コリアンあれこれ      

  先の、南北両コリアン首脳会談の記憶が薄まらない内に、日本の方達に少しでも、
私達コリアンの事を知って頂きたいと
の思いでこのページを、新たに作りました。
   内容は、それこそ雑多・・コラムあり、歴史あり、新聞記事あり、何でもありですが、普段目を通す事のない、雑誌、新聞な
どの文や記事を多く掲載して行きたいと思います。
 なを、このページには、私のコメントは一切付けません。 どの様に受け止めるかはご自由です。
                    このページは随時、書き加えて行きます。 

 ● 国連・日本に勧告・人権差別撤廃を

チマ・チョゴリ事件など断固とした措置要求

  人種差別撤廃条約(別表記)の日本での順守状況を審査した国連・人種差別廃委員会は20日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部で、審査結果をまとめた「最終所見」を採択。
  日本政府に対し、朝鮮学校卒業生の大学受験資格差別問題、朝鮮学校などで在日同胞の子どもたちが朝鮮語で教育を受ける権利が承認されていないことへの懸念を表明し、こうした差別的取り扱いを撤廃するよう勧告した。また、(チマチョゴリ事件など)朝鮮学校児童生徒に対する暴力行為とそれに対する当局の対応が不適切であることへの懸念も表明し、政府がより断固とした措置を取るよう勧告した。

  国連の条約機関が朝鮮学校および同胞児童生徒への差別を是正するよう勧告したのは、1998年の子どもの権利委員会、規約人権委員会(自由権規約委員会)に続くもの。
  日本政府の差別の論理が世界に通じないことが改めて明らかになった形だ。

  人種差別撤廃条約の各締約国政府は締結後1年以内、その後は2年に1回、条約の実施状況に関する報告書を国連事務総長に提出する。これをもとに、国連に設置された人種差別撤廃委員会が締約国政府代表と公開の場で議論しながら審査を行う。

  日本政府は同条約に95年に加入したにもかかわらず、それから5年経った昨年、ようやく2回分を一括した初の報告書を提出。
   今月8〜9日、初めての審査が行われた。
   世界各国の退職外交官や法律家ら16人が委員を務め、日本政府は外務、法務、総務、文部科学の各省から10人、ジュネーブの各国際機関代表部から7人が参加した。審査ではNGO(非政府組織)の情報も参考にされるため、在日外国人問題や被差別部落問題、アイヌ・沖縄問題などに取り組む多くのNGOが代表を現地に派遣し、政府報告書の不備を補うカウンターレポートを提出するなどのブリーフィングやロビー活動、審査の傍聴を行った。

   最終所見は序文、A「はじめに」(2項)、B「評価」(3項)、C「懸念事項および勧告」(21項)の全27項からなる。
  とくに委員会は最終所見で、人種差別を禁止するための立法を促した(第10項)  そして、人種差別を犯罪と規定し、いかなる人種差別行為に対しても権限のある国家機関を通じて効果的な保護と救済措置を利用する機会を確保するよう勧告した(第12項)。
  人種差別を禁止する立法および救済措置は、条約締約国の義務であるにもかかわらず、日本はこれを果たしていない。

     また委員会は最終所見で、石原慎太郎・東京都知事のいわゆる「三国人」発言を念頭に置き、「高い地位にある公務員による差別的な性格を有する発言」に懸念を表明。公務員や法執行官、行政官に対して、人種差別につながる偏見とたたかう目的で適切な訓練を行うよう要請した
                                                                                              (第13項)。

  一方、第14項は「コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対する暴力行為およびこの点における当局の対応が不適切であるとする報告に懸念し、政府が当該行為を防止し、それに対抗するためのより断固とした措置を取るよう勧告する」と、在日同胞児童・生徒への暴力事件を単独で取り扱った。

  また第15項は、日本政府が審査において、朝鮮学校などの外国人学校を正規の学校として認めない理由について、「日本における初等教育の目的は, 日本人をその社会のメンバーとなるよう教育すること」だからだとした立場に懸念を表し、人種や民族・種族的出身に関する差別なく、教育や訓練を受ける権利が平等に保障されるよう勧告した。

  さらに第16項は、「コリアン・マイノリティーに影響を及ぼす差別に懸念を表明する」と明示し、「朝鮮語による学習が承認されていないこと、
  および在日コリアンの生徒が高等教育の利用の機会に関して不平等な取り扱いを受けていることに懸念を表明」。日本政府に対し、「この点における在日同胞を含むマイノリティーの差別的取り扱いを撤廃」するよう勧告した。この「朝鮮語による学習が承認されていないこと」には、朝鮮学校が正規の学校として認められていないことも当然含まれる。

  ほかに、在日同胞と直接関連するものでは、帰化申請の際に日本名が強要される現状について懸念を表明し、「個人の名前が文化的および種族的アイデンティティーの基本的な側面であることを考慮し」、防止措置を取るよう勧告した。

