遠野家の昼下がり。

 昼食を終えて誰もがほっと一息ついてるかんじ。
 そんな遠野家の厨房に一人のメイドが突っ立っていた。
 遠野志貴付きのメイド、翡翠である。


 翡翠は困っていた。
 久々に困っていた。
 ここんとこ一番の困りかただった。
 どれくらいかというと、ある日ふと厨房を覗いて、自分の姉が雇用主のティーカップに何か入れてるのに出くわしちゃったときくらい困っていた。あるいはお使いの時に、シエルがビーフカレーとホワイトシチューのルーを前に悩んでいて、何とシチューを手にしたのを目の当たりにした時くらい困っていた。

 片一方はいつものように見て見ぬ振りをして済ましたが、もう一方は正直目を疑った。
 彼女の存在意義に関わるんじゃないかと他人事ながら心配になったくらいだ。
 シエルにしてみればよけいなお世話である。いつも割食っていて便利屋とか偽メガネとかでかっ尻とか言われても、たまにはカレー・ド・マルシェじゃなくて北海道シチューの気分になるときだってあるのだ。キレンジャーがシチュー食って何が悪いってんだバーロー、とか思ってみたりみなかったり。
 まあ、幸いどちらにも気が付かれなかったから事なきを得たが、面子が面子だけに見つかったら記憶操作どころか洗脳くらいされかねなかった。
 仮にも洗脳探偵だってのに。
 いけない、現実逃避してる場合じゃなかった。
 とりあえずは目の前のコレだ。

 見るも無惨に潰れたケーキ。

 どんな感じかというと、いつぞやビル・○イツに見事命中したパイを思い浮かべてもらえばいい。ようするにケーキというよりもクリームとスポンジの残骸だ。原型なぞ影も形もない。
 これが唯のケーキだったらどうってことないのだ。
 実際珍しい材料を使ってるとか、何日もかかる特殊な技法を使ってるとか、そういった付加価値はない。ありきたりの材料を使って作られた別段何の変哲もないケーキだった。

 問題はこれが当主遠野秋葉謹製だってことなだけで。

 いつもは箸とスプーンとフォークより重たいものを持ったことのない秋葉が、はた迷惑にも似合わない気まぐれなんか起こしたのは例によって例による。
 昨日のお茶会で、憎いあんちきしょうが、

「たまには秋葉の作ったケーキが食べてみたいなー。はははー」

 なんてスマイルかまして秋葉に言ったのがそもそもの発端だ。
 いつも朝起こすたびにきらめく志貴スマイルで抵抗力が備わってる翡翠ならともかく、耐性のない秋葉が不意にやられてしまったのだ。秋葉に罪はないと翡翠は思う。
 慣れてるはずの自分だって体調の悪いときモロに喰らうとちょっとクラッと来るし。
 埋葬機関の秘蔵っ子にも真祖の吸血鬼にも効果があるようだし、国連に連絡してBC兵器として取り締まってもらった方が良いんじゃないだろうか。

 ともかく。
 そんな訳で、秋葉五分、琥珀九割五分担当による手作りケーキが作られたわけなのだ。
 割合の示すとおり殆ど琥珀が作っちゃったんだけど、あえて言わないのがご愛敬。
 デコレーションだけで3つのスポンジケーキをふいにした秋葉渾身の力作だ。
 ……単にクリーム塗ってイチゴ乗っけただけとも言う。

 昨晩夜遅くまで行われた試行錯誤の結果、一応の形を見て秋葉ダウン。
 どうしてクリーム塗りたくるだけでそんなの消耗しなくてはならないのか不思議でしょうがないが、とりあえず格好的にはケーキの体裁だけは整った。白いままだと誰かの誕生日かと勘違いされそうなのでチョコクリーム。朦朧とした秋葉と引っ張り回されて半泣きの琥珀さんの後に残された件の品は、今日のお茶会の為に大事に大事に冷蔵庫へ保管された。

 さて、翡翠は、そうしてようやく出来たケーキを3時のお茶会のために取り出していたのだが、ここに恐るべき敵が現れた。
 そう、1匹見つけたら30匹居ると思えというあの黒い悪魔である。
 突然現れたそいつは、何を思ったか調理台に置いたケーキに向かってまっしぐらに寄ってきた。

「……!」

 翡翠は無言で手を振って追い払おうとするが、ふてぶてしいそいつは逃げもせずケーキに近寄ってくる。とりあえず緊急避難と、翡翠はケーキを持って退こうとした。
 その時! 何とヤツは黒光りするその羽を広げたのである!!

