Odds And Sods
"Odds And Sods"(和訳すると「半端もの、がらくた」なんだそうだ) は1974年に発売されている。これは新作ではなく、未発表曲をジョン・エントウィッスルがリミックスして出来あがったアルバムである(M9を除く)。この時期、ロジャーとキースは映画の撮影に入っていたため、新作の代わりに未発表曲集を出した、というのが表向きの理由であるが、本当のところはどうなのだろうか。それだけの理由ならば、撮影の合間を縫ってレコーディング出来ただろう。例えばマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプとの確執(これが具体的にどういうものだったのか、筆者には未だに分からない)とは関係があるのだろうか。あるいは、前作"Quadrophenia"があまりにも重量級だったために、メンバー特にピートが消耗してしまったとか、ライブツアーが上手く行かなかったとか、そういった理由も考えられなくは無い。
ちなみに、本作のタイトルの名付け親はロジャーである。当時日本で発売された時のタイトルは、M11の邦題「不死身のハードロック」であったという。70年代前半という時代を感じさせる邦題ではある。
先に、本作は未発表曲集であると書いた。普通未発表曲集というのは、オリジナルと比べてレベルが劣るものである。当然だろう。何処の世界に良い曲を捨ててしまうアーティストがいるだろう。しかし、ザ・フーは何故か違っていた。本作には既発表曲と比べて遜色無い曲が多く収められているのだ。何と勿体無いことを、と思う。しかし、ピートとはそういう人なのである。その時々のザ・フーが表現したいこととは異なった印象を持つ曲は発表したがらないのだ。単に音楽として優れていれば良しとしないアーティストなのである。
1. Postcard
2. Now I'm A Farmer
3. Put The Money Down
4. Little Billy
5. Too Much Of Anything
6. Glow Girl
7. Pure And Easy
8. Faith In Something Bigger
9. I'm The face
10. Naked Eye
11. Long Live Rock
本作中唯一のジョンの作品。ジョンが選曲したというのに、このつつましさは何なのだろうか。そいれはともかく、この曲はジョンの吹くホルンで幕を開け、そのまま最後までホルンの演奏(これもリフというのだろうか)が聞ける。また、途中でヘンな効果音が入るのも面白いが、「取り敢えず入れてみました」程度に終わっているのが残念である。
歌詞はツアー先からの葉書という体裁で、冒頭は、「僕等は楽しい時を過ごしています。君も一緒にいれたら良いのに」となっている。これは本音と取るべきか、相手が一緒に行くことを拒否したことに対する嫌がらせと取るべきか、はなから相手に来て欲しくなかったのか、それは分からない。
制作は1969年らしい。アコースティック・ギターとピアノをメイン楽器としたミディアム・テンポのロックンロールであるが、組曲風の展開をする。第1のパートはいかにも当時のピートが作ったメロディという感じがする。
中盤の第2のパートは、キース、ピートがボーカルを取っているが、キースのボーカルは、本人が思っているほど酷くは無いと思う。ピートのとぼけたボーカルは、彼にしては珍しいが、地方の農民の雰囲気をそれなりに上手く出していると思う。このパートは、リズムがビートルズの"When
I'm 64"を連想させるが、そんなことはどうでもいいことなのだろう。
エンディングは、再びキースがボーカルを取っているが、パブで酒を飲みながら農業賛歌(そんなものがあるとしてだが)を唄っているような雰囲気を出している。あるいは、本当に酔っ払いながら録音したかもしれない。
邦題は「俺は百姓」。だが、タイトルからすれば、主人公は脱サラで農民になったのかもしれない。今の自分の職業である農業を誇りに思っていることが歌詞になっている。当然差別的な要素は無い。
さて、実際に農業を営んでいたのはロジャーなのだが、彼はこの曲についてどう思っていたのだろうか。
シンセサイザーが使われ、リズムブレークをが随所に入るスローな曲である。元々 "Lifehouse" 用に準備された曲らしいが、 "Who's Next" に入ってもおかしくない出来である。
タイトルはどう訳せば良いのだろうか。日本盤の訳を見ると、「金を儲けろ」となっているけれども、筆者の持っている辞書にはそういう訳は載っていない。むしろ、「金を出せ/払え」に近いのかなとも思えるのだが。
歌詞全体として、主人公の設定が曖昧である。1stヴァースは、ライブ会場近くにやって来た時のトラブルについて唄っているようだが、ミュージシャンのことなのか、その追っかけなのか分からない。恐らくはピートが実体験を元に歌詞を作ったのだろうが、主人公はミュージシャン、ファンのどちらであると仮定しても意味が通じるのである。