  最終所見は、世界各国から選ばれた専門家らによる国連・人種差別撤廃委員会が「条約解釈の決定版」として正式に採択したもの。その意味は重い。
  これ自体に法的拘束力はないが、締約国政府には尊重する義務があり、日本政府の今後の対応が問われる。

ゆるされぬ過去の美化

  侵略戦争と残虐な支配により朝鮮をはじめアジアの人々に筆舌に尽くし難い被害を与えた日本が、その事実を隠すばかりか美化するような教科書をつくり、義務教育に持ち込むなど、常軌を逸することだ。

 「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、つくる会)が作った教科書が、歴史的な事実を隠したりゆがめたりして、過去を正当化しようとすることは到底許されない。
 近代日本では「朝鮮半島は日本に突きつけられた匕首(あいくち)だ。この朝鮮が周辺の大国に支配されたら、日本の安全は守れない」と理屈をつけて朝鮮への侵略を進めてきた。朝鮮の民族的自主性をひとかけらも認めない思想である。

 民族の自決、共生・共存が世界政治の常識になっているこんにち、このような「侵略正当化論」の思想で貫かれた歴史教科書を日本政府が許すなら、日本はふたたび国を誤り、世界から孤立するほかない。
   部分的な修正で「つくる会」の教科書の本質が変わるものでないことは、この教科書の著者が明言しているところである。修正でごまかしてはならないし、ごまかされてはならない。

●在日の歴史、なんでもQ&A●

朝高生暴行事件とは
        60年代初に頻発、死者まで/背景に対朝鮮敵視政策


   Q:1960年代に頻発した朝鮮高校生に対する暴行事件とは?
    A:「韓・日会談」の早期妥結を目指す動きが激しくなっていた60年代はじめ、朝鮮高校に通う学生が国士舘高校生やヤクザなどから集団暴行を受ける事件が頻発しました。

   63年5月、東京朝高1年生の5人が渋谷駅地下街で、国士舘高校生25人ほどに、「おまえら朝高生か、なんで渋谷にきたんや」と言われ暴行を加えられた事件がその一例です。彼らはうずくまったまま、顔、横腹、足など、ところかまわず数10回、手拳で殴られ、足げにされました。
   卞光植君は登山ナイフで右大腿部を刺され全治1ヵ月の重傷を負いました。

   また前年の11月には、神奈川朝高1年生の辛永哲君とその同級生が法政大学第二高等学校の「二高祭」を見に行き、射撃部の展示室で展示品を見ていたところ、エアライフル銃を持った同校2年生Fにより背後から頭部を銃床で乱打され、辛君が頭蓋骨骨折脳挫傷により死亡するという事件もおきています。

  暴行事件はその後、日本政府が朝鮮学校の閉鎖をもくろみ「外国人学校制度創設法案」制定の動きを見せ始めた66年、「韓国の安全は日本の安全にとって緊要」との日米共同声明(佐藤・ニクソン会談)が出された翌年の70年、そして朝鮮総聯の活動を規制しようとした「出入国管理法案」が4度国会に提出された73年、連続的・集中的に起きています。

   事件はまた、これら対朝鮮敵視政策を背景に助長された朝鮮人に対する差別感、蔑視感によって起きたと言えます。
  事実、警察は暴行事件の大半について厳正な捜査をせず、被害者(朝高生)を加害者扱いし、朝鮮人に対する差別と偏見をあらわにしています。

    その一方で、事件を機に「在日朝鮮人の人権を守る会」が発足されるなど、事件の実態究明と、朝鮮人の人権を擁護する日本人の活動が行われていたことも明記しておくべきでしょう。
                                                                          (金大遠、研究家)



■大村収容所とは?
                 
     ■南へ強制追放のため設立/まるで刑務所、捕虜収容所


   大村収容所は朝鮮戦争の避難民や外国人登録令に違反した同胞を収容し、南朝鮮へ強制追放するために設立された施設です。
  1950年10月1日、針尾収容所として始まり、12月末に大村の元海軍航空工廠跡地に移転して現在になりました。

  初期の収容人員は常時4、500人で、最も多いときには1500人が収容されていました。
  ここから集団送還された同胞数は、50年代だけでも1万人以上にのぼります。被収容同胞には刑務所や捕虜収容所と同様な過酷で非人道的な待遇が 行われていました。

  収容所の周りは鉄条網と高いコンクリートの塀で二重に取り囲まれ、鉄格子の付けられた部屋は溢れる人数で身動きできず、食事や医療も不充分でした。
  しかも52年5月以降、送還者のうち「終戦」前から在留者で追放された者の受入れを南朝鮮政府が拒否したため、劣悪な環境で多くの同胞が長期 収容を余儀なくされました
  このような状況を打開するため被収容者たちは即時釈放と待遇改善を要求し、再三抗議集会を開きますが、当局は,これに対し武装警官を導入して 弾圧し,多数の死傷者まで出します。それでも同胞たちは遺書を書いて「死の断食]闘争を決行していきます。

