評 

 

「調査が終われば、すぐに知らせよう」

 

レナータ・アドラー: 気どったシティボーイのおとぎ話

ペネロピー・ジリアット: ある種偉大な映画

チャールズ・チャンプリン「ドアを開けてくれ、たのむ、ハル」

「ハーバード・クリムゾン」『ハーバード・クリムゾン』始まって以来の長い映画評

スタンリー・カウフマン: これは、われわれの知るキューブリックではない

ルイーズ・スウィーニー: 究極のトリップ

ジョン・アレン: 高電圧に輝く稲妻のような映画

ジョン・ホフセス2001年」も『ユリシーズ』初版発行時のような誤解をうけている

フィリップ・フレンチ: 莫大な費用を投じた超巨大な個人的作品

その他の短評

 

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『ニューヨーク・タイムズ』

 レナータ・アドラー

 

 スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はMGMのライオン像まで様式化、抽象化するほど凝りに凝り、知性と忍耐と想像力のかぎりを注いだシネラマ作品であるが、1950年代初めの気取ったシティボーイのおとぎ話を高級にしたようなものだ。この映画はキューブリックとイギリスのSF作家アーサー・C・クラークが共同執筆し、表面上は2001年、月で前哨を務めるカメラ嫌いの石板を発見、それが何かはともかく、通信波の送り先である木星探検に出かける話である。

 人間の精神は発達をつづけ、究極的には一種の世界精神のなかに溶けこむというクラークの信仰を映画化したことは明らかだ。人間とコンピュータの最終決戦という、古いSF的悪夢も挿話的に描かれる。ある男(キア・デュリア)が究極のSF的航海をして外宇宙と内宇宙を通り、何か高度な知性体に翻弄されたあげく人間生命の段階を終えて、死後ふたたび銀河間をただよう胎児の形でよみがえる。

 だがこれらはみな1本の映画としては複雑をきわめ、メリハリが乏しいという弱点にもなっている。およそ30分も経ってからやっと人物が登場して最初の言葉をしゃべり、物語が始まるまえに映画は終わる。リアルさを追求するエネルギーは、街角を歩きながらマンガを読む、あの眼鏡をかけた天才に由来するようだ。全体の感覚は50年代の知的な子供のものである――チェスのゲーム、ボディビル運動、宇宙船内のキャンプの寝棚に似たベッドとエジプトのミイラを思わせるベッド、リヒャルト・シュトラウスの音楽、時間ゲーム、シュトラウスのワルツ、そしてハワード・ジョンソンでの誕生日を祝う電話。宇宙服を着た乗組員はコオロギのようだ。船外に出たくなれば、まるで第2次大戦ものの映画で「爆弾倉の扉を開けろ」いうように「ポッド室の扉を開けろ」と命じる。

 〔ハワード・ジョンソン:ハワード・ジョンソン(1896?1945) が全米に展開したレストラン・チェーン〕

 コンピュータのハル――だったと思う、妙にわざとらしい――に対して陰謀をめぐらすとき、乗組員は団結する。機能を失うまぎわにハルは「デイジー」を歌う。それまで無謬性を誇ってきた2台のコンピュータの判定が一致せず、そこから生じる問題にしても「自分は嘘つきだ」という類のパラドックスで――歌、そして共謀が招いた惨憺たる結果も含めて――時代錯誤である。最後に登場する石板――狂言回し兼棺桶のふた――も、近寄ると50年代のキャンデー・バーに似てくる。

 この映画は完全なひとりよがりに陥り、色彩や空間の使用法に注意を奪われ、SF的ディテールに異常にこだわるあまり、眠気をもよおすか、おそろしく退屈になるかのどちらかだろう(インターミッションを入れると3時間もある)。キューブリックは画家のようにスクリーンの外縁部を巧みに使うことに熱中し、同時回転、回転運動そして前方への直進運動をことのほか好んでいる――胃をさすり、頭を軽く叩く動作を視覚化したにひとしい。細部はすべて完璧であり、肉食性のサルの群れもリアルで、彼らが人類最古の武器、骨を空中に放り上げたところから、キューブリックはカットして宇宙船につなぐ。ハルは人当たりがよく、会話はほとんど「そうですね」で始め、「状況はどうだい?」と問われると「すべて順調です」と答える。

 正確を期すことにかけては気ちがいじみている。宇宙旅行者も一般の旅行者のように病的で疲れきり、宇宙ステーションでは気の滅入るような録音音声ばかり聞かされる。観客はスクリーンをしばしば宇宙船の窓のように感じ、キューブリックはつぎつぎに見慣れない仕掛けをもち出してくる――宇宙船は、角度によってはパイプの一端を握る配管工の助手のように見えるし、ポッドは手足のついた洗濯機に似ている――観客はそのつど使い方や自分の居どころをこと細かに説明されるのである。

 映画の特殊効果――とくにデュリアの眼、あるいは石板や木星と地球の表面を通って時代がかった寝室に入る航海――は、かつてない最高の出来ばえである。視覚的な情報伝達手法を駆使し(台詞はわずかである)、視覚効果の限界にまで達している。

 映画は徹底して遅いテンポで進むので、無駄口を叩かずにじっと座っているのは大変である――上映中はどちらを向いても観客はほとんどしゃべり通しで、とても不愉快だった。自らの頭のよさを誇るかのように、細部は念には念を入れている――しかしこの映画、わたしのようなSFファンでない者が混乱することをまったく顧慮しない。終わりちかく、つじつまの合わないプロットが三つ――石板、デュリアの老化、時代ものの寝室――神学的で重苦しい意味をもつ、ロールシャッハ・テストのようなものがとり残されるだけである。この映画はこれまでの見慣れた映画とは遠くへだたり、脚本を追加する必要がありそうだし、そのうえ玉虫色の答え「相対性理論」も、それを言葉できちんと説明しないかぎり役には立たない。

 

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『ニューヨーカー』:人類以後

 ペネロピー・ジリアット

 

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はある種偉大な映画であり、忘れがたい奮闘の成果だと思う。技術的にも想像力の面でも、この映画に注いだものは驚嘆に値する――5年もの歳月、アーサー・C・クラークと共同執筆の脚本と小説、製作、演出、特殊効果、ユーモア、スタミナ、そしていい知れぬ不安。この映画は「博士の異常な愛情」のようにただおぞましく、しかも滑稽なだけではない――人間のコンピュータ化が始まったのではないか。ほとんどの者がまるで魂のない録音のような話し方や受け答えをする。のみならず、科学とフィクションの双方に心底からつき動かされた男の作った、比類ない詩的SFの一編でもある。

 キューブリックの物語る2001年の探検は、観客を先史時代の地球から月、さらには木星まで連れていく。ワルハラのような荒涼とした光景のなかでバクが鼻をうごめかし、月光の下では割れガラスの目をしたヒョウが簒奪者からシマウマの死体を守る。引っ掻きあい、集いあうヒトザルの群れは、他の動物のように本物を使うことを避け、コスチュームを着けた俳優で表現している。彼らは人間に進化する直前で、サルと人間とのあまりの共通性には身の毛がよだつ。そっとしのび寄る動きはすでに、まさしく人間そのものである。年老いた浮浪者や酔っぱらいのように手がつけられず、狂ったように争う。獣の感じたおびえは、ついにはいや増す苦痛に耐えつつも恐怖を克服するという、より人間的な能力へと洗練されてきた。この生き物はきわめて人間にちかく、宗教的な衝動すら感じる。突如現れた石板に触れるや彼らは宗教的狂乱状態におちいり、映画はたかだかと賛美歌を歌う。信仰による衝撃で進化はいっきょに何千年も跳躍し、1頭のヒトザルが散乱した骨にかがみ込んで最初の武器を手にする。何もない画面のなかで、毛に覆われた腕をスローモーションで振りあげ、再び振りおろし、そして砕けた骨が空中に跳ねあがる。どうしてそんなことをするのだろう。好奇心から? なぜひとは破壊し、知識をなげうち、宇宙船で旅立つのだろう。何か新しいことを始める時期だと告げる穴居生活の本能に導かれ、「無」のようなものを理解するためか。ついに最後の骨が空中に抛りあげられ、つぎのカットでぴったり同じ角度で宇宙船に切替わる。2001年になったのだ。33年後の人類は精神的成長もないが、絶滅もせず生き延びている。アメリカの描く宇宙計画に黒人は含まれない。ソ連人科学者との会話は恐怖感を礼儀で押し包んでとぎれがちだし、中国人にいたっては相変わらず存在しないかのような扱いである。それでも人類の技術はかぎりなく前進する。観覧車に似た宇宙ステーションは「衛星ヒルトン」という名のホテルをそなえ、あばた面の見慣れた地球が浮かんでいる。サウンドトラックが――ああ、この古色蒼然たる調べよ――「美しく青きドナウ」のリズムをきざみ、宇宙で、古い宮廷の趣をそこはかとなくただよわせる。キューブリックの見る来たるべき文明は、核物理学者の頭脳から酸素マスクの使用法を説明する旅客機のスチュワーデスの微笑みまでそなえている。

