無辺の庭

                                                  阿羅本


 

 暮れなずむ夕陽の中を、翡翠は一人で門に向かって歩いている。
 丘を一つ囲ったような広大な敷地の遠野邸は、この時間は誰かに出会うことも希であった。
正面玄関から正門まで続く砂利敷きの庭を歩きながら、翡翠は視線を庭の木々に走らせる。
形が崩れ始めた植え込みなどを眺め、翡翠は考えた。

 ――そろそろ、庭師の人を呼んだ方が良いかも

 秋葉が使用人と同居者を追い出す前までは、庭番をしている老人が一緒に住んでいた。もっ
ぱら内働きで庭に出ることがない翡翠にはあまり顔なじみはなかったのだが、裏庭に菜園を
開いている姉の琥珀とは面識があったらしい。

 でも、その老人ももう居ない。今、この広大な屋敷に住んでいるのは、秋葉と志貴、そして使
用人の自分と姉の琥珀だけ。四人にとっては、あまりにも広すぎる住処だと言えなくもない。
 でも、秋葉も翡翠もここから出て麓の家に住むという考えは一遍たりともしたことはなかった。
翡翠には分かる――ここには、切り離しがたいあの日思い出が未だ息吹いているのだから。

 翡翠は立ち止まって、庭園の木々を眺める。夕陽によって紅く色づき、長い影を落とす庭の
姿を眺めると、翡翠は在りし日のことを思い出す。

 ――昔、志貴さまや四季さま、私はここで遊んでいた。秋葉さまは夕陽が差す頃になると、
決まって習い事の先生に連れ戻されていた。志貴さまはずっと遊びたがっていたし、志貴さま
はそんな志貴さまをいつも宥めていた。私は、それを笑って眺めていた。

 ――何もかも、懐かしい

 夕陽は人の心に染み込んで寂寞の念をかき立てる。長い影の先を眺める翡翠は、遠い昔の
物思いに耽っている自分に気がつき、軽く頭を振る。

「もうそろそろ、志貴さまがお帰りになられる……」

 そう、自分に言い聞かせるようにして翡翠は呟くと、きびすを返して門に向かう。玉砂利を踏
むさくり、さくりという足音だけが辺りに響く。
 こうやって足音を立てていなければ、何の物音もしないこの遠野の屋敷。足を止めて息を潜
めてしまえば、町の喧噪すらも届かない静寂の園。その中に、私や姉さんは隠れ潜むように棲
んでいる――

 翡翠は鋳鉄の門を開き、いつものように門柱を背負うような位置に立つ。一歩門から出ると、
途端に心細くなるような思いに駆られるのが不思議だった。翡翠は、門の外からほとんど出た
ことがない――自分は、外の世界とは接するべきではないと決めている翡翠の行動の限界は
、この門柱までであった。

 ――外の世界に、憧れることなんか無い。

 翡翠は、時間の頃合いを確認するとまるで門番のように軽く歩幅を開き、安めの姿勢で待ち
続ける。待ち人はこの時間に帰ってくるとは言っていたが、実際にはどうなるのかは分からな
い――館に来たばかりの時は、傷だらけになって真夜中に帰ってきたり、半死半生になって運
ばれてきたりとせわしいことが多かった。

 それに比べれば、今は穏やかであると言える。
 別の意味では騒がしくもあるのが困りもの――と思い始めた頃に坂の下から物音が聞こえ
だし、翡翠は踵をそろえて背筋を伸ばす。

 遠野の屋敷の正門へ繋がる道の、角から曲がってきたのは三人の人影。
 その姿を認めると、翡翠は僅かに眼を細める。

 一人は、待ち人であり自分の主人でもある志貴であった。学生服姿で両脇を取られる志貴
の顔は、嬉しさよりも困惑の色の方が多い、と翡翠には遠目でも分かる。

 もう一人は、志貴と同じ学校の制服を着た蒼い髪のシエル。志貴の右脇を固めているシエル
は、志貴のもう片方の側をしきりに気にして、いつもとは違って浮かない調子だった。
 さらに、もう一人――金髪紅顔の美女であるアルクェイド。彼女もシエルと同じように、もう一
人の志貴の脇を抱える存在に警戒しているかのような素振りをしている。