  58年以降、被収容者のうち「戦前」からの在留者が仮放免されます。と同時に56年から中断されていた強制送還が開始されるのですが、当時 多くの同胞が南朝鮮での迫害を恐れ、共和国を帰国希望地としていたにもかかわらず、南へ送還され、過半数が情報警察に逮捕されるという事件が 起きています。その後のたたかいで帰国選択の自由が認められ、100余人の被収容同胞が共和国への帰国船第1便に乗船できました。

  60年以降の大村収容所は、単なる在日朝鮮人追放の施設としてだけではなく、南の軍事政権から逃れてきた人々を再びそのもとへ送り返す南朝鮮の 出島、反共の場と化していきます。   
 
 

朝鮮人学校閉鎖に反対/延べ100万人が参加


Q  4・24教育闘争とは? 
   
 A  「朝鮮人学校は日本の指令に従え」としたGHQ指令をうけ、1948年1月24日に文部省は「朝鮮人設立学校の 取り扱いについて」という
通達を出します。

  内容は、朝鮮人の子供は日本の公私立の小中学校に就学しなければならない、もし朝鮮学校運営するのなら教育法に従った教科書、教科内容を整え私立学校の 認可を受けろというものでした。同時に出された追加通ちょうでは日本学校の校舎を借用している学校に明渡しを要求しています。
  通達は実質的に朝鮮学校の 閉鎖を意味しました。

  この不当な通達に反対し5月まで全国的に展開された闘いが、4・24教育闘争です。阪神教育闘争とも言われています。
     同胞らは各地で激しい抗議行動と交渉を展開しましたが、山口、岡山のように学校閉鎖延期を県当局に認めさせた地域もあれば、兵庫や 大 阪の阪神地区のように当局と激しく対立し弾圧にあった地域もありました。

    兵庫では4月24日、約5000人もの同胞たちが県庁前で抗議行動を繰り広げ、知事との緊迫した集団交渉を行います。そして知事から学校 閉鎖命令を撤回し、朝鮮学校を特殊学校として認めるとした文書を勝ち取りました。しかしその夜から日本占領期唯一の「非常事態宣言され 、閉鎖命令撤回文書の無効と、朝鮮人の一斉検挙が強行されました。そして朴柱範朝聯県本部委員長が投獄され犠牲になっています。
  一方26日、 大阪では同胞の集会への武装警官の拳銃乱射で、金太一少年(16)が亡くなりました。4・24教育闘争に参加した者は延べ100万3000人に 達し、逮捕者3076人、起訴者207人。軍事裁判を受け最高15年の重労働刑を科せられた人もいます。

   朝聯と同胞・学生たちの闘いの結果、文部省は5月5日、朝聯との間で「朝鮮人独自の教育を行うことを認める」 ことを盛り込んだ覚書に調印しました


 Q:創氏改名とは何ですか

  A:植民地朝鮮で同化政策、皇民化政策の一環として実施され た、朝鮮人の家族制度と名前を日本人化する政策のことです。
 1940年2月11日、朝鮮総督の命令である制令19号「朝鮮民事令中改正の件」と制令「朝鮮人の氏名に関する件」によって始まりました。

          ●日本名で記された徴用令書

  元来、朝鮮の親族集団は宗と呼ばれる祖先祭祀を中心とした
 男系血統集団であり、それを識別する称号は、男性系統を表示す る姓と一族の始祖の 発祥名を示す本=本貫です。
 そのため朝鮮では名前を慣習的に「姓名」としてきました。
ここに日本の家(同一戸籍の家族集団)制度を持ち込んで、その 称号である氏を新たに創設(=創氏)し、公用の名前を従来の姓名から日本式の氏名に変更 (=改名)させたのが創氏改名です。

  まず、創氏の方法ですが、戸主が6ヵ月以内に新しい氏を設定し て役場に届け出る設定創氏と、期限内に届け出なかった者に対し自動的に戸主の姓を持って その家の氏とする法定創氏とがありました。 つまり届出有無に関わらず、法律的にすべての者が 創氏を強要されたのです。

  つぎに、氏や名を日本式にする改氏や改名は法律上の建前では任意で したが、手口巧みに強制されました。氏制度のもとでは、家族はすべて戸主の氏を 名乗ることになるので、他姓氏禁止となると姓不変の鉄則を持つ朝鮮の家族制度に馴染みません。

 この問題を回避するためには、他姓を名乗る方法がありますが、法令で朝鮮の他姓を氏とするのを禁じられていたため、おのずと日本風の氏を設定せざるを 得なくなるわけです。

  また、日本式の氏や名を拒むものには、渡航許可を出さない、労務徴用の対象とするなどの手段が用いられ、氏名の日本人化が強制的に敢行されていきます。

  その結果、日本式の氏にした家は全戸数の8割、名を日本式にした者は230万人で 総人口の9.6%に達したと言われています。
                                                              

Q:関東大震災時、多くの同胞が虐殺されたと聞きますが?