2ndヴァースも事情は同様である。このパートでの「僕」は、女の子を熱狂させるバンドを見つめる第三者である。ザ・フーは女の子のファンが少ないバンドとして有名なので、ここでの「僕」をザ・フーのメンバーだとすれば、前記のバンドには例えばストーンズが該当しそうである。なぜなら、2行目に「俺のヒーローは押し回されている」とあるからだ。ピートにとってストーンズはヒーローでもあったらしいから、そういう解釈も可能なのである。
続く「僕はあんた(達)を信頼して良いのか分からない/あんた(達)は僕を銃で撃とうとした」なるフレーズは、先行するバンドに対する不信感とも取れる。本当に銃口を向けられたのではなく、何らかのトラブルの隠喩であるかもしれない。
一方、このパートの「僕」をバンドの一ファンだとしても意味は通じるのである。この解釈であれば、前記の「銃で撃とうとする」は、バンドがファンを裏切ったということと取れば良いのである。
元々は米国癌協会の禁煙キャンペーンソングとして作られた曲で、1968年に録音されている。サウンドや曲調は、丁度 "Sell Out" と "Tommy" の中間、やや "Tommy" 寄りに位置している。既発表曲と比べてアレンジはシンプルではあるが、コンパクトなメロディは当時のザ・フーの魅力を十分伝えていると思う。もちろん、キースのドラムの貢献も大である。
歌詞は寓話形式となっていて、主人公ビリーの少年時代から中高年になるまでを唄ったものである。少年の頃、ビリーはクラスで一番のデブで劣等性であったが、それゆえか同級生に交じって喫煙することをしないで済んだ。その結果として、中高年になった今でも健康でいられる、そんな筋書きである。
歌詞はユーモラスではあるし、劣等性に対する愛情も感じさせる。その意味では、レイ・デイヴィスに通じるものがあるのだろう。とは言え、「お上からの道徳」という印象も拭えないことも確かである。
ちなみに、日本のシンバルズがこの曲をカバーしている(未聴)。
これも元々は "Lifehouse" 用に作られた曲。ピートが好むA/Asus4/A9というコード進行を持ったイントロが、アコースティック・ギターによって奏でられる。アコースティック・ギターとピアノをメイン楽器に使ったシンプルなアレンジがロジャーのボーカルを引き立てている。エレクトリック・ギターも使用されているが、あまり目立たない程度に仕上げている。ただし、フレーズそのものはピートの手癖の延長としか思えず、一寸戴けないかなとも思う。
次に歌詞についてである。
1stヴァースでは、主人公の疑念が唄われる。多くの体験をし、多くの知識を吸収してきたのだが、あまりに多すぎて手に負えないと。言いかえれば、「知識や経験は人生を豊かにするどころか、却って悩みを多くする」、となるだろうか。これは思慮深い人ならば誰しも思い当たることだろう。もっとも、知識などと言うものは、最近に至るまでは一握りの者が独占していたのであり、現代社会での新たな悩みを歌詞にしたのだと思える。更には、紀元前の老荘思想にも通じるところがあるだろう。
2ndヴァースでは、冒頭で「僕は’49年以前のことは覚えていないが/’48年があったことは知っている」と唄われる。ピートの生年が1945年であるから、1949年以前とは物心付く前のこととも考えられる。となると2行目の’48年云々とは、記憶には無いけれども情報として知っているという意味になるのだろう。これも実体験と情報による擬似体験との境が曖昧である現代社会を描いていると言えるだろう。
墜落する飛行機に乗り合せた主人公の頭の中のドキュメンタリーとでも言えば良いのだろうか。主人公の性別は、タイトルからすれば女性であろう。例えば「七足の靴」というのも女性的である。こんな場面を歌詞にしてしまうピートには恐れ入る。
制作は1968年らしいが、これも "Tommy" の前兆が窺えるメロディを持った曲である。ボーカルはロジャーともう一人(誰なのか不明。ファルセットのところはジョンかなと思うのだが)によるツインである。ピートは、後半のインストパートにおいてピックを弦にこすりつけたり、フィードバック音を出したりしている。ピートはこの後、トリッキーな音響を出すことから遠ざかるので、本質的な意味で、「60年代のザ・フー最後のレコード」と言えるかもしれない。
歌詞の最後でこの主人公はウォーカー夫人の女の子供として生まれ変わる。何の必然性があるのか分からないし、転生という概念の無いカトリック圏(天性を認めているキリスト教の異端派もあるらしい)の人の大方にとっては、何のことかさっぱり分からないのではないかと思う。
ちなみに、この「女のお子さんですよ、ウォーカー夫人」という下りは、 "Tommy" の "It's A Boy" の中で再登場する。こちらでは男の子(Tommy)として生まれるのであるが。
あまりにも分量が多いので、別のファイルに書くことにした。