 〔ワルハラ:北欧、ドイツ神話に現れるオーディン神の宮殿。城外では日々、終日戦いが行われ、たそがれどきに死んだ英雄たちがこの宮殿にもどって酒宴を開く〕

 キューブリックは賢い男である。2001年の生活は多くのことを細部までずいぶん丁寧に描いてあるが、現在よりほんのすこしぞっとするだけというのもいやな冗談だ。たとえば、はじめて登場する宇宙科学者ウィリアム・シルベスターが衛星ヒルトンを経由し、さらに月に現れた謎の石板の調査に向かう場面である。この知的英雄は途中すてきな食事を供される――宇宙食の入ったプラスチックの小箱が並び、それをストローで吸い込むのだが、それぞれの小箱はスイート・コーンなどの絵で中身を示してある。かれのやっていることは、まさに似たような経験が形を変えたもの――赤ん坊を2人も連れて空港に着いたばかりの外国人旅行者が、5、6か国語で書かれた手荷物用カートの「歓迎」の語を読んだあと、ポーターの手助けもなく、1人で手荷物車と赤ん坊を運ばねばならない現実に気づくたぐいのことである。この2001年の科学者は多少慣れているにすぎない。宇宙職員の形だけの応対にも寛容である。「フライトは快適でしたか」。微笑みにつぐ微笑み。入国管理でもおそらくあらかじめ録画された女性が、微笑みを絶やさずにテレビ画面で声紋識別をおこなう。衛星ヒルトンは鮮やかな白で統一され、そのなかに骨盤の形をした赤いアームチェアが散らばっている。遠心力を利用して人工重力を作り、観覧車内の人びとに重力感をあたえる。衛星ヒルトンのロビーの白い床は、建物の構造上じっさい弓なりに反りあがっているが、この傾斜については誰ひとりユーモアのかけらさえ口にしない。2001年の市民は冗談のいい方や不機嫌な気分を表す方法を忘れ、おしゃべりや考えごと、互いに親密になることや他人に関心をもつことすら忘れたようだ。だがそれ以外の点ではすべて申し分ない。彼らは苦労のすえに宇宙をありふれた日常的なものに変えたことを認めたがらず、ヒトザルのように疲れきって能力が落ちている事実にも向き合おうとしない。

 この映画には催眠術的な楽しみがあり、ギャグのひとつもないが可笑しく、どちらかといえば悩まされもする。2001年の人びとを描くのと同時に、彼らが失ったものをも雄弁に物語る。登場人物の孤独はほとんど忍耐の限度を超えるようだ。ほんのつまらないシーンにさえ逃亡者のわびしさがただよう――たとえば地球から数百万キロメートル離れても、宇宙飛行士たちは自分たちの出るBBCの気さくなインタビューを憑かれたように見るし、宇宙食は細心の科学的注意を払ってあつらえるが、容器が熱すぎて指を火傷する。あるいは運動のために遠心室内を1人でシャドー・ボクシングしながら走りまわり、深い冷凍冬眠状態にある他の乗組員の眠る、白い柩のような容器を通りすぎる。他者から完全に隔離されて何も語られない。キューブリックは性的な関係にある者や親しい友人たちを登場させない。コミュニケーションは警戒心が先立って親しみがなく、委員会に集う人びとやインタビューを受ける人のように、心のかようものではない。宇宙科学者はテレビ電話で娘に誕生日の祝いをいうが、伝えることは何もなく妻も外出している。木星に向かって9か月目、任務途上にある宇宙飛行士のひとりは、テレビで誕生日を祝う両親からの録画メッセージを受ける。これが親しみを表すすべてである。楽しいことは何もない――人類がこれからもずっと存続すれば毎年やってくるはずの、記念の日々を機械的に祝うにすぎない。さらにキア・デュリア演ずるあとひとりの宇宙飛行士は、仲間を救うために大きな危険を冒すが、この場面からも情愛や勇気は感じとれない。本能を押しつぶした社会から、莫大な経費をかけた同僚を救うよう訓練されているにすぎない。不屈の精神はプログラムされるものであり、仲間意識などどこを探してもない。熱望する気持ちだけは残っているが、陳腐な表現の下に押しつぶされている――言葉はついに力を失い、形骸と化した。うちとけた席でさえ人びとは「それでいいかい」といわず「それでよろしいでしょうか」と語るのである。木星行き宇宙船のコンピュータ――「ハル」といい、おしゃべりで、小うるさく、有能で、よく躾けられているがどちらかというと愚痴っぽく、自分が必要とされることを強く求める――が、この映画のなかのどの人間より人間らしく話す。ハルは宇宙船を運航し、冬眠中の人間を常時監視し、そしてチェスをやる。どうやって他者をやっつけるか考えをめぐらせ、ときには自分のことばかりしゃべりつづけ、成長した子供がうんざりしても電話を切らせない、小うるさい母親のようなことまでする。機能が低下して依怙地(いこじ)になったあげく、乗員の信頼を回復するために装備品のひとつが故障するとヒステリックな嘘をつくが、地球にいる冷静な双子のコンピュータは冷たく判定の俎上に載せ、ミスだと断じてかれの自尊心を傷つける。ハルはあまりに人間的でありすぎた――自己の敗北を見たものを憎悪し、彼らに復讐することで自我を回復しようとする。かれはキア・デュリア以外の全乗組員を謀殺するが、人工冬眠中の乗組員の殺害は冷酷このうえなく、これ以上現代的な死のシーンは考えられない。ただたんに警報灯が点灯して「コンピュータ故障」を示すほかは、冬眠者の上部にある生理機能を表す電子グラフの線が乱れ、やがて死を示す起伏のない直線になるだけである。自己正当化のために犯す、ハルの殺人から逃れた者は船内でただひとり、コンピュータの赤く輝く頭脳と戦わねばならない。一般の居間ほどもある頭脳中枢から、高度な知的機能モジュールを抜きとるのである。ハルの上品な声はしだいに弱まり、認識力も失われる。最後まで覚えていたのは「デイジー」――ずっと昔、最初の学習で学んだ歌――を歌うことだけだが、その歌声も古い蓄音機の音のように曖昧な低音になり、やがてとぎれる。それは支配者から老残の身に変わりゆく、衰退する人間のイメージである。キューブリックはそれをネジ回し1本でどうにでもなるコンピュータ以上に、はるかに無残に描きだす。

 この映画の驚くべき形而上性の象徴が例の石板である。潜在意識のレベルで、一見かけ離れたイメージによって教育されるという考えに、人類はいまだに興味を惹かれている。無神論者ですらあの石板を建物の梁だとは思わないだろう。ただちにモザイク板や原始宗教の石柱と思うべきである。400万年まえ、地球外に知的生命体が存在していたと映画はいう。石板は明らかにその前哨である。先史時代の地球で最初見たものは、2001年に月で発見したものとウリ二つである。月で見つけた石板は木星に向けてかん高い叫びを送り、科学者たちはこれを創った力を探しはじめる。生き残った宇宙飛行士は単独で追跡をつづけ、木星の影響で時間と空間の相対関係がアインシュタインの理論を超越した世界に引き込まれる。肉体は泥のように疲れはて、クロロフォルムを嗅いだ悪夢のような惑星面のビジョンを見せられ、そのあいだに苦悶するかれの眼球と鼓膜のクローズアップがときおり挿入され、やがてとつぜん着陸するとルイ十六世時代を再現したような落着いた雰囲気の部屋に飛びこんでいる。スペースポッドの窓から見たショットは、映画全体のなかでももっとも多くのものを合成した箇所のひとつであるが、その効果や方法は説明困難である。

