Stardust Night




 午前零時。

 読書灯を付けながらベッドの中で推理小説を読む。
 静かな部屋の中、時折文庫本をめくる、かさり、かさりという音が耳をくすぐる。他に物音のしない屋敷の中、唯一人自分だけが居るんじゃないかという錯覚を覚える。物語の主人公になり切るにはまたとないシチュエーションだ。秋も深まった折り、寒い部屋の中でぬくぬくと過ごすささやかな娯楽。
 
 怪しげな日本語を操る少女探偵が見事犯人を特定したところで本を閉じた。
 むき出しの肩口が冷たくなっているし、そろそろ寝ないと明日が辛い。

「……トイレに行っとこう」

 音を立てないようにベッドから抜け出すと、用を足しに部屋を出た。
 椅子に掛けておいたガウンを出がけに引っかけていく。
 ここ二三日でぐんと冷え、より冬らしくなってきた。部屋ごとに暖房を入れる屋敷の廊下は、風がないだけ外よりましという程度。部屋着でうろつくのはちょっと控えたい。




「ふう。さ、寝るとしますか」

 用を足し、水道の水の冷たさに震え上がりながら廊下に出ると、常夜灯に見慣れた人影が浮かび上がった。

「……志貴様」
「あ、翡翠。お疲れさま。夜の見回り?」

 懐中電灯を携え、暗い廊下に白いカチューシャを浮かび上がらせた彼女はいつものように黙ったまま頭を下げた。

「まだお休みになっておられなかったのですか?」
「うん。ちょっと読みかけの本があってね。つい読みふけっちゃったんだ」
「そうですか。もう夜半を過ぎておりますし、あまりご無理はなさらぬ方が宜しいかと思います」
「はは、そうだね。翡翠はもう終わり?」
「はい。志貴様のお部屋の前を通って戻るつもりでした」
「そっか。俺のところはさっき見たから大丈夫だよ」

 そうですか、と言いつつも一応は確認するという翡翠と一緒に部屋へ戻った。
 翡翠は道を先導するように一歩前を歩き、護身用にも使える棒状の懐中電灯を振りながら要所要所をチェックしている。琥珀さんと交代ながらも毎夜毎夜行うその勤勉さに頭が下がる。……いつもご苦労様。

「翡翠、その格好で寒くないか?」

 前を行く翡翠の後ろ姿はそれなりに暖かかった昼間と同じメイド服だった。夜の見回りに上着も羽織らないのはちょっと厳しいんじゃないだろうか。

「いえ、後少しですから」

 そういって首を振る翡翠。

「そう? ならいいけど……」
「はい。それでは志貴様。お休みなさいませ」

 翡翠は俺の前に向き直ると頭を下げた。
 っと、いつの間にか部屋の前まで歩いていたらしい。
 お休み、と返して部屋へ戻ろうとすると、小刻みに震えている肩が目に入る。
 ……また無理しちゃってるな、翡翠。

「翡翠、ちょっと待って」
「如何なさいましたか? 志貴様」
「ちょっと休んで上着着てきなよ。風邪引いちゃうぞ」

 俺の言葉に翡翠はちょっと困った顔をした。

「それはちょっと出来かねます」
「何で?」
「見回りの意味がなくなってしまいます。わざわざ経路を設定しているのはそれなりの訳があるからですし」

 遠野の屋敷は広く、一人だけでこの広い屋敷の中を毎夜毎夜全て網羅するのはちょっと酷な話だ。屋敷の各所には保安装置を設置してあるものの、全ての箇所を見張るわけじゃないから、その抜けた部分を翡翠たちが夜の見回りという形で補うことになる。
 チェック経路を設定するのは、屋敷のある一点から順次にチェックを行って屋敷の全箇所を点検し、なおかつ一度チェックした箇所がクリアであることを保つためだ。経路を一度外れてしまうと、未点検の場所に隠れていた不審者を点検を終えた場所へ逃がす可能性を含ませる訳で、保安上からするとちょっといただけない。翡翠の心配しているのはそういうこと。

「でも、風邪を引いたら意味ないじゃないか。夜の見回りも大事だけれどさ、昼間の掃除だって大事な仕事だろ?」
「もちろんです。しかし、それは風邪を引かなければ済むことです」
「い、いや、そりゃそうだろうけど……うーん」