昔のアメリカン・ポップスのような曲である。ピートはそういった曲にも少年時代に入れこんでいたので、このような曲が生まれても不思議は無いのだが、知らない人にとっては信じ難いことかもしれない。しかし、サビの"Faith in something bigger"は、キレのある、まさしくザ・フーのピートのメロディである。同時にサビメロにおけるキースのドラム・パターンも他のドラマーだったら絶対思いつかないような類であると思う。
歌詞の方は、「お互い、信頼できる大きなものを持とう/信念を持って突き進もう」というメッセージがテーマになっている。途中で、「学べば学ぶほど信じられるものが減って行く/確かめれば確かめるほど不確定なものが増えて行く」という歌詞を挟んでいる。これは、M5と共通する思想である。
ザ・フーは1964年にハイ・ナンバーズという名前でフォンタナ・レコードからデビューしているが(商業的には大失敗)、その時のシングルA面曲がこれである。メロディは、スリム・ハーポの"Got Love If You Want It" で、それに当時のマネージャーだったピーター・ミーデンが歌詞をつけたものである。オリジナルの録音の質の高さも手伝ってか、今聞いても実に生々しいブルースだと思う。ギターソロも非常に出来が良い。
歌詞については、モッズ用語の「俺は顔役」だという宣言であるが、それが周囲から認められていることなのか、それは不明である。
ライブでは盛んに演奏されていたらしいが、何故かスタジオ盤としてはずっと発表されなかった。イントロのアルペジオは非常に低いレベルから始まり、次第に盛り上げて行く形を取っている。そして、ボーカルパートに入って行くのだが、1stヴァースがロジャー、2ndヴァースがピートとなっている。よく、ロジャーとピートのボーカルスタイルの対比が言われるが、この曲に関しては、その差は歴然としているわけではない。
2ndヴァースでのキースのドラミング殊にバスドラは特筆すべき出来である。もしかしたら、太鼓一台一台にマイクを立てて録音したのかもしれないが、立体感のあるサウンドである。
エンディングはインストであるが、ピートのギターの残響音は、まるでマイクを遠くに立てて録音したような音に聞える。実際はどうだったのだろうか。それだけでなく、次第にテンポアップしていくようでいて、実はテンポが変わっていないという、不思議なパートでもある。
薬を少し飲んで外へ出てみな
全ての星々が頭脳につながっている
女を見つけて大地に寝転がれ
彼女の喜びが雨の様に降ってくるだろう
車を手に入れろ、飛べるような力を得たと感じる
今俺はコントロールされている
1stヴァースは、まるでドラッグを肯定しているかのような歌詞である。最後の行の、「俺はコントロールされている」は、ドラッグにコントロールされていることが良いことなのか悪いことなのか、聞き手によって解釈の分かれるフレーズであるが。
裸の目には全てが素敵に見える
でも現実にはそんなことは起こりっこない
しかし、コーラス・パートでは前節を否定しているようである。そんな上手い話はないというのである。「裸の目」は、一般的には曇りの無い視野という意味で使われるが、ここでは反対に、
「裸の目には、物事を判断する限界があること」
を警告しているのである。
お前は自分の名前をサインし、俺は俺の名前をサインする
それらは同じものだが、俺達は別々の部屋に入れられる
お前は"腹"を隠せるけれど、"愚かさ"を隠す時には
何かが間違っているに違いないことを認めるだろう
どれでもいい、ボタンを押してみろ
ミルクと蜜(=生活を豊かにする物)が流れ出てくる
世界はお前の隣人の壁の裏側で始まる
1〜2行目は、同朋であるべき主人公と相手とが異なる待遇を受けることを描いている。以降の文脈から言って、相手の方は物質的豊かさと引き換えに体制側に操られているようである。つまり、最後の行は、「世界の仕組みは、お前から見えない所で決められている」という意味である。反対に、主人公は体制側の欺瞞を見抜いているのだろう。それが、4行目につながっているのである。
裸の目には全てが素敵に見える
でも現実にはそんなことは起こりっこない
このコーラス・パートは、2ndヴァースの5〜7行目を受けている。「裸の目」から見れば、
「物質的豊かさに包まれた世界は素敵なようだが、目に見えない所で世の中の仕組みは動いている」
という警告なのであろう。
お前は銃を持ち、俺は傷を負う
そして俺達は互いに見つめあう
二人とも何が正しいか知っているし
二人とも何が間違っているか知っている
俺達は沢山の嘘を自分達自身に付く
俺達はどんなゲームのポーンでもない
俺達は権力者達の道具ではない
俺達を本当に動かせるのは只一人
