「わたしはこの任務にまだ強い意欲と自信がありますし、お手伝いしたいのです」
マイク・スチール: これは文学ではなく映画、本質的に映画である
ジョセフ・ゲルミス: 2度目に見たあと、これは傑作だと確信した
リタ・エリスク: 誰もがストーリーを自分自身のやり方で語っている
ジョン・ラッセル・テイラー: 映画自体にのめり込み、惹きつけられ、導かれていた
マイケラ・ウィリアムズ: 2001年、あるいはさらに未来までの語りぐさになるだろう
スチュアート・バイロン:「2001年」の独特な興行内容
ベティ・ビール: そして完璧な技術にもかかわらず、そのプロットは7歳の子供向けだ
「ブック」紙: 御領主スタンリー・キューブリック様の御命令
『ミネアポリス・トリビューン』: メッセージは、感覚を巻きこめ
これは電子時代の芸術であり、テレビの時代であり、感覚重視、マーシャル・マクルーハンである。そして学校教育はまだ認識していないが、文学の時代はすでに過ぎ去っている。
このように考えが変わったのはある特別な出来事、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」のせいである。キューブリックがやってのけたのは、ずっと昔、アヴァン・ギャルドの領分だったことである。ストーリーを副次的なものにしてしまった。ストーリーを離れて自分のイメージをスクリーンに投影し、純粋な意味での映画に近づけている。「2001年」において、メディアはまさにメッセージである。最終結論――これは文学ではなく映画、本質的に映画である。
「見終わった観客の話を聞き、おおかたの批評の文学的解釈を読んでも納得がいかず、中途半端に放りだされた自分をただ見つめるしかない。物語をすなおに進行させず、連続性をも無視した、この多彩をきわめる映像表現のただ中に呆然と立ちつくすばかりである」
問題の多くは、あらゆる芸術様式にはすべて「意味」があると教える学校教育にその根がある。作家の書いた文章を簡潔に要約し、メッセージを読みとれというのだ。音楽には音楽の外にべつの意味があるとまで教えられ、春の夜やら、滝やら、気分とやらを表わすのだという。音楽のもつ意味について意見なぞ一致したためしはなく、爾来、音楽を語ることにわれわれは少々怖じ気づいてしまった。
場面と無関係のイメージを提示するというのは決して新しい考えではない。ベケットやイヨネスコは、劇場から演劇は「物語を語ら」ねばならないという信仰をとり去った。彼らが「マラー/サド」や消防署の「ジャック=ジャック(Jack-Jack)」を可能にしたのである。
個々のアクション自体にのめり込んでもよいし、イメージ自体のもつ実在感に感動してもよい。ストーリーや話のつながり、変転、キャラクターの構成あるいはプロットに悩む必要はない。
〔サミュエル・ベケット:1906〜1989、仏、作家、劇作家。アイルランドに生まれ、ヨーロッパを放浪ののちパリに定住。大戦中は抵抗運動に参加。仏語による3部作「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名付けられぬもの」、戯曲「ゴドーを待ちながら」他。1969年ノーベル文学賞〕
〔ユージェーヌ・イヨネスコ:1912〜1994、仏、劇作家。典型的な一幕の不条理劇「禿の女歌手」「椅子」「犀」などを多数書く〕
〔「マラー/サド」:ピーター・ワイスの戯曲。フル・タイトルは「サド侯爵の演出のもとにシャラントン保護施設の演劇グループによって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺」。精神病院患者らによる劇中劇形式で、革命家マラーの理想と貴族サドの個人主義の相剋を描く〕
〔「ジャック=ジャック」:
「マラー/サド」は観客の大半にはほとんどなんの意味もないが、彼らは興奮し、心を掴まれ、刺激され、気持ちをゆすぶられて劇場を後にした。ブロードウェイ・ミュージカル「ヘアー」は外見的なストーリーをすべてそぎ落とし、単純なイメージだけを表現している。観客がエクスタシーや愛のイメージに陶酔できたら、それが意味なのである。
〔「ヘアー」:1967年初演のロック・ミュージカル。ベトナム戦争と徴兵に抵抗するヒッピーたちを描き、ヌード・シーンをとり入れて話題を呼ぶ。題名は長髪が反体制の象徴だったところから。1979年ミロス・フォアマンの監督で映画化〕
「テレビ・コマーシャルはさまざまな方法でこの分野をリードしてきた。テレビ映像とともに育った25歳より若い世代なら、『2001年』を理解すると信じる。欲望以外になんの意味もない、コマーシャルを見慣れてきたのだ」
キューブリックは自己のメディアの本質を率直に認識したにすぎない。巨大なシネラマ・スクリーンと60年代の技術的知識をえると、かれは賢明にも映画にしかない独自の力を引出そうと決意した。その結果が、アンダー・グラウンドの芸術家たちが「フィーリー(feelie)」と呼ぶものである。
〔アンダー・グラウンド:前衛的な映画、演劇活動。またそのグループ。アングラ〕
キューブリック自身が言うように「ものごとの真実は考えるところではなく、感じるところにある」。かれが語ったのは、50年代のハプニングの一分派と60年代のアンダー・グラウンド劇場や映画のことである。理解しようと思ってはいけない、体験しようと思うべきである。
したがってキューブリックのカメラが宇宙船内を徘徊し、船内をぐるりと撫で回すのは、宇宙船はプロットを進めるためのたんなる乗物にすぎないことを、言葉ではなく行動で示しているのだ。重要なのは宇宙船が月に到着したり何かをしたりすることでなく、宇宙船自体なのである。ひとたびかれのイメージを掴むと、宇宙船が美しく、さらに彫刻にも力にもセックスにも見えてくる。
「原初の人類から宇宙空間を進む宇宙船に瞬時に切替える手法は、稚拙どころか計算しつくされた並列的対比の手法である。二つの力強いイメージ、先史人類と宇宙時代の開幕が背中合わせになっているのだ」
芸術家は鑑賞者に、作品のすべてを見るように、目を見開いてその世界にのめり込むようにと長いあいだ説明してきた。キューブリックはもっとすごい。強制するのだ。ストーリーを追いかけたり、文学的解釈を求めて中途半端な状態におちいったりしないとすれば、もはや宇宙船を研究するほかなく、蹴飛ばし、引っかいて抵抗しながらも、観客はキューブリックのイメージに引きこまれるのである。
この映画に意味がないというのではない。山登りに意味はないと同じ言いかただ。山と同様、たんに文学的意味がないにすぎない。キューブリックはもうすこし特殊で、かれの実験的イメージはもっと命令的である。
