
西郷隆盛は私の歴史上の人物で敬愛すべき人です。政治家としての西郷どんよりも、薩摩の民衆の中に生きた西郷さんに魅力を感じています。それだから薩摩の人は今も西郷どんを尊敬と親しみを込めて愛しているのでしょう。薩摩には何度も足を運び、その生活、風俗には大いに興味があり、それを西郷どんと重ね合わせて旅をしてきました。いろいろ旅のつれづれに漏れ聞いた西郷どんの逸話をまとめてみました。(本文は拙著「褌の旅」(心交社・刊)の原稿を一部手直しして再掲載したものです。)
製作著作・(C)越中文俊
西郷隆盛終焉の地城山から桜島を望む。西南戦争の激戦地「田原坂」の馬上の美少年像。
薩摩には独特の兵子文化が伝わる。兵子を見せて練り歩く高尾野の「兵六踊り」
■西郷どんはどんな人?
「西郷どん」の愛称で親しまれてきた薩摩のヒーロー「西郷隆盛」に関しては、どういうわけかその私生活はあまり伝わってこない・・、というより、触れたくない私生活が垣間見られるようで、歴史家の間でも、まだまだ未知の部分もあるようで、西郷どんの生涯は歴史家でなくとも興味あるところである。
西郷隆盛は文政10年12月7日、今の鹿児島市内加治屋町で生まれた。幼名を小吉といい薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)教育」によって鍛えられた。郷中とは、青少年による修養集団で、幼年者(6歳〜14歳)は「稚児」と呼び、15歳から24歳程度までを「二才(ヘコ)」、その上の年齢になると「長老」と呼ばれていた。
その集団生活において主従関係や人間関係を徹底的に教え込まれ、西郷隆盛は生家の鍛冶屋町の郷中のリーダーとして稚児頭、郷中頭となりその指導力を発揮するようになる。 西郷隆盛の私生活、その政治指導力にはこの「郷中」に育まれた精神が強く影響されていたのである。その結果「郷中」は時として男と男のより強固な関係といったものを生み出す風土性を表し、「男尊女卑」という土地柄もあってか西郷隆盛もまた「男色」家ではなかったか・・?、といううわさがつきまとってきた。
西郷は当時の薩摩藩主島津斉彬の熱い寵愛を受けていたといわれ、西郷も斉彬に対して強い忠誠心を持っていたという。その時のエピソードとして、斉彬の側室が懐妊したおりに西郷は「男子出生」を水垢離してまで祈願して「生涯不犯にして相守るべく」と一生女色を絶つことを誓ったというのだ。
安政5年7月16日、斉彬が急死してその報が京都の西郷のもとに伝えられると、西郷は巨体を震わせて泣き、薩摩の帰路に腹を切って殉死を覚悟するのだったが、清水寺の僧「月照」によって制止され薩摩のために生き抜くことを決心した。だが、その深いつながりを持った月照と西郷との間には悲劇的な結果が待っていた。
鹿児島に戻った西郷は、月照上人を薩摩に迎えるが、月照は勤皇僧として幕府のお尋ね者で、斉彬死後、藩の事情も一変していたこともあり、西郷は月照の扱いに苦慮していた。
さらには藩主久光は西郷を毛嫌いするようになり、月照をかくまうことはおろか国境で殺害する手はずとなった。
月照暗殺の通達があった日の12月22日の早朝に、西郷は月照とお互いに抱き合いながら冬の錦江湾に身を投げたのである。これが男女の仲だったら明らかに「心中」とも言えるのだが、この入水自殺を「情死」と表現している伝記もある。事実、海から引き上げられた二人は、かたく抱き合ったままだったというから。
この「心中」の結果、月照上人は死亡、西郷はその後、息を吹き返した。以後、西郷は生き残ったことを生涯の恥ずかしめと思い、その重荷を背負って生きてゆくことになるのである。西郷と月照との入水現場は、桜島を対岸に見る垂水海岸付近で、シラス台地の崖が迫る猫の額ほどの地に「月照上人入水の地」の石碑が立ち、そこからさらに鹿児島に近い集落には「西郷蘇生の家」が、歴史の証人として現存している。
冬の錦江湾に二人は抱き合ったま身を投げた。日照上人は「情死」、西郷隆盛は一命を取り止めた。
■ 西郷どんは特大の兵子を締めていた?