 A:1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東一帯を襲い、大規模な災害を引き起こしました。
 震災直後、富士山が大爆発したなどといった自然災害に関するデマが発生しました。
 ところが午後から夕方にかけて「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を投げた」「暴動を起こしている」といったデマが流れ、政府の無線と新聞報道によってたちまち全国に広がっていき、民衆は「朝鮮人憎し」の感情をつのらせていきます。
 日本政府は2日、「朝鮮人暴動」を口実に、関東一帯に戒厳令を出します。そのもとで、軍隊、警察、ならびに民衆が組織した自警団による朝鮮人大虐殺が行われるのです。
 彼らは朝鮮人を捕まえるため、通りがかる人に朝鮮人がうまく発音できない「15円50銭」を発音させるなどの尋問を開始しました。
 朝鮮人と分かると、日本刀や竹槍で突き殺したり、火あぶりにして殺りくを行いました。
 妊婦のお腹を刺して殺したという証言もあります。


 Q:デマはどこから、何のために流されたのですか?

 A:当時支配層が一番恐れていたことは、震災の混乱に乗じて、3.1運動のような朝鮮人の独立運動が高まるのではないか、また震災によって衣食住を奪われた民衆が、米騒動のような反政府運動を引き起こすのではないか、ということでした。
 これらを未然に防ぐためには、軍隊の出動が不可欠だと思ったのです。

 軍隊を出動させるためには戒厳令を出さねばならず、戒厳令を出すためには戦争や内乱のぼっ発といった法的根拠が必要でした。
 そこで朝鮮総督府で治安責任者の経歴を持つ内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃らを中心に考案され、意図的に流されたのが「朝鮮人放火・暴動」デマでした。

 この事件による犠牲者は6600人にものぼります。しかし、いまだに日本政府による真相究明も公式謝罪もありません。 
  ●ヨコの平等な関係築いてこそ●   
                                                                        吉武輝子 評論家

  性暴力の被害者がみずからの体験を人前で語ることは、並大抵のことではない。 深刻なトラウマ(心の傷)の再現に耐え、被害者に 「汚れた女」の烙印を押したがる社会の偏見と闘わねばならない。自身も、敗戦直後14歳の時、米軍兵士に集団レイプされた性暴力の被害者だった。
 2度の自殺未遂。苦痛といまわしい記憶のトンネルを抜け出るまでの長い、長い歳月。暴力を徹底的に見つめて「生きる力と尊厳」を取り戻した体験が、後に「反戦、平和、反暴力」の行動の原動力となった。

  ●吉武さんが勇気ある告発をしたのは1970年。果てしなく険しい道程でした。
  あの時、力ずくで兵士たちが私から奪い取ったものは、単に肉体ではなく、よりよく生きようとする意志そのものだった。そうはっきり悟ることが できた時、 猛烈な怒りが体の奥底から吹き上げてきた。「よりよく生きようとする私の意志が、暴力ごときに屈してなるものか」と。
 その頃の私には、 まだ理論化する力はなかったが、暴行事件は私の落ち度から起こったものではなく、力信奉の男性優位文化の象徴である軍隊のシステムがなした
 犯罪であることを肌で感じとっていた。そのことを苦しんで苦しんで生きてきたその果てに理解した時から、私の再生の第一歩が始まった。

 ●その道程は長い沈黙を破って証言した元「慰安婦」の女性たちの姿と重なります。
 戦前の日本は天皇を頂点として国家ぐるみで女をいやしめた。女は人間扱いされなかった。その延長線上に朝鮮やアジアの女性への暴力―「従軍 慰安婦制度を設けた。日本の女性たちはその構図を長い間自分自身のこととしてとらえることができなかった。反戦・平和とフェミニズムの運動を 推し進める中で暴力の象徴である戦争の根を絶つためには、その起点たる性差別を廃絶しなければと考え、反戦と女性解放をセットにした「戦争への 道を許さない女たちの連絡会」を20年以上前に立ちあげた。社会の変化は遅々たるもの。まして女性を巡る変化は微々たるもの。
  私たちの運動は 1人が長く走るマラソンではなく、みんなでバトンを繋ぐ「駅伝」方式で息長く続けたい。

  ●女性差別の歴史は2000年。これと闘うのは一筋縄ではいきません。
1人の人間の人生など知れたもの。
 でも次の世代にバトンを渡せれば、知れた人生に膨らみができ、肉体は滅んでも精神は息づき続けていくことが できる。
 私自身も先輩が生きた時代を、彼女たちの歩んだ道程を聞き書きすることで、追体験しながら、先輩たちの落ちたワナにかからぬように 細心の注意を払って生きてきた。歴史の語り部がいてくれてこそ、私たちは歴史の真実を知り、その歴史の真実から、よりよい生き方を学びとっていける。