われわれはキューブリックの宇宙、世界、空間や時間と人間とのかかわりを学ぶのである。人類の夜明けは知覚の夜明けでもある。人類の歴史はその知覚拡大の歴史である。
だが美と意味は全体としての映画にある。過去において、映画や演劇はストーリーの特定のポイントを重視し、そこに異質のアクションを置いてプロットを進めた。ちょうど昔の航空会社がいかに早く目的地に着けるか、そこがいかに素晴らしいかを宣伝したように。いまは旅行自体の楽しさを謳っている。
「去年ガスリーの『アトレウスの家 (The House of Atreus)』を見て、意味の分からなかった人たち――そんな人がたくさんいた――彼らはいまだにガスリーの恐ろしいイメージに悩まされている」
〔サー・ウィリアム・タイロン・ガスリー:1900〜1971、英、演出家。ミネアポリスのタイロン・ガスリー劇場でシェークスピア等の古典劇を多く演出。張り出し舞台に現代劇の活性化を図る。生気ある群衆場面が特徴〕
〔「アトレウスの家」:ギリシア悲劇。ミケーネのアトレウス王家の血なまぐさい復讐物語。ガスリー劇場はこの上演でふたたび声価を高めた〕
モダン・アートが分からなくても懲りずに見に行っては悩み、そこに美を見いだす人は大勢いる。
分かりやすく安直にまとめた作品を超える現代芸術に、われわれは決して多くを求めなかった。芸術家には語らせよう、だが観客を巻きこまないでくれ。いま、キューブリックは巻きこんでいる――すくなくとも観客が望むなら。かれ自身に、ひとつの体験に、そしてかれが到達したものに、多くを求めさせようとしている。
『ニューズデー(1968年4月4日)』: 「宇宙の旅」、栄光ある失敗作
映画製作者スタンリー・キューブリックは才気に走り、自己中心的な思想にかられ、前作「博士の異常な愛情」の独創と大胆と予見性を凌駕すべく突っ走った。並はずれた才能ととほうもない自惚れから作ったのが、かつてない風変わりな映画「2001年宇宙の旅」である。
この人類の起源と到達点を描く、野心的かつ革命的な寓話の準備を始めたのは4年まえ、世界の破局を描いたブラック・コメディ「博士の異常な愛情」の公開後まもなくである。常識的な作劇の基準に照らせば、この新作はスペクタクルに満ちた栄光ある失敗作だと思う。
だが通常の規範を「2001年宇宙の旅」にほんとうに当てはめてよいか、わたしには確信がもてない。作劇的には整合性を欠き、思わせぶりだが、特殊効果はリアルで映画的な別世界を創造し、正しい判定を下すための基準すらない領域に達している。この映画自身の言葉でしか語れない、類を見ないひとつの体験である。
スタンリー・キューブリックとアーサー・C・クラークの脚本は、クラークの短編「前哨」をふくらませたものである。この短編の内容は、月で人類をはるかに超えた異星人が設置した発信機が見つかる。それは人類が進化をとげて地球をとび出し、宇宙を模索するまでになったことを知らせる、一種の警報器だったという話である。
この映画では、異星人は(人間の限られた知覚能力では、端部は黒いテーブルの上面にしか見えない)人類が進化する際に助産婦の役割をはたす。インターミッションも含め3時間、この映画はリーキーのヒトザルから21世紀の現代人、最後は新しい(明確に説明されない)進化の段階まで、利口ぶった先生である。変化のつど異星人が現れてそれを促す。
この謎の石板は、地球では人類の夜明け時代のサルの群れに、月では現代人が宇宙への進出方法を見つけた入口の時代に、また木星の周回軌道上で、そして象徴的な死の床の足元に出現し、現代人類はそれを通って次の進化段階に入るのである。キューブリックはこの石板を使って生命の力、進化の原理、神、もしくはさまざまな変容のつど人間性を剥ぎとる、異星人の超物体を表現したようである。
宇宙旅行の特殊効果について語るなら、「2001年宇宙の旅」は空前の映像スペクタクルである。定期運航されるスペース・シャトル、ヒルトン宇宙ステーション、月への宇宙フェリー、月面基地そして惑星間宇宙船が、つぎからつぎへと既成事実のように描かれる。大企業の技術支援で建設された、リアルで機能的なセットはSF映画にかつて類例を見ない。
たとえば毎日の運動のためにゲリー・ロックウッドが磁力靴を履いて床から天井に駆けあがり、環状の通路をくり返しジョギングする姿をカメラが追い、キューブリックは呆然となるすばらしさで生活スタイルやリズムを描写する。この目を奪う映画のなかでは日常茶飯事でも、外の世界では今後数十年間は実現されそうにもない。
キア・デュリアとゲリー・ロックウッドが船外に浮かんで修理作業を行なうシークェンスは、リアルで説得力がある。特殊効果以外の部分もこれほど優れていれば、「2001年宇宙の旅」は傑作、古典の一つになるだろう。だが残念なことに、全体的に見れば混乱して整合性を欠き、不満が残る。
キャラクターが類型的で、個性も歯ごたえもない自動機械なみであり、その人間性もコンピュータに押しつぶされた結果、この映画はドラマ性を失ってついに自滅した。進行はのろく、ペースも身勝手である。歴史のレッスンにも熱を入れるが、いささか物知りぶって押しつけがましい。そして映像に目がくらむあいだに、かつてない最悪のサウンドトラックが耳を襲う。
キューブリックが「美しく青きドナウ」を使ったのは、宇宙旅行の恐怖を乗客が居眠りし、食べ、読書のできる平凡で退屈な往還飛行にすり替えるためである。ワルツは人類が一つの輪のなかに入ることを示し、シャトル・ロケットが宇宙ステーションと交尾する性的なイメージと皮肉な対比をなす(キューブリックは「博士の異常な愛情」の空中給油のシーンでも、バックにロマンチックな歌を流した)。だが全体にやりすぎで長たらしいのは、他の音響効果もみな同じである。
この映画は冷徹なリアリズムと形而上学的な寓意のゴッタ煮である。プロットは単なるシンボルなのか、おざなりにしか扱われない。
月から木星への異星人探査のリアルきわまる旅は、一転、寓話的な進化の旅へと変わる。デュリアは人類を代表してコンピュータと一戦交え、自己の運命の支配権をとり戻す。かれの乗るディスカバリー号は木星着陸の準備をととのえたようだが、途中で例の黒い石板に遭遇し、麻薬の幻覚を思わせるサイケデリックな光と色彩の乱舞、まるで万華鏡のような体験を経る。精子の形をしたかれの船は、その後象徴的にその惑星と合体する(かれの目的地、人類のゴールである)。
いきなりかれは未来の不気味な部屋に着陸するが、その惑星ではない。その部屋で全人類を象徴するかのようにかれは老い、死の床に就き、例の進化の原理に手を伸ばし、その助けを借りてつぎの1段高い進化をとげて幼児になる。この進化は、人はどのようにして子供に生れ変わり、天の王国に入るのを許されるのかという、聖書的ほのめかしを表わすようである。
