め,
国民政府の実質的な
国内統一をうながした。

民間の抗日運動は
五・四運動以来
しばしば各地でおこったが,
満州事変をきっかけに,
全国的に激しくなった。

1935年8月1日,
中国共産党は抗日のための
民族統一戦線をとなえた
(八・一宣言)。

当時,
共産軍攻撃のため
西安にいた
張学良はこれに動かされ,
36年12月,
かれを説得しようとして
西安に来た
蒋介石を逆に幽閉した。

蒋は,
共産党に
抗日戦線の統一を約束して
釈放された。

この
西安事件をきっかけに,
国共は
ふたたび接近しはじめた。

しかし,
日本はこのような事態を
過小評価し,
軍部は
華北の支配をねらったため,
1937(昭和12)年7月の
蘆溝橋事件を機に
侵略を拡大した。

このため9月,
第2次国共合作が正式に成立し,
日中両国は
全面的な交戦状態にはいった
(日中戦争)。

37年末までに
日本は
華北の要地や
南京などを占領したが,
中国側の団結はかたく,
政府を
南京から武漢,
さらに
重慶に移して抗戦をつづけた。

日本は
38(昭和13)年10月に
武漢および
広州を占領したが,
重要都市とそれらをむすぶ
交通線を確保しただけで,
その支配は
ひろい農村地帯には及ばなかった。

40(昭和15年)に
重慶政府に対抗して
日本が南京に樹立した
汪兆銘の親日政権も,
大きな統治力をもたなかった。

一方,
イギリス・アメリカの援助を受け,
中国最大の浙江財閥とむすぶ
重慶国民政府は,
農民の支配する
中国共産党と連合して,
反撃をつづけた。

日本はこれに対し,
東亜新秩序の建設をとなえて,
欧米勢力を
東アジアから
追放しようとはかったが,
戦局の見通しは立たなかった。

スペイン内乱と枢軸の結成 

ヴェルサイユ体制に挑戦する
全体主義国家の
日本・ドイツ・イタリアの3国は,
1935年の
イタリアのエチオピア侵略,
36年の
スペイン内乱,
37年の
日中戦争の開始によって
たがいに接近し,
やがて
日独伊枢軸を結成するにいたった。

これより先,
1931年
スペインでは,
国民の支持を失った
王政が倒れ,
政治は混乱していたが,
36年
人民戦線内閣が成立した。

これに対し,
フランコを中心とする
右派勢力が
モロッコで反乱をおこした。

イギリス・フランス政府は
不干渉の態度をとったが,
ソ連邦や
英仏の自由主義者や
社会主義者は
政府軍に味方し,
36年
ベルリン・ローマ枢軸を結成した
ドイツ・イタリアは公然と
反乱軍を援助したので,
小規模な
国際戦争のようなありさまとなった。

内乱は
39年,
フランコ側の勝利におわった。

また
人民戦線結成など
国際主義の動きに対抗して
1936年にむすばれた
日独防共協定には, 
37年
イタリアも参加して
三国防共協定が成立した。

なお
イタリアは同年,
日本・ドイツにならって
国際連盟を脱退した。

大戦の勃発

ヨーロッパでは,
1938年3月
ドイツがオ−ストリアを併合し,
さらに
同年9月
チェコスロヴァキア領内で
ドイツ人の居住する
ズデーテン地方をも
併合しようとした。

イギリス首相
ネヴィル・チェンバレンは
ナチスに対する宥和政策をとり,
ドイツ・フランス・イタリアの首脳と
ミュンヘン会議をひらき,
ドイツの領土要求を認めた。

しかし
ドイツはなお満足せず,
39年3月には
チェコスロヴァキアを解体して
その西洋のベーメン(ボヘミア)・
メーレン(モラヴィア)を併合し,
スロヴァキアを保護国とした。