 異様なまがいものの部屋は感動的なほど月並みである。まるで病気の男が無限のかなたのよりよい世界を想像し、そのなかに思い描いた多くの物――かつて豪華なインテリア雑誌で、美しいと思うよう教えられもの――をよせ集めたようだ。その部屋で時間は跳躍し、事物は消失する。どうにか生きのびた宇宙飛行士は、この映画でいちばんまともな食事をとる年老いた貴人の後ろ姿を見る。ふり返った貴人は宇宙飛行士自身の老いた姿である。静寂のなかで白大理石の床を椅子が滑る音は、サウンドトラック選定のみごとなお手本だろう。老貴人はワイングラスを落とし、ふと見上げるとさらに2030歳老けた自分が髪の毛を失ってベッドで死にかけている。老人が手をあげて指差すのはまたも出現した石板であり、部屋のなかで、変化をもたらす力がやっと明確に描かれる。そこでは破壊と創造が同時に存在する。シバ神のようだ。男の最後のショットはまったくの超絶者で、わたしは神秘主義には抵抗するほうだが、それでも胸が震えた。X線撮影した死者の頭骨のようなものが再生し、赤ん坊となって地球に近づく。巨大な両眼をもつ突然変異体(ミュータント)なのだろう。かれこそが新しく求められている種の、最初の個体かも知れない。

 SFを魔術に含めるのは危険な考えかも知れない。だが「博士の異常な愛情」と同じく、テューブリックははるか遠くまで行き、そこが目的地だと詩的に描きだす。キューブリックと共同執筆者は力に満ちたアイデアを見つけ、好奇心のほぼ失せた退屈な時代の宇宙征服者をそそのかす。400万年ものあいだ、ある文明が知的生命の存在を未来に向かって知らせつづけ、それが起きたという事実を()むことなく送信してきた。その文明の痕跡を探査するところから、空疎で喜劇的、愚かしくも非人間化された男たちのショットは変わり、画面は厳しさを増す。何もない画面のなかで、最初の武器を握ったヒトザルが何か新しいことを始める解放感をみなぎらせ、腕を振りあげるショットにはあるシーンとひそかな共通点がある。わたしには忘れられない――宇宙船の船内では「無重力状態」のサインが点灯し、寝入った宇宙科学者の体は安全ベルトで固定されているが、片方の腕は宙に浮き、ただよっているのである。

 

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『ロサンゼルス・タイムズ』

 チャールズ・チャンプリン

 

 スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はあらゆる年齢、世界中のあらゆる街角のSFファンが、いつの日か技術が進歩したら作ってほしいと祈って(ときには諦めて)きた映画である。

 もはやこれ以上は望めないSF映画表現であり、未来宇宙に関する恐怖に満ちた認識である。技術的な完成度――発明学の卒業試験の成績と映画的魔術の創作力は――かつてないすばらしさである。その意味でこの映画は映画芸術における里程標であり、地上標識(ランドマーク)ならぬ宇宙標識(スペースマーク)である。

 立体派の描く巨大なムカデに似た宇宙船が、木星に向って深宇宙を音もなくすべる。人間は宇宙空間を歩き、死に至ったのち無限の軌道へと進む。無重力状態が日常である。パン・アメリカン航空の往還機が多忙な月との間をごく日常的に往来しているが、これがいまからわずか33年後のことである。あまりに日常的な体験であるため、サウンドトラックは古典スタイルのワルツ「美しく青きドナウ」になっている(これが、キューブリックのあみ出した唯一の手法)。

 〔パン・アメリカン航空:当時世界最大規模の航空会社。経営不振のため、1991年運航停止〕

 月ステーションからパパは地球の娘に電話でおしゃべりし、お誕生日パーティーには出られないという。待合室は実物よりプラスチック製刑務所の光景に似ている。キューブリックと共著者のアーサー・C・クラークはじつに高度な識見をそなえ、それを日常の言葉に託したり、高度な意味をこめたりするのにさいさい苦労している。

 どのように撮影したか知りたいとは思わないが、鏡を使ったところもあるようだ。撮影効果は文句なくすばらしい。木星への航海中、ゲリー・ロックウッドは体調維持のため巨大な遠心室内を走るが、まるで観覧車に閉じ込められているようだ。1周、2周と走ってもカットはなく、カメラの存在も感じず、そして撮影時に引力のあったことすら感じさせない。夢のようにすばらしい。

 映画の前半、わたしは妻を青アザができるほどつついてなんどもいった「こんなのウソだよ」。

 無重力トイレの使用説明書にいたるまで、細部は申し分なくすばらしい――確かだ。これは最高の知識をちりばめた夢にちがいない。

 もちろんプロットもあるにはあるが、お金を払った観客からは不満の声があがって当然という代物だ(ハッキリいおう、SF信者だってプロットには不平を鳴らすだろうし、そうでない者はすっかり気分を害し、ていどの差こそあれ怒りだすと思う)。

 映画はいやに気どって「人類の夜明け」と銘うった長ったらしい――終わらないかと思うほどの――シークェンスから始まる(撮影はどのシーンも美しい)。われわれのお祖父さん、つまりサルが人間になりかける話だ。彼らは二つの陣営に分かれて戦争しており、古い骨の棍棒が武器になることに気がつく。サルたちは砂漠で背の高い、奇怪な黒いモノリス――自然の物ではないし、彼らも見たことがなく、地球のものでもない――の考えにふける。

 2001年、月面で地下に埋まったく同じモノリスが発見される。思わず口をつぐむのは、それが地球外知的生命体の存在を意味するからにほかならない。彼らとはたぶんお友達にはなれないだろう。木星を指しているのが手がかりだ(わたしには省略が多すぎて分かりづらくなる)。キア・デュリア、ゲリー・ロックウッド、そして人工冬眠中の3名の科学者(生命維持に必要なものを節約するため)、さらに男だか女だか分からないような話し方をするコンピュータのハル(「ドアを開けてくれ、たのむハル」)を乗せた宇宙船が、木星をめざして旅立つ。

 〔「ドアを開けてくれ・・・」:評者がこの映画にうんざりし、中座して帰宅するために劇場のドアを開けて欲しいと願ったと考えると、ボーマンのこの台詞はまことにユーモラスに聞こえる〕

 彼らがそうさせたのかどうか、正直なところ見当がつかない。コンピュータが悪役に回り(多くのひとがコンピュータを信用しないのは正しい)、最後にデュリアはサイケデリックきわまる旅にうつるが、それが何を意味するかはともかく、そこには北極のオーロラのような光景があり、目もくらむばかりだ。

 さいごの最後、宮廷風の居間にまたもやモノリスが出現する。デュリアは幾段階かを経て老いゆく自分を見せられ、そして観客が最後に見るのは、巨大な忘れがたい目をした考え深げな緑色の胎児である。「欲望」のようなこのエンディングは、シネラマによるインクブロット・テストの類である。これという正しい答えがないばかりか、思考の内容次第で自分自身が明らかにされるのだ。SFの魅力の一部は、じつにこの形而上学的な側面であろう。

 ひとは宇宙オデッセイの台詞のない最後の30分に、何ごとかを読みとってもいいし、あるいは何も読みとらなくてもよい。

 デュリアは宇宙服のまま老い衰えてなお地球のものに似た部屋を探り、スペースポッドは寝室に置かれている。虚像の文明――人類の全体験のくり返しであろうか。

 わたしには理解し難いし、白状すれば逃げ口上を――読者を惑わすような口上を思いついたにすぎない。確かになんらの解答もないが、それ自体が曖昧にならざるをえないにしても、いちおう筋の通った質問はできる。

 だが見終わったあとにどんな不満が残るにしても――確かにいろいろとあるかも知れない――キューブリックがなし遂げた画期的なもの、衝撃と幻想を生み出した映像と音響の卓絶した技法には文句のつけようもない。

 来年度のアカデミー賞のいくつかが、すでに取りざたされている。

 

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『ハーバード・クリムゾン』

 ティム・ハンター、協力:スティーブン・カプラン、ピーター・ジャスジ

 

            「2001年宇宙の旅」のこの批評は『ハーバード・クリムゾン』始まって以来の長い映画評だという。

 

 物理的、社会的そして技術的な進歩を描いた映画、スタンリー・キューブリックの巨大で刺激に満ちた「2001年宇宙の旅」は、その一風変わった幕切れまでわき目もふらず一直線に進行する。最後の変容の場面で、監督キューブリックと共同執筆者アーサー・C・クラーク(『幼年期の終わり』)は、進化はじつは輪廻のように進み、ラセン的な形もとりうると示唆する。人類はあるところまで進化すると、つぎは1段高いレベルで再スタートするというのだ。「2001年」に見られる多くの独創的考えは、反キリスト教と反進化論の立場から出ており、人類の進歩は地球外の、捉えようのないおそらく気まぐれで破壊的な力に支配されているというのがその主題である。

