The Who By Numbers

 

 "The Who By Numbers" は1975年に発売されている。"by numbers"には「型にはまった」という意味があるそうだが、自分たちだけでなく、広くロックそのものが型にはまったものになったしまったことへの皮肉なのだろうか。ちなみに邦題は「ロックンロール・ゲーム」(今では使われていない)であるが、これも意味深なタイトルである。というのもゲームには「駆け引き」という意味もあって、あまり良い意味で使われないことも多々あるからだ。

 本作は、キット・ランバート&クリス・スタンプ組とのパートナー・シップを解消した後に発売された、初のアルバムである。新マネージャーにはビル・カービッシュリーが就き、またレコード会社も閉鎖されたトラック・レコードからポリドールに移籍している。このあたりのゴタゴタについては、未だに詳しい経緯が明らかにされておらず、憶測が飛んでいるだけのようである。

 本作は、「フーズ・ネクスト」、「四重人格」で行なわれたスタジオ録音技術追求から離れ、楽器の音響を重視した、透明感の高いサウンドになっている。そのためか、シンセサイザーは使われていない。ギター、ベース、ドラムに、ニッキー・ホプキンスのピアノという簡素な編成が殆どである。デビュー以降ずっと実験的サウンドを生み出してきたザ・フーであるが、本作ではその要素は薄い。無いというのではない。よく聞いてみれば、本作にも実験的要素はあるのだが(特にM10)、それを重視していないのである。それよりも、楽器間のバランスに力点を置いたアレンジになっているといえる。ちなみに、プロデューサーは、グリン・ジョーンズである。

  メロディは、M1、M10を除くとメジャー調であり、ポップであり、そのレベルは他の作品群に劣ってはいないだろう。ところが、歌詞の方はいずれも苦悩に満ちている。自己懐疑、他人への不信から成り立っていると言っても過言ではない。確かに「四重人格」にしても歌詞は苦悩だらけであるが、様相は全く異なると言って良い。それは10代、20代の苦悩と30代の苦悩との違いと言い代えることも出来ると思う。10代、20代の苦悩には、背負っているものが少ない分、抜け出せる余地がある。しかし、30代になると、背負うものが増え(家族、地位、名誉)、抜け出せない苦悩に変化するものである。もちろん、そういったすべてのものを放棄するという手段も無いわけではない。例えばジョン・レノンがそうだ。このころ、レノンは表舞台から姿を消している。もちろん、自分の幼少時代のことや、もしかしたらジュリアンにしてとった態度を、ショーンに対しては繰り返さないという決意がそうさせたのだろうが。それはともかく、ジョン・レノンが表舞台から去った年と本作が発売されたのがほぼ同時期であるという符合には、偶然で済まされないものがある。

 しかし、ピートは30代の苦悩に対して、放棄するのではなく、受け入れることを決意している。よく、「人間は弱い。時として、愚痴をこぼす、泣き言を言うのも当然だ」という意見がある。しかし、ショー・ビジネスのスターにとって、それは許されないことであったはずだ。その境界線を踏み出したピートの真の勇気には感嘆する。このような態度は、80年代後半以降のロック・ミュージシャンにとっては、それほど珍しいことではない。ここで例を挙げることはしないけれども。

 本作に関し、もう一点特筆すべきことがある。それは「パンク台頭への予兆」ということである。別にM7の「さよなら、パンク野郎」という歌詞とは直接の関係は無い。そうではなく、「型どおりの」というアルバム・タイトル、「トミー」以降の曲調の展開が本作では見られないことに「予兆」が窺えるのである。曲調展開が、手段ではなく自己目的化している。そういった疑念がピートの頭の中にあったのかもしれない。

 しかし、本作を「パンク台頭への予兆」と結びつけて、「原点回帰」とする見解には、到底賛同しかねる。デビュー10年を迎えたバンドが、10代のころやっていた3コードR&Rを繰り返しても、それは物真似あるいは手抜きのパロディにしかならないのである。実際、本作には初期のR&B色は見られない。

 

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1.Slip Kid
2. However Much I Booze
3. Squeeze Box
4. Dreaming From THe Waist
5. Imagine A Man
6. Success Story
7. They Are All In Love
8. Blue Red And Grey
9. How Many Friends
10. In A Hand Or Face

 

1. Slip Kid

 本作の冒頭を飾る曲は、2拍子系であり、今までのザ・フーの曲とはリズム感覚が違う。リズム壊し寸前というのがザ・フーの大きな魅力であるが、この曲のドラムはリズムをキープすることに専心されている。もしかしたら、キースが叩いていないのかもしれない。その一方でカウベルが不規則に叩かれていて、面白いことは面白いが。

 アレンジ面での特色は、ピートのヘヴィなコードワーク・ギターであろう。元々コード・プレイを得意とするピートであるが、特にこの曲では音色が素晴らしい。それはギター・ソロ(フレーズはピートらしい)についても同様である。このギター・プレイにより、この曲は本作中最もヘヴィな仕上りになっている。

