シングルB面曲など(70年代前半編)
本編では、シングルのB面曲や、ボックスセット発売まで未発表だった曲のうち、70年代前半に制作された(とされている)曲を取り上げた。なお、カバー曲は外してある。
1. I Don't Even Know Myself
2. Heaven And Hell
3. When I Was A Boy
4. Waspman
5. Here For More
6. Water
7. Cousin Kevin Model Child
8. Time Is Passing
9. We Close Tonight
元々は、「無法の世界」のB面曲として発表されているが、それよりもワイト島でのライブ映像のお陰で有名になったのではないか、と思っている。イントロはハーモニカで始まるが、スタジオ盤でもロジャーが吹いているのだろうか。
この曲は、アップテンポで攻撃的なパート(ここではAと呼ぶ)と、2つのミディアムテンポで比較的穏やかなパート(B,Cと呼ぶ)から構成されている。A→Bを2回繰り返した後に、Cを挟んでAに戻るという構成である。
Cは、ハワイアンまたはカントリー調であり、スライド・ギター風の音が聞ける。ピートがボトルネックをはめて弾く姿を見たことが無いのだが、この音はどうやって出したのだろうか。それはともかく、ザ・フーの音楽性の幅を知らしめるための好例であろう。
一方、A→Bの展開は、例えば「ソング・イズ・オーヴァー」などと比べると、一寸強引かなと思える。だからこそ、「フーズ・ネクスト」には収められず、シングルB面曲に甘んじたのかもしれない。
歌詞は、お尋ね者の主人公(=反体制側の人間)が、旧知の人間に出くわした時の場面を唄ったものであろう。主人公は、相手のことを覚えていないと主張しており、この主人公は、「俺のことを知っている振りをするんじゃない/俺自身自分のことさえ分からないのだから」という台詞を吐く。このやり取りから、幾つかの解釈が可能である。
(1)主人公は相手を覚えている。
(2)主人公は、記憶喪失か何かで相手を忘れてしまった。
(a)「俺のことを知っている振り・・・」は、他人から色々指摘されたので、不愉快に思って出た台詞である。
(b)「俺のことを知っている振り・・・」は、主人公が自分の使命について迷っていることから出た台詞である。
以上、2×2のマトリクスで状況を解釈することが出来ると思う。解釈が定まめられないのは、この曲が元々は「ライフハウス」の構成曲として書かれたからであろう。前後が抜け落ちれば、正当な解釈というものが成立しない。
ジョンの作品であり、1970年前後のライブでは定番だった曲である。既に、「ライブ・アット・リーズ解説」で取り上げてはいるが、あちらではライブ演奏のことだけを書いたので、ここではスタジオ盤としてのアレンジや歌詞について触れることにした。
スタジオ盤では、アコースティック・ギターとエレクトリック・ギター両方が使われている。エレクトリック・ギターの方は歪んだ音を出しているとはいえ、ライブを聞いてしまうと迫力不足に感じるのは仕方がないだろう。それよりも、アコースティック・ギターやベースの音に耳を傾けるべきだと思う。特に自作曲だからというわけでもないだろうが、ベースのビート感覚は非常に素晴らしい。
歌詞は、現世での行いによって、天国行きか地獄行きが決まる、ということが無条件に前提として挙げられていて、「何故俺達には永遠の生命が与えられていないんだ」、と唄われている。ロック・ミュージシャンがドラッグが原因で次々と他界したのは、この曲が書かれた後のことだろうが、ジョンは彼(女)等が危ないことを薄々気付いていたのではないだろうか。そう解釈すると、この曲は、ジョンにしては珍しい社会派ソングであるとも言える。
これもジョンの作品である。スローでメロディアスな曲で、隠れた名曲と言って良いだろう。特に、サビメロはポール・マッカトニーの作品にも引けを取らない出来だ。また、少々ふざけた表現だが、後期ザ・フーがタイム・マシーンに乗って過去に戻り、作られた曲のようでもある。リードボーカルはジョンが取っているが、ロジャーのバージョンがあったら是非聞いてみたい。
ジョンの吹くホルンもメロディに合わせ、哀愁を帯びた演奏になっているが、その一方でキースがドラムを叩きまくっており、2つのリズムが重なり合って、不思議な感覚を醸し出している。
歌詞の方も、当時まだ20代半ばであったジョンにしては、随分と老けた内容である。
「子供の頃はあれほど楽しかったのに、夢があったのに、今では何にも無くなってしまった」
に代表されるのだが、 「バイ・ナンバーズ」
以降のザ・フーを支配する人生観が早くもこの曲に現れているのである。
だがそれよりも、「君が生れ落ちた瞬間から死が始まっている/時は人を待たない」というフレーズが何より印象的である。「ヘブン・アンド・ヘル」 の後続作品として位置付けても良いような気がする。
キースの作品。別にメロディがあるわけでもなく、楽曲とさえ言えないような仕上がりである。"In A Hand Or Face"と良く似たリフが使われているが、こちらの方が先に出来ていたはず。正直なところ、余興レベルとしか言えない。
ロジャーの作品。カントリーをベースとした曲だが、グラム・パーソンズあたりに触発されたのだろうか。しかし、テンポチェンジするあたりは、やはりザ・フーの作品である。ピートがギターでカントリー・ピッキングを披露している。
歌詞の大意は、「君は倒されても起きあがり、この場所に踏みとどまって頑張る」、といった内容であり、これは、一般に言われているロジャーの人生観そのもののようである。興味深いのは、「〇〇すべきだ」という歌詞ではないことであり、「他人を励ます歌」ではないことである。
しかし、この曲の歌詞に関しては、ロジャーの人生観ではなく、アルバム「トミー」の構成曲として書かれたのではないか、あるいは、「トミー」に触発されて書かれたのではないか、という推測も出来ると思う。つまり、主人公トミーがホリディ・キャンプで信者達に造反された後に、天もしくは内なる声がトミーに聞こえたとして、それがこの曲の歌詞だと考えるのである。
ロジャーの迫力あるアカペラで始まる曲。コード進行はシンプルだが、ボーカリゼーションやギターのカッティングが微妙変化して行くので、飽きずに聞くことが出来る。エンディングには、ピートのギターソロが入っているが、シングルノートよりも、コード・カッティングの方が数段素晴らしい。
それにしても、この曲が書かれた時期は69年か70年なのだろうが、何故73年になるまでレコード化されなかったのだろうか。しかも、発売された時もB面だったし。もしかしたら、ライブ演奏並のエネルギーがレコード上で再現できなかったからかもしれない。残念なことに、スタジオ盤では迫力が不足している。
歌詞は、"water"と"daughter"という単語が対句になっているのだが、"water"は比喩として使われていることは明かだが、"daughter"は、「娘」の意味ではなく「生み出したもの」あるいは、「(ある団体に属する)物」として使われているようだ。すなわち、"water"と"daughter"は等価として位置付けられているのである。
1stヴァースと2ndヴァースは、ほぼ同じ歌詞である。陪審長、貧しい農民、トラック運転手、警察官といった職業の人と、彼等の振る舞いや置かれている状況について唄われている。社会が悪い状況にあることを言いたいのだろうが、ステレオタイプな描写ではある。しかし、そのことについての批判はこれだけにしておき、その後に続く歌詞について論評する。
彼等には水が必要だ
良い水が
ここには俺の同朋が一人もいないようだ
誰かの"daughter"を差し出せ、とは誰も言おうとしない
「水」は精神的な渇きを潤すものの喩えであるとともに、全てを溶解する性質を持つことを考えると、「彼等には水が必要だ」という一節には、
「権力者側も、そうでない側も精神的な潤いを取り戻す必要がある」、
と主張しているだけでなく、
全ての人間が融和することが必要だ、
と主張しているようにも読める。
とはいえ、それだけでは単なる理想主義でしかないのだが、最後の一節によって、ピートは「持てる者」の責任を問うているように読める。
3rdヴァースでは、「世界の至る所が燃え盛っている」、と唄われているようだが、これは局地的な争いが絶えないことを表していると考えていいだろう。それは武器を使った戦争だけでなく、経済的な闘争も含まれると考えられる。ここでは、「俺達には水が必要だ」、と唄われるのだが、敢えて「彼等」でなく「俺達」としたのは、自分も争いの一因を作っているという意識の現れかもしれない。「水」は、頭を冷やすものの喩えと捉えればいいだろう。となると、このヴァースを締め括る「多分、誰かの"daughter"を差し出すことになるだろうな」という歌詞は、自己の責任へも言及していると考えられなくも無い。
5thヴァースでは、「俺は生きているが、如何に生きるべきか分かっていない」という歌詞がヴァース全体を総括している。ここでも「俺には水が必要だ」と唄われるのだが、となると「水」は知恵を授けてくれるものの喩えと捉えることが出来る。興味深いのは、このヴァースでは、"daughter"云々は出てこない点である。自分の生き方について他人に安易に回答を求めないという意志の表れであろうが、これもピートの哲学の一つであり、一貫している。
ジョンの作品で、「トミー」に収録された「いとこのケヴィン」の原曲であったとも言われているが、真偽の程は如何に。こちらの曲はアップテンポなロックンロールであり、トランペット(ジョンが演奏しているのだろう)が印象的である。ボーカルはメロディを唄うというよりは、ナレーションに近い。これは、曲が進むに従い顕著になっている。最後に、コーラス・パートがあるが、ここだけはメロディらしきものがある。
この曲を聞くと、ナレーション風のボーカルという共通点から、ブラーの「パーク・ライフ」が頭に浮かんだが、他の人はどうだろうか。
歌詞は、父親の前で良い子であろうとするケヴィンの姿を、ケヴィン自身が語る形式になっている。冒頭の「腕立て伏せを50回やったよ」という歌詞からは、父親が厳格であることが仄めかされている。その厳格さが逆効果として、ケヴィンをいじめっ子に育て上げてしまったのかもしれない。
「オッズ・アンド・ソッズ」のリミックス&リマスター盤が出るまでは、ピートのソロ・ヴァージョンでしか聴けなかった曲である。歌詞については後述するが、「ライフハウス」用の曲として書かれたことは間違いないだろう。
アコースティック・ギター」のアルペジオで始まるので、牧歌的な雰囲気があるが、バンド演奏に入ると、ジョンのベースやキースのドラムの音圧によってロック・ソングとなって行く。エンディングのフィドルを模した音(シンセイサイザー?)によるソロ演奏は、ピートがケルト系の音楽にも通じていることを物語っているであろう。
歌詞は、「ゲッティング・チューン」、「ピュア・アンド・イージー」、「ソング・イズ・オーヴァー」、といった一連の曲をつなぐものとして書かれたのだろう。一言で表せば、「調和の取れた音に真実を発見しろ」というメッセージ・ソングということになると思う。その反対に、「人々の言うことなどに耳を貸すな」、とも唄われている。挙句の果てには、「俺の言うことにも、天の言葉にも耳を貸すな」である。言葉は嘘をつく、ということなのだろう。この時期のピートがしばしば神を匂わせる歌詞を書いていることと関連付けて考えれば、そういうイメージに反論するための歌でもあるだろう。いや、矛盾した言動が目立つピートのこと、平気でこういう歌詞を書けるのも当然かもしれないが。
この曲は、「オッズ・アンド・ソッズ」のリミックス&リマスター盤によって日の目を見た。「四重人格」のアウトテイクらしい。ドラム・ソロのイントロで始まり、最後までド迫力のドラミングが続いている。中央に配されたジョンのベースも唸りまくっていて、右チャンネルからはピートのエレクトリックギターによるパワフルなコード・カッティングが聞こえる。キースのドラムやピートのギターの奏法は、どちらかというと、「四重人格」以前のそれに近いように思える。だからこそ、アルバムに収録しなかったのかもしれない。
ボーカルはジョンとキースが取っているらしい。ジョンのボーカルはすぐにわかるが、キースのボーカルが何処に入っているのか、ちょっと分からない。子供のような声がキースなのか。それにしては、当時のキースは既にダミ声になっていたはずだが。
なお、ピートの曲でジョンがリード・ボーカルを取っていたのは、筆者としては記憶になかった。
歌詞は、2ndヴァースまでは、奥手な少年が彼女の気を引こうとして、中々上手く行かない様が主人公の口から語られる、という内容である。冒頭の1行に"How can I explain"という歌詞が置かれていて、この曲が、ザ・フーの歴史を総括する目的で作られた(もちろん、それだけではない結果を生んでいるのだが)「四重人格」のアウトテイクであることに納得がいく。
しかし、それ以降になると意味が分かりにくくなっている。最終ヴァースでは、主人公は、「幻想の中に君を失った」と言っているのに、彼女の方は「ステディになろう」と言っているのである。両者は相容れないようにも取れるが、彼女からすれば、主人公の手前勝手な理想化されたカップルとしてではなく、言うなれば「大人のつきあいをしましょう」と提案したかっただけなのかもしれない。
次に、興味深いのは、2ndヴァースまでは「彼女」だったのが、ここでは「君」と呼びかけていることである。これは、より近しい関係になったことを表しているのであろうが、実際には、二人が近づくことで、逆に「君」と「僕」との心理的な距離に隔たりがあることが、暴露されているように思える。それは本解説の1段落前に書いたことでもある。
さて、結局二人はどうなったのか。これが全く以って不明である。筆者の英語力不足のためかもしれないが、最終行の"We Close Tonight"の"Close"が「閉じている」なのか「近づいている」なのか分からないのだ。つまり、彼女の提案を主人公が受け入れたのか拒絶したのか、曖昧にされているのである。
(2000-10-27)