 今、中央大学法学部で「女性学」を講義している。彼らは、日本軍性奴隷を強いられた女性たちの勇気ある証言や「ナヌムの家」のことなどを目を輝か して聞いてくれる。彼らなりに私の話を聞いて自分の現在地を確認していると思う。
 これからも女性同士の信頼、タテではない平等な関係を、朝鮮、 アジアへと発信していきたい。 
                         聞き手・朴日粉記者


 名 前

 少し前にこんなことがあった。
  映画館の会員の更新に訪れたお客さんが、名前の変更がある、とぽつりと言った。
 見覚えのある若い女性のお客さんだった。あぁ、結婚でもしたのかなと思ったらどうも違って名字がなじみのある一文字になっていた。
 とっさに「失礼ですが在日の方ですか」と聞いてしまった。
 今考えるとアホな質問である。
  在日だったら何だってんだ。同族バンザイか?

  ながいこと本名で生きてくると、名前の使い分けが気になることが多い。
 朝鮮人どっぷりの世界で本名を名のるのは当然で、日本名は使わない、
使ってはいけないものだった。
 しかし大きくなるにつれ、外では通名を使っている大人たちに大きな矛盾を感じ、またそれに従っている自分にも憤りを感じた。もう少し大きくなると、したたかに通名をつかう一部の大人がいる一方で、通名を使わざるを得ない多くの大人たちに痛く同情した

  どちらが良くて悪くて正しいのかなんて、在日が長い年月を経た今、誰にもわからない。それがわかる人間はいないのである。私が本名を使ってるからって偉いわけでも何でもない。
   逆に彼女が通名を使っているからって卑屈になる必要もない。要は、本名だろうが通名だろうがチャンポンだろうが本人が納得してるかどうかである。
 自己の存在を認識して、その上での選択なら胸をはればいい。結局、更新の彼女は在日で、一人暮らしを機に全部本名にしようと思うとのことだった。
私は極力軽くしなやかに「そうでしたか」を言った。この先にもこんな出会いがあるといいな、と思いながら。     (シネマスコーレ スタッフ)
●新世紀へ−民族教育を歩く●  

  なぜいけないの?
  「なぜ殺してはいけないの?」悪びれた色もなく問う少年の言葉に、思わず絶句した人はどれほどだろう。
   「なぜ?」「どうして?」

  数々の疑問と出会いながら成長していく子供たち。その問いに誰1人真しに向き合う者のない時、子供たちは答えの埋まらないその空欄をいくつも抱えたまま、生きていくしかない。
  「法律で決まっているから」「学校の規則だから」「犯せば厳罰を受けるから」…。そういう「印篭」に従わせるだけでは、本当の答えにはならない。この国の子供たちは、この国の大人たちを写す鏡だという言葉を、いろんなところで目にし耳にするが、この国で生きる私たちは、自分自身や子供たちとどれほど真しに向き合っているだろうか。
 対岸の火事ではないという不安は、決して拭えない。

  光はある。3年前、「少年の主張」都大会で都知事賞(最優秀)を受賞した、 西東京第2初中生徒の「チョゴリ」という作文。創作エピソードが興味深い。 …制服を見直しすべきではないかと私は思いました。でももしセーラー服を着たら、こういういやな事はなくなるのでしょうか…」チマチョゴリ切り裂き事件をテーマにした作文は、結論として事件の裏側に潜む日本社会の矛盾を指摘したが、この時、指導を受け持った李政愛教員(52)のアドバイスはこうだ。
   「チョゴリが嫌なら嫌だと、正直に書いたらいい ありのままの「?」を受けとめる事で、生徒自らの答え探しを見守り、導く。
  過去、都知事賞4回。入賞多数。今大会でも、もちろん都知事賞をゲットし た。                      (姜和石記者)

  ●祖国への帰国、往来の実現

  1945年8月15日、在日同胞が祖国解放の喜びにわいたのも束の間、今度は祖国分断の苦しみを味わうことになった。
  しかし、55年在日本朝鮮人総聯合会を結成し、困難に一致団結して立ち向かった。

  差別と抑圧のなかで職らしい職につけず、最底辺の生活を余儀なくされた同胞たちの間から、「帰国して社会主義祖国の懐に抱かれ、社会主義建設に貢献したい」という思いがふつふつと沸き起こってきた。

  58年12月1日から「帰国実現署名運動」(59年1月まで)を日本各地で展開、法務省、赤十字、自治体に働きかける一方、神戸から東京間の自転車
行進を行い、日本市民にも広くアピールしていった。
 日本政府は、59年2月、在日同胞の共和国への帰国を認めるとの「閣議」を発表し、朝・日両国赤十字が在日朝鮮人の帰国協定に調印。
 同年12月、第一次帰国船が新潟港を出港、在日同胞が夢にまで見た祖国への帰国が実現した。