この映画はとんでもない跳躍をする。エピソードは最後の最後まで論理的な構成をもたない。誤りである。サスペンスはなく、あるのは驚きと混乱、そして多くの人びとの憤りである。
再批評で、ニューズデーの批評家ジョセフ・ゲルミスは「2001年」を傑作と讃える。かれはニューヨークにおけるこの映画支持の急先鋒になった。
『ニューズデー(1968年4月20日)』: 「宇宙の旅」、もうひとつの見方
ジョセフ・ゲルミス
100年ほどまえ、『白鯨』はイギリスでもっとも博識で影響力のある文芸批評家のひとりから徹底的にこきおろされ、完全に否定された。ガラクタをでたらめに詰め込んだオモチャ箱でしかないとする、その議論には説得力があった。甘ったるいリリシズムと詩的な神秘主義を嘲笑したのである。19世紀の常識的な小説作法に則っていないゆえ、無条件に失敗作だというのだ。かれは文句なく正しかった。しかし今日、この批評家の名を思い出せるのはあるいは5、6人の学者くらいのもので、逆に大学の新入生ならこの中傷された作家の名前くらい誰でも知っている。
職業批評家はときとして、必要に迫られて設けた便宜上の区分や規範もしくは慣習に囚われることがある。くる日もくる日も、何もない真空状態のなかで働けるわけではない。そこである一定の美学的な座標軸や価値体系を設定し、それを基準に新しい作品を判定するのである。その作品がどのような形をとるべきかという、予断をもって映画に接する。分かりやすいものをよしとする、現状維持派なのである。
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のような常識はずれ、独創的な映画に出くわすと、理解や記述の枠組みからはみ出すため批評の大家たちはひっくり返る。脅威を受けるのだ。既成の基準が当てはまらないから、磨きぬいた言いまわしや警句も役に立たない。必要なのは曇りのない目とものごとにとらわれない感受性、そして柔軟な言葉である。ひとりの例外(『ニューヨーカー』のペネロピー・ジリアット)をのぞき、新聞や週刊誌の批評家たちはこの映画を期待はずれだとして即座に否定し、野心的な失敗作と見た。
わたし自身批評にこう書いた「常識的な作劇の基準に照らせば、この新作はスペクタクルに満ちた栄光ある失敗作だと思う。だが通常の規範を『2001年宇宙の旅』にほんとうに当てはめてよいか、わたしには確信がもてない。作劇的には整合性を欠いて思わせぶりだが、特殊効果はリアルで映画的な別世界を創造し、正しい判定を下すための基準すらない領域に達している。この映画自身の言葉でしか語れない、類を見ないひとつの体験である」。
わたしは最初の批評と必死で格闘し、書きなおし、さらに書きなおして3度に及んだ。書きたいことをいい尽したわけではない。「魅惑的だが心に響かない映画」を基調にするつもりだった。そして他人の批評を読むと、ほかならぬ「博士の異常な愛情」の悪役のように、ヒステリックに必要以上に酷評しているという点ではほとんど全員が有罪だった。
映画批評ゴマカシの原則のひとつは、最初にその映画を貶していないならそれを忘れろ、なぜなら観客も貶さないから、である。一般に観客は映画をいちどしか見ないから、映画は要点を明確に、しかもできるだけ手早く示さなければならない。経済的な理由からもこれは本質的に真実で、1200万ドルのシネラマ冒険大作ともなると、その投資の回収のためにも多くの観客にアピールしなければならない。
わたしはこの映画をもういちど見ようと、やっとの思いで立ちもどった。19世紀に新スタイルの文学が現れると専門家の手になる既成の価値基準が脅かされ、そこから生まれた敵意にも似た過敏な反応と、このあまりの酷評が似ているのではないかと疑ったのである。
「2001年宇宙の旅」を二度目に見たあと、これは傑作だと確信した。この完璧ともいうべき高度の完成度を疑う者や、自己の考えを翻すような批評家は大向こうの観客と選ぶところはないと思う者に、この映画を見せる必要はない。この恐るべき映画は、かつて見たどんなSF映画よりも数光年先を進み、H.G.ウェルズやジュール・ヴェルヌではなく、ユングやウィリアム・ブレークの神秘的ビジョンに多くを負っている。
〔ハーバート・ジョージ・ウェルズ:1866〜1946、英、作家。20世紀初頭の進歩主義思想の普及に重要な役割。『タイム・マシン』『宇宙戦争』『世界史大系』〕
〔ジュール・ヴェルヌ:1828〜1905、仏、冒険小説作家。空想科学小説の父。『海底2万浬』『月世界旅行』『80日間世界一周』など〕
〔ウィリアム・ブレーク:1757〜1827、英、詩人、画家、版画家、神秘主義者。詩集『無垢の歌』『経験の歌』には想像力の自由に対する強い信念と、合理主義、物質主義に対する憎悪が表れている。版画は神秘的、預言的作品が多い〕
「2001年宇宙の旅」を推奨する際の問題は単純で、ようするに二度見なければ納得できないだろうということだ。これは予約席で3時間(休憩も含めて)鑑賞するのに、入場料を含めて1人3ドルの出費と多くのスタミナを要することでもあろうか。それが嫌なら何が起きようとしているか、その細部を見落とさないように、つまり表面的な冒険活劇はあまり気にしなくてよいが、要所々々では十分注意することである。
キューブリックの演出は人間的な表現を抑えてドラマ的な感興をそぐ、映画的には自殺行為といってよい。テンポはのろく、キャラクターにも魅力がないので、筋を追うのにあき飽きするだろう。わたしのように、宇宙船の操作をこまごまと説明した箇所はカットすればよいのにと思うだろう。だがこの世の地獄のような重い体験を、キア・デュリアがこうしてひとつ一つ積みかさねていくからこそ、この自動人形に象徴的な生れ変わりがあるのである。21世紀の人間は誰もが深く感動し、喜びをもって人生を再肯定するだろう。
初見のときは魅力に乏しく、ドラマとしては失敗作だった。「退屈」がそのメッセージである。しかもまるで先史時代のヒトが投げた骨のように、宇宙時代の人間のビジョンは無機質で、構成的にも終幕までの後半とは無関係のように見うけられた。リアルだが情感に乏しい。そして突如、キューブリックはスクリーンに寓意に満ちた驚異の映像を叩きつけるのである。
キューブリックはサスペンスではなく驚異をもちいたため、長すぎたり困惑したりするシークェンスが多く、再見してもやはりそう感じる。状況説明の達人、アルフレッド・ヒッチコックはいっている「サスペンスを感じさせるには、観客にすべての事実を十分に知らせておかねばならない」。推理映画や探偵映画は「サスペンスではなく知的パズルの類だ。探偵映画は情感のない好奇心のようなものを刺激するが、情感はサスペンスに不可欠の要素だ」という。