 ちなみに、デジタル・リマスター盤ではピアノの音がよく聞えるようになっている気がする。

 歌詞のテーマは、「簡単に楽になる方法なんて無い」に集約されているが、一行一行が実に工夫されている。1stヴァースでは13歳の戦士が、2ndヴァースでは63歳の戦士が、そして4thヴァースでは年齢不祥の者がそれぞれ自分のことを"slip kid"つまり「つまづいた少年」として唄っている。とすれば、これはミュージカル形式と見ることが出来る。これらのキャラクターが同一であるか否かという点は、さして重要ではないだろう。また、この曲の歌詞は自己言及的なものではあるが、同時に世代間対立とその歴史の繰り返しを唄った極めて普遍的なものでもある。

 もう一点キーワードとして"2nd generation"が出ている。ザ・フーはロックンロール第2世代バンドであるという意味が隠されているし、また自作品である「マイ・ジェネレーション」が出た1960年代半ばを第1世代として、本作が出た1970年代にデビューしたロックバンド達を第2世代と見ている可能性もある。

・1stヴァース
 「クリップボードとテキスト・ブックは持ったから」で、このヴァースは始まる。この13歳の戦士は「戦争に行くんだ」と言っているが、普通に考えると、戦争に上記の物品は不要である。ということは、クリップボードもテキスト・ブックも何らかの象徴であるということで、それは、他の誰かから学ぶ必要があること、すなわち自分が未自立であることを表しているのだろう。もちろん、「戦争」についても、いわゆる武力行使の戦争ではなく、成長に伴う心理的な闘争であると考えるべきだろう。
 2行目の"Leeds me to the station"については、"station"を第一義訳の「駅」と取るよりも、「あるべき位置」と取った方がよさそうだ。そうすれば、4行目以降の「背嚢と重たい靴で/雨の中を駆けていく/俺の足の皮がむけるまで」との意味的整合性が高くなる。 

・2ndヴァース
 「医師の処方箋を捨てちまったよ」で、このヴァースは始まる。これが1stヴァースの「クリップボードもテキスト・ブック」に対応する。こちらの方は、「他の誰から教えてもらったことは、俺にはもう意味を持たない」という意志を表している。続く、「バンガローのドアを開きっぱなし」あるいは「鍵は車に差したまま」というのも、過去の名声(車はその報酬)などに対する決別を隠喩した言い回しであろう。あるいは車というのが、簡単に逃げる手段であり、それを拒否したのだ、と解釈することも出来る。こちらの解釈では車を捨てることが、1stヴァースでの「雨の中を駆けていく」に対応することになる。
 このヴァースには「魔法瓶には砂糖入りの熱い紅茶」という、一見唐突な表現が見られる。しかし、この行も工夫された言葉遣いの1つなのである。その前の「ドアを開きっぱなし」では、"door ajar"という表現を使っているのだが、この"ajar"が、音だけでは"a jar"となって、魔法瓶に呼応している。更に、英国では、「砂糖入りの熱い紅茶は万病の薬」という言い伝えがあるそうで、医師の処方箋よりも紅茶に頼るんだという意志の表れでもある。これは、伝統への回帰宣言と取ることも出来るが、別の解釈も成り立つ。すなわち、医師の処方箋による薬物は高価であり、それに対して紅茶は比較的安価である。スターとして得た金銭を持ってすれば、高価なものに頼ることは出来るが、敢えて(スターとしての名声も含めて)それを拒否するんだ、というピートの自己言及でもあると思う。

・3rdヴァース
 13歳の戦士から63歳の戦士への通告と考えることが出来る。「あんたやあんたの歴史には縛られないぜ」という歌詞は、後のパンクスの主張そのものではないか。いやそれだけでなく、60年代の若者の主張「30代以上を信用するな」でもある。

・4thヴァース
 前半は1stヴァースの歌詞なのだが、このヴァースでは年齢が不祥である。ということは13歳と63歳の中間の30代の人間の主張なのだと考えても良いのではないだろうか。少年(少女)と老人の中間に属する世代、それは老いを日々痛感せざるを得ない世代でもある。もちろん、ザ・フーのメンバーと同年齢の人々と解釈してもいいだろう。
 このヴァースには、「君も俺と同様に丘を滑り落ちて行く」という行があるが、3rdヴァースでの対立相手としての"you"とは全く異なる、同朋としての"you"が表れている。そこに、偏狭な視点ではない素晴らしさを感じてしまうし、それを婉曲的に表現していることも素晴らしいと思う。

 

2. However Much I Booze

 軽快なアコースティック・ギターが左右両チャンネルから聞こえ、これがリズムを決定している。本作は全体的に透明感の高いサウンドであるが、中でもこの曲は特にそうである。キースのドