新時代の風に吹かれて 現象考学研究所〜神戸から
事業の世界にも、学問の世界にも、また趣味の世界にも、常識や定説というものが
あります。常識や定説に従って行動していれば大きな間違いはないことも確かです。
しかし、世の中の変化と発展のきっかけを作ってきたのは、常識や定説に疑問を感じ、
それと反対のことをあえて公言し、実行してきた、いわば知的冒険者たちなのです。

人生を前向きに生きている限り、誰の心にも知的冒険者が住んでいるものです。
大袈裟なものではないにしても、自分の中に住んでいる知的冒険者の主張を
表に出してみたいと思う人たちも多いのではないでしょうか。
自分の現在の生活の中で、知的冒険者としての欲求をいくらかでも充たせる場、
そんなものをイメージしています。この場から何が出てくるか楽しみでもあります。
今を生きる人たちの主張、歴史上の知的冒険者、著名人の知的冒険などを紹介して
いこうと思いますので、主旨にご賛同の方々からのメールをお待ちしています。

自ら「無国籍」を生き、研究する陳天璽さん
筆者に近いところで、このような魅力的な若い女性が知的冒険者として
活躍していたことに改めて驚いています。陳天璽(チン テンジ)さんは
筆者の長女の大学時代からの親友の一人です。
2003年5月21日付、朝日新聞の朝刊「ひと」欄に紹介された記事を、
以下にそのまま引用します。
<引用開始>
「無国籍」という映画を撮った。「論文はこれからです」
外国人登録証の国籍欄に「無国籍」とある。いま日本に約2千人いる
うちの一人。そこから見えるのは、厳然とある国境の重みだ。
「無国籍料理のイメージでカッコいいといわれる。でも、外国に行く
時は書類をたくさん提出し、何度も事情を説明しなければならない。
ストレスはすごい」
横浜中華街で生まれた。無国籍になったのは、台湾から戦後来日した
父母が72年、日台国交断絶で日本か中国かの国籍選択を迫られた際、
どちらも選ばなかったからだ。「父は日本と戦争した体験があるし、
49年の内戦で中華人民共和国から中華民国に渡った人なんです」
実家は中華料理店で6人兄妹の末っ子。客の前に座って話しかける
ような、人なつっこい子だった。幼稚園はアメリカンスクール、
小中学校は台湾系の横浜中華学院、高校は県立に通った。国境を強く
意識したのは、筑波大で国際政治を学んでいた20歳の頃だ。
日本と台湾の空港で入国を拒まれた。書類の不備に気づかなかった
ためだが、その時「どこの国にも属していない自分はどこの人なの?」
と初めて実感した。
国連に就職しようとしたが、無国籍では採用できないと言われた。
ブルネイなどの調査にも入れなかった。
今春、華僑ネットワークの研究などが評価され、国立民族学博物館
(大阪府吹田市)の助教授になった。「国と国の間をつなぐなど、
無国籍だからできることもあると思う」
<引用終了>
自らをその特異な渦中に置いて生き、そこから学び、人々に希望と
勇気をもたらす、これはまさに知的冒険そのものでしょう。
尚、陳天璽さんは、2003年6月11日放映(午後3時30分〜)の
NHK教育テレビ「私の生きる道」でも紹介されました。
世界中の全ての民族の友好と世界平和を願う読者の皆さん、今後の
彼女の活動にエールを贈ってあげてください。これから先も、この
美しき知的冒険者を応援していきたいと思います。
※この記事内の引用文は、朝日新聞社の許諾を得て転載しています。
「信じる家族の会」ラミ・エルハナン氏
1997年9月4日、イスラエルの西エルサレムにある繁華街ベンヤフダ
通りでパレスチナ人青年の自爆テロがあり、通行人ら5人が死亡しました。
この5人の死者の中に、スマダル・エルハナン(Smadar Elchanan)という
14歳の少女がいました。
彼女の祖父は、1967年の第3次中東戦争で功績をあげたマティ・ペレド
(Matti Peled)という有名な将軍でした。第3次中東戦争とは、
イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンの連合軍を破り、それまで
ヨルダン領だった西岸と、エジプト領だったガザという2つのパレスチナ人
地域を占領し、今にいたるパレスチナ問題を生み出した戦争です。
ペレド将軍は、パレスチナ問題を自ら作り出すことに貢献する戦績を挙げた