ヒトザルによるプロローグと星の子への進化を描いたエピローグは、「2001年宇宙の旅」でもっとも心惹かれ、気分の高揚する情感に満ちた部分である。特殊効果、ことに宙にただようデュリアが精神異常を起こしたコンピュータ、ハルにロボトミー手術を施すシーンはきわだっている。ニューヨーク、キャピトル劇場での公開後、キューブリックは19分縮めてアクションのテンポを速め、つんざくようなサウンドトラックの音量を下げ、二つのタイトルを入れて内容を分かりやすくした。あくまで独自の映画言語の受け入れを求めるこの映画にあって、これだけがキューブリックのおこなった譲歩である。
『ニューズデー(1969年4月5日)』: 「2001年」のメッセージをどう理解するか
ジョセフ・ゲルミス
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」があまりに常識をかけ離れた映画であるため、一部の文化評論を読むと、ほとんどこの映画のことを直接論じたのではないかと思われるものがしばしば見うけられる。
『人間拡張の原理』のなかでマーシャル・マクルーハンはこう言っている「芸術家が文化的、技術的挑戦の時代のメッセージを取りあげると、その後べつの形で衝撃が起きる。そこでかれはモデルやノアの箱船を作り、ちかい将来起きるであろう変化に立向かうのである」。奇妙な精子のような形をした、宇宙船ディスカバリー号は2001年における一種の箱船である。
マクルーハンは言う「芸術家とは科学、人文の分野を問わず、おのれの行動と時代の先端知識との密接な関係を把握している人間である。認識の集合体である」。
かれは芸術を「新技術の及ぼす心理的、社会的影響にどう対処するか、その正確で最新の知識」と捉え「新しい芸術様式を社会的な航海用海図に翻訳する」必要があると説く。そして「とつぜん芸術が芸術のみのために鑑賞されるようになると何が起きるか、つまり人間の能力が拡大したときに起きる新たな思潮を予測するには、人間の心理をどう組み換えればよいか、その情報に関心がある」ともつけ加える。
「2001年」をマクルーハン理論に照らすと、それがみごとに適合するのは驚くばかりである。だが映画の内容を洞察しても、イギリス、ユング派の精神医アラン・マクグラシャンの『野蛮と美の国(The Savage and Beautiful Country)』から得られる以上のものはない。『野蛮と美の国』(フートン・ミフリン社:4ドル)はわたし自身の人生にも深く影響したが、この10年間でもっとも重要な哲学的著作の一つでもある。マクルーハンとマクグラシャンの著作は、1968年に「2001年」が公開される以前に出版されたものである。
前書きで、マグラシャンは同書の目的は知覚の新しい方向を示すことだと言う:「ほとんど知覚できない内面の変化――意思をもつ者のように支えてくれる伝統的価値判断、釣り合って静止した認識、魂の言葉を語る長くて柔らかな声の聞こえる静寂 」
「人類が決定的な心理的突然変異の瀬戸際にいること、一方では外的世界を知的に把握しつつ、たじろぐことなく内的世界の侮りがたい価値を理解できる高い個性への脱皮――これらの指摘は、かぎりなく風上に向かって帆走するようなものだと言ってよい」
ニーチェはピタゴラス以来本気で追求されことのない真理を垣間見たと指摘し、まったく新しい哲学は要らないが、ただ「人間は自分自身を超えるべきだ」とも言った。そして「2001年」では、進化の歩みはリーキーの人猿から現在の種ホモサピエンスへ、そして繭のなかの新生児、星の子――幼い天使、あるいは超人へと進む。
マクグラシャンは言う「ベルグソンが信じるように、外部世界のものは有用なものしか意識しないよう、脳は人間の認識を制限している・・・しかしひとは、(他の)知覚に対する制約がひどすぎるからといって、自分の脳を非難することはないだろう。意識には混雑時の交通警官のように、快適な環境とそれが守る人間のかよわい生命の火の役割を整理する力は十分にあり、時間と空間を超えてやってくる情報により、二つが同時に乱れてしまうこともない」
「事実、これが『常識』のもつ測定不可能な力の秘密かもしれない・・・慌ただしい生活なかでは、ようするに憧れの遠い世界から呼びかける、かすかな声に聴き入るゆとりはないのだ」
『イースト・ビレッジ・アザー』: 軽画
短編シナリオ:「2001年:その翌朝」
主演:アヴァン・ギャルド映画のファン、ハリウッドのこまネズミ芸術家
アヴァン・ギャルド:ガハハハ! みな昔やったことさ! もっとうまくな!(うやうやしい表情、歌う)ベルソン/ブラケージ/ジョーダン/ブリーア。D.W.グリフィスとチャーリー・チャップリンには言及しない。
ハリウッド:ガハハハ。何をいいやがる、フン。ナンセンス。呆れてものがいえん。
“ジ・エンド”
「2001年宇宙の旅」は不明瞭なものが複雑、繊細に絡みあったままいつしか台詞がなくなり、ひたすら映像のみが噴出する。トリップを目当てに、もういくども見た人たちがいる。トリップを見るには大変な気力が要るので、ずっと目をつむっている人もいる。冒頭の5分間のプロットを説明できる者が誰もいないのは真実だ。
その代わりシャレにつぐシャレの連続で、そのすべてが――確かにいちばん大きなシャレである――まさに宇宙の、銀河規模の枠組みに組込まれている。ここでいうシャレとは外観と実質間のある言語的、視覚的相違のことで、ユーモアや歴史的視点という意味も含む。「2001年」はこの時代へのより意味深長なシャレであり、ひとつの歴史的縮図かも知れない。生命と芸術・・・劇場と映画・・・見ることとただ眺めることの境界を求めている。生命は一連の過程であり、ある意味では経験からえた情報の一連の相互関係でもある。芸術は蓄積、情報から得た知識であり、因果の総体へと変化する。シネマ、フィルム、映画、活動写真――あるいは演劇にはみな脚本、監督、プロデューサー、予算、セット、俳優がつきものである。映画にはしかし第3の目、カメラがあり、松果体ほどよくは見えなくとも、宙吊りにされたような不安感を表現する際にはたしかに活躍してくれる。比喩的な枠組みを創出するためのステージはないが、スクリーンはそれとは異なる。スクリーンの本質的な枠組みはつねに現実世界の外にあり、またそうあり続けてきた――他のあらゆる在来芸術様式からみれば神の子であり、遠からず人類を月に送ろうとする世界、しかも飢える大衆を笑って見すごす世界に対する時代の子として、スクリーンは生まれた。この不思議を伝えるには何によればよいのだろう? 人びとはかつて街角からウィンクしたように、スクリーンからこともなげにウィンクする。ありがとう、ゴダール、トニー・リチャードソン、すべての人びと。
