ふうちゃんの絶対的な価値(2000.7)

 心臓の手術とその後のMRSA感染による約1ヶ月半のふうちゃんの入院生活の間、我が家は壊滅的状態でした。
 ママはふうちゃんと一緒に泊まり込み。パパは仕事が忙しく連日深夜帰宅の上に、二人とも毎日コンビニ飯。休日にパパと行くファミレスがどんなに嬉しかったことか・・・。

 こんな壊滅的状況の中で、ひとつだけ(たったひとつだけですが)、良かったと思えたことがありました。
 それは、ふうちゃんの絶対的な価値を確信できたことです。

 ちょっと前、某知事が、知的障害者のことを「ああいう人たちに人格ってあるのかね」と言った事件がありました。
 その時、私は当然のことながら憤りましたが、その反面、ここまではっきりとじゃないにせよ、世の中の一般の人たちの多くは、似たような考えを持っているのだろうな、と心の片隅で思わざるを得ませんでした。
 なぜなら、私もそう思っていたからです。

 ふうちゃんが発達遅滞であることがわかってから、ずっと考えて来たこと。

 ふうちゃんは可愛い。とても可愛い。
 ふうちゃんがいてくれて、とても幸せだと思っている。
 でも、知的にハンディを持って、生きていく意味ってあるんだろうか。
 大きな夢も描けず、自己実現もなく、行政に敷かれたレールに乗って生き方を決められてしまうんだろうか。
 ふうちゃんが大人になったとき、幸せに生きられる場所や、幸せをくれる人を、見つけるのは難しいのではないだろうか・・・。
 パパとママが生きている間はまだいい。でも、パパとママがふうちゃんより先に死んでしまったら、残されたふうちゃんはどうなってしまうのだろうか。

 だからって、心中しよう、とか考えたことはないですから (^_^)、心配しないで下さいね。
 でも、はっきり言って、私はふうちゃんの生きている意味について、あまり自信がなかったわけです。

 ・・・・今回、イヤという程思い知らされました、ふうちゃんの絶対的な価値。

 再手術前、ふうちゃんは菌血症(これってさー、キーボードで打つと“金欠”って変換されるのよー、これはママの持病なんで、字も見たくないんだけど)の状態になりました。菌血症とは血液の中を菌がうようよしている状態です。医師の説明では、菌血症はまだ致命的ではない、とのことでしたが、血液には白血球もリンパ球もいて、ふつうはヨソモノが入ってくれば即座にやっつけてしまうはずなのに、血中に菌がいることを許している、というのは相当ヤバイ状態なわけです。
 MRSAという手強い菌でしたし、ふうちゃんも高熱が続き、顔はむくんで、息するのも苦しそうだったので、はっきり言って、死んじゃうんじゃないかと思いました。

 生まれてから今まで、病気と心配事のデパートでしたが、死が目前に迫ったことはなかったので、今回はかなり応えました。
 私は病院に向かうバスの中でポロポロ泣いてしまったり、道を歩いていていきなり叫びだしそうになったりと、感情をコントロールできなくなってしまいました。食事をしても味も感じないし、食欲も当然ありません。思考停止してしまって何も考えられないし、しまいには頭痛がしてきて、おかしくなってしまいそうでした。
 宗教には無関心なのですが、知り合いの方が手術前に「お守り代わりに」とくれた“ルルドの泉”の水の入ったプラスチックのマリア様の像を、ふうちゃんの枕元に置いて、毎日「ふうちゃんを助けてください」とお祈りしたりもしました(心臓の手術の前後は見向きもしなかったのに・・・なんて現金な奴だ)。

 ふうちゃんがこの家に来てからたった3年しか経っていないけど、もうふうちゃんがいない我が家も、ふうちゃんがいないママの人生も、考えられない。
 ふうちゃんの絶対的な価値を思い知らされたよ。一般社会、っていう角度からは測れないかけがえのない意味を、たくさん見つけられた。
 これから一生、決して迷うことなく、ふうちゃんを育てて行ける自信がついたよ。

 ふうちゃん、命が消えないで、回復してくれて、本当にありがとう。