そしてさらに
ダンチヒ(現在のグダニスク)の返還と
ポーランド回廊を横断して
東プロイセンにいたる
交通路の建設を要求して
ポーランドの交渉にはいった。

ポーランドは
イギリス・
フランスの援助を期待して
ドイツの要求を拒否した。

イギリス・フランスは
ポーランド援助を約束し,
宥和政策を捨てて
軍備の充実をいそぎ,
さらに
ソ連邦との
軍事同盟の交渉にはいった。

しかし
条件が折り合わず,
交渉が長引くあいだに,
スターリンは
ヒトラーとの提携を決意し,
8月23日
独ソ不可侵条約をむすんだ。

これに力をえた
ドイツは
9月1日,
ついに
ポーランドに進撃し,
9月3日,
イギリス・フランスは
ドイツに宣戦して,
第二次世界大戦がはじまった。

9月17日,
ソ連邦軍は
ポーランドに進撃して,
ドイツとのあいだでこれを分割した。

さらに
11月
フィンランドに宣戦して
翌40年
国境地帯の軍事基地を割譲させ,
エストニア・ラトヴィア・
リトアニアを併合し,
ルーマニアから
ベッサラビアをうばった。

西部戦線は
しばらく平静であったが,
ドイツは
40年4月
デンマーク・ノルウェー,
5月
オランダ・ベルギーに侵入し,
ついで
フランスに進撃して,
6月
パリを占領した。

その直前に
イタリアは
ドイツ側に参戦した。

フランスは
ペタン内閣が成立してただちに
ドイツに降伏し,
北半は
ドイツが占領,
南半は
ペタン内閣のヴィシー政府が
統治することとなった。

一方,
ド・ゴールは
ロンドンに
亡命政府を組織して
抗戦をつづけ,
国内でも
ドイツ軍に対する
レジスタンス(抵抗運動)がおこった。

イギリスでは
この年5月,
チェンバレン退いて
チャーチルが首相となり,
その夏の激しい空襲によく耐えて,
ドイツ軍の上陸をはばんだ。

そのため
ドイツの短期決戦による
勝利の見通しは遠のいた。

ソ連邦は
1938年以来,
第3次五カ年計画を立てて
軍備を拡充していたが,
41年4月
ドイツ軍が
イタリアを援助するため
バルカンに侵入すると,
ここに利害関係をもっていた
ソ連邦と
ドイツとの関係は悪化した。

同月
ソ連邦は
ドイツにそなえて
日ソ中立条約をむすんだが,
41年6月
ドイツはとつぜん
ソ連邦に宣戦し,
イタリア・ルーマニア・
フィンランド・ハンガリーがこれにならった。
ドイツ軍はたちまち
モスクワにせまったが,
ソ連邦は根強く抵抗して
これをくいとめた。

そしてこれを機に
イギリスと
ソ連邦は同盟をむすんだ。

また
独ソ戦争の開始にともない,
ソ連邦は
米英両国と協調を深める
必要が生じたので,
43年には
コミンテルンを解散した。
太平洋戦争

日本は
日中戦争を短期間で
解決できると考えていたが,
中華民国が抗戦をやめず,
日本軍はとくに
中国共産軍(八路軍)の巧妙な
ゲリラ戦に悩まされた。

戦場は中国の広い地域にひろがり,
莫大な軍事費と兵員は
日本の経済を強く圧迫した。

日本は
この危機を打開するため,
南方への進出をはかり,
フランスが
ドイツに敗れたのに乗じて
1940(昭和15)年9月,
北部フランス領インドシナ
(現在のヴェトナム北部)に
進駐した。

また同月,
三国防共協定を強化して
日独伊三国同盟をむすんだ。

41(昭和16)年4月になると,
日本はソ連邦と
日ソ中立条約をむすび,
7月には
南部フランス領
インドシナに進駐した。

これに対して
アメリカは
対日石油供給を停止し,
アメリカ・イギリス・中国・
オランダは提携して,
いわゆる
[A・B・C・Dライン]を形成した。

41年はじめから,
日本は
アメリカとのあいだに
事態解決のための
交渉をおこなっていたが
ゆきづまり,
1941年12月8日,
ハワイの真珠湾を奇襲して,
アメリカ・イギリス両国に宣戦し,
太平洋戦争に突入した。

戦争の初期,
日本軍はたちまち
マライ半島を南下して
シンガポールを落とし,
ジャワ・スマトラ・フィリピン・
ソロモン諸島など
太平洋上の諸島を占領し,
ビルマを征服した。