 以上のことが1100万ドルのシネラマ・スペクタクルの映画論議の糸口としては迂遠すぎるというなら、キューブリック作品のように、投じた大金と同じくらい個性的ですばらしいSF映画を創る試みは、形而上哲学を試みると同じくらい野心的だというほかない。結果的には「2001年」は商業的にはおそらく失敗作だろう。まちがいなく観客は困惑し、各劇場とも観客の10パーセントは確実に失っているが、現在キューブリックがよけいな15分をカットして 165分に縮める編集作業をつづけている。ボストンで上映中のものは現時点ではまだ中途段階のもので、つなぎの部分が重なった粗雑なカットのまま上映しつつ、MGMの現像所から新しいプリントが届くのを待っている。

 いくつかのシークェンスを縮めるのであるが、削除部分の大半は宇宙時代の機器類のこむずかしい操作をくどくど説明した、のろくて冗漫な部分である。これから見る人のお気に召そうという現在の試みを、キューブリックはおそらく後悔しているだろう。乗組員が「スペースポッド」――1人乗り宇宙船で、母船から発進する――に乗りこんで操縦する場面、2か所がトリミングされる。しかしこれでは筋の運びは軽快になっても、映画の大部分を支配する、不気味でしかも重要な技術的連続性が犠牲になるだけだろう。「2001年」は他の映画にもあるゆったりとしたペースで進み、これまで見たこともない自然や素材を使って、ひとつの美学を創造する複雑な試みをおこなう。映画は「人類の夜明け」から始まるが、これは舞台を400万年前に設定し(キャストはアウストラロピテクスとバクそして太古のヒョウのみ)、すばやいカットにより、歴史時代を通過して未来につながる。

 

 観客の「ウケ」を考えると、キューブリックにはジレンマがある。「2001年」では筋らしい筋がなく、ゆったりとしたペースで進む素材――まったくなじみのないサルや人間、そして機械類がしばしばおこなう儀式的行動――を全編、完璧に創造することが最良の仕事なのである。長時間版では宇宙飛行士のプール(ゲリー・ロックウッド)がポッドを開ける場面と、そのまえのボーマン(キア・デュリア)のポッド・シーンはまったく同じショットで、カメラの位置もまったく変えず、操作方法が標準化されていることを強調する。この手間のかかる準備作業は、その着手からコンピュータ制御のポッドが向きを変えて宇宙空間でプールを殺害するまでくり返される。そこからの後半が恐怖と混乱に一変するからこそ、それまでのくり返しが意味をもつのである。キューブリックが暗示するのは、全編をつうじて人間と人間が作った道具のあいだで重心はつねに移動し、この特別なシーンの前半をカットすると失われる部分は大きく、それがプールの殺害に、他のアクションよりはるかに劇的な意外性をもたせているのである。

 観客の不満を抑える妥協をしてもなお、キューブリックの時間、空間の視覚的関係の処理は、印象的という次元をとうに超えている。かれが見つけたのはこうだ――緩慢な動き(例えば宇宙船)は、シネラマの大画面ではすばやい動き(シネラマ・ローラー・コースターの接近が有名)と同じくらい印象的で、しかも遅い動きを適切な時間をかけて見せると印象はさらにリアルになる――ときには速すぎることさえ――動きの速いショットで同じ時間をかけた長大なシークェンスよりも。史上「2001年」ほど全編をつうじて3次元的な深みに到達した映画はない(そして星の密集する銀河が脈うつ、狂乱のクライマックスを創った映画も)。キューブリックはしばしば広い画面の片隅に観客の注意を引きつけ、そのあと反対の隅からべつの素材をフレーム・インさせることで、見る人の感覚を不自然なリアリティを感じないよう巧みに方向づけ、目を慣らす。

 〔シネラマ・ローラー・コースター:シネラマのデモンストレーション映画「これがシネラマだ」は、ジェット(ローラー)・コースターやナイアガラ瀑布などのシーンで大画面の迫力を強調した〕

 映画的な技術と演出法が成功したことは、特殊効果のリアリティを観客がほとんど即座に受け容れたことでも分かる。映画の前半、スチュワーデスが壁を登り天井をさかさに歩くのを見ると、もはや同じ趣向には惹きつけられず、なんの疑いもなくキューブリックの新世界を受入れてしまう。特殊効果の説得力は完璧で――疑問を呈してもよいが――もっともらしい決り文句を使ってもいいし、キューブリック/クラークの宇宙美と想像の世界に浸ってもよい。さてここで、卓抜な脚本の刺激的な内容にもどろう。

 「2001年」は、画面中央の地球と月と太陽が軌道上で縦一直線にならび、「食」の状態になるショットから始まる。このイメージが映画の中核であり、劇中、飛躍的な進歩をもたらす三つの前提条件のひとつである。

 

 進歩の第1幕は生物学的進化である。短いシーンを重ね、サルからヒトに分化する以前のアウストラロピテクスの日常を描く――草を()み、肉食獣に襲われ、防御のために群れを作る。ある朝目覚めると群れの中央に背が高く厚みのない直方体、漆黒のモノリスが彼らを見下ろしている。根元を地面に埋め、記念碑のように(そび)え立つ姿は明らかに自然にできたものではない。彼らがそれに触れると、その直後、月と太陽が軌道上で一線にならぶことに注意しよう。

 つづくシーンでは1頭のアウストラロピテクスが散乱した骨のなかから、のちに「道具」と呼ばれることになる1本の骨を拾いあげると、その骨が実質的な腕の延長となってこの生き物は強大な力を獲得する。この発見はスローモーションで、猿人があたりに散らばった骨をこの「道具」で打ち砕くみごとなモンタージュで描かれ、キューブリックとクラークの人類学的な中心主題――道具の発見は「武器」の発見であると明確に主張する。「人類の夜明け」は進歩と殺戮の組合せで表現される。殺人は同時に「2001年」の全編をつらぬく主題のひとつでもある。キューブリックは究極的に、明確ではないが肉体的な死をつうじた精神の発達を描いている。

 先史時代から未来への変遷は、空中を落下する骨がロケットに変わるという単純なカットで表現され、そのロケットは地球と月の中間に浮かぶ宇宙ステーションへの着陸を準備中である。バザンのいう「関連のモンタージュ」の古典的な一例で、単純に割りきっていえば歴史をバイパスして骨とロケット――片方は原始的でもう片方は信じがたいほど洗練されているが、ともに人類の作った奇怪な道具――を関連づける手法はあざやかである。

 月で、アメリカの科学者たちが同じ黒いモノリスを発見するが、400万年前に埋められたことは明らかで、木星に向けて常時強力な電波信号を発射する以外なんの活動も反応も示さない。科学者たちが調べる(サルと同様、おそるおそる触れて)まさにその瞬間、地球と太陽が軌道上で一線にならぶ。彼らは木星にはなんらかの生命形態が存在し、それが月にモノリス埋めたと考えて14カ月後、調査のために木星へ探検隊を送る。

 〔アンドレ・バザン:19191958(仏)、映画評論家。映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』を主宰し、ヌーヴェル・ヴァーグの理論的支柱となる〕

 〔モンタージュ:独立したフィルムの断片をつなぎ合わせることにより、全体として新たな美や意味を生じさせること。仏の映画理論家レオン・ムーシナックが使いはじめた言葉。この理論を作品に生かした監督としては、ソ連のエイゼンシュテイン(「戦艦ポチョムキン」)やプドフキン(「母」)が名高い〕

 〔14カ月後:映画では18カ月後である〕

 

 大きく進歩したことが二つある。ひとつは道具の発見という進化論的なもの、あとのひとつは木星への旅という必然的に技術の発達をともなうものである。両者ともモノリスの発見に導かれ、同時にそれぞれの場所で太陽と衛星が一線にならぶ現象をともない、サルもヒトも飛躍的進歩を遂げるための「準備」ができた状態にある。やがてモノリスは、どこか神的な表情を呈しはじめる。これら三つの条件がそろうと、このなんの活動も反応も示さないモノリスが事実上サルや人間を教え励まし、決定的な進歩に向かわせると考えてよい。ようするに人類を進化させる大きな力である。人類は自身の進歩に「責任はなく」、太陽と惑星が一線にならんだまさにその瞬間、モノリスが人類に進歩を「あたえる」とさえいってよい。