  その後、一時中断したが、71年に再開した。また65年、日本再入国の権利を勝ち取り祖国往来の道も開かれ、79年からは、定期的な祖国訪問が実現している。


                     
●粘り強い在留権闘争で特別永住者に


  在日同胞は、かつて日本の植民地支配によって日本に強制移住させられた人達、およびその子孫だ。

  だが、日本政府はそのような歴史的経緯を無視して、在日同胞の在留権を保障するどころか、不安定な状態のまま放置した。
 ちょっとした法律違反を理由に、退去強制処分を科し、悪名高き長崎・大村収容所に入れ、強引に南朝鮮に引き渡したりした。

  総連は、こうした現状に対し、日本に生活基盤を置く、在日同胞の在留資格が不安定なのは不当だとして、日本政府や関係省庁にその保障を再三申し入れてきた。
   とくに、65年の「韓日法的地位協定」締結後、歴史的背景を同じくする在日同胞の在留資格の一本化を求める運動を展開した。

    82年に日本は、「出入国管理および難民認定法」改正にともない歴史的事情を有する在日同胞に、同条約に基づく特例永住制度を設けた。
 その後、91年には、特例永住、協定永住が一本化され特別永住制度が新設された。

 特別永住権は退去強制条項を残したままで、在留権が完全に保障されたとはいえないが、総聯の粘り強い運動によって得た権利だといえる。
 

                ●外国人登録法の抜本的改正求める


      52年4月、外国人登録法が交付、施行された。

  外国人登録法は在日同胞を取り締り、管理と規制のもとに置く狙いでスタートした法だ。その証拠に、56年の国会答弁で法務大臣は、同法について「日本の治安関係から必要がある」と答弁した。

   総聯は、この外国人登録法の指紋押なつと常時携帯、刑罰制度などを廃止する抜本的改正を一貫して求めて来た。
とりわけ外登の常時携帯義務(16歳から)は同胞たちに精神的苦痛を強いてきた。例えば、近くの銭湯に行こうとした同胞が、後を付けてきた警察に呼び止められ、外登の提示を求められたところ、うっかり忘れたと答えてそのまま留置所に連行され、重罪人扱いを受けたケースもあり、裁判がたえなかった。

  80年代後半から、16歳という年齢を前にした各地の朝鮮高級学校生徒たちが、「私たちは罪人ではない。犯罪人扱いをした指紋押なつは廃止して」と
、その苦痛を訴え、世論を呼び起こした。

 こうした声に押されて外登法は92年、一部改正され、特別永住者と永住者には指紋押なつの義務が、罰則から体刑がなくなった。
 さらに、今年4月1日からは指紋押なつの全面廃止、登録事項の削減と確認期間の延長などが盛り込まれた。だがこうした手直し的な改定は、在日同胞を取り締まるという基本的な性格には何ら変化はなく、常時携帯・提示の義務、刑罰規定の廃止がなされてこそ真の改正だと言えるのだ。



       ●各種社会保障からの国籍条項撤廃


 日本政府は長く在日同胞に対し、各種社会保障の適用から「国籍条項」を理由に除外し、差別的な扱いをしてきた。

 総聯は在日同胞の生活と権利擁護、とくに社会保障と福祉権利の獲得を重要な課題に掲げてたたかってきた。
こうした結果1982年、社会保障の関係法から「国籍条項」が撤廃され、85年には国民年金法を改正し、86年4月の施行時に60歳未満の在日同胞ら
定住外国人に、年金の受給資格を認めるなど一部を改善した。

 だが、もっとも救済されるべき60歳以上(当時)の在日同胞は排除されたままだ。また、在日同胞障害者は国民年金法改正でも処遇が改められなかったため、当時、34歳を越える同胞障害者は今も無年金状態におかれている。

 年金問題などの社会保障は、何よりも日本政府が植民地支配の責任を感じて、措置を講じるべきであり、また高齢者、障害者の現状を考慮して全面的に責任を負うべき問題だ。21世紀に持ち越されることになったが、早急な取り組みが求められている。  
                        (金美嶺記者)
  5周年を迎えた兵庫県外国人学校協議会
 地位向上で共同行動/大震災で確認された共通の目標

 阪神・淡路大震災の被害による復興活動で協力し合ったのをきっかけに結成された兵庫県外国人学校協議会(会長=林同春・神戸華僑総会会長)が、 今年創立5周年を迎えた。10月17日には、貝原俊民・県知事、各領事館関係者なども招いて盛大な5周年記念祝賀会が行われた。また、5年間の活動を 収めた
 「結成5周年記念誌 国境を越えて共に歩こう」(A4版、3000部)も発行。震災で大きな被害を被った外国人学校が、その後の復興のなかで、地位 向上に向けてどう取り組んできたかを取材した。