 初対面の頃にはいろいろと問題は多かったこの二人の女性とも、今ではすっかり顔なじみで
あった。だが、志貴とこの二人の関係をそこはかとなく察する翡翠にとっては、素直に来訪を歓
迎できる相手でもない。
 この二人に脇を固められる志貴は、引きずられるように歩いてくる。

 まるで、囚人を護送しているような――と偽らざる感想を抱く翡翠であった。

「お帰りなさいませ、志貴さま」

 目の前まで迫った志貴に、翡翠は頭を下げる。いつもの決まった挨拶に志貴は応え、二人
の腕から脱して翡翠の前までやってくる。

「いつもご苦労様ね、翡翠ちゃん」

 志貴の労いの言葉より先に、その後ろのアルクェイドが声を掛けてくる。同性の翡翠から聞
いても、アルクェイドの声は甘く魅惑的に感じる。ましてや、この声を聞くのが志貴さまであれ
ば――と常に思う翡翠であった。
 翡翠がその言葉にも感謝の意を表す間にも、今まで志貴の鞄を預かっていたシエルが両手
で翡翠に鞄を渡してくる。

「はい、翡翠さん。遠野くんのお世話、私からも嬉しく思いますよ」
「……勿体ないお言葉です、シエルさん」

 鞄を受け取って恐縮する翡翠であったが、鞄が手渡されるとすぐに別の声が割り込んでくる。

「ちょっとシエル、何よその正妻みたいにもったいぶった態度はっ」

 アルクェイドのちょっかいに、シエルはふふん、と胸を反らせる。

「それは、私は遠野くんのいい人なんですから当然です。貴女みたいな汚らわしい愛人くずれ
とは訳が違います」
「愛人くずれ……って、アンタ、言ったわね。でも、正妻は愛人の前に泣くのがセオリーだって
教えて上げるわ」

 途端にいがみ合うアルクェイドとシエルと、間に入って何とか二人を宥めようとする志貴の姿
。これが万事平穏に見える遠野家の抱える、最大の問題であると翡翠は見ていた。

 翡翠からは、この事態は志貴の優柔不断によって起きている様に見える一方、それによって
困っているはずの志貴が満更でもない、と感じていることも感じ取っていた。
 アルクェイドは文句のない美女であるし、シエルも翡翠の眼から見ても十分に美人である。
その二人に奪い合いをされるのは、男としたら悪くは思わないのかもしれない――と翡翠はほ
のかに思う。

――それに、何よりも志貴さまは幸せそうで……

「せ、先輩もアルクェイドも、落ち着いて……翡翠の前で喧嘩するなって」
「あっ……そうだったね」

 志貴に押しとどめられていたアルクェイドだったが、ギャラリーの翡翠が居ることに気がつい
て途端に対立の色を引っ込める。話題にのぼった翡翠は鞄を両手に持ってじっと三人のことを
眺めている。
 翡翠は三人の様子をぼんやりと眺めていただけであったが、長年の癖で放心していても全く
そう言う風に翡翠は見えない。端からは背筋を伸ばし、志貴の命令をいつでも聞けるように控
えている様に見えるのみである。

 翡翠は自分の名前を呼ばれてはっと気がつくが、その時には自分の前にアルクェイドとシエ
ルが立ちふさがっているのを見て取った。二人とも、揃って妙な笑顔を浮かべている。

「……ねぇ、翡翠ちゃん?一つ聞いても良い?」

 猫撫で声のアルクェイドの声に、ほんの僅かに背を後ろに逃がしてしまう翡翠。

「そう、私からもあるんですよ……いいですか?」
「……はい、私でよろしければお答えいたします」

 アルクェイドとシエル、二人揃って質問の姿勢に移るのを見て、今までにない事態に翡翠は
一瞬たじろぐ。だが、それを全く外に見せつけないポーカーフェイスぶりで翡翠は応えていた。

 翡翠の視界の片隅で志貴がおろおろするのが分かったが、翡翠にも志貴にもいかんともし
がたいものがある。なにしろ、アルクェイドもシエルも腕っ節に関しては翡翠はともかく、志貴も
及ぶまでもないのだから。
 そんな状況で、アルクェイドの質問が翡翠に投げ掛けられる。