 キューブリックにとり、この非人間化はモノリスの出す不思議な力が惹起した結果以上のもので、技術進歩の結果、当然起きるものである。キューブリックにしてもはじめての主題ではない。「現金に体を張れ」や「ロリータ」は、ともに自動車をつうじた自己表現である。スパルタカスの敗北はローマ軍の近代的軍事技術に十分に対処できなかったことによる。「博士の異常な愛情」を貫くモチーフは、むろん機械が人間のような性格をもつ一方(機械の性別はオープニング・タイトルで分かる)で人間は機械のようになり、このテーマはさらに「2001年」に受け継がれる。「2001年」の中間部は木星への旅――人類進歩の最終局面に向かうひとつのオデッセイであると同時に、人間と道具の関係へのキューブリックの根強い先入観念に強く依存している。

 

 キューブリックはボーマンとプールの情緒的な永遠の別れを用意している。月のシークェンスの主人公であり、また木星探検の主導者でもあるフロイド博士のキャラクター作りではかれの冷たさを強調し、幼い娘との電話の場面にそれが著しい――娘への愛情を示すより、たくみに操っていることを示す台詞である。彼らは皆プロであり、宇宙旅行に心を動かさない。飛行中は眠り、目に映る珍しい(と観客は思う)現象にもなんら注意を向けない(電話シーンの背景では、地球が目まぐるしく回転している)。

 ボーマンとプールには人間らしさが感じられない。表情にはなんの感情もなく、緊張感も見せない。回数はすくないが下す判断はつねに論理的で、2人はつねに同意する。プールは地球の中流家庭の不器用な両親から、テレビの録画で誕生日の祝いをうけるが興味は示さない――それを喜ぶような子供ではないのだ。キューブリックの提示する2人の違い――かすかなユーモアを感じさせる違いは――給食器からとり出す食事の好みが違うことでしかない。プールが選んだ食べ物の色はばらばらだが、ボーマンの摂る食事は黄色から褐色までと、色調が統一されている。映像処理のすばらしさをいえば、ポッドの機械の手が空気パイプを切断してプールを殺害するという現実の殺人行為を省略することで、キューブリックは観客がいきなりプールに感情移入するのを防ぎ、殺人者のもつ冷酷さとあくまで非人間的な抽象性を印象づける。

 この映画に登場する唯一の人間はスーパーコンピュータ HAL9000で、宇宙船を運航し、ボーマンとプールにはないさまざまな感情特有の表現を見せる。くり返すが、脚本は一直線に進行する。機械とそれを使う人間との関係ははじめ常識的だが、やがて両者は対等なことが明かされる(たとえばハルはボーマンの描いたスケッチを見せてくれとたのみ、その感想を述べたりする)。人間らしさと機械らしさが逆転した状態でたもたれた均衡が破れるのは、わずかにハルが通信システムの故障探知を誤る場面にかぎられる。ハルは誤りを犯すことが「できない」ように作られており、ミスを犯したことが確認されると、必然的に回路から切離される運命にある。この時点で重心は再び移動する。ボーマンがミスについて説明を求めるとハルはそれを拒否し、「人間の錯誤」のせいにしてしまう。ここで「弘法筆を選ばず」という諺を思い起こすと、ハルは明らかに人間的な観点からミスを糊塗しようとしたことが分かる。

 

この映画唯一の人間ハルは、人間のおよびもつかない殺人鬼であることが明らかになる。社会や技術が進歩すると、それにふさわしい破壊がおこなわれるという「2001年」のテーマにもどると、インターミッション直前の背筋の凍るような最後のショット――ミスを確認後、ハルの機能を停止させようと密談するボーマンとプールの会話が読唇術でハルに筒抜けになる、ハルの視点からのショットは――機械が人間を支配する力をもつことを示す。ついに、人間が自分たちのために作った機械と人間の役割が逆転する。ハルはすべてをうまくやったわけではない。かれはプールと船内で人工冬眠状態にある3人の博士を殺害する。眠っている博士たちの殺害は、呼吸調整装置、心電図、さらに脳波計を示す電子制御グラフの脈動のクローズアップ映像で描かれる。ハルは徐々にエネルギーの供給を停め、観客は柩状のベッドで死にゆく人間ではなく、停止するグラフの脈動を見ながら、この非人間的きわまる体験をするのである。

 プールの遺体を回収してポッドから船内にもどる際に、ボーマンはハルの意思を打ち砕くべく「アドリブで」――これが初めてである――泥縄的に非常侵入の手だてを考えなければならない。かれの決心は怒り――初めて見せた怒り?―――に駆られたもので、明らかに機械を再征服する強烈な意思表示でもある。ここで映画はふたたび人間と道具のあいだで重心を移す。ここは筆舌につくせないほどすばらしいシークェンスで、カメラが驚くほどのローアングルで旋回すると、ボーマンがハルの頭脳中枢に進入してロボトミー手術を施し、機械的機能だけを残して他の全機能を停止させる。象徴的ではあるがこれは殺人にひとしく、ハルの「死」だけが「2001年」で唯一感情移入できるシーンである。この映画に登場する人間とことなり、ハルはボーマンの手で人間の自然死のように徐々に老衰し、ついで幼児化し、最後にはじめてプログラムされたメモリー――「デイジー」の歌しか思い出せなくなって、こと切れるまでそれを歌いつづける。

 ボーマンの複雑な行動は、アウストラロピテクスのそれと似かよう。船内への再侵入にポッドの射出装置を使ったのは臨機の措置であり、この装置は明らかにべつの目的のために設計されたものである――骨を武器として使用することと好対をなす。ついに殺人者となったボーマンは本質的に人間性を喪失し、新しい存在の原形へと変貌した。その後の超自然的体験を経るにふさわしい者である。映画の最終部分では、ボーマンは複雑強力なコンピュータに勝利した一個の人間と考えるべきである。ただひとり宇宙船に残されたボーマンは木星圏内にただようモノリスを発見、それを追うべくポッドを発進させる。いまやコンピュータの制御を失い、ボーマン自身の操作するボッドの腕が、かつてのアウストラロピテクスや人間のようにモノリスに接近し、まさに触れようとする。木星の9個の衛星が軌道上で一線にならび(天文学的にはほとんどありえない)、モノリスがその列にただよい入り、そして消失する。ボーマンがそれを追い、クラークが「時空のワープ」と呼び、映画では「無限の彼方」と名づけられた領域に入り、5分間3部構成の光のショーが展開されて、ときおり静止したボーマンのリアクションが大写しで挿入される。

 これまでの人間の飛躍的な進化や技術の進歩がモノリスによって導かれたとすれば、こんどのボーマンは、人間の想像もつかない知覚の領域に導かれ、耐えがたい体験を経てよみがえり、そして新たな進化のレベルに到達したことになる。光のシークェンスで挿入される静止ショットには異論もあるが、感覚や肉体的な苦痛、そして肉体的な死に対するボーマンの恐怖を表わす。かれの目のクローズアップはいくども色を変え、露出を反転させるが、最後は生身の自然な色で現れる。この色に何か意味が隠されているとすれば、目は完全に衰え、ほとんど青白い肉体に吸収されたということであろうか。キューブリックとクラークは、時間的、空間的に極度の遠方まで行くと、人間は見る権利のないものまで見るだろうといっている。

 しかしこれはクラークが『ライフ』で語ったとおり、宇宙の外縁探しに熱中するエイハブ船長のような、ひと握りの無鉄砲な連中による冒険の結末ではない。ボーマンはモノリスの力でタイム・ワープする。月のモノリスは木星に向けて電磁波を発射したが、これは木星に、われわれの認識する生命の存在を示したのではなかった。じつは道路地図、ボーマンにモノリスを見つけさせ、かれを超自然的体験に導くための案内図である。

 最後にボーマンはおそらく死に(日常用語で理解すれば)、ルイ十六世時代風のインテリアをほどこし、床を蛍光灯で照明した部屋にいることに気づく。しかもいく段階かを経て歳をとり、肉体も衰えて別人のようになった自分を見る。もしかすると無限の彼方に引きこまれなかった自分の、さまざまな人生体験の標本を見たのだろうか。ベッドで死にかける男のまえにモノリスが現れ、男は手を差しのべる。ベッドの男は光を放つ胎児に変わり、おそらく再生、あるいは変容して球体に包まれた胎児となり、太陽系に浮かんで地球を見つめる。かれは明らかに宇宙の一部、ことによると『ライフ』のいう「スター・チャイルド」、あるいはペネロピー・ジリアットのいう突然変異種の最初の個体となって地球に住み、成長を始めるのである。直線的に見えるものが、最終的に輪廻的なものに変わる。モノリスの最後の作用によって進化が終わると、新たな輪廻の輪が巨大でより高度な地平で再び回り始めると考えてよい。しかし最後のイメージが暗示するのは基本的に、「2001年」の本質について論理的に考えるならそれがどんな論理であろうと、最後のショットをどう解釈してもかまわないということである。そこに明確な答えは何もない。