日本は『大東亜共栄圏』をとなえ,
占領下の
フィリピン・インドネシア・ビルマなどには
親日政権をつくらせた。

インドシナ・タイなども
日本の圧力で,
これに協力を
声明しなければならなかった。

日本国内では戦勝によって
軍部の権力はさらに強大となり,
言論・報道の統制も厳重になった。

また
占領地では,当所
日本軍は
植民地支配からの
解放軍としてむかえられた。

しかし,
もともと軍事占領は
治安維持と
資源獲得をねらいとしており,
また現地の歴史や
文化を無視した
軍政当局が,
日本語の教育や,
神社参拝・強制労働・
集会の禁止などの施策をとり,
また
シンガポールでは
初期に多くの残虐行為が
おこなわれたので,
住民の激しい反感をまねき,
日本軍は
各地で住民の抵抗運動に
悩まされるようになった。

日本軍が
圧倒的な勝利をえたのは
戦争初期の半年間だけで,
1942(昭和17)年6月
ミッドウェー海戦に大敗してから,
戦局は急速に
日本に不利となった。

連合国の勝利

日本の参戦によって,
アメリカもドイツ・イタリアと
戦争にはいった。

1942年の後半以来,
連合国は総反撃に移り,
43年はじめ
アメリカ軍は
ソロモン諸島を占領してから
太平洋地域の
日本軍をつぎつぎに破った。

ソ連邦も
スターリングラード
(現在のヴォルゴラード)で
ドイツ軍を撃破して以来
反撃をつづけ,
アフリカに上陸した
連合軍はさらに
シチリア島を占領して
イタリア本土にせまった。

ムッソリーニは
国王から首相を解任され,
ファシスト党は解散した。

43年9月,
連合軍が
イタリアに上陸すると,
ムッソリーニにかわった
イタリア新政府は
無条件降伏をおこなった。

これ以来
枢軸軍はいたるところで
敗北をつづけた。

1943年11月には
ルーズヴェルト・
チャーチル・
蒋介石がカイロで会合し,
対日処理方針を定めた
カイロ宣言を発表し,
ひきつづき
同月末から,
ルーズヴェルト・
チャーチル・
スターリンは
テヘラン会談をおこない,
連合軍の北フランス上陸作戦や,
ソ連邦の対日参戦について協議した。

その方針にもとづき,
44年6月
アイゼンハウアー指揮下の連合軍が,
北フランスの
ノルマンディーに上陸して
第二戦線を形成した。

連合軍は8月
パリにはいり,
ド・ゴールはただちに
臨時政府を組織した。

45年になると
ドイツ軍は総くずれとなり,
3月
アメリカ軍は
ライン川をわたり,
4月
ソ連軍はウィーンに突入し,
5月2日
ベルリンが陥落し,
同月7日
ドイツ軍は
無条件降伏をおこなった。

ドイツの降伏に先だち,
1945年2月,
ルーズヴェルト・
チャーチル・
スターリンは,
クリミア半島のヤルタで会談して
ヤルタ協定をむすび,
対ドイツ最終作戦・
ドイツ処分の大綱などのほか
秘密条項として
ソ連邦の対日参戦などをきめた。

また
アメリカは
44年中には
サイパン島・レイテ島などを攻略して,
45年2月
フィリピンを奪回したのち,
日本内地への空襲を強化し,
4月
沖縄に上陸した。
同月
ルーズヴェルトの急死後
大統領となった
トルーマンは,
7月
チャーチル(途中でアトリーとかわる)・
スターリンと
ベルリン郊外のポツダムで会談し,
ドイツの処理を協議するとともに,
日本の降伏をもとめる
ポツダム宣言を発表した。

そして
8月6日,
アメリカは
広島に原子爆弾を投下し,
8日,
ソ連邦は
ヤルタ協定にもとづいて
日ソ中立条約を無視して
日本に宣戦し,
中国東北地方をはじめ
朝鮮・樺太に進撃した。

9日,
アメリカ軍は
長崎にも原子爆弾を投下し,
14日,
日本側は御前会議で
ポツダム宣言受諾による
降伏を決定し,
15日
国民にこれを明らかにした。

ここに6年にわたる
第二次世界大戦は終った。

トラーによって育成された政党で,
名称を
国家社会主義ドイツ労働党と称した。

その綱領は
イタリアの
ファシスト党と似ていて,
ドイツ民族の優秀性を説き,
ベルサイユ条約の破棄・
植民地の再分配・
ユダヤ人排斥をとなえる一方,
戦時利得の没収や
トラスト国有などの一見,
社会主義的な政策をかかげて,
国民生活の安定を約束した。