 ぶーーん……ぴとっ。

 ケーキに乗っかったイチゴの上に無事軟着陸。

「……いっ、いやあああああっ!!」

 自分の手にしたものが何であるかを忘れ、翡翠は思わずケーキを放り投げた。
 翡翠の剣幕に驚いたのか、ヤツはケーキの上から再度離陸! 

「来ないでえっ!」

 自分の方へ向かってきたヤツを避けようと身体を捻った翡翠はそのまま足を滑らせ、尻餅を付いた。 


 どべしゃっ!


「―――えっ?」
 妙な音と感触に一瞬凍り付いた翡翠をよそに、ヤツはコーナーの隅へ着地して素早くその身をくらませた。今回やつの出番これだけ。
 静まりかえる遠野家の厨房。
 恐る恐る立ち上がると、おしりの下にはケーキのトレー。
 じゃ、トレーの下は?
 そーっとトレーを持ち上げた翡翠は自分の想像通りのものが出てきて震え上がった。
 ああ、何てこった、じーざすくらいすと。


 秋葉&琥珀渾身の手作りケーキがケーキだったものに姿を変えて再・登・場!


 秋葉はもちろん、いつもだったら小言の一つで許してくれる姉だって今度ばかりはそうはいくまい。何てったって秋葉に付き合わされて土台のスポンジケーキを三度も作り直したのだ。むしろ秋葉と一緒になって苛めにまわること請け合いである。もしかしたら久々に地下牢の掃除を申しつけられるかも知れない。そいでもって地下牢の中を掃除してる最中に鍵を閉められちゃうのだ。
 やりかねない。というかかなり確率の高い未来に翡翠は身を震わせた。

 とりあえずこの残骸を何とかしなくては。
 翡翠は布巾を用意すると、ぺっちゃんこに粉砕された証拠品をビニール袋で三重にくるみ、ゴミ箱へ厳重に封印した。
 床を拭き清めて水を一杯飲む。
 ……よし、OK、落ち着いた。証拠隠滅完了。

 コチコチコチと鳴り続ける壁の時計を確認する。
 只今1時半。外へ買いに出るにしても、全く同じものを探すのは難しいだろう。事情を説明して作ってもらうにも今からでは時間が無さすぎる。
 用意周到な姉のことだから、もしかしたら予備のケーキが用意してあるんじゃないかと冷蔵庫の中をのぞいてみたが、中に残されたものはイチゴのパックとクリームの入ったボールが一つ。その他夕食用の食材くらい。
 残念ながら今回ばかりは琥珀も余裕がなかったようだ。

 ……待てよ? と翡翠は思った。
 イチゴもあるし、クリームもある。スポンジケーキは無い……が、これは代用品に心当たりがある。
 

 ―――もしかして、作れるんじゃないだろうか?


 翡翠は自分の思い付きにドキドキした。

 姉に「お願いだから料理は作っちゃ駄目!」とこんこんと説得されて幾年月。
 既に自分の腕前は伝説と化しているが、料理を作ったのはずうっと前の話しだ。
 琥珀や秋葉に脅されてはいるものの、実際に志貴が翡翠の料理を口にしたことは未だ無い。

 正直言うと、翡翠は自分の雇い主に僭越ながらちょっぴり対抗心を抱いてたのだ。
 今まで料理を作ったことのない秋葉が、琥珀の手を借りながらも何とかケーキを完成させたのだ。
 やってやれないことはないんじゃないだろうか?
 いや、ひょっとすると秋葉のより……。
 翡翠の眼前にはすでに出来上がったケーキが浮かび上がっている。
 これは……! これならば、秋葉さまに勝てる!
 ケーキのけの字も作ったこと無いのに本人もうすげえ乗り気。
 いける! っていうか、もう自分で作るしか!!


 姉によって堅く封印されていた料理の情熱が、今翡翠の胸で熱く燃え上がった。





 さて、ちょっと戯れ言を。
 翡翠の味覚の話である。
 料理に掛けては悪鬼羅刹の如く恐れられる翡翠だが、意外や意外、美味しいものは美味しいと判るのであった。好き嫌いもなく、普通は嫌がるくさやだってチーズだって全然平気だった。
 梅干しや納豆のように、ある国の人が好んで食べるものを他の国の人には全く受け入れられないと言うことがあるけれど、同じ国の中だって自分が美味しいと思っても他の人には辛すぎたり刺激が強すぎたりする事がよくある。美味しいと感じるか不味いと感じるかは本来個人的なものだ。
 ただし、人が美味しいと感じる範囲は大抵限定的なもので、それを外れると美味しくない、要するに不味いと感じることになる。

 彼女の悲劇は味に対する許容範囲が異常に広いことだ。

 普通人ならこらアカンと思うレベルまで味が逸脱していても、翡翠は「まあ、これはこれで」と納得してしまうのである。普通だったら料理を作っても、自分が不味いと感じたらそうならないようにするので期間を経ればそれなりのものに仕上がる。しかし、その理屈は翡翠に通用しない。
 結果、常識の範囲内に味が収まらないまま料理が作られるという訳である。これでは付き合わされる他の面々は辛かろう。
 掃除の手際を見ても判るとおり、手先は器用なのに失敗を繰り返すのは味付けの失敗が祟って身体が萎縮してしまっているからである。これでは上手くなるものも上手くならない。
 まあ、調理技術はさておき味付け自体が致命的ではあるのだが。
 本編に戻る。





 翡翠は今、ホットケーキを作っていた。
 何を隠そう、ホットケーキは翡翠がチャレンジした中では限りなく成功に近づいたレシピなのであった。卵白を泡立てて云々とか微妙の調整が必要なスポンジケーキと違い、ホットケーキはふくらし粉で強制的に膨らます代物、市販品の粉があれば失敗のしようが無い。これをもって粉砕してしまったスポンジケーキの代用に当てようという訳だ。

 無論、焼き加減は言わずもがなである。生焼け、消し炭のオンパレードであったが、そこは背水の陣をしいているだけあって翡翠の意気込みも衰える様子がない。
 今回は違う。勝算があるのだ。現にホットケーキにしてみても、予定では生き残りは5枚かと思ったのに7枚も生き残ったし。
 山と積まれた黒焦げのホットケーキを前にしても翡翠のやる気は全く削がれなかった。 
 もちろん、これだけではスポンジケーキとはいえないので、もう一手間。
 黒こげになったホットケーキの両面を剥ぎ、無事だった中の白い部分だけを取り出した。出来上がったそれを数層に重ね合わせる。
 そう! これが翡翠仕様のスポンジケーキなのである。
 白い部分に焦げた匂いが染みこんでたり、所々に切り損じの焦げが残ってたりするが、大丈夫。ばっちり。見た感じスポンジケーキ。文句言うやつは後で裏庭だ。





 次はデコレーション。
 クリームは姉が作った残りがあったが、残念ながら色は白いまんまだった。途中でチョコが切れてしまったのだ。
 ということはここにチョコはないということ。
 流石に黒いケーキが白いままでは一発モロバレだし、かといってチョコを買いに行く時間は既に無い。リミットは刻々と迫ってきているし、何とか手持ちの材料でこなさなければなるまい。 
 とりあえず何はなくとも冷蔵庫の中を確認してみる。探すとすればまずここだ。

 翡翠の懸命な探索にもかかわらず、やはりチョコレートは見つからなかった。
 変わりに面白いものを発見した。 
 琥珀さんが夕食のスパゲティ用にと取っておいたイカスミだ。一応翡翠もその存在くらいは知っていた。本来だったら見過ごされる一品だが、ここで翡翠の灰色っぽい脳細胞が閃いた。
「イカスミ=黒い」
「チョコレート=黒い」
「イカスミ=チョコレート」
 見事な三段論法が展開された。彼女の姉が横にいたら体を張って止めたに違いない。

 早速イカスミをクリームの中に溶き入れる翡翠だったが、クリームをかき回す手がゆっくり止まった。
 思ったよりクリームの色が黒くなってくれない。
 普段料理をされる方は判っていただけると思うが、イカスミというのは意外に黒くない。単体で見る分には黒いが、着色料としては弱すぎるのだ。イカスミスパゲッティといえども、色的にはせいぜい濃い灰色といったところだ。これではちょっとよろしくない。

 黒が足りない。

 ここでまた翡翠の灰色気味の脳細胞に天啓が走った。
「カラスの濡れ羽色」とか「墨を流したような」とか言う形容詞はいずれもその黒々とした様子を言い表したものだ。要するに黒さに折り紙付きということ。カラスを手に入れるのはちょっと無理っぽいが、墨の方は前当主の槙久が書道をかじっていたから道具がまだ残っているはず。
 翡翠は早速槙久の部屋へ走った。料理と違って整理整頓はお手の物だ。この部屋だって自分が片づけたものである。翡翠はものの数分で目当てのものを探し出した。

「墨汁」

 しかも開明。
 以前秋葉が「数は集めるけれども質にはこだわらない」と槙久の収集癖を評したが、ヤツらしいと言えばヤツらしい選択であった。いい年こいて墨くらい自分で擦れ。 

 墨汁を片手に厨房へ駆け戻る翡翠。
 途中、墨汁って口に入れたらマズいんじゃとちらっとだけ思った。
 しかし、在りし日の槙久が舌の上でちょいちょいと筆の先を整えてるのを思い出した。大丈夫、少なくとも毒じゃない。遠野家も近頃では浄水器を使っているが、その中身は確か活性炭だ。何でも炭素が水道の中のカルキを取り除いてくれるらしい。優れものだ。
 そういえば墨の成分も炭素だったっけ。
 この瞬間、翡翠回路の中で次の計算がなされた。

「浄水器=体にいい」
「浄水器=炭素」
「墨汁=炭素」

 必然的に導き出される回答は「墨汁=体にいい」であった。
 彼女の姉がこの場にいたら今度こそ卒倒したであろう。





 ちゅーというコミカルな音と共にクリームの中へ流れ込む開明墨汁。
 いそいそと混ぜてみたら期待通り真っ黒になった。黒光りするイカスミクリーム。まさに墨を流したよう……って言うかそのまんま。

 ここでちょっと翡翠味見。
 生のイカスミと開明墨汁の組み合わせによるまろやかなハーモニー。
 犬も避けて通る代物だが、不幸なことにそれが翡翠には判らない。
 まあ、ちょっと違うかも知れないがこんなもんじゃないだろうかと翡翠は思う。

 けれども、これまでの経験で翡翠は自分の舌が当てにならないことは判っていた。
 念には念を入れる必要があった。

 翡翠は先程片づけてしまったケーキの残骸をごみ箱から引っ張り出し、自分の作ったクリームとそれを比べてみる。
 色は申し分ない。むしろ黒さでは元のチョコクリームに勝っている。
 翡翠は自信を持った。
 次は匂いをかいでみる。
 かたやバニラとチョコの匂い。かたやバニラとイカスミの匂いが漂う。
 ……よく判らないが、バニラの匂いはともかくイカスミの匂いはケーキにそぐわないんじゃないだろうか。

 チョコの匂いが付けばいいのだろうが、そのチョコが無いから困っているのである。
 仕方がないのでバニラの匂いでイカスミの匂いを打ち消すことにした。
 幸いなことに、翡翠はバニラエッセンスの存在を知っており、厨房にもちゃんとそれは用意されていたのだ。





 さて、お菓子を作ったことのある方には判っていただけるかと思うが、バニラエッセンスという代物はその甘ったるい匂いとは裏腹にとても苦いもので、その嫌ったらしさといったらたまらない。大体香り付けに1滴2滴垂らせばそれで十分であり、お菓子の本の但し書きなどには必ず「入れすぎないように」と書いてある。それなりの量を使う醤油やお酢と違い、容器の大きさもせいぜい目薬程度のものだ。
 今まで使ったことのない翡翠がその加減も苦さも知るはずはなかった。
 「バニラエッセンス」とある容器を戸棚から取り出すと、その小ささに頭を捻りながらなみなみ詰まったそれを全てイカスミクリームの中に放り込む。

 ぐっちゃぐっちゃぐっちゃ。

 むせかえるようなバニラの匂いが翡翠を包む。イカスミの匂いも、うち消されたと言うよりめげて押し黙ったというほうが正しい。……まあ、イカスミの匂いを消すという至上命題は果たしてはいるが。
 とりあえず、チョコっぽいクリーム完成。





 さあ、もう時間がない。
 偽スポンジケーキを丸く切り揃え、間にカットしたイチゴを挟み入れる。
 重ねたケーキの側面、上面にイカスミクリームを塗りたくる。
 要所要所にクリームを捻り、へたを取ったイチゴを円形にセット!

 すごい、素晴らしい、少なくとも見かけ上は粉砕したケーキとうり二つ!