 翡翠もなかなか無茶を言う。そりゃ引かなくて済めば誰も好きこのんで風邪なんて引く人間はいない。ああいうのは一番かかって欲しくないときにかかるから困るんだし、かかる前に備えておく方が良いに決まってる。でも、こういう時の翡翠は強情だ。遠野志貴の言葉とあっても命令でなければ聞き入れはしないだろう。
 翡翠に声をかけようとして、とっさにある考えがひらめいた。
 
「そうだ」
「はい?」

 うん……うん、思いつきにしてはいいアイデアかもしれない。

「翡翠、後どのくらい残ってる?」
「は、はい。後は志貴様のお部屋と、階下を廻って終わりですが」
「そっか。じゃあ俺が階下を廻ってくるからさ、翡翠は俺の部屋を見ておいでよ」
「……! いけません。志貴様はお部屋へお戻り下さい」

 思った通り、翡翠は俺の言葉に眦を吊り上げた。

「いいからいいから。分担した方が速く終わるだろ」
「そういう問題ではありません。志貴様に見回りをさせる訳には行きません。これは私の仕事です」
「その後で翡翠の時間をちょっと借りたいんだ」
「えっ?」

 想定外の言葉に翡翠の顔がきょとんとなる。

「翡翠が一人で見回りを終えるのを待っていたらもっと遅くなっちゃうだろ。これ以上遅くなるとまた寝坊して秋葉に怒られる羽目になるんだけど」
「そ、それは……」

 翡翠が何とも恨みがましい顔で俺の顔を見つめた。
 寝坊して秋葉に怒られるのはいつものことだけれど、こう言えば翡翠は俺の言葉に逆らえない。ちょっと卑怯だけど、こうでも言わないと翡翠は首を縦に振らない。

「駄目かな?」
「……そう言うことでしたら」

 不承不承頷く翡翠。
 全然納得できてない翡翠に思わず笑いがこみ上げるが、そうと決まればさっさと動いた方が良い。

「OK。じゃ手早く済ませちゃおう」
「はい」

 翡翠が携えていたチェック経路図を元に、二手に分かれて見回りをしていく。あと少しと言った翡翠の言葉は正しくなく、一人で行えばまだ更に時間が掛かったことと思う。
 翡翠の代わりという重大な責任を負っているので手を抜くことなく見回る。
 人気のない屋敷を彷徨いながら、日頃吸血鬼やエクソシストのうろつくこんな屋敷に入る泥棒がいるのかと思い可笑しくなった。

「……っと、終わり」

 自室の前に戻ると、程なく翡翠も姿を見せた。

「お疲れ。翡翠」
「はい、ありがとうございました」

 律儀に頭を下げる翡翠。

「はは。じゃ翡翠、ちょっとこっち来て」
「え? は、はい。……志貴様?」

 いきなりの言葉にちょっと目を見開いて体を反らせる翡翠。気にせず、部屋の中へ翡翠を招き入れると、ドアの近くで立たせたままクロゼットからコートを取り出した。
 見回りに冷やしたままの身体で戻らせるも何だし、お茶を飲むにしても深夜にお湯を沸かすという訳にもいかない。
 確かあそこなら行って帰ってきても20分足らずだし、何より真夜中のアレは昼間のそれに比べて異様に美味い。
 それに、今日の夜はちょっと特別だ。
 取り出した重たいフェルトのコートを翡翠に渡そうとして、その冷たさに躊躇する。

「翡翠、暖まってるからこれ着てよ」

 今まで羽織っていたガウンを脱いで翡翠に手渡し、代わりにコートに袖を通す。
  うわ、冷た。

「志貴様……これ……?」
「後セーターも着ていった方が良いかな……。うん? ちょっとだけ夜の散歩。ガウン昨日着たばかりだから綺麗だよ……って、翡翠が出してくれたんだもん知ってるか」
「いえ! そ、そういうことではなく……!」
「早く早く。折角暖かくなってるのに冷えちゃうじゃないか。はいこれも」
「は、はい」

 慌ててオレのセーターとガウンを着込んだ翡翠は赤い顔をして何だかぼーっとしている。

「志貴様の……匂いが」
「翡翠? ……あ、もしかして都合が悪いんだったら、また別の機会にでも……」
「な、なんでもありません! そ、それよりも遅くなってしまいます。早く出かけましょう志貴様」

 何か翡翠の調子がおかしい。
 よく判らないけど、まあ確かに遅くなると面倒だ。秋葉あたりがむっくり起きてこないうちにさっさと出ることにしよう。

 財布を手に部屋を出ると、正面玄関を避けて使用人の通用口を通り、俺達は屋敷の外へと抜け出した。
 冷たく冴えた夜の始まり。

 