 

 確たるものではないが、いくつかのアイデアを考えてよい。モノリスは地球外のある種の力を表したもので、人類(最終的にはボーマン)を監視下に置き、意のままにあやつるものである。人類の進歩は人類自身がなしたのではなく、モノリスの作用である――それゆえ人間には、進化の次の段階の予測は不可能である。人類が1段高い進歩の段階に入る際には殺人をともない、これがモノリスの力の本質を曖昧にしている。人間は自分の運命を支配できないという点で、「2001年」は人間性に反する――このことはまた、われわれが人間性と考える概念は、じっさいは機械で再生産できる特性をよせ集め、組上げたものでもある。

 最後に登場するルイ十六世時代の部屋から推測できるのは、ボーマンはじつは迷路内のラットのように観察され、さらなる進歩、この場合は変容可能な状態になっているか否か試されていたのであろう。部屋の装飾にさしたる意味はないといっても、観察者はそれらを自由に選択できるだろうし、あるいはボーマン自身の個性の反映でもある(この直後のボーマンの画面を考慮すれば、床と食事はことにそうだろう)。

 キューブリックのこのみごとな作品に問題があるとすれば、ただ人類の進歩や宇宙とのかかわりを描くこの偉大な哲学的、形而上学的映画が、文字通り直截的にそれを描こうとしたことだろう。思うにジャンルや意味の統合をめざすキューブリックのきわめて野心的な試みに比べると、ロッセリーニの輝かしい宗教映画やブレッソンの瞑想的な禁欲主義のほうが、究極的にははるかに野心的である。

 それでも「2001年宇宙の旅」を目のくらむような技術的完成度のみで安易に評価してはならない。この水準を超えるには数年を要するだろう。目新しく高性能な機械の使用に習熟し、他のハリウッド映画がこれを模倣してキューブリックの驚異の特殊効果が色あせたときこそ、自信をもって先駆者「2001年」の魅力をしのいだと証明できるだろうし、これがどんな映画だったか正しく評価できるであろう。

 〔ロベルト・ロッセリーニ:映画監督(伊)。ネオレアリスモを代表する監督の1人。「無防備都市」「戦火のかなた」「ドイツ零年」など〕

 〔ロベール・ブレッソン:冷徹な描写で知られる孤高の映画監督。「抵抗」「ジャンヌ・ダルク裁判」「バルタザールどこへ行く」「少女ムシェット」など〕

 

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『ニュー・リパブリック』:失踪、星々のあいだで

スタンリー・カウフマン

 

 スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は5年の歳月と1000万ドルの費用を費やして製作されたが、この時間と経費のゆくえはたやすく見届けられる。が、この5年間、精巧な画面作りにいかに熱中し、自己の才能をかえりみないよう努めたか理解するのはさほど容易でない。冒頭の30分、この映画はぎこちない足どりで歩みはじめ、才気あふれる多くの表現や面白い場面が多少あっても、その足どりが立ち直ることはない。有力な監督による力作であるだけに、その失望も大きい。

 問題のひとつは話にふくらみが乏しいことだ。アーサー・C・クラークの短編「前哨」をふくらませ、水増しして、この3時間映画(インターミッションを含む)の重量を支えようとする。無理である。記憶では「前哨」は月に行った宇宙飛行士の一団が明らかに人工的な石板を発見し、ちかづくとそれが電波を発射するという話である。一種の早期警戒レーダー・システムの探知装置で、はるか遠くの惑星の住人が設置し、すくなくとも人類が遠く月に旅行できるまで進歩したことを伝えるのだろう。彼らは坐りこみ、異星人からの応答信号を待つことにする。結末を読者の想像にゆだね、手ぎわよくまとめた短編スリラーである。

 キューブリックとクラークによる脚本は冒頭にプロローグをもうけ、400万年前の地球のまったく異なる状況下に石板のひとつを置くことにした。そしてむろん異なるキャラクターを使って、その石板を2001年にジャンプさせる。周回軌道上の宇宙ステーション経由でパン・ナム機が月に定期運航され、月面で同じ石板が発見されても米国はソ連に秘匿する(理由は明かされない)。さらに新たなキャラクターを投入して第3部が始まる――巨大な宇宙船を木星に送り、石板の電波の起源あるいは送り先を探るのである。

 この木星への旅に、宇宙飛行士はたった2名である。意識があるのは2名という意味だ。他の3名は――「猿の惑星」のように――ガラス箱のなかで生命を維持されている。キューブリックは長い旅路を何らかのアクションで埋めねばならず、2人の人間と巨大コンピュータのあいだに軋轢を起こすことにした。SFではたしかに機械に人間的な個性や音声をあたえるのは目新しくもないが、キューブリックは航海中に何かことを起こす必要に迫られ、それだけのためにこの型どおりの紛争から最後の1滴を絞りだすのである。この人間対機械の敵対関係は話の本筋とはなんのかかわりもないが、このシークェンスがあまりに長いので、本筋にもどるころには結末が添え物に見えてくる。結末はクラーク好みの主題――地球外の生命に比べれば、人間はたかだか子供にすぎない。だがこの主題――おそらくこの長い映画全体の眼目は――すっぽりぬけ落ちてしまった。

 〔「猿の惑星」:未来の人類は猿に支配されるという衝撃的な内容のSF映画。ヒットしてシリーズ化された。1968年、フランクリン・J・シャフナー監督〕

 「2001年」は未来の宇宙旅行がどんなものか教えるつもりだろうが、「博士の異常な愛情」や「ロリータ」のような機知はほとんど感じられず、「突撃」や「スパルタカス」の視覚的な鋭さもなきにひとしい。もっとも衝撃的なのは、キューブリックの語り口にまるで力がないことだ。冒頭の部分をとりあげてみよう(「人類の夜明け」と銘打たれ、とまどってしまう)。シネラマで砂漠の巨大な光景が眼前に投げだされるが、各ショットが異様に長く、ショット間にはつながりも関連性もなく、リズムも感じられない。やがてこと細かに、しかも異様に遅いテンポで、2群のヒトザルの水場争いがジェスチャー芝居で演じられる。この争いに割り込むでもなく、あの黒い石板の1個を数頭のヒトザルが見つける場面がぎこちなく挿入される。さらに1頭のヒトザルが骨を武器にすることを覚え、敵をやっつけ、勝ち誇って骨を空中に放りあげる・・・そしてそれがいまから33年後の宇宙船にかさなる。つらいがもはや認めざるをえない――これはわれわれの知るキューブリックではない。するどい切れ味、選び抜かれた知性、そして個性豊かなみごとな作品は、高級劇場向けの超大作のなかに埋没したようだ。このプロローグはまさに、さまざまな要素をゴタ混ぜに詰めこんだ退屈きわまりないもので、将来のための教訓として放棄さるべきものだろう。よくないものは要らない。その後の経緯とはなんの脈絡もないのだ。

 この重々しいうえ教訓がましいプロローグをとり除けば、ともあれ極上の場面から映画は始まる――これこそがキューブリック、宇宙である――巨大で青白く、物おじさせる光を放つ月――はじめて目にし、しかも人間がいるかと思うと胸がときめく。地球の周回軌道上で回転する宇宙ステーションに、宇宙船がドッキングするところである。その宇宙空間での壮大な運動に合わせ、サウンドトラックはステレオの大音響で「美しく青きドナウ」を伴奏する。ワルツに乗って観客は宇宙船に乗りこむ。ジェット旅客機の客室に似て、目立たない電子式の客室案内灯が無重力状態を知らせ、シートベルトを締めるよう告げる。無重力を示すかのように、居眠りする乗客――米国の特使――のそばでボールペンが空中をただよう。パン・ナムの体を浮かせない吸着靴を履いたスチュワーデスがくる――1968年と変わらぬあのスチュワーデス・スマイルをたたえて。宇宙船がドッキングして宇宙港に入ると、そこにはハワード・ジョンソンがあり、ヒルトン・ホテルやその類のものがある。つかのま観客の期待は高まる。キューブリックはみごとなリアリズムで未来を創造したようだがまだ不足らしく、それらを使って何かしようとしている。