その過激な言動は,
はじめ国民の支持を受けなかったが,
世界恐慌の結果,
生活の不安に悩んだ
中産階級の人びとのなかには
それに動かされるものがふえ,
また
共産党の進出におびやかされた
資本家や軍部が
ナチスを援助したので,
1930年ごろから
その勢力は急激に発展した。

ナチスは
32年の総選挙で
第一党となり,
翌年
ヒトラー内閣が成立した。

新政府は
国会議事堂放火事件を利用して
共産党を弾圧し,
社会民主党などを解体させ,
ナチスの一党独裁を実現した。

ナチスは
民主主義を否定し,
大規模な土木工事や
軍需工業をおこして
失業者を救った。

1934年
ヒンデンブルク大統領が死ぬと,
ヒトラーは
総統と称して
最高主権者となり,
言論・出版の自由を無視し,
労働組合を禁止し,
教育を国家の支配下におき,
秘密警察(ゲシュタボ)・
突撃隊(SA)・
親衛隊(SS)などを通じて
厳重な統制をおこない,
ユダヤ人を迫害した。

そのため
社会主義者・
自由主義者・
ユダヤ人などで
海外に亡命するものが多かった。

ヒトラーの指導のもとで
国力をたくわえた
ドイツは,
ヴェルサイユ体制の破壊にのりだし,
33年には
軍備平等権を主張して
国際連盟を脱退,
35年には
ベルサイユ条約の規定による
人民投票によって
ザール地方を併合した。

また
義務兵役の復活と
再軍備の宣言をおこない,
イギリスと
海軍協定をむすんで
対英35パーセントの
海軍力をもつことを認めさせた。

この
ドイツの再軍備に対抗して,
35年
フランスとソ連邦が
相互援助条約をむすんだことを理由に,
ドイツは
翌36年
ロカルノ条約を破棄して
ラインラントに進駐し,
列国をおどろかせた。

日本軍部の台頭と満州事変

日本では
1923(大正12)年の
関東大震災前後から
貿易の不振がつづき,
27(昭和2)年には
多くの銀行・会社が倒産した。

ついで
29(昭和4)年におこった
世界経済恐慌の影響を受けて
経済界はまったく混乱し,
労働運動が発展した。

しかも,
社会不安のなかで,
政党はいたずらに
政権争いをつづけたので,
国民の信頼を失い,
かわって軍部の勢力が進出した。

中国東北地方では
張学良が国民政府委員となり,
日本の勢力をのぞこうとした。

そのため
日中両国間の紛争が
くり返えされていたが,
1932(昭和6)年9月18日,
日本の関東軍は
柳条湖(柳条溝)で
鉄道爆破事件をおこし,
これを機に
東北地方全域に軍事行動をおこし,
その要地をことごとく占領した。

これが
満州事変である。

その後,
戦火は上海に及んで
32(昭和7)年1月には
上海事変となった。

日本の行動は
国外で強く非難され,
国際連盟は
リットン調査団を派遣して
調査させることにした。

軍部は一部の反対を押し切って,
同年3月
清朝最後の
宣統帝溥儀をむかえて
満州国を建設し
既成の事実とした。

調査団は
日本軍の行動を
自衛権によるものとは認めがたいとし,
連盟もこれを支持したので,
日本は
1933(昭和8)年に
国際連盟脱退を通告した。

その後,
日本の軍事行動は
熱河方面におよび,
一時は
長城をこえて
北京にせまり,
華北への武力進出をも
企てるようになった。

抗日民族戦線の成立と日中戦争

国民政府の成立以来,
国民党は
完全な中国統一をなしとげないうちに,
1931年
満州事変がおこった。

国民政府は一方では
満州事変に対処しながら,
他方では
共産党と戦わねばならなかった。

34年,
瑞金の共産党軍が
国民党軍の圧迫をのがれて,
江西省から延安を中心とする
陝西・甘粛省の奥地をめざす
長征(大西遷)に移ったので,
中国国内の政情大きく変化した。