 

 

 遠野の屋敷はともかくとして、ここ三咲町は住宅地が連なるベッドタウンだ。今の時間ともなれば道を歩く人の姿もなく、時折耳に入る微かなクラクションや救急車のサイレンが、逆に静けさを強調している。
  遠巻きに配置された街灯は、何の変哲もない街を影絵のように浮きあがらせ、異形の風景を目の当たりにさせる。

「……いつも思うけどさ、昼間の街と夜の街って全く別の場所だね」

 コートを羽織った俺とその少し後ろにガウンを身に纏った翡翠が続く。

「私は夜の街に出歩いたことがないので判りません」
「うっ」

 よどみない翡翠の言葉にちょっとつまる。
 以前、秋葉の制止を振り切って夜の街に出かけ、ぼろぼろになって帰ってくるのを繰り返していたから、ここら辺における遠野志貴の信用は無いに等しい。
 さんざん心配を掛けたのはもちろんだから返す言葉もないんだけれど、やっぱりこれって遠回しに責められてるんだろうか。

「……けれど、そうですね。たまにお使いに出たときのそれとではやはり違うように思います。静かで、落ち着きます」

 当惑気味の俺の顔を見て、翡翠はにこりと笑う。それが普段物静かな彼女によく似合っていて、ほーっと静かに白い息を吐きながらもその笑みを見続けてしまう。翡翠の小さな口から漏れる吐息も夜気に白く流れていく。
 今晩は空を覆う雲もなく、昼間暖められた地面から熱が空へと上っていく。多分明け方は今年一番の冷え込みになるだろう。ちょっと寒さが厳しいけど、今日の目的としては絶好のコンディションだ。

「志貴様、それで、目的の場所はどこなのですか?」
「あ、ああ。こっちだよ。もうすぐそこ」

 翡翠はガウンをきゅっと胸元に閉じて様子を伺っている。
 やれやれ、またぼーっとしていたらしい。
 翡翠も身体が冷えて居るんだし、早くした方が良い。

 少し歩くと、程なく四つ角に差しかかる。ブロック塀に仕切られて見通しの悪くなった一角がぼおっと白く照らされている。
 自動販売機だ。まずはこれが目的。

「志貴様。もしかして……ここでしょうか」
「そ。あんまり近くてがっかりした?」
「いえ、そういう訳ではありませんが。どうしてですか?」
「ふふん、いつも頑張ってくれる翡翠にご褒美。かなりお手軽で申し訳ないけどね」
「……志貴さま、夜回りは私の確固とした仕事です」

 翡翠はいつもの無表情で頭を軽く振った。わざわざそんなことをする必要はないということだろう。
 普通お礼に缶コーヒーなんて言ったら馬鹿にされるか怒って帰りそうなもんだけれど、翡翠の指摘している点はそんな内容を遙か超えたところにあるらしい。訳もなく嬉しくなってくる。

「分かってる分かってる。いいじゃない、俺がそうしたいだけなんだから。それに、真夜中の缶コーヒーって飲んだことないだろ。あの味は琥珀さんでもちょっと出せないぜ」
「ですが」
「いいから。ほら、どれでも好きなやつを選びなよ」

 そういって自販機に金を入れて翡翠を促す。

「……ありがとうございます」

 翡翠は礼を言うと俺の顔と自動販売機を交互に見ていたが、やがて困った顔をしたまま俺の方を向いて止まった。

「あの、志貴様」
「ど、どうかした?」
「その……どう選んでいいのか」
「……もしかして、翡翠って自動販売機でものを買うのって初めてだったりする?」

 おそるおそる訪ねてみると翡翠はこっくりと頷いて見せた。
 おいおい……今時の女の子が自販使ったこと無いってか……。
 屋敷内の仕事ばかりで外へあまり出る機会がないとはいえ、いくら何でもその箱入りっぷりときたら度が過ぎてる。この分だと屋敷と女子寮を往復の秋葉も……前にパンの袋が開けられなかったっけ。
 普段から買い物に出かけたり屋敷で唯一人テレビを所有している琥珀さんが一番世情に通じているかもしれない。