 そうではない。たちまち悟らされる――この仕掛けはセットとして使わず、存在することに意義があるのだ。例の特使が地球に愚にもつかない電話をするのは、たんに仕掛けを見せびらかすため。1901年の万国博以来連綿とつづく展示のように、つまらない台詞と演技からうけるのは、陳腐な設定に合わせてストーリーをでっち上げたまでという印象である。特使とソ連人数人のあいだには、深夜TVも恥ずかしくなるシーンすらある。この特使と数人のアメリカ基地職員が秘密会議をもつシーンもあるが、これはもっとひどい。「博士の異常な愛情」の国防司令部のシークェンスで見る者をうならせた監督に、わたしはまだ望みをつないでいた。が、あのキューブリックではなかった。装置や特殊効果に血道をあげ、それをうまくやりたいばかりに俳優の台詞や動きにはあまり注意を向けていないようだ。この長い映画に台詞はわずか43分しかなく、このあきれるほどみごとに陳腐な43分以外、この映画に見るべきものはない。

 かれは度肝を抜くような効果もあみ出している。たとえば木星への旅の途上、宇宙飛行士の1人(キア・デュリア)が船体外部の修理に使う小さなカプセルから船内にもどる。かれはヘルメットを着けずに、自分自身をエアロック内に放出するのである(アーサー・C・クラークの小説『大きく息を吸って』の一場面を思わせる)。キューブリックはカットで割らない。デュリアはまっしぐらにカメラに突進する。細部にいたるまでその入念な仕事には非の打ちどころがない。例をあげると、しばしば宇宙飛行士が操縦席で計器板を見る場面があるが、計器板は1ダースもの小スクリーンで構成されている。そしてそのスクリーンの一つひとつに一連の方程式、図表、信号が流れる。小スクリーンごとに、背後からことなるフィルムを映写する必要があるだろう。計器板の出るシーンではその小スクリーンの数だけ、数学の記号を撮影した小フィルムをあらかじめ準備しておかなければならない。そしてこれが、やたらと機械を詰めこんだこの花火のような映画唯一の装飾である。

 それにしてもこのすべては何のために? 映画はだらけきり、注意は技術的な面のみに注がれ、映画に対する観客の興味は失われた。キューブリックは技術に凝りすぎ、映画を退屈きわまりないものにしてしまった。かれは映画と未来のテクノロジーに夢中になりすぎた――観客の注意持続時間に対する以前のするどい感覚が鈍っている。はじめの数分間、宇宙飛行士が運動のため船内をジョギングしている――環状の船内をじっさいに片側の壁を駆けあがり、頂上をすぎ、さらに反対側の壁を床まで駆けおりるのだ――とても面白い。以前のキューブリックならそれがまだ面白いうちにやめたろう。まったく同じことが修理用カプセルのエピソードでもおこなわれるが、これは縮めてよいのだ――さらにその後にも、もとの話を大幅に省略できるのに同じことがくり返される。キューブリックは優秀な特殊効果マンだ。だが監督のキューブリックはどこへ行った?

 この映画には、キューブリックの意図しない「特殊効果」がひとつ確実にある。なぜわたしが宇宙探検というアイデアを好まないか、明らかにしてくれたのだ。1週間前ルイス・J・ハーレが、この雑誌に宇宙探検が好きな理由を書いている――

 

  生命は周知のごとく地球の檻に囚われているので、現時点では人間のような宇宙的な感覚をもたない。だが私自身は、現代人のような大きな知識を得れば、生命は無限の感覚をもつようになると確信せざるをえない。

 

わたしはこの「感覚」に対する利いた風な定義は信じないし、ホールの議論はいずれ自己撞着を起こすだろう。この世界に関する人間の知識は増しつづけてきたが、ハーレ風にいえば生命のもつ感覚はきわめて小さい。物理的な知識を増やすことが、どうして生命の感覚を拡大することになるのか? かれは、わたしのように宇宙探検を嫌うという哲学的立場で発言しているのでもなく、ましてやさし迫っているのは金と技術を地球に注ぐことだという、現実的な立場に立つものでもない(人間の月着陸は1年かそこらのうちに終わり、政府の宇宙関連支出を削減して宇宙計画はこれ以上進めないという記事を最近読んで、わたしは喜んでいる)。キューブリックはさらにひどい物理的、個人的な反対意見を映画化している。

 宇宙はかれが見せたとおり震えがくるほど巨大だが、これもかれが示すように、宇宙では人間は地上より狭いスペースに監禁される。人間が人間らしく見たり生活したりできる巨大な空間が宇宙港であるが、そのケネディ宇宙空港に行くには巨額の費用と歳月を要するだろう。1歩宇宙港の外に出ると、人びとは拘束されて人間性を失う。宇宙服とヘルメットなしでは誰も行動できないのだ。ガラスの棺桶のなかで冬眠しなければならない。食事は加工され衛生処理されたブタの餌である。見てのとおり、キューブリックの宇宙船内はジェット旅客機とさして変わらないが、すくなくとも飛行機は、ある人間的な環境からべつの人間的環境へと移動するのである。地球外生命の存在に関する本を読むかぎり、人間に適した惑星があるなどどこにも書いてない。何百万キロメートルもの旅を想像してみよう――閉じこめられ、うんざりする日々が何週間もつづく――宇宙服のなかで生きるために。

 キューブリックはパラドックスのグラビアを作っている。宇宙はただ大きいだけのようだ。人類にとっては牢獄である。星々に満ちた天空がいかに巨大であっても、宇宙旅行のことを考えるとわたしは閉所恐怖症におちいってしまう、これがその理由である。

     

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ルイーズ・スウィーニーはニューヨークを拠点とする『クリスチャン・サイエンス・モニター』の批評家で、ニューヨーク試写後にぜんたいに好意的な批評を書いた。ボストンの映画評担当スタッフ、ジョン・アレンの批評はひと月後『モニター』誌に掲載され、MGMはそれを広告として『ニューヨーク・タイムズ』の土曜版に再掲した。

 

『クリスチャン・サイエンス・モニター』

 ルイーズ・スウィーニー

 

 スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は、近代技術に対する輝かしい、銀河的スケールをもつ風刺である。

 キューブリックの映画の船に乗り、宇宙をつきぬけてわが地球の遥かかなたへと向かう、目もくらむ 160分の旅でもある。小さな惑星(木星)への旅にキューブリックは恐ろしいほどの真実味をもたせ、これまでのSF映画の多くがまるで星空の玩具のように見えてくる。「2001年」は究極のトリップである。

 〔究極のトリップ:「トリップ」には「旅」のほかに、覚醒剤を用いて幻覚状態になるという意味もある。「そして巨大なシネラマ・スクリーンが麻薬でハイになった最前列に眩いばかりの万華鏡となって襲いかかると、彼らはその感覚に身を任せるのである。(中略)MGMはこの風潮に飛びつき、再映時には『究極のトリップ』として売り出した。こともあろうに、この謳い文句は『クリスチャン・サイエンス・モニター』誌の映画評から拝借してきたものだった」(ピアース・ビゾニー/浜野保樹・門馬淳子訳『未来映画術「2001年宇宙の旅」』)〕

 だがこれは二つの次元でとらえられる旅でもある。21世紀への心楽しい旅と考えてもよい。あるいは技術を神格化した社会への痛烈な風刺ともとれる。「博士の異常な愛情」の製作者は、「私はいかにして心配することをやめ、HAL9000を愛するようになったか」とサブタイトルをつけられそうな映画を創りあげた。HAL9000は夢の技術、会話するコンピュータである。キューブリックの宇宙船に搭載された電子頭脳は、地球から木星への旅行中あらゆる決定をするようプログラムされている。乗員は親しみをこめて「ハル」と呼び、頼りにし、起こしてもらい、チェスをやり、食事をあつらえ、家庭からの衛星メッセージを中継し、宇宙船の技術データを統括し、そして当然乗員とおしゃべりをする。

 〔「私はいかにして・・・」:「博士の異常な愛情」のサブタイトル「私はいかにして心配することをやめ、水爆を愛するようになったか」をもじっている〕

 画面に出るのはその電子の眼である――赤や深紅色や青い光の帯の裏にはかしこい黄色の瞳がある。ゴダール「アルファヴィル」のコンピュータの癇にさわる声とちがい、ハルは中性的でおだやかで、注意深く選んだ言葉をゆっくり機械的な慇懃さで発音する。それでも乗員の1人は「ハルには感情もあると思うかい?」と尋ねる。この質問が転じて、ハルはプライドと怒りを見せることになる。

 〔ジャン=リュック・ゴダール:映画監督(仏)。ヌーヴェル・ヴァーグの中心的監督の1人。「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「軽蔑」など〕