「そう、じゃぁ……もし、志貴の奥さんとして翡翠ちゃんがお仕することになったら、私とシエル、
どっちがいい?」

 その瞬間、翡翠は自分の脈拍すら止まったかと思った。
 アルクェイドの質問は、まずは翡翠の耳の中で意味を為さなかった。言葉の羅列が耳の中に
入ってきたが、一体何を聞いているのだかさっぱり分からない。

 志貴の鞄を握る手に僅かに汗が滲む。感覚の中で異常に引き延ばされた時間の中で、アル
クェイドの質問の内容が一語一語理解できるようになると、今度は翡翠は困惑の極みに追い
やられた。

 ――志貴さまの奥様として、アルクェイドさんとシエルさんを選ぶ?

 今までに戯れにも考えたことのない設題に、翡翠は絶句した。口を閉ざして背筋を伸ばし、
その動揺を表さないように努めたが、その態度が逆に考えに耽っている様に見えたのか、シエ
ルが質問に付け加える。

「そうです、別に明日から奥様として云々――とはいいませんよ。ですから本心の所を聞かせ
てくださいね」

 シエルは『奥様』という言葉を口にするときに頬を赤らめてきゃ、とはしゃいでいたが、その様
子を全く翡翠は見ていなかった。ただ、視線の焦点はアルクェイドとシエルの背後に合わせら
れ、二人の様子をまったく認識できない混乱の中にある。

「こんな事、翡翠ちゃんに聞きたくなかったんだけど……志貴がいつもどっちも選べないから、
翡翠ちゃんならどう思うかな、って?」
「こんな事、秋葉さんに聞いたら目くじら立てて『どちらも駄目です!』って激怒するだけでしょう
し、あの琥珀さんなら『どちらでも結構ですよー』って応えるでしょうし……翡翠ちゃん、あなたし
かいないんですよ、ねぇ?」

 シエルもアルクェイドも、得体と正体の知れないにこやかな笑顔のままでじり、と一歩を進め
る。翡翠は思わず逃げようとしたが、背中が門柱にドン、どぶつかるのを感じると、冷や汗が額
に伝うのが分かった。

 ―――な、何も考えられない……

「あ、どっちかだと答えても怒りませんよ、ええ、安心してください」
「そうそう、だからね、翡翠ちゃん――」
「「どっちを選ぶの?」」

 翡翠の背中を冷や汗が流れる。
 どちらだと答えても、きっとよからぬ事が起こる――だけど、答えないともっと悪いことが起こ
る。翡翠は本能でそう察していたが、察するだけで何も出来ない。

 脅えた顔でアルクェイドを、シエルを眺めると――二人とも笑っていた。それは、猟師が獲物
を猟銃の照準に収めた時の笑いであり、釣人が大物の当たりを釣り竿に引き当てた時の笑い
であった。すなわち、獲物であるのは翡翠自身。

 翡翠の唇が、無意識に言葉を紡ぐかの様に僅かに形取られる。
 柔らかい翡翠の唇に見入る二人。その、一文字目の音が何であるのかを一刻も早くも知りた
いがっているかのような注目。

 グイッ!

 だが、その注目の結果が、発表されることはなかった。
 翡翠は横から袖を引っ張られて、思わずたたらを踏む。だが、袖を引っ張る力はそのままで、
翡翠はその腕に引きずられるままに走り出していた。

「あっ!志貴っ!」
「遠野くん、なにをするんですかっ!」

 そんな台詞が背中から聞こえたような気がしたが、翡翠には分からなかった。腕を握る手は
開かれた門の間をくぐり抜け、翡翠を屋敷の中に引っ張り込んだ。
 翡翠はその腕に引かれるままに走り出し、ようやくのことでその腕の主を見やる。

 志貴だった。志貴が、翡翠の手を引いて全力で走っている。
 翡翠はそんな志貴に引かれるまま、走った。志貴に手を引かれて走る……古い昔に、こんな
事があったような気がした。

 あの時は、私が志貴さまの手を引いて走った。
 あの時は、私は志貴さまの手に引かれて走った。
 あの時に、この庭で走り回った。まるで、ここだけが無辺の世界であるかのように。