ものの、彼自身はこの戦争後「パレスチナ問題を解決してアラブ諸国と平和な
関係を持つには、イスラエルとパレスチナが別々の国として平和裏に共存する
方法しかない」と主張する「左派」でした。
スマダル・エルハナンは、祖父以来の左派の家系の中で育ちました。
2歳だった1984年には、父母が参加している平和運動のポスターの
モデルになりました。
そのポスターには「この子が15歳になるとき、イスラエルはどんな国に
なっているだろう」といった題字がつけられ、子供たちが平和な人生を
送れるよう、パレスチナ人(アラブ人)と和平を結ぼうと提起していました。
スマダルは、平和運動をしていた祖父や父母の影響を受け、アラビア語を
熱心に勉強する女の子でした。彼女の葬儀には、PLOのアラファト議長の
使者も参列していました。
スマダルの祖父ペレド将軍は、イスラエルの政府関係者として史上初めて
PLOと会って交渉した人で、アラファトはペレド将軍を尊敬すると表明
していた経緯があったのです。
常識的には、テロリストに子供を殺された両親のコメントは、テロリストに
対する憎しみの発露となりがちです。ところがスマダルの両親は、当時の
自国のリクード政権に対して「パレスチナ人と和平を結ばず、逆に弾圧を
強めて屈辱を味あわせることによって、わが国の政府は、パレスチナ人の
テロリストを養成してしまっている。テロは、イスラエル政府の政策によって
生み出されたものだ」と主張しました。
娘の死の直後、当時イスラエルの首相だったベンヤミン・ネタニヤフから、
父親のラミ・エルハナン(Rami Elchanan)に向けてお悔やみの電話が
かかってきた時にも、父親は電話に出ることも拒否したといいます。
国際ジャーナリストの田中宇氏のインタビューに答えて、父親のラミ・
エルハナン氏は次のように語っています。
「私の父は、家族のうちの何人かを、ナチスのアウシュビッツ収容所で
失っています。私の父のようなたくさんのユダヤ人が、ホロコーストの
ような攻撃を二度と受けずにすむよう、イスラエルに移住してきました。
しかし父は、アウシュビッツで家族を失ってから60年たって、今度は
テロの攻撃で孫娘という家族を失ってしまいました。父は、2回も家族を
失う経験をするとこになったのです。イスラエルは、ユダヤ人が安心して
暮らせる国になるはずだったのに、全くそうなっていないのです。」
田中宇氏は改めて尋ねます。「なぜ、スマダルの死の後、政府を批判する
怒りのコメントを発したのですか。」
これに対するラミ・エルハナン氏の答は次のようなものでした。
「テロや戦争で人が死んだとき、残された遺族が発するコメントは、
イスラエルでは非常に人々の胸に響きます。ふだんは、パレスチナ人との
和平を説いても全く聞いてくれない人々でも、テロの犠牲者の父母が
発する言葉としてなら、きちんと聞いてくれます。
娘が死んだとき、私たち夫婦は、打ちひしがれるのではなく、今こそ
イスラエルを良い方向に変えるための任務を果たさなければならない、
と思いました。」
娘がテロで殺されるという、非常にショッキングな出来事に直面している
ときに、こんな風に自分が置かれた立場を客観的にとらえ、戦略的な
思考ができる人がいるということに、田中宇氏は大きな感銘を受けます。
エルハナン氏はこの事件がきっかけで、イスラエル側でテロの犠牲に
なった人の遺族200家族と、パレスチナ側でイスラエル軍に殺された
人の遺族150家族とをつなぎ、パレスチナ問題の平和的な解決を提案
する組織「信じる家族の会」(Believed Families)を作りました。
イスラエル・パレスチナ双方の犠牲者の遺族が一緒になって平和を
求めることで、右派的な主張に流される傾向が強い昨今の状況に歯止めを
かけようとしているのです。
こうした考え方をしているのは、ラミ・エルハナン氏たちだけではない
ようです。パレスチナ人青年の自爆テロで重傷を負った若いユダヤ人
女性も同じような発言をしているのです。
こうしたラミ・エルハナン氏たちの勇気ある行動を、何らかの形で
支援することができないものかと思う次第です。
※本稿は「田中宇の国際ニュース解説」の情報に基づいており、文章も
引用させて頂いております。
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