

昭和30年までの日本の原風景を再現。
もう、すっかり日常生活の中で「ふんどし」は見ることができなくなりました。屋根瓦の上の洗濯干し場になびいていた越中褌、銭湯に行けばごく当然のように見ることができたオヤジの褌、チャンバラ映画の剣豪の褌などなど・・、そのように褌はすでに日本の過去のものとなってしまったのでしょうか?。博物館ではありませんが、さまざまな「ふんどしがあった日本の風景」を再現してみました。
(写真はすべて筆者所有、または筆者撮影の資料写真によるものです。)

農家の軒先に干してあった越中褌。郷愁を感ずる農村の風物詩だった。
昭和30年代までは子供の水着は「クロネコふんどし」といわれた水褌(すいこん)だった。
風になびく、ふんどしがあった・・。
農家といえば、私の父方の実家がけっこう大きな農家でした。今は建て替えて新築の家になりましたが、かっては祖父の褌が庭先に干してあり、風になびいていたのを思い出します。梅雨の季節になると囲炉裏の近くは洗濯物の花が咲きました。そのような祖父の越中褌を振り返ると、鮎釣り名人だった祖父が、夕方の清流で真新しい褌に着替えた姿を今もはっきりと思い出します。
湯治場、銭湯でのふんどしは日本人の定番下着だった。
長崎県小浜温泉の共同浴場「おたっしゃの湯」
高度経済成長を過ぎて、日本列島が悪しき「改造」されると、日本の自然、原風景とともに都会の生活も大きく変化しました。かつてはほとんどの人たちが銭湯に通っていましたが、昭和40年代からは急激にその姿を消しました。幼い頃、銭湯に行き大人の褌姿を見て「かっこいい、大きくなったらボクも褌をするんだ・・」なんて思いました。
農家の五右衛門風呂。
私の母方の実家は、便所と風呂が母屋と分かれていました。祖父や祖母は夏などは母屋から半裸のまま風呂場に行きました。祖父は越中褌一丁で風呂場に行くと締めていた褌を洗い、炊き口の釜戸付近に干していました。時々は祖母の腰巻と褌が仲良く並んで干してあり、微笑ましく思ったものです。風呂は蒔で沸かす「五右衛門」風呂でした。蓋を取らずに、踏み込んで入るんだよ・・と祖母が教えてくれました。母方の実家に帰ると、この五右衛門風呂に祖父と一緒に入るのが楽しみでした。
湯治温泉ではふんどしさえ売っていた。
昭和40年代初頭に会津の山奥の湯治温泉に行き湯治棟に泊まると、物干し竿には越中褌がずらりと干してありました。昔の湯治場といえば下着はつけずに湯治に専念して、帰りがけに洗いざらしの褌をして湯治を終えて帰って行ったといわれています。私が訪れた昭和40年代の湯治場にいた男性のほとんどは越中褌をしていました。湯治棟の売店には雑貨と共に越中褌も売っていました。それは粗末な作りでしたが、湯治ではそれでよかったのでしょう。
湯治場の褌
湯治棟は、相部屋が原則でした。
物干し竿に干してあった越中褌には間違えないように名前が記入されていました。
| ■コンカ漬け漁法 私が子供の頃、川で魚を獲る方法のひとつに「コンカ漬け」という漁法がありました。「コンカ」とは「コヌカ(糠)」が訛った方言で、この糠に魚の内臓をませ合せて、錘になる石などと共に金属の洗面器に入れて布で蓋をします。そのとき魚が入るぐらいの穴を空けておきます。そのまま水深1b前後のよどみに沈めて、魚の入るのを水中メガネなどで見ているわけです。糠と魚の腸が混ぜ合わさった臭いに誘われて魚が下流に集まりはじめ、そのうち一匹二匹と容器に入ってゆきます。すかさず潜って穴を手で塞いで引き上げるのです。クロネコ褌を締めた子供たちが、数人で魚を獲っていましたが、お尻をぴょこんと水面に出して、魚が入るサマを見る姿はどこかユーラスな光景だったことをよく覚えています。 |