「そっか。とりあえず砂糖とミルクが入ったやつを選んでおけば問題ないよ。俺も翡翠と一緒のやつにしよう」

 適当なブランドを選んでセレクタを押し、続けて同じ種類のものを選ぶ。
 普段はこんな甘ったるいものは見向きもせず、黙ってブラックを飲むきりだけれど、こんな夜には甘いコーヒーの方が美味い。

「はい翡翠。結構熱いから気を付けて」
「は、はい。有り難うございます」
「ん。じゃそれ持ってもうちょっとだけ我慢して」
「はい」

 コーヒーの熱で手を焼きながら、もと来た道をちょっと外れて歩き出す。屋敷へ戻る方角には少しずれている道だ。
 翡翠は黙ったまま俺の後に続く。
 ガウンの袖を引き出して手のひらを被い、胸元にコーヒーを抱え込んでいる。どこか寸足らずな格好が可愛い。

 

 すぐに小さな神社の前に出た。そこ自体は別にどうってことのない神社だけれど、今回はそれが目的じゃない。社殿を取り巻くようにして回りの民家から漏れる光を遮る木々。これが重要だった。
 古ぼけた鳥居をくぐり、境内に一つきり備え付けられたベンチを手で払って翡翠に勧める。翡翠は首を傾げていたけれど、黙ってベンチに腰掛けた。その隣にお邪魔する。

「志貴様、ここは……?」
「うん、唯のお稲荷さん」
「……何か、特別な理由でもあるのですか?」

 神妙な顔をして首を傾げる翡翠。場所が場所だけに緊張してるんだろうか。ちょっと表情が硬い。

「はは、大した理由じゃないんだけど、まだ秘密。ま、翡翠の疑問はもっともだけど、とりあえず暖かいうちにコーヒー飲もう」
「はい」

 翡翠は俺の仕草をちらちらと眺め、おぼつかない手つきで缶コーヒーのプルトップを開けた。どうやら自動販売機初体験という触れ込みは冗談じゃなかったようだ。ちょっと苦笑。

「志貴さま、どうかされましたか?」
「い、いや、何でもない」

 手元を見つめていたのに気づいたのか、翡翠がこちらを振り向く。あわてて缶コーヒーに口を付けると、熱く、甘苦い液体を喉へと流し込んだ。

 ああ、いいね、この感触。
 熱い流れが通っていった喉、胃から熱が全身に染み通ってゆく。寒い夜のちょっとした快感。味と言うよりこの熱を感じたくて缶コーヒーを飲むのかもしれない。手を焼く缶コーヒーを持ち替えながら、ちょっとそんなことを考えてみる。

「どう? 翡翠。コーヒーの味は」

 翡翠は伸ばしたままのガウンの袖で缶コーヒーをそっと挟んだまま目をつむっていた。やっぱり翡翠もこの甘苦い熱を感じているんだろうか。

「……とても、美味しいです。不思議ですね。私コーヒーは苦手な筈なんですが」
「気に入って貰えて良かったよ。じゃ、今日の本命。飲みながらでいいからちょっと上を向いて」
「え?」
「寒いところをわざわざ引っ張り回したのは訳があるんだ。ほら、そこに椿の木があるだろ?」
「はい」
「そこの梢辺りから30°くらい上。……うん、そこら辺りを見て」
「はい」

 翡翠は言われた辺りをきっと見つめた。

「……そんなに気合い入れて見なくてもいいから、もっと肩の力を抜いて。あと、首だけ曲げてると辛いから、ベンチにもたれ掛かるようにするといいよ」
「はい。……こんな感じでしょうか」
「うん、翡翠の楽なようにすればいいよ」

 言われたとおりにする翡翠。

「……天体観測ですか?」
「うん」

 静かな夜更け。夜空を眺める二人の口元からほーっと白い息。
 コーヒーを飲んでいるせいで、より白く密度が濃い柱が立ち上る。
 その様子が面白くて、自分のタイミングを少しずらして翡翠に合わせてみる。同時に立ち上る2つの柱。
 翡翠も気づいて、ゆっくりと呼吸を合わせる。

 声もなく、静かに立ち上り続ける二つの柱。
 と、

「…………………あっ!?」

 ぼおっと空を眺めていた翡翠から声が上がる。
 翡翠の声と同時に、先程指し示した空の一角を眩い光が通り過ぎて消えていった。

「……なかなかでかかったな」
「志貴様! これですか?」

 翡翠が息を弾ませて問いかけてくる。いつも冷静然としている彼女が声に喜色を滲ませるなんてのは滅多にないことだ。翡翠がそれに気づかないよう、あえて内心の笑みを隠しつつ問いに答える。