    ●震災契機に発足

 外国人学校協議会が結成されたのは、1995年7月26日。同年1月17日に起きた阪神・淡路大震災の被害に対する復興支援施策を話し合うため、兵庫県の主催で外国人県民復興会議が行われた。同会議で外国人学校関係者が一堂に会したのを契機に「ともに手を取り合って復興しよう」ということで
一致し、協議会発足の準備が進められた。

 大震災によって、神戸市中央区脇浜にある神戸朝鮮初中級学校、同須磨区にあるマリスト国際学校は全壊し、伊丹市の伊丹朝鮮初級学校など13校が少なからぬ被害を受けた。
 それでも震災当時、長田区の西神戸朝鮮初中級学校、中央区山手通りにある神戸中華同文学校はもちろん、全壊した神戸初中級、マリストにも緊急避難所が設けられ、地域の同胞だけでなく、多くの日本市民の避難場所として重要な役割を担った。

 とくに朝鮮学校では震災直後、交通網が寸断され、行政も状況把握に四苦八苦していたなかで、総聯の各本部、支部から集められた救援物資で、翌日には被災者におにぎりと、暖かい味噌汁が振る舞われた。

 だが混乱が一段落して、復旧作業が始まるにつれ、日本学校と同じように被災し、避難所としても大きな役割を担った朝鮮学校などに対して日本の行政は、再建補助を費用の半分に抑えたのである。
 元々、日本の学校に比べ公的助成の額が低い外国人学校の再建は、一行に目途が立たなかった。
 外国人学校関係者は、こういう状況のなかで、外国人学校に対する教育振興の補助を一致して訴えていくことが必要だということを確認したのだ。


     ●補助金は3倍に

 同協議会には、県内7つの法人、計19校の外国人学校すべてが加盟しており、50数ヵ国、4000人の学生が網羅されている。そのなかで、神戸朝鮮高級学校など13校、2000人の学生のいる兵庫朝鮮学園は大きな位置を占めている。
 これまで県内の朝鮮学校は、在日朝鮮人県教育会を通して助成金問題や処遇改善を求める運動を行ってきた。それが、外国人学校の1つの協議会として訴えることによって、行政に対するインパクトは確実に変わり、外国人学校教育振興補助金は、協議会の結成当初に比べ、兵庫県で3倍、神戸市で27%増額した。


 同協議会の朴成必事務局長は「これらの成果は、これまで朝鮮学校が一貫して行ってきた処遇改善運動が、正当性を持ち、また他の外国人学校と共同行動を取主張だったということを証明するものでもある。
 国際都市神戸を持つ県や市にとって、外国人学校は1つの国際交流の拠点にもなり得る。
 そうした意味でも震災当時の行政の対応は、逆に矛盾を噴出させた。日本で今、言われている国際化という視点からも、県や市は、もっと積極的に公的助成面で理解を示すべきだろう」と語る。



   ●全公立大受験を認可


 同協議会はこれまで5年間、定例会議を年に4、5回開き、互いの情報交換はもちろん、県知事、市長に対する表敬訪問、行政担当者、県の議会私学振興議員連盟との懇談会などを定期的に行ってきた。

 さらに、国内における活動はもとより、国際世論にも訴えていく方法として98年8月には、国連人権委員会に林会長、黄成吉兵庫朝鮮学園専務理事ら四人の代表送り、外国人学校の差別的現状を訴えた。
 こうした活動によって、昨年、神戸商科大学、姫路工業大学、県立看護大学をはじめ県下すべての公立大学の受験資格が認められることになった。
 また同協議会では、国際的な視野を養うために、日本学校を含む外国人学校の学生同士の独自の交流イベントも開催してきた。

 交流会に参加した中華同文学校に通う5年生の王理沙さんは「神戸に、私たち以外にこんなに外国人学校があるとは知らなかった。皆自分たちの民族の言葉を 話しているなんてすばらしい」と、感想を寄せた。

 日弁連は、98年2月20日に日本政府に提出した勧告書で、外国人学校に対する制度的差別の是正はもちろんのこと、日本に在住する外国人の自国および 自己の民族文化を保持することを妨げる問題について警鐘をならしている。

 協議会は、こうした勧告書にてらしながら、今後も民族性を守りつつ差別是正をアピールし、兵庫県から国立大学の受験資格の問題、公的助成を日本学校 並の水準に引き上げることなどの突破口を開いていきたいとしている。   (金美嶺記者)

 北送事業 二題

 6.25動乱以後の3年間は、北朝鮮にとって比較的恵まれた時期だった。ソ連、中国をはじめ東欧諸国からの無償援助で乗り切ることができたからだ。

 ところが、この時期が過ぎると北朝鮮経済は最悪になった。しかも、金日成による静粛の嵐が吹き荒れていた。ハンガリーやポーランド、ルーマニアで発生 した反共運動が、北朝鮮の締め付け政策を加速させたともいえるが、北送事業が始まった1959年とは、まさに嵐の真っ最中であった。