35(昭和10)年
日本は防共の名目で
内モンゴル・華北に進出し,
河北省東部に
国民政府から分離した
冀東防共自治政府を建てた。

同年
国民政府は英米の援助で
通貨を統一したが,
この経済的措置は,
地方に残存する軍閥の力を弱め,
国民政府の実質的な
国内統一をうながした。

民間の抗日運動は
五・四運動以来
しばしば各地でおこったが,
満州事変をきっかけに,
全国的に激しくなった。

1935年8月1日,
中国共産党は抗日のための
民族統一戦線をとなえた
(八・一宣言)。

当時,
共産軍攻撃のため
西安にいた
張学良はこれに動かされ,
36年12月,
かれを説得しようとして
西安に来た
蒋介石を逆に幽閉した。

蒋は,
共産党に
抗日戦線の統一を約束して
釈放された。

この
西安事件をきっかけに,
国共は
ふたたび接近しはじめた。

しかし,
日本はこのような事態を
過小評価し,
軍部は
華北の支配をねらったため,
1937(昭和12)年7月の
蘆溝橋事件を機に
侵略を拡大した。

このため9月,
第2次国共合作が正式に成立し,
日中両国は
全面的な交戦状態にはいった
(日中戦争)。

37年末までに
日本は
華北の要地や
南京などを占領したが,
中国側の団結はかたく,
政府を
南京から武漢,
さらに
重慶に移して抗戦をつづけた。

日本は
38(昭和13)年10月に
武漢および
広州を占領したが,
重要都市とそれらをむすぶ
交通線を確保しただけで,
その支配は
ひろい農村地帯には及ばなかった。

40(昭和15年)に
重慶政府に対抗して
日本が南京に樹立した
汪兆銘の親日政権も,
大きな統治力をもたなかった。

一方,
イギリス・アメリカの援助を受け,
中国最大の浙江財閥とむすぶ
重慶国民政府は,
農民の支配する
中国共産党と連合して,
反撃をつづけた。

日本はこれに対し,
東亜新秩序の建設をとなえて,
欧米勢力を
東アジアから
追放しようとはかったが,
戦局の見通しは立たなかった。

スペイン内乱と枢軸の結成 

ヴェルサイユ体制に挑戦する
全体主義国家の
日本・ドイツ・イタリアの3国は,
1935年の
イタリアのエチオピア侵略,
36年の
スペイン内乱,
37年の
日中戦争の開始によって
たがいに接近し,
やがて
日独伊枢軸を結成するにいたった。

これより先,
1931年
スペインでは,
国民の支持を失った
王政が倒れ,
政治は混乱していたが,
36年
人民戦線内閣が成立した。

これに対し,
フランコを中心とする
右派勢力が
モロッコで反乱をおこした。

イギリス・フランス政府は
不干渉の態度をとったが,
ソ連邦や
英仏の自由主義者や
社会主義者は
政府軍に味方し,
36年
ベルリン・ローマ枢軸を結成した
ドイツ・イタリアは公然と
反乱軍を援助したので,
小規模な
国際戦争のようなありさまとなった。

内乱は
39年,
フランコ側の勝利におわった。

また
人民戦線結成など
国際主義の動きに対抗して
1936年にむすばれた
日独防共協定には, 
37年
イタリアも参加して
三国防共協定が成立した。

なお
イタリアは同年,
日本・ドイツにならって
国際連盟を脱退した。

大戦の勃発

ヨーロッパでは,
1938年3月
ドイツがオ−ストリアを併合し,
さらに
同年9月
チェコスロヴァキア領内で
ドイツ人の居住する
ズデーテン地方をも
併合しようとした。

イギリス首相
ネヴィル・チェンバレンは
ナチスに対する宥和政策をとり,
ドイツ・フランス・イタリアの首脳と
ミュンヘン会議をひらき,
ドイツの領土要求を認めた。

しかし
ドイツはなお満足せず,
39年3月には
チェコスロヴァキアを解体して
その西洋のベーメン(ボヘミア)・
メーレン(モラヴィア)を併合し,
スロヴァキアを保護国とした。