 志貴が庭の脇道に逸れ、木立の中に走り込んでも翡翠はそのままに着いていった。やがて
森の中程になると、志貴はようやく翡翠の手を離し、はぁはぁと切れた息で側の幹にすがりつ
いて息を整えるのを、翡翠は僅かに弾んだ息で見つめている。

 ――そう、昔、こんな風に遊んでいたんだな、私

「ふぅ、翡翠、ごめん……あの二人に巻き込まれちゃって」
「いえ、志貴さま……申し訳ございません」

 翡翠は志貴の方に歩み寄り、額に浮いた汗をハンカチで拭う。志貴は抱えていた木の幹に
今度は背を預け、翡翠のするがままに任せていたが、翡翠の不思議と穏やかな顔色を見て志
貴は、そっと声を潜めて尋ねる。

「翡翠……あの二人の質問だけど、どう思っているんだ?」
 
 志貴の質問は野暮で無粋で唐変木で朴念仁の質問そのものであったが、志貴はそんなこと
に気がついていない。それに、そうやって咎めるほどに翡翠は物慣れてはいない。

 門前でのアルクェイドとシエルにはその答えを出せなかったが、今の翡翠には答えがある。
それは志貴の手に引かれて庭を走っているうちに、思い出した古い日の記憶。

「私の主人は志貴さまだけです。誰が志貴さまの奥様になられても、私は誠心を込めてお仕え
させていただきます」
「……そう応えると思った」
「それに、昔から決めておりました。私が着いていくには志貴さまだけだと……そう、こうやって
庭を一緒に走っていた頃から」

 翡翠はそう、誇らしげに答えた。思いの丈を述べたことでほんの少し頬を赤らめ、翡翠は志
貴を心からの笑顔で見つめる。
 志貴は、そんな翡翠の満ち足りた表情につい見入ってしまう。

 二人の間を夕暮れの風がす、と吹き抜けるまでのしばらくの間、無言でお互いを見入ってい
た。風が翡翠のスカートをはためかせると、我に返った志貴が尋ねる。

「一緒に庭を……って……あれ、翡翠だったのか!?」
「ええ、昔ご一緒させていただきました……私は変わりましたけど、志貴さまはお変わりになら
れていなかった……」

 ああ、そうかもな……と口の中で呟きながら、志貴はなにやら恥ずかしそうに頭を掻く。思わ
ぬ事態の展開に、志貴は戸惑っているかのようであった。いままで琥珀だと思っていたのが翡
翠であり、翡翠だと思っていたのが琥珀だった。思い出の中の風景と現実の差異に、戸惑わ
ない方がむずかしいのかもしれない。
 志貴はそんな困惑の中でふと、なにかを思い出したかのように遠くを見つめて口走る。

「じゃぁ、あのリボンは……琥珀さんだったのか……」
「姉さんのリボンですね……あれは、姉さんに返して上げてください。姉さんはきっと喜ぶと思
います……きっと……」

 そう口にして、翡翠はくるりと志貴に背を向けた。琥珀のことを口にすると心の中で古い傷が
うずく。そんなことを感じているときの自分の顔を志貴に見られたくなかったから、翡翠は思わ
ず背を向けてしまった。

 姉さんは私のために――でも、志貴さまは必ず、姉さんを癒してくれる。

 翡翠は振り返り、そしてそっと呼びかける。

「屋敷に戻りましょう、志貴さま。姉さんが食事の用意をしておりますので」
「……分かった、翡翠。その……」
「……」
「……ありがとう。思い出させてくれて、本当に……」

 志貴の恥ずかしそうな横顔に、翡翠はくすりと笑った。
 こんな風にして笑うのは、本当に久しぶり――と思い出しながら。

「志貴さま、参りましょう……さぁ」

 

 

                                                    (了) 


 

 綺麗な作品をありがとうございました!

 

 阿羅本さんにはいつもいつもお世話になっております。ね、教授(笑)
 恥を申しますと、この作品も半年前に送っていただいて、お返しのSSを送って同時公開というカタチにしようとしたのですが、TAZOの恐るべき遅筆のために今回の公開になりました。

 長らくお蔵入りさせて大変失礼しましたが、これに懲りずおつきあい下さいませ(汗)

 

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