さて、西郷隆盛といえば私たちのイメージは、上野公園にある銅像に見られる、スネまでの短い白の薩摩絣の単に兵児帯に犬を連れている姿を思い出すが、地元の鹿児島の西郷どんは、立派な洋服の軍服を着ている。
上野公園の短いきものは、薩摩藩士の下級武士の質素倹約を重んずるというところからのものらしく、この姿は西郷どんが隠居生活をしていたときの姿だともいわれている。
征韓論によって盟友大久保利通と袂を分け合った西郷隆盛はしばし政治の世界から遠ざかり、薩摩半島の「鰻温泉」に明治7年1月から長逗留している、ここでは昼は薩摩犬を連れて狩りに、夜は読書と温泉で過ごす質素な生活ぶりが、あの絣のきものに猟犬を従えた姿だっといわれ、当時寝起きした民家にはシャツや、兵子(ふんどし)等が残されてい,るという。この短いきものでの生活には面白い話が伝わっている。場所は鰻温泉かは定かではないが話しの成り行きは次のとおりである。
ある日、この短いきものを着て畑仕事をしている西郷さんの裾から兵子(褌)が見える。
農夫が「先生、大きゆうございますな」と、褌からはみ出した巨根をしげしげ見ながら言うと、西郷さんいわく、
「飯を食うときお膳に使っている」と応えたという。
それほどに西郷さんは巨根の持ち主だったといわれているが、西郷さんの身長180センチ、体重110キロの巨漢ぶりから見て巨根は納得できるものがあり、さぞかし褌も特大のものが必要であったことであろう・・、と推察されるが、実際は、男根よりも陰嚢が風土病にかかり「水腫」となり腫れ上がっていたとのことで、乗馬もままならなかったといわれている。ちなみに当時の西郷さんの褌は、質素倹約を重んじていた頃や、すでに明治に入ったこともあり、越中褌であったように思われる。
こう言う「巨根伝説」まで出てくるのも、西郷どんの人柄によるものであろうし、それは西郷どんの人生訓「敬天愛人」に根ざす人への思いやりと、庶民と生活を共にした親しい人間性、威風堂々とした風貌、そして西南の役での悲劇的な最後・・、などへの思いが募っていることにある。
かくして西郷どんは今もわれわれ日本人の心に強く訴えて愛されるものがあるようだ。
■龍馬と西郷どんの褌つながり
慶応元年(1865)、龍馬31歳のとき、近藤長次郎、高松太郎ら同志と薩摩へ行く。
この年には薩摩藩の援助で長崎に、後の「海援隊」の前身である「亀山社中」を設立、通商航海業を営み、そのかたわら薩長和解の仲介の労をとっている。その薩長和解の龍馬と西郷隆盛の間に面白い「褌」に関する巷談がり、「西郷さんの古ふんどし」と言い伝えられている。
それは、西郷邸を訪れた際に龍馬が西郷夫人の糸子をこっそり呼んで、
「西郷さんの褌、それも古いので結構、拝借させてください」と申し出たことに始まる。
西郷夫人は言われるままに、西郷さんの使い古しの褌を差し出したところ、西郷さんは、「お国のために命を投げ出そうとするお方だ、新しいのを上げなさい」と怒ったという。
この古褌の一件は、龍馬から西郷さんへの「薩長が手を結ぶ・・」という願望のメッセージが込められていたというのである。
さすがの西郷さんも「古い褌」が現れては、怒る気持ちにもならず、薩長同盟を真剣に考えざるを得なくなった・・というのだ。(以下「歴史と旅」(秋田書店刊)昭和57年8月号・高野澄著より引用)
龍馬と西郷隆盛との関係は、慶応2年(1866)1月21日、歴史に残る薩長同盟のきっかけともなり、二人の間は強い友情で結ばれるようになった。だが、この月の23日には、龍馬は京都寺田屋で暴漢に襲われるも、寺田屋の養女「おりょう」の機転で危うく難を逃れ、同年おりょうと結婚。西郷隆盛らの計らいで、薩摩に夫婦共々旅に出る。これが日本で初めての「新婚旅行」といわれている。
慶応3年(1867)龍馬33歳、亀山社中は海援隊と名を変え、龍馬が隊長となり幕末の世を走り抜けるが、同年11月15日、京都「近江屋」で、同席した中岡慎太郎共々刺客に襲われ慙死。
下関にいた、おりょうに龍馬の死が知らされたのは12月2日のことだった。
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