ここでの主人公と相手との関係はどうなっているのだろうか。体制によって敵対する同士となってしまったのではないだろうか。だから、本当は二人とも正しいことと間違っていることを承知していながら、嘘を付き合っているのかもしれない。3rdヴァースの後半は、体制に対する否定であるとともに、神への服従を表しているようである(神を一人と数えて良いのか分からないけれど)。
あるいは、二人とも革命を成し遂げようとする同胞であると考えることも出来る。銃を持つ相手と傷を負った主人公が見つめあうのは、信念を確認しあっているのだろうが、それさえも「多くの嘘」であるとしているようだ。
裸の目には全てが素敵に見える
でも現実にはそんなことは起こりっこない
3rdヴァースを上記の様に解釈すると(どちらでも同じである)、このコーラス・パートは、主人公と相手の双方がより良い社会を築くことが出来ると信じ込んでいるのだが、それは裸の目の視界に限界があるからで、そんな都合の良いことは起こりはしない、と警告しているのだろう。このメッセージは、"Won't Get Fooled Again"ではもっと直接的な表現がなされている。
オールド・ロックンロール調のアクセントを持った名曲。しかし、コード進行は複雑とは言えないかもしれないが、凝っていて、3コード云々とは程遠い。リードボーカルはピートが取っているが、サビの部分はロジャーがボーカルを取っている。ピートのボーカル・パートは言葉数が多いので、それ故にピートがボーカルを取っているのかもしれない。録音時期は1972年で、ライナーノーツによれば、「この曲が "Quadrophenia" となって結実した」のだとか。なるほど、バンドの駆け出しの頃のライブの周辺模様を唄ったこの曲が、視点を一ファンからのものに置き換えた "Quadrophenia" へと変化して行ったことは、それほど不思議ではない(と最近思うようになった)。この件に関する考察は、別途書いているので省略する。
メイン楽器はピアノ(ニッキー・ホプキンスが弾いているのだろうか?)であるが、ノリを出しているのは、ピートのリズム・ギターとジョンのベースである。キースのドラミングは比較的オーソドックスであるが、ベースとの絡みが素晴らしい。
歌詞の殆どは上記の通りであるが、この曲で重要な箇所はタイトルに現れており、以下の通りである。
ロックは死んだ」と言う奴がいる
ロックよ長生きしてくれロックよ長生きしてくれ、俺には毎晩必要なんだ
ロックよ長生きしてくれ、さあいっしょにやろうぜ
ロックよ長生きしてくれ、死のうが生きようが
実際「ロックは死んだ」なる発言をしたのはジョン・ライドンであり、それも1980年代初頭のことである。ところが1972年に制作されたこの曲で、すでに「ロックは死んだと言う奴がいる」としているのである。これは、ピートにとって実感だったのではないのか。というのも、スタジアム・ロックという形態に対して、当時からピートは違和感を感じていた節があるからなのである。それでも、ピートは「ロックよ長生きしてくれ」という曲を作ったのである。従って「不死身のハードロック」という邦題がいかに不適切であるかが分かる。ロックが不死身ならば、あえてこんなことを言う必要がないからである。ロックの存在自体に疑問が投げられるときがもうすぐ来る。しかし、俺にはそいつが必要なんだ、という悲痛な叫びなのだから。
さて、このアルバムが発表された74年には、ストーンズが"It's Only Rock'n'roll"という曲を発表している(アルバムタイトルでもある)。偶然なのか、それともこの曲の存在を前から知っていて、同じ年にぶつけてきたのか、それはわからない。ストーンズの方は、「たかがロックンロールだってことは分かっている。でも俺はそいつが大好きなんだ。」と唄ったのに対して、ザ・フーは、「ロックは死んだと言う奴がいる。でも俺には毎晩そいつが必要なんだ」と唄ったのである。ここら辺に、キース・リチャーズとピートのロックに対する考えの違いが現れていて、非常に興味深い。キースがロックをあくまでも個人レベルでの生きがいと感じており、他人がどう思うが関係無いと思っているのに対して、ピートはロックを不可欠なものであり、更に他人との繋がりを保つための「言語」だと感じているということなのである。
(2000-6-10)
(1)歌詞の分析
「ビリーは奴らのルールに従わなかった」という下りは、ザ・フーの1967年までの経歴からすると、重要な意味を持っている。ルールを破るという、アート・スクール仕込みのポリシーであり、またモッズのライフスタイルとの関連性においてである。モッズは、大人達から見れば奇妙な服のセンスをしていたわけだし、有名デザイナーのご託宣に従ったわけでもない。一方、喫煙は、ビリーの同級生が決めたルールではなく、前の世代から受け継がれていることである。ビリーが同級生と仲間にならず、それがビリーを後々「勝者」にしたことは、つまり、「前の世代達と同じことをするのはつまらない」、という主張が隠されているのである。
(2)シンバルズのカバーについては、最近CDを入手して聞いてみた。
(2001-4-7)訂正・加筆