〔トニー・リチャードソン:1928〜、英、演出家、映画監督。英演劇界の「怒れる若者たち」のひとり。「蜜の味」「長距離ランナーの孤独」「トム・ジョーンズの華麗な冒険」「ホテル・ニューハンプシャー」など〕
リンドン・B・ジョンソンや香港カゼ、フィルモアのコミュニティ・ナイトが大騒ぎされた年に、「冬のライオン」がニューヨーク映画批評家の投票でベスト・ワンに選ばれたことはさしたる驚きではない。かれらの鋭い洞察力を讃えよう、全員が「2001年」をじつにみごとだと正しく発言したのだ。他の何が1本の映画をこれほどきわ立たせる――あ、区別させるのだろう? 大きな撮影所、ビッグネーム、莫大な予算、言葉たくみに提灯記事を書く有名記者。いうまでもないが(ウォーホル映画にかき回されてはいけない――それでもいいか?)、「冬のライオン」は20世紀の陽気なオールド・イングランドの家族を描いたものだ――むろん歴史劇の形はとっているが。1人は雑役係、1人はうすのろ、あとの1人は脂ぎって何を考えているか分からない御先祖様に似た奴――「パパ大好き」。羊どころか何とでもやりかねないパパが1人。ひとつの大家族。ネオリアリスト以前の「フェイシズ」の類であろう。息を吹き返した「原始人とおっぱい絞りたち(Primitivo and the Titsqueezers)」である。
〔「冬のライオン」:J・ゴールドマンの舞台劇の映画化。王位継承問題で苦悩するヘンリー二世を中心とした複雑な人間葛藤を重厚に描く。1968年、アンソニー・ハーベイ監督〕
〔「パパ大好き」:米のテレビ・ドラマ(1960〜1972)。男やもめのエンジニアが3人の息子を育てるのに悪戦苦闘するコメディ。1961年日本でも放送された〕
〔ネオリアリズモ(伊):イタリアン・リアリズム。第2次大戦後の悲惨な現実を直視した映画を目指す、イタリアの若い映画作家の間から生まれた運動。野外撮影、無名俳優や素人の起用で強烈な現実感を出し、世界に大きな影響をあたえる。「無防備都市」(ロッセリーニ)、「自転車泥棒」(デ・シーカ)、「大地は揺れる」(ヴィスコンティ)などの傑作群を生んだ〕
〔「フェイシズ」:結婚後14年目を迎えた夫婦が、決定的な破局にいたるまでの36時間を追った物語。1918年、ジョン・カサベテス脚本、監督〕
〔「原始人とおっぱい絞りたち(Primitivo and the Titsqueezers)」:
どうすればいいんだろう、最初のタイトル「人類の夜明け」が現れ、いく頭かのサルたちが生命の源――水場――が小さすぎて全員にいきわたらないと不意に気づいたとき。1本の骨をしっかり握るとそれが武器になること。1本の骨を空高く放り投げるとべつの「原始的な」武器(あるいは道具)、宇宙船に変わること。カメラの眼がふたたび宇宙船の内部を見つめるまえに気づくだろう。跳躍のカットはなかった、われわれはまだそこに、人類の歴史の夜明けにいることを。
(たとえ細部は各人各様に埋めるにしても、古きよきアヴァン・ギャルドのように、誰もがストーリーを自分自身のやり方で語っている)
これが「2001年」に関する「わたしの説明」すべてというわけではない―――他の誰にも、この映画を権力で踏みにじって台無しにする理由もなければ、この文で法的に定義する理由もない。誰しも好きな場面があり、わたしのそれはオープニング・シーンである。だがキューブリックはもっととんでもないシャレを弄んでおり、この映画の真のスターは、彼らスターとは違うんじゃないかと怪しむのももっともだろう(そうだ、そうだ、舞台やスクリーンのスターたちは「自分自身」を演じている)。光のトリップはあまりに多く語られたといっても、それはやはり揺るぎなく存在し、そしてそれを作ったのは相対性理論でもLSD(ベルソンによる)でも、あなたの親友のアヴァン・ギャルド映画作家でもない。トリップは2度も見るようには作られていない。物心ついたころの記憶を呼びもどそうとした覚えがあるなら、自分はかつてそこにいたのだから、最初の鮮烈さが二度とよみがえらないのは分かるはずだ(『霊魂不滅の告知』参照)。
そしてこのコラムはさまざまな疑問、なぜある特定の場面の映画的手法が視覚的に印象的なのか、すばらしいのか、あるいはたんに効果的なのかといった疑問に深入りするつもりはない。光が明滅するにすぎない。スペース・ポッドが巨大な宇宙船の船首からただよい出る。銀色の小魚が「白鯨」の前で体をきらめかせる。冒頭の場面で広大な砂漠のスライドがつぎつぎに映しだされても、誰かがカメラを操作していると思うだけである・・・
他の映画はどこかの家族や人間たち、あるいはセンセーショナルな話を語ろうとする。この映画は機械の時代全体の理解を試みるが、最後のシャレはこの映画を作るには膨大な機械が必要だということである。
〔LSD:強力な幻覚剤であるが、肉体的習慣性はない。無色無味無臭で水溶性〕
〔『霊魂不滅の告知(Intimation of Immortality)』:イギリスの詩人ワーズワースの『幼年時代の思い出から霊魂の不滅を知る
(Intimation of Immortality from Recollections of Early Childhood)』の略称〕
『ロンドン・タイムズ』: 「2001年」を再見して
氷河が溶けはじめたときマンモスが感じたことを、もしかしてわたし自身がかすかに知っているのではないかと思うような時間が、映画にはある。今週、友人をともなって「2001年宇宙の旅」を見たとき、何かいいようのない力が働いてそんな思いに打たれた。
2度目は自分の楽しみのために自分で座席を予約して見たのだが、席は前回とぴったり同じだった。面白かったし、わけても惹かれたのは巧妙に仕組まれた中間部全体、発狂したあげく人殺しの決意までした不良ロボットと戦わねばならぬ、と宇宙船の住人たちが腹を括るくだりである。冒頭のエピソードは時間をかけすぎだし、終幕は意図的にぼかしてあると思ったのは前回に同じ(ちなみに最近出たこの映画の原作は、両部分ともずっと明快である。たとえばサルたちが遭遇したあの黒い玄武岩の石板は、宇宙から来たティーチング・マシンとされ、終幕のロココ調の部屋は宇宙飛行士が想像力を働かせるための道具で、必要が無くなるとあっさり放棄される)。
宇宙船が宇宙ステーションに到着する場面や、その他に示される精巧な技術については賛辞を惜しまないが、映画全体を見た場合、やはり長すぎる感じだ。フィルムの編集時、スタンリー・キューブリックは精巧な画面作りに熱中するあまり、自分は面白くても観客はさして興味がわかないことをきちんと認識しなかったのではないか。