 これが琥珀の手によるものだったら一瞬で見分けが付くだろうが、あいにくとデコレーション担当はぶきっちょ秋葉だ。端々にアラが目立つが本人だって気づくまい。
 翡翠は自らの成果に思わず涙腺を緩ませた。
 齢1X年にして初めての成功である。ぶっつけ本番でこの成果。
 実は大器晩成型なのかも知れない、と翡翠ひとりで大満足。

 たっぷり5分間眺めまわすと、いそいそ散らかった厨房を片づけに掛かる。姉が戻ってくる前に終わらせなければ今までの苦労も水の泡である。
 ひとしきり片づけが済んだ頃、琥珀が駆け足で戻ってきた。

「翡翠ちゃーん、準備終わった?」
「ね、姉さん。お帰りなさい」
「あら? まだ切り終わってないの……って何? このバニラの香り!」

 厨房に立ちこめるバニラの匂いに目を丸くする琥珀。
 マズイ、いきなりばれたか!?

「こっ、これは……!」
「あらやだ、そこで割れてるのって」

 内心冷や汗ダラダラの翡翠が後ろを振り向くと、床に割れた小さな小瓶が。

「なんだ、バニラエッセンス割っちゃったんだ。また買ってこなくちゃね」
「え、ええ……! ごめんなさい姉さん」
「大丈夫よ翡翠ちゃん、高いものじゃないんだし。さ、秋葉さまも志貴さんも庭でお待ちかねなんだから急がなくっちゃ」

 琥珀は狼狽える翡翠に気づくこともなく、ポットに水を注いで火を掛け、手際よくお茶のセットを用意し始めた。
 人間の鼻が同じ匂いを感じられるのはせいぜい3〜5秒程度だそうで、強い匂いにもすぐに慣れてしまうそうだ。よーく匂いをかげばその発信源を突き止められたのだろうが、バニラエッセンスの瓶に騙された琥珀はそれに気づかなかった。
 更に、切られたケーキを運んだのは翡翠であり、ポットを携えて前を行く琥珀の鼻にあふれんばかりのバニラの香りが届くことはなかった。
 本来ならば琥珀の手によって早々と封じられたはずの禁断のケーキはこうして陽の光を浴びることになってしまったのだ。
 琥珀、痛恨の極みであった。





「やっほー。翡翠ー琥珀ー、お邪魔してるよー」
「すいません、良かったら私もご相伴にあずからせて下さい」

 庭に設えたテラスに志貴と秋葉、後二人の闖入者の姿。
 おなじみアルクェイドとシエルの姿が。
 いつもは顔を合わせるたびにチャンチャンバラバラの二人も、志貴に怒られたばっかりなので今はちょっぴりおとなしめ。

「ちょうどこの二人も来たから一緒にお茶しようって誘ったんだけど……大丈夫かな」
「あ……」
「大丈夫ですよー。ちょうど6つに切り分けてますからぴったりです。今日のお菓子は秋葉さま手ずから作られたケーキですから期待してくださいねー」
「へー。これ妹が作ったの?」
「そうなんですよ。志貴さんが秋葉さまの作ったケーキが食べたいって言ったもんだから、昨日夜遅くまで掛かって作ったんですよ。うふふ、妬けちゃいますね」
「なっ、こ、琥珀っ! 黙ってなさいと言ったでしょ!」
「遠野くんってば妹さんにもそんな事言ってるんですか。乾君に言っちゃいましょうかね」
「先輩、それはどういう意味ですか……」

 翡翠が何か言おうと思ったそばから琥珀の声に反応するその他面々。

「何? 翡翠ちゃん」
「な、何でもないわ姉さん」

 翡翠は内心首を振った。
 覆水盆に返らずというではないか。
 もはや賽は投げられたのだ。
 通らばリーチ。勝てば官軍。

「さあ、待たせるのも何ですから早速食べて頂きましょう。まずはやっぱり志貴さんからどうぞ」
「ありがとう琥珀さん。じゃ、秋葉。頂きます」

 にっこりと秋葉に向かって放たれる志貴スマイル。

「どっどうぞ。べ、別に大したものじゃないけど」

 どもりながらそっぽを向いて答える秋葉。でも髪の間からのぞく首筋は真っ赤っか。
 照れる秋葉を微笑ましく見守りながら、志貴は幾分大きめにカットしたケーキを口の中に放り込んだ。

「……ど、どうです? 兄さん」

 むぐ、むぐ、むぐ。
 ごっくん。

 志貴の表情を注意深く見守る一同。
 押し黙った志貴の口がゆっくりと開かれる。

「……うん、美味しいよ」
「良かった……!」

 思わず涙ぐむ秋葉の後ろで内心ガッツポーズをかます翡翠。
 やった! 使用人の身で苦節八年、太陽は今私の上に輝いている!!