「そう。今日学校で話題になったんだよ。何でも毎年決まった日にしし座の近くで見られるからしし座流星群って言うらしい。なかでも今年は特に多く流れる当たり年なんだってさ」

 天文部のヤツが騒いでいたのを又聞きに伝える。

「流れ星……私初めて見ました」

 寒さに白く凍えていた翡翠の頬に血の色が輝いている。

「俺も昔、有彦と夜遊びした以来かな。あ、また流れた」
「すごい……! なんて綺麗……」

 立て続けに二条、三条の光跡が夜空を切りつけていく。けれども光跡はすぐに周りの闇に飲み込まれて跡形もなく消え去る。消え去った光跡の後へ重ねるようにまた流れる。光跡は次第に数を増やしていく。

「うわ、段々すごくなってきた」
「嘘みたい……!」

 俺と翡翠は歓声を上げながら次々と流れていく流れ星の饗宴を見続けた。

 

 

 

「……そろそろ、帰ろうか」

 極大時を過ぎ、流れ落ちる星の数が少なくなった頃を見計らって俺は腰を上げた。興奮していて気づかなかったが、夜気は想像以上に体温を奪っていったようだ。厚着をしていても、時折胴震いをしていた自分に気づく。

「明日も……って今日か。学校もあるしね」

 翡翠に流れ星を見せられたのは良かったけど、こんな時間まで引っ張り回したことが気に掛かる。見回りをさっさと切り上げて早く休んで貰うための方便だったのに、これじゃ本末転倒だ。翡翠も凍えてるに違いない。ちょっと後悔。
  翡翠は頷こうとしたが、何を気づいたのかおずおずと俺を見つめた。

「あの、志貴様、もう一度だけ流れるまで、宜しいでしょうか?」
「えっ?」
「あ、あの……流れ星にお願いというものをやってみたかったのですが、ずっと見蕩れていて……その」

 出来なかったらしい。
 赤くなって黙り込む翡翠。

「あ、ああ。ピークは過ぎたけど、一つくらいだったらすぐに流れるよ。もうちょっと居ようか」
「ありがとうございます」

 珍しい翡翠のお願い。

「でも、翡翠、願い事って三回唱えなきゃ叶わないって……知ってるよね」
「はい。無理だと思います」

 分かっている、と言う風に笑って頷く翡翠。
 ずっと見てきたけれど、願いが叶うという流れ星が流れて消えるまでの時間は本当に瞬きの間。願いを唱え終わるのは殆ど不可能事だ。翡翠もそんな事は承知の上。ただ、こんな滅多に無い一時がこのまま終わるのは惜しい、そう思っているのだと思う。最後の流れ星を待つのはそのきっかけ。
 俺達はベンチに座り直すと、再び夜空を見上げ始めた。

 

 

 しかし、1分もしないうちに流れるかと思った流れ星は、何故かそれっきりぴたっと止んでしまい、気が付けば30分以上経過していた。

「……志貴さま、ありがとうございます。もう戻りましょう」
「う、う〜ん、もうちょっとで流れそうな気がしない?」
「はい。でももう充分です」

 俺はやっぱり最後の流れ星を見せてあげたかったが、それよりも翡翠の体調が心配だったし、時間も押していると言うことで納得した。

「そっか、じゃ、帰ろう」
「はい」

 二人して腰を上げると、お稲荷さんに今日の夜を感謝して一礼し、元来た道を帰る。

「そう言えばさ、翡翠は何をお願いしようとしてたわけ?」

 道中ふと気が付いて翡翠に聞いてみる。

「え? そ、それはお答えできません。秘密です」
「何だ、良いじゃない」
「そう言うことは口に出さないものです」

 むーと上目遣いにしかめっ面をしてみせる翡翠。今夜は何だかいつもより翡翠の表情が豊かだ。いや、いつも豊かなんだけどそれがもっと表面に現れてる感じだ。

「分かった、聞かない聞かない」

 翡翠を笑って取りなすうちに、先程の自動販売機の前まで差し掛かる。

「翡翠さえよかったらまた誘うつもりなんだけど、身体も冷えちゃったことだし、とりあえずも一本どう?」
「えっ?」

 何故か目を丸くした翡翠が俺の顔をほけっと見つめる。

「飲みたくないなら無理には進めないけど。コーヒーじゃない方が良かった?」

 翡翠の返事を待たずにコインを入れてボタンを押す。

「い、いえ! そういう訳ではなくて!」
「じゃ、はい」

 慌てて手を振る翡翠に確信犯の笑みを浮かべて缶コーヒーを手渡した。
 先程のとは銘柄が違うけど同じくミルク入り。

「……ありがとうございます」

 翡翠は俺と目線を会わせずに缶コーヒーを受け取った。
 もしかして照れていたんだろうかとちらっとだけ思う。

 