あゝ、だがそこがわたしの間違っているところなのだ。この映画を再見したとき、観客には父親、なかには母親に連れられた15歳以下の子供、ことに男の子が多かった。わたしの後ろの席には典型的な家族連れ、30代半ばの両親と11歳くらいの男の子が座っていた。かれらの反応はたいそう興味深かった。母親は明らかにつまらなさそうで落ち着かなかった。わたし同様、彼女はほとんどプロットに囚われていた。それなのに小声で夫に、あれは何なの、何が起こっているの、宇宙船って本当にあんなものなの、そんな類の質問を浴びせ続けている。父親は自信をもってというより、そうあって欲しいという答え方のようだった。だが明らかに、かれが関心をもったのはメカニカルな面、メカーノ遊びに熱中する連中をたちまち虜にする類のものである。かれにとってプロットは、ミュージカルの筋書きのような素敵な添え物、本当に食べたい物が入っているサンドイッチのパンのようなものだった。
〔メカーノ:鋼鉄片をいろいろに組み立てて楽しむ子供用玩具〕
いっぽう少年は映画のすべてに心を奪われていた。両親の会話がしつこすぎると黙らせ、休憩時間には興奮を隠さなかった。「面白い? いいでしょう? 分からない? どこが難しいの?」。むろん天才児だといってしまえばそれまでだか、そうとは思えない。ごく普通の子供にしか見えなかった。だが、かれは明らかに両親、そしてわたしとも違った方向に注意を向けていた。かれは、こういっていいだろう、いちいち話のつじつまを合わせることや、ある場面を理解すること、あるいはスペクタクルな効果のことなどまったく意に介さず、映画自体にのめり込み、惹きつけられ、導かれていた。あえていえば、LSDのトリップのようにそれに身を委ね、つぎつぎに押し寄せるスリリングな体験に神経は高ぶり、理性的な思考の束縛から解き放たれていたのだった。これはかれの年齢と教育のレベルが低いせいではない。ようするに、ことさら子供じみた映画の見方のせいではないのだ。どの先生もおっしゃるように、子供、とりわけあの年頃の子供たちは概してあらゆる面でひどく理屈っぽく、なぜ、どうして、とつねに納得のいく説明を求めたがる。
そうではない。極端ないい方をすれば、物語を理解するためのまったく新しい方法を手に入れたのだ。わたしにはそう思われる。このことを実証したのは子供たちだけではない。多くの若者やさほど若くない大人たちにも、同じ方法を身につけた人がいるようだ。彼らが求めた、すくなくとも躊躇なく受入れたのは、整然とつながったプロットではなく、生き生きと生気に満ちた時間のつらなりなのだ。こういっていいだろう、観客はアルトーが提唱した「残酷演劇」のなかで条件をととのえられ、論理的思考を完全に放棄し、さらにドラマの衝撃を正面から受けとめる準備を十分に整えた状態で、作家の側から観察されるのである。とうぜん、わたしはこのことを説明する論理を用意しているが、さして目新しくもない。だがわたしには、マーシャル・マクルーハンやかれがときおり語る無意味で刺激的なものに含まれる意味にではなく、テレビのある生活が知覚作用にあたえる影響について、われわれは現実に、まだほとんど注意を向けていないと思われる。テレビではありとあらゆる理由で――ほの暗い劇場で観客が舞台やスクリーンに注意を集中させるのに比べると、家庭ではさまざまなことで注意が散漫になりがちだという理由ではない――注意は常時あちこちにさまよい、しかもそれが分単位ではなく、秒単位でうつろうのだ。それゆえ必要なことは、多くのものを詰めこみ、番組のあいだ中ずっとあの小さな画面に注意を集中させることではなく――そんなことをしたら疲れはててしまう――もの珍しいニュースがあるたびに注意は集中するのだから、適当な間隔で休憩させることである。ひとつのニュースからつぎの面白いニュースにどのように移行するか、明らかに未解決の問題である。
〔アントナン・アルトー:1896〜1948、仏、俳優、演出家、詩人。1929年、アルフレッド・ジャリ劇場を創立して「夢劇」「血の噴射」等を演出。物語や心理的写実主義を排し、夢や精神の内にひそむオブセッションを扱う演劇を提案。戦後演劇に大きな影響をあたえる〕
〔残酷演劇:直接的で激烈な行動、生の躍動の復権を主張し、戯曲への従属を排し、俳優と観客の間に直接的な交流を作る。前衛演劇の先駆として影響は大きい。残酷は「ありのまま」「生」といった意味あいで使われる〕
それゆえ特別なプロットがさしたる重要性をもつわけでもなく、様式全体に意味を及ぼすわけでもない。注意を奪うもの自体に十分なスペクタクル性があれば、背後にある論理的な裏付けをことさら問題にする者などいない。そして、ひとたびこのような心理的習慣が身につくと、それは他の分野の活動、ことにスクリーンと舞台に影響を及ぼすことになる。プロットに明らかな欠点があるものが多く、わたし自身じつに頻繁に悩まされたことは承知している――たとえば警察の捜査手法や倫理観を描いた新作映画、イギリスの「奇妙な事件 (The Strange Affair)」とアメリカの「刑事」には、双方とも横着きわまりない矛盾があり、トーンには激しい断絶がある――だが料金を払って見る普通の観客が、これらの映画に困惑していたとはとても思えない。なんら筋らしい筋もなく、ただ断片や小片をつないで長編映画に仕立てただけのビートルズ映画「イエロー・サブマリン」に人気が出るかどうか、それが判断基準のようにも思われる。そうではない、ただこの映画の上映館では教養ある人たちは必ずしもそうではなかったが、観客は十分受入れ、上映中はずっと興奮と熱気に包まれているように見うけられた。
わたしはジェリー・ルイス(フランク・タシュリン好みの喜劇俳優)にすこしずつ慣れてきており、全体がどうなっているかには注意を向けなかったが、個々のギャグの巧妙な積みかさねにはすっかり心を奪われた。だがテレビや新聞の連載マンガに慣らされた観客は、明らかにわたしより進んでいた。思うのだが、自分も結局筋らしい筋のないドラマや、音響やむき出しの感情を超えた、意味などほとんどない点滅と爆発だけの映画に順応していくのだろうか。これはしかし、現代の映画は小さな子供にしか理解できない、未知の領域だと決めつけるのをおそれることにほかならない。
〔「刑事」:家庭生活に悩みをかかえ、捜査上で女と深い関係になって仕事に失敗するひとりの刑事の姿を、ナレーションを多用して描く。1968年、ゴードン・ダグラス監督〕
〔フランク・タシュリン:1913〜1972、米、映画監督。1950年代後期から60年代初期にかけ、ジェリー・ルイス主演作品を中心に喜劇監督として活躍。ヨーロッパでの評価が高い〕
『シカゴ・デイリー・ニューズ・パノラマ』: 2001年、どこで正しくなった?