 〔「アルファヴィル」:1965年。電子指令機に支配される都市アルファヴィル、その指令機の破壊と人間性の回復を描く〕

 このスーパーコンピュータは過去の無謬性を誇るが、電子装置のことで大きな過ちを犯す。人間の乗員たちは「ポッド」と呼ぶ宇宙艇にこもって切断を検討するものの、ハルが唇の動きを読み、エレクトロニクスお得意の能率のよさで彼らの殺害を企てる。「ミスのありえない」ハルと、「博士の異常な愛情」の「ミスのありえない」ミサイル警報システムは、ともに死を招くという点で共通する。

 だがこれがすべてではない。MGMの宇宙オデッセイが始まると観客は濃紺の宇宙と星々のあいだを駆けぬけ、スクリーンでは見たこともないリアルな月を通り、感傷的きわまる「美しく青きドナウ」のさんざめきへと(いざな)われる。キューブリック氏のワルツ演奏は21世紀に導いてくれるが、熱核兵器の恐怖コメディ「博士の異常な愛情」では「もうすこし優しく(Try a Little Tender) 」に似たポップソングが皮肉な形で使用されていたことを思いだす。

〔ポップソング:「博士の異常な愛情」のラスト、核戦争のシーンではヴェラ・リンによって「また会いましょう(We'll Meet Again)」が歌われる〕

 この宇宙オデッセイの第1幕には、赤道上空をめぐる巨大な糸巻形の「宇宙ステーション5」が登場する。すべてが超科学の世界に見えるし、そのとおりでもあるが、ひとたびなかに入るとキューブリック氏はまだ21世紀の成果をからかっている。ハワード・ジョンソンのダイニングルーム「地球光」や宇宙ステーション・ヒルトンがあり、スチュワーデスはパン・ナムの遠心式吸着靴を履き、無重力トイレには言葉たくみな注意書がある。スピーカーからは「ラウンジで婦人用のカシミア・セーターを拾得いたしました」とアナウンスが流れるのである。

 〔「地球光」:クラークに『地球光』という作品がある〕

 〔遠心式吸着靴:画面では底にマジックテープを貼った靴のように見える〕

 機械に囲まれた生活はさぞかしエキゾチックだろうと思われるが、キューブリック氏の2001年に登場する人びとは皆あきれるくらい同じ恰好をしている。男はウールの混紡シャツを着て曖昧なデザインのダークスーツに合わせ、女は黒地のストッキングを履いて、黒のロングスカートに同じく黒のみすぼらしい上着をはおっている。乗客は野菜や果物の流動食をストローで吸い、画家のパレットのような皿で供されるペースト状の食事を囲んで会食するのである。

 だがキューブリック氏は惑星間航海を笑いながらも、観客を目もくらむ宇宙旅行にぐいぐい引きこむ。現実感を出すため、キューブリック氏は75万ドルを投じて無重力状態で使う遠心室を発注した。おかげでキア・デュリアとゲリー・ロックウッド演じる宇宙飛行士ボーマンとプールが、ロボットを思わせる無表情さで遠心室内をぐるぐる動きまわる場面がリアルになった。

 キューブリック氏と優れた科学ライター、アーサー・C・クラークは「2001年」の脚本執筆に2400時間を費やしたと聞く。その成果が表れている。台詞を必要最小限にとどめたことでなく、科学的なディテールにあきれるほど注意を注いだことに。月のクラヴィウス基地には赤外線照明の巨大な宇宙船格納庫があり、それがたとえば油圧式のハエ地獄のように扉を開くのである。

  キューブリック氏の「2001年」には、上記以外でも同様だが、記念碑的ともいえる欠陥がある。「人類の夜明け」と題した冒頭の30分は進化への無言の讃歌であるが、不愉快なことに「猿の惑星」を思いだしてしまった。カットして然るべきだろう。このシークェンスで猿どもは背の高い直方体の黒い石板(たぶんシマメノウか粘板岩だろう)を見つけ、これが最初の知的生命を象徴する信号を出す。

 この歌う石板は宇宙オデッセイの後半と映画のラストにも現れるが、これらもカットすべきだろう。フェリーニ映画からぬけ出たような寓意的シーンもあり、デュリア氏はさまざまな年齢の自分自身を目の当たりにし、最後に石板とともに平安をえるが、その後スチューベン・ガラスの球に入った胎児になる。

 〔スチューベン・ガラス:商標。米国 Corning社製の高級ガラス器、置物〕

 宇宙シーンのいくつかはスローモーション・ペースで進むし、サウンドトラックは不快なほどの大音響でがなるが(宇宙飛行士の不快な息づかいは、あの歌う石板の耳ざわりな音と同様、ときおり唯一の効果音として使用される)、いずれも映画のもつ衝撃性から注意をそらすものだ。

 だが卓絶した撮影を見るだけでも、たとえ音がなくとも「2001年」は一見の価値がある。ジェフリー・アンスワースとジョン・オールコットは、製作者兼監督のキューブリックのもとで比類ない視覚的オデッセイを創造した。見逃せないのは終盤まぎわの虹のような大爆発である。デュリア氏が宇宙船を操縦して光の峡谷のなかを通りぬける、このサイケデリックなシーンには顔色を失う。

 

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『クリスチャン・サイエンス・モニター』

 ジョン・アレン

 

 批評が紛糾して激しい火花が大気を引裂くときは、いつもそうだが確かなことがひとつある。落雷である。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は、高電圧に輝く稲妻のような映画である。

 突如ひらめく稲妻にはつねに大音響の雷鳴がともなうように、この映画には驚異と知性の光がある。観客が理解できず、しばらく目が(くら)んだりとまどったりしても、それはあるいは意図的なものかも知れない。驚異と畏怖の心を呼びさますことが、この映画第1の目的ではなかろうか。

 黒い金属製のモノリスは何か、シュールリアリスティックな終幕が何を意味するのか、そして冒頭、先史時代のシークェンスの意義は何かととまどう――あるいは素朴に映画の到達した世界を(いぶか)しがる――これらは一時的なことにすぎず、重要なことではない。この映画体験によって知性や想像力がゆすぶられ、大きな満足を得ることが重要なのだ。驚異は笑いや涙と同様、ごく自然に生まれる感情である。

 だがそのような反応は、小生意気ですぐに底の割れる、陳腐で薄っぺらな知識を並べただけのだらけた芸術作品からは生まれない。そもそも科学技術は日々に新たな驚異を生みだすものであり、そのため新しいものに「驚き」を感じる感覚はにぶり、麻痺してしまう。芸術(映画を含む)がわれわれの鈍磨した精神に刺激を試みるのは当然であり、またかならずそうあらねばならない。

 だが忘れてはならない、「2001年」にまつわる謎は、観客を混乱させるために身勝手で反啓蒙主義的な思いつきからでっち上げたものではない。特定の芸術作品(少数の人間ではない)を魅力的、刺激的にするのは、作品自体に含まれる謎なのである。

 「2001年」の天才性は、同時に複数の異なるレベルのアプローチが必要なところにある。ある意味では、少なくとも4本の映画が常時スクリーンに上映されているのである――観客はみな3本にはなじんでいるが、残りの1本はとっつきにくいかもしれない。以下はさきの3本を見る方法と4本目のヒントである。

 はじめの3本は、なにか特別な記念日の贈り物の包装紙、化粧箱、贈り物本体にたとえられる。しかしこの特別な日の意義は、贈り物を受けとる人によってことなる。その人が体験から得たもっとも重みのあるもの、すくなくとも言葉で安直に表せないものである。このことを詳しく説明するには、まず簡単なところから始めよう。

 まことに奇妙だが、謎は包装紙の段階から設定されている――4本の映画のもっとも核心から外れ、もっとも重要度の低いところはいっぺんに観客のまえに投げ出される。

 「2001年」の最表層部は、もの珍しい仕掛けと特殊効果に満ちたSF映画という側面である――近未来の宇宙旅行と、宇宙のどこかに知的生命が存在すると明確に語る、奇妙な石板と人間との遭遇を描いた映画。

 この表面と同じレベルで、観客はプロットや台詞、登場人物の少なさにとまどう。まるで贈り物を大胆で斬新なデザインと色彩の紙に包むより、魚なみに新聞紙でくるんだほうがよいかのように。

 このレベルでは石板の意味、映画の始まりや終わりの意味、さらには1960年代から70年代に向かう映画の、全般的動向はどうかという疑問もわく。

  映画についても、われわれにはまるで本