「良かったですね、秋葉さま。それじゃ、皆さんもケーキが乾かないうちに召し上がれ」
「「「はーい」」」

 静かなテラスにのどかな声が唱和する。
 テラスには適度に風が吹いて強すぎるバニラの香りを散らしている。恐ろしいまでの天の配剤である。
 皆に紅茶を注いでまわっていた翡翠もいそいそと自分の席に着き、そのひとかけらを口にした。


 せーの、ぱくっ!


「「「んんーーーーーーーーっっ!?」」」

 わき上がる悲鳴。当然翡翠以外の全員であった。

「……なっ何これ!? な、生臭いっていうかバニラっていうか、うっ、き、気持ち悪……!」
「うえっ、な、何で!? どうしてこんな……こんな筈無いわ! こんな味じゃ!」
「ぶっ、ごほっごほっ、ちょ、ちょっとすいませんがお手洗いを……って、どうして遠野くん平気なんです!?」

 シエルの言葉にバッと視線が集まる。
 注目するは遠野志貴。

「も、燃え尽きてる……真っ白に。志貴、あの一言を呟くのが精一杯だったんだ……」
「遠野くん……こんな味でも嬉しかったんでしょうね……体が丈夫じゃないのになんて妹思いな」

 口の中のものを吐き出すのも忘れて粛々と佇むアルク&シエル。

「……に、兄さん?、兄さーん! ああっ、目を開けてぇーーーっ!?」 

 硬直する志貴にすがりついて号泣する秋葉。
 八年ののち再会を果たした兄と妹の悲しい結末がそこにあった。
 翡翠ちょっともらい泣き。

「……ひ〜す〜い〜ちゃ〜ん〜〜!!」

 ドスの利いた姉の声にはっと振り向く。
 目が虚ろに光り、口元だけ歪めた凶笑を張り付けた姉の姿が。
 微かに開いた口の中は例のクリームで真っ黒。
 ああ、姉さん、これで名実共に腹黒く……って、
 ヤバ、ばれてる!?

「な、何? 姉さん」
「とぼけたって無駄よ翡翠ちゃん。あの場面でケーキを取り替えるのが出来たのは唯ひとり。何よりあの摩訶不思議な味は翡翠ちゃんしか出せないわ!!」
「くっ……!」
「戸棚の奥にあったバニラエッセンスが割れてる時点で気づくべきだった……。まさかと思ったけど翡翠ちゃんじゃケーキなんて出来っこないと高をくくったのが失敗だったのね」

 悲しげに頭を振る琥珀。
 実の姉に言われ放題だが、実際自分でもそう思ってたので歯がみした。
 再び薄笑いを浮かべた琥珀の無言の圧力にじりじりと後退する翡翠。

「ふーん、そういうことなんだ……」
「ちょっと同情の余地はありませんね」

 その背後をシエル、アルクェイドが音もなく押さえる。

「ちょっと待ってくださる? この件に関しては私が優先権を持つと思うのですけれど」

 志貴の横からふらりと立った秋葉が戦列に加わった。
 秋葉の髪は既に真っ赤。房ごとにそれが動く様はまさに現代のメデューサ!
 アルクェイドは金色に目を光らせた!
 シエルはヒットマンスタイルになった!
 琥珀は懐から薬を取り出した!
 口の中を墨汁クリームで染め抜いたお歯黒部隊に囲まれ、翡翠まさに四面楚歌!
 
「翡翠、今まで勤めてくれたことに感謝して、言い残すことがあったら一つだけ聞いてあげるけど?」

 赤い髪をゆらゆらさせながら、秋葉。
 翡翠は脂汗を流しながら黙っていたが、ぴっと人差し指を立てた。

「も、もう一回作り直すわけには……」 
「いくかアホーーーーーーーーーーっ!!!!」





 ぴちゃん。ぽちょん。ぴたん。
 石畳に雫の落ちる音がこだまする。

「ううっ、どうして私がこんな目に……」
「翡翠ちゃーん、ご飯の時間ですよー」

 あの後翡翠はみんなにフクロにされて例の地下牢に閉じこめられた。
 もちろんその前に牢屋の掃除もさせられた。
 拘留期間はぶっ倒れた志貴が復帰するまで。意外にダメージは大きかったらしい。
 それでも、志貴をベッド送りにした翡翠の落胆は激しかった。

「やっぱり、もうひと味足しておけば……」


 本人あんまり懲りてない様子。






fin 01.11.05