そしてさらに
ダンチヒ(現在のグダニスク)の返還と
ポーランド回廊を横断して
東プロイセンにいたる
交通路の建設を要求して
ポーランドの交渉にはいった。

ポーランドは
イギリス・
フランスの援助を期待して
ドイツの要求を拒否した。

イギリス・フランスは
ポーランド援助を約束し,
宥和政策を捨てて
軍備の充実をいそぎ,
さらに
ソ連邦との
軍事同盟の交渉にはいった。

しかし
条件が折り合わず,
交渉が長引くあいだに,
スターリンは
ヒトラーとの提携を決意し,
8月23日
独ソ不可侵条約をむすんだ。

これに力をえた
ドイツは
9月1日,
ついに
ポーランドに進撃し,
9月3日,
イギリス・フランスは
ドイツに宣戦して,
第二次世界大戦がはじまった。

9月17日,
ソ連邦軍は
ポーランドに進撃して,
ドイツとのあいだでこれを分割した。

さらに
11月
フィンランドに宣戦して
翌40年
国境地帯の軍事基地を割譲させ,
エストニア・ラトヴィア・
リトアニアを併合し,
ルーマニアから
ベッサラビアをうばった。

西部戦線は
しばらく平静であったが,
ドイツは
40年4月
デンマーク・ノルウェー,
5月
オランダ・ベルギーに侵入し,
ついで
フランスに進撃して,
6月
パリを占領した。

その直前に
イタリアは
ドイツ側に参戦した。

フランスは
ペタン内閣が成立してただちに
ドイツに降伏し,
北半は
ドイツが占領,
南半は
ペタン内閣のヴィシー政府が
統治することとなった。

一方,
ド・ゴールは
ロンドンに
亡命政府を組織して
抗戦をつづけ,
国内でも
ドイツ軍に対する
レジスタンス(抵抗運動)がおこった。

イギリスでは
この年5月,
チェンバレン退いて
チャーチルが首相となり,
その夏の激しい空襲によく耐えて,
ドイツ軍の上陸をはばんだ。

そのため
ドイツの短期決戦による
勝利の見通しは遠のいた。

ソ連邦は
1938年以来,
第3次五カ年計画を立てて
軍備を拡充していたが,
41年4月
ドイツ軍が
イタリアを援助するため
バルカンに侵入すると,
ここに利害関係をもっていた
ソ連邦と
ドイツとの関係は悪化した。

同月
ソ連邦は
ドイツにそなえて
日ソ中立条約をむすんだが,
41年6月
ドイツはとつぜん
ソ連邦に宣戦し,
イタリア・ルーマニア・
フィンランド・ハンガリーがこれにならった。
ドイツ軍はたちまち
モスクワにせまったが,
ソ連邦は根強く抵抗して
これをくいとめた。

そしてこれを機に
イギリスと
ソ連邦は同盟をむすんだ。

また
独ソ戦争の開始にともない,
ソ連邦は
米英両国と協調を深める
必要が生じたので,
43年には
コミンテルンを解散した。
太平洋戦争

日本は
日中戦争を短期間で
解決できると考えていたが,
中華民国が抗戦をやめず,
日本軍はとくに
中国共産軍(八路軍)の巧妙な
ゲリラ戦に悩まされた。

戦場は中国の広い地域にひろがり,
莫大な軍事費と兵員は
日本の経済を強く圧迫した。

日本は
この危機を打開するため,
南方への進出をはかり,
フランスが
ドイツに敗れたのに乗じて
1940(昭和15)年9月,
北部フランス領インドシナ
(現在のヴェトナム北部)に
進駐した。

また同月,
三国防共協定を強化して
日独伊三国同盟をむすんだ。

41(昭和16)年4月になると,
日本はソ連邦と
日ソ中立条約をむすび,
7月には
南部フランス領
インドシナに進駐した。

これに対して
アメリカは
対日石油供給を停止し,
アメリカ・イギリス・中国・
オランダは提携して,
いわゆる
[A・B・C・Dライン]を形成した。

41年はじめから,
日本は
アメリカとのあいだに
事態解決のための
交渉をおこなっていたが
ゆきづまり,
1941年12月8日,
ハワイの真珠湾を奇襲して,
アメリカ・イギリス両国に宣戦し,
太平洋戦争に突入した。

戦争の初期,
日本軍はたちまち
マライ半島を南下して
シンガポールを落とし,
ジャワ・スマトラ・フィリピン・
ソロモン諸島など
太平洋上の諸島を占領し,
ビルマを征服した。