 道中飲んでいこうと思ったけれど、空き缶を屋敷の中に持ち込んで勘のいい彼女の姉に知られてもまずいので、自販の前で休憩ながらに飲むことにする。さっきのお稲荷さんから目と鼻の先くらいしか進んでいないけれど、時間も経っていることだし、まあ良いだろう。

 先程まで見上げていた夜空に何となく目を向ける。流れ星は見えなくなってしまったけれど、その分いつも見える星が輝いていた。
 こんな時でもなければこんなに集中してみることもないだろう。そう思うと流れ星の無い空もそう悪くないように思えた。
 隣にいる翡翠のことも、琥珀さんや秋葉や、みんなのこともすっぽり頭の中から消えて、見上げている夜空の中へ真っ逆様に落ち込んでいくような錯覚さえ覚える。
 と、

 視界の右端から左端へ、視界を上下に断ち切っていくように凄まじい火球が流れていった。
 隣に立つ翡翠の顔が白く浮き上がるのが判るほどの光量。
 火球の光跡に沿って白く輝く雲のような痕跡が残った。

「……」
「……」

 しばらくは声も出なかった。

「……翡翠。見た?」
「……見ました」
「今、しゃーーっ……て流れる音、聞こえ……たよな」
「私も聞こえました。幻聴では無いと……思います」
「……凄かったな」
「……はい」
「あんなの見たの、初めてだよ」
「私も、です」
「願い事、出来た?」
「いえ。咄嗟でしたので忘れていました」
「……そっか」

 当然だと思う。あれほど凄い流れ星でも、実際に流れていた時間は1秒にも満たなかっただろう。
 だからこそ、願い事を三回唱えれば叶うという単純な物語に誰もが夢を抱き続けることが出来るのだ。
 不可能事であるが故に光り続ける夢、そんなのがあっても良いんじゃないかと似合わないことを考えた。
 俺たちは缶コーヒーを飲み終えると、今度こそ屋敷の方角へ足を向けた。

 

 

 程なく屋敷の通用口まで辿り着く。
 通用口の前で何となく向き合うと、道中、最後の流れ星の余韻に浸って閉ざしていた口を開いた。

「どうだった? 翡翠」
「はい、ありがとうございました。志貴様」

 質問の意味を問うこともなく、満足そうに頷いてくれる翡翠。
 夜中に引っ張り回したホストとしては、それなりの評価を頂けたようで何よりだった。
 けれども、今年のしし座流星群はこれでおしまい。しかも、来年以降はこれほどの規模は望めず、特に最後に見たような流れ星は余程の幸運がない限り今後も見ることは無いだろう。
 ちょっと気後れしつつも、そのことを翡翠に告げる。

「願い事、残念だったな」
「はい」

 ちっとも残念そうでない翡翠が答えた。

「でも、もう叶ってしまいました」
「え?」

 思わぬ台詞に翡翠の顔を思わず見やった。

「正確にはあの流れ星の前に叶ってしまって、しかも意図していたものとは少し違いましたが」

 翡翠は満足そうな笑みを浮かべて俺を見つめている。
 トレードマークのカチューシャを付けたまま俺のセーターとガウンを着込んだ翡翠。
 どこかユーモラスだけれど、たまにはこんな姿をした彼女もいいんじゃないかと思う。
 いつもの凛とした彼女の姿を思い浮かべながら、鈍いと評判の俺の頭にも、何となく笑みの意味が浮かんできた。 

「……そっか」
「はい」
「良かったらまた内緒で出かけよう。特に理由が無くてもさ」
「はい」
「参考までに、何をお願いしようとしたのか、聞いておいても良いかな」

 半分答えを知りつつも、やっぱり俺は聞いてみたくて彼女に問いかける。

 

「志貴様、そう言うことは口に出さないものです」

 翡翠は淡い、それでも彼女には精一杯の笑みを浮かべて俺の問いに答えた。

 

 

 

 

fin 02.5.1