 帰国同胞にはアパートが与えられ、食料も配給されている。北朝鮮からみれば、生きるに支障ないだけの世話をしているではないかということになる。
 しかし、帰国同胞たちは不満を募らせる。同胞であっても違う文化を背負っている以上、摩擦が起きるのは仕方のないことだったのかも知れない。

 まして、帰国同胞の多くは、日本から携えてきた衣料品や電化製品など、北朝鮮ではお目にかかれない財産を持っている。嫉妬半分、ねたみ半分で恨みを 買い、わずかの失言でも上の方に伝わっていく。

 ある日突然、となりに住んでいた帰国同胞が消えたとしても、国際スパイだったとの噂がまことしやかに語られ、誰もが納得してしまう。
「日本政府がスパイを混ぜて送り込んでいる。南朝鮮の工作員も入り込んでいる」と党幹部たちの発表を、住民たちは誰も疑わなかった。

 迎接委員だった呉さんの役目には、帰国同胞の荷物を調べることも含まれていた。名目は「南朝鮮から病原菌が持ち込まれていないか調べる」ことだったが、 実際は荷物を押収するのが仕事だったという。
 「自動車やオートバイの没収は苦労しなかった」という呉さん。ガソリン配給をストップすれば、使えない代物になってしまうからだ。帰国同胞が自主的に 寄付するようにしむけただけのことだと、呉さんは語った。

 また、帰国同胞のなかには日本で経営していた工場設備をそっくり持ち込んできた人もいた。この人の場合は、工場の支配人として北朝鮮で事業を再開した のはよいが、労働党から派遣されてきた副支配人から資本主義思想を批判され、思想改造の勉強をして来いと送り出されたまま行方不明になってしまった。
 帰国同胞の住む住宅は、労働党員が取り囲んで監視できる場所を選んだという。良い衣服を着ていれば「資本主義の匂いがする」と圧力が加えられた。

 しかし、日本からの仕送りが無い帰国同胞はなおさら哀れであった。
 服などの持ち物を売って物々交換で食料などを手いれるしかないからだ。数年を経ずして、北朝鮮住民よりも惨めな暮らしを余儀なくされていく。

 かといって、仕送りがあったとしてもそれが全て当人たちの元に届くわけではない。呉さんによると、大部分の金が中間で搾取されていたという。



 1959年12月16日、霙まじりの中を清津港の岸壁に船が近づこうとしていた。デッキには大勢の人影が見える。呉さんは、動員された2000人の住民とともに手に旗をもち、接岸されるのを今かとばかりに待ち構えていた。

 「日本の文化水準は高いが、在日朝鮮人はみすぼらしく可哀想な生活をしている。帰国を願って戻ってくる彼らを暖かく迎えようではないか。
 ともに社会 主義を建設する仲間として私たちと同じように幸せな生活をしてもらおう」

 北朝鮮政府は、帰国者を受け入れるに当たって、このような宣伝を行なっていたため、住民達は浮浪者のような同胞たちが船に乗っていると思い込んでいたし、 呉さんも同様である。
 いよいよ接岸となり、船上の人たちの様子が見えたとき、呉さんは「これは何かの間違いではないか。いや、もしかしてエラい人たちが先に戻ってきたの かも知れない」と当惑したという。歓迎ムードいっぱいに旗を振っていた住民たちも、帰国者を目前にして呆然となった。

 船の上でも、帰国者たちが同じようなショックを受けていた。地上の楽園のうたい文句を信じて、財産を全て整理して北朝鮮への帰国を決意した人たちは、 歓迎に集まった住民達を、浮浪者か何かが集まっているのだと誤解したほどである。
 「これは何かの間違いだ。ウソだろ!」

   タラップを降りながら日本語で大声をあげる2世たちを前に、呉さんは怒りを覚えたという。「祖国にもどれたというのに、何を言う!」と 叱っても、日本育ちで自由になじんだ若者達には通用しない。埠頭で開く予定だった歓迎会は急遽中止され、帰国者たちは港近くのアパートに 移され、食事を振舞われた。
 呉さんからみれば、白い米、肉のスープ、林檎や梨、菓子までと、1年に1度食べられるかどうかというご馳走である。日本で苦労してきた帰国者
たちを心から歓迎しようという、心のこもった特別待遇によるものだった。

 ところが、多くの帰国者たちは、祖国の本当の姿にショックを受けたばかりである。これからの一生がどうなるのか、食事どころではない。しかも、若い 同胞の中には「こんな粗末なもの、食えない」と不満を口にする者もいた。

 北朝鮮当局、そして住民と帰国者間の齟齬は、第1回目の帰国船が北朝鮮の港についたときから始まったわけであるが、この北送事業が2年目に入ったころ、 金日成は内閣会議の席上で「帰国事業はやるべきではなかった」と口にしている。