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は、最近の映画批評界に酷評(と大笑い)をまき起こした映画である。4月の封切り後、東海岸の批評家たちはほぼいっせいにこの映画をこきおろした。レナータ・アドラーは退屈のあまり『ニューヨーク・タイムズ』に「3時間の指環の出ないトールキンみたい」と書いた。アンドリュー・サリスは『ビレッジ・ボイス』でこういう「写真ばかりで記事がないときの、ライフ誌のつまらない言いわけ」。『ニュー・リーダー』でジョン・サイモンは形而上学的な思わせぶりを罵り、こんな名称をたてまつった「ひとりよがりで退屈な神サマのお話」。ジュディス・クリストはこう疑問をぶっつける「スタンリー、どうしてわたしをここに連れてきたの?」・・・宇宙は黙して語らない。
〔ジョン・ロナルド・リューエル・トールキン:1892〜1973、英、作家。代表作『指輪物語』3部作は、世界の命運を握る指輪をめぐって熾烈な戦いが展開される壮大なファンタジーで、児童文学として高く評価される〕
この3時間の宇宙活劇につき合ったのは試写会の観客だけではない。支援するMGMも息を呑んだ(1000万ドル、いくつかの世評、ことによると「宇宙の旅」に社運を賭していた?)。キューブリックはただちに編集室に引っ込んで、30箇所、およそ20分の細かなカットをおこなった(「あと1時間カットしたって、どうってことないさ」とからかう向きもある)。整形外科業界の人たちがいうように、現在の2時間21分版は、手術をしたと知っていればそのキズがやっと分かるていどである。
その背後にはカット箇所を正確にいい当て、あるいはその省略でどう感じが変わったか分かる人たちがおそらく100人はおり、そのことが、「影響力のある」批評の外側にこの映画に惹かれる一種の崇拝者集団がいることを示している。誰かがいつもいうように「みなが『2001年』を嫌った、むろん一般観客はべつだがね」。
現在14週目に入ったところで、この映画は『ヴァラエティ』の入場券売上げ第4位に入っている(上から「おかしな二人」「グリーン・ベレー」「ローズマリーの赤ちゃん」)。MGMの「ドクトル・ジバゴ」の稼ぎ7600万ドルを抜き、シドニー、東京、ロンドンでは入場者数の新記録を作った。
マイク・ニコルズ、ミック・ジャガー、ジョン・レノン(「毎週見てるよ」)、フランコ・ゼフィレッリ、ロマン・ポランスキー、リチャード・レスターなどが参加した「2001年ファンクラブ」が現実に発足した。なかには最初の評価をくつがえした批評家もいて――誰もがそれぞれの「俺たちに明日はない」に直面する――多くの人たちがいちどならずこの映画を見ている。
〔マイク・ニコルズ:1931年〜、米、映画監督。繊細で理知的な作品が多い。「卒業」「愛の狩人」「ワーキング・ガール」など〕
〔ミック・ジャガー:1943〜、英、歌手。本名マイケル・フィリップ・ジャガー。ロックグルプ「ローリング・ストーンズ」を結成。ステージでの慣習にとらわれない態度、グループの自由奔放な生き方は一つの反体制的イメージを作りあげ、60年代ティーンエイジャーたちの心を捉えた〕
〔ロマン・ポランスキー:1933〜、ポーランド、映画監督。独の強制収容所を体験。疎外感をテーマとし、悪への理解を示す姿勢を見せる。「水のなかのナイフ」「反発」「マクベス」「ローズマリーの赤ちゃん」「戦場のピアニスト」など〕
〔それぞれの「俺たちに明日はない」:公開直後はこの映画を酷評したが3か月後に評価を一転、「ニューシネマ」の誕生と絶賛した『タイム』誌の例は有名〕
ダートマス大学映画学の講師モーリス・ラプフは『ライフ』誌上で、唯一この映画を救ったのは13時間がかりのキューブリックのカットであり「旧来のスタイルなら大失敗作というべきものが、新しい型の傑作に変わった」と論じている。興味ある考えであり、あまつさえ検証不可能でもあるが、それでもラプフはすこし誇張しすぎであろう。一例をあげると、長時間版はニューヨーク、ワシントンDC、ロサンゼルスで同時に上映されているが、ニューヨーク以外の2都市の批評家たちは多少当惑気味にせよ、この作品を熱狂的に受入れている。
オリジナル版は見ずに短縮版だけを3回、それも毎回ちがった観客とともに見たが、この映画を理解する人たちは上映時間がたとえ5時間になってもやはり理解するのはまちがいない。2時間半も見てさえ観客は席を立たず、スクリーンをせり上がる巨大なクレジット・タイトルを見つめ続けたのである。
この映画を褒めない人たちの多くは、おそらく劇場に入るまえから退屈していたのだろう。スタンリー・キューブリックが5年の歳月と莫大な予算を費やしたという理由だけで、しかたなくSF映画を見る気なったのだ。
司祭のあとに会衆の唱和が続く連祷のように、巨大な時間と資金が、あたかも失敗への保険料のごとく「宇宙の旅」にはくり返しつぎ込まれた。これとは対照的に、全米カトリック映画協会のヘンリー・ハークスはこういう。「撮影終了から公開まで2年もかかったが、これは編集時に多くの問題が生じたことを示すのではないか。もともとこの映画は物語的な構造をもっていたが、それがうまくゆかなかったことを示す。キューブリックにはひどい経験だったと思う」
ハークスは、キューブリックを「アメリカン・ディレクター」だと考えており、この映画に激しく絶望している。「わたしの映画に対する興味は、それにのめり込んだり内省的になったりすることにではない」。
凡庸な作品を並べてさえいれば大失敗は防げるのだが、「突撃」や「ロリータ」そして「博士の異常な愛情」を作ったキューブリックはこれには該当しない。
「宇宙の旅」のもっとも美しい批評はニューヨーク発の数少ない積極評価のひとつ、ペネロピー・ジリアットのものである。「わたしは、ある種偉大な映画だと思う」と『ニューヨーカー』の卓抜な批評で語る。まさにどんな種類の「偉大さ」か、おそらく2001年あるいはさらに未来までの語りぐさになるだろう。