日本は『大東亜共栄圏』をとなえ,
占領下の
フィリピン・インドネシア・ビルマなどには
親日政権をつくらせた。

インドシナ・タイなども
日本の圧力で,
これに協力を
声明しなければならなかった。

日本国内では戦勝によって
軍部の権力はさらに強大となり,
言論・報道の統制も厳重になった。

また
占領地では,当所
日本軍は
植民地支配からの
解放軍としてむかえられた。

しかし,
もともと軍事占領は
治安維持と
資源獲得をねらいとしており,
また現地の歴史や
文化を無視した
軍政当局が,
日本語の教育や,
神社参拝・強制労働・
集会の禁止などの施策をとり,
また
シンガポールでは
初期に多くの残虐行為が
おこなわれたので,
住民の激しい反感をまねき,
日本軍は
各地で住民の抵抗運動に
悩まされるようになった。

日本軍が
圧倒的な勝利をえたのは
戦争初期の半年間だけで,
1942(昭和17)年6月
ミッドウェー海戦に大敗してから,
戦局は急速に
日本に不利となった。

連合国の勝利

日本の参戦によって,
アメリカもドイツ・イタリアと
戦争にはいった。

1942年の後半以来,
連合国は総反撃に移り,
43年はじめ
アメリカ軍は
ソロモン諸島を占領してから
太平洋地域の
日本軍をつぎつぎに破った。

ソ連邦も
スターリングラード
(現在のヴォルゴラード)で
ドイツ軍を撃破して以来
反撃をつづけ,
アフリカに上陸した
連合軍はさらに
シチリア島を占領して
イタリア本土にせまった。

ムッソリーニは
国王から首相を解任され,
ファシスト党は解散した。

43年9月,
連合軍が
イタリアに上陸すると,
ムッソリーニにかわった
イタリア新政府は
無条件降伏をおこなった。

これ以来
枢軸軍はいたるところで
敗北をつづけた。

1943年11月には
ルーズヴェルト・
チャーチル・
蒋介石がカイロで会合し,
対日処理方針を定めた
カイロ宣言を発表し,
ひきつづき
同月末から,
ルーズヴェルト・
チャーチル・
スターリンは
テヘラン会談をおこない,
連合軍の北フランス上陸作戦や,
ソ連邦の対日参戦について協議した。

その方針にもとづき,
44年6月
アイゼンハウアー指揮下の連合軍が,
北フランスの
ノルマンディーに上陸して
第二戦線を形成した。

連合軍は8月
パリにはいり,
ド・ゴールはただちに
臨時政府を組織した。

45年になると
ドイツ軍は総くずれとなり,
3月
アメリカ軍は
ライン川をわたり,
4月
ソ連軍はウィーンに突入し,
5月2日
ベルリンが陥落し,
同月7日
ドイツ軍は
無条件降伏をおこなった。

ドイツの降伏に先だち,
1945年2月,
ルーズヴェルト・
チャーチル・
スターリンは,
クリミア半島のヤルタで会談して
ヤルタ協定をむすび,
対ドイツ最終作戦・
ドイツ処分の大綱などのほか
秘密条項として
ソ連邦の対日参戦などをきめた。

また
アメリカは
44年中には
サイパン島・レイテ島などを攻略して,
45年2月
フィリピンを奪回したのち,
日本内地への空襲を強化し,
4月
沖縄に上陸した。
同月
ルーズヴェルトの急死後
大統領となった
トルーマンは,
7月
チャーチル(途中でアトリーとかわる)・
スターリンと
ベルリン郊外のポツダムで会談し,
ドイツの処理を協議するとともに,
日本の降伏をもとめる
ポツダム宣言を発表した。

そして
8月6日,
アメリカは
広島に原子爆弾を投下し,
8日,
ソ連邦は
ヤルタ協定にもとづいて
日ソ中立条約を無視して
日本に宣戦し,
中国東北地方をはじめ
朝鮮・樺太に進撃した。

9日,
アメリカ軍は
長崎にも原子爆弾を投下し,
14日,
日本側は御前会議で
ポツダム宣言受諾による
降伏を決定し,
15日
国民にこれを明らかにした。

ここに6年にわたる
第二次世界大戦は終った。