結局(1970年までにいえることは)、この映画はおそらく美的によりも歴史的に高く評価されるだろう。この映画がおこなったのは、地下にひそんでいた重要な文化活動(映画、音楽、美術あるいはこれらの組合わせ)のすさまじい活力を、商業的文化活動のまっただ中に引きずり出したことである。
この世界で、フィルモア公会堂やエレクトリック・シアターがもし1000万ドルの金さえあれば、何はともあれまずやりたいであろうことをやってのけたのである。「ヘアー」がやったこと、セックスとワイ談とコカインをとり入れ、それらが「商売になる」と示したことをやったのだ。全席予約、50セントのポップコーンを売る高級住宅地の豪奢な劇場で、「2001年」は思考の放棄(「物事の真実は考えるところではなく、感じるところにある」とキューブリックはいう)、麻薬の幻覚作用、染色体の突然変異を見せたのである。
〔フィルモア公会堂:サンフランシスコのダンスホール。60年代から70年代にかけて多くのロック・コンサートがおこなわれた。1989年地震で閉鎖〕
〔エレクトリック・シアター:
これは現代の文化革命につながるものであり、従来の慣行――アンチ・アート、ハリウッド様式の映画を否定するものである。あえて90分を超える長さで、分かりにくく、退屈で、筋らしい筋もなく、そして類例のないものをめざした。台詞はわずかしかなく、キャラクターの展開もなく、見るべき演技もない点では、従来の伝統から外れた非劇場的な作品である。コンピュータ、ハルの声(ゲイ?)を演じるダクラス・レインのみが存在感を出している。
事実、キア・デュリアは――演技にあまり幅がないから宇宙飛行士役に起用されたにちがいない――キューブリックについてこう語っている「かれは理想をいえば機械のような俳優が欲しかったんだが、それがいなかったから俳優を機械のように動かそうと考え、俳優にはそれができると思っていた」。このような状況でみごとに礼儀をわきまえているではないか。
抜け目のないことに「2001年」にはほぼあらゆる人――SFファン、印刷物以外の視覚作品や音楽の愛好家、科学者、知識人、形式主義者――にとって何かがあり、それらは個々にでも味わえるが、しかし全体として統合されたものではない。
冒頭の「人類の夜明け」の部分は額面どおり駐屯地と受けとるほかないが、あるいは誰かのように「4年生用イラスト入り教科書」と考えてもよい。(サルのぬいぐるみを着た俳優が、どうやったらほんものの赤ん坊ザルの親になれるんだ? 進化だとさ!) まるで作り物の
デコイ(おとり)同然のキャラクターを満足に描写、展開させないまま映画は進行する。人間とコンピュータの戦いは使い古され、手垢のついた仕掛けである。クラビウス基地でじっさい何が起きたかという謎はインチキだ。哲学はハリール・ジブラーンの詩のように意味深い。終幕は必要以上にあいまいにしてある(親たちの報告によると、視覚的なものには理想的な反応を示す子供たちでさえ、終幕には不平たらたらで説明不足だったという)。これら多くの欠点も、この映画のファンにすればほんの些細なことにすぎない。
いうなれば、ひとつ屋根の下にアンダー・グラウンドで発展したあらゆるものを展示し、しかもそれぞれの作家の作品よりよくなっていないのだ(例:ヴァンダービークの天才的技巧と内容、ウォーホルの長大さと退屈、万国博の非アンダーグランド作品)。この映画の視覚的な美しさに没入したい人たちはストーリーに辟易し、プロットに関心のある人は星々にうんざりしてしまう。
〔ハリール・ジブラーン:1883〜1931、レバノンの作家、詩人。ボストンを経てニューヨークに移住。名作『予言者』はアメリカの若い世代に大きな影響を与えた。『抗う魂』『涙と微笑』など〕
コロムビア州の若い(「ああ何てこった、もう30だとさ。21歳だと思ってるのに」)映画学徒ブラザー・ベンジャミン・コリモアは『カトリック・フィルム・ニューズレター』で「宇宙の旅」を評し、明らかにこの欠陥を評価するコメントを述べた。「否定的な意見も分かるが、でもそれはすこしも問題にならないと思う。すべてを受入れられるのは、状況が日常から乖離しているせいだ。ぼくはこの映画全体についていっただけだ」
(だが読者には映画全体についていけとはいわない。AUに分類し、一般ファンよりまずは成、青年向けに推奨したうえで、こう注記する。「作品を厳密に分類せずにはおかない人や、常識を無視した思考に憧れない人は、この映画を見ないほうがよい・・・」)
にもかかわらずブラザー・ベンジャミンはこう感じる。「全体をとおして真に哲学的、詩的な緊張がみなぎるが、この映画はきわめて楽観的だと思う。生命や知識、情報を破壊することはできない。生命はくり返し再生する。石板はある種の生命の力や原理を表わし、意識はより高度な形で永続するようだ。石板は視覚的なシンボルの役割をはたす。きわめて具体的でありながら、しかも同時に抽象的なのである。コンピュータの頭脳モジュールとまったく同じ形をしていることに、あなたは気がつきましたか!」
逆に多くの人たちはキューブリックのメッセージを極端に警戒すべきもの、もと映画の教師で『カーテンキム(Kartemquim)』の編集者ジェリー・ブルーメンタルのいう、新たな人類「電子機械人間」の邪悪な力と捉えている。「これは新しい人間、アントニオーニが『赤い砂漠』で語った類の人間だ。かれらは異なるレベル、ロボットのレベルでコミュニケーションするわけではなさそうだ。2人の宇宙飛行士がハルにどう対処するか、人間的な感情を一切まじえず相談する場面はすばらしい。フロイド博士が家に電話する場面とは本質的に異なる――小さな女の子(キューブリックの娘)は人間的であり、背中を掻いている。二人の男たちはけっして背中を掻かない。痒いと思わないのだ」
〔ミケランジェロ・アントニオーニ:1912〜、伊、映画監督。愛の不毛を描く。「太陽はひとりぼっち」「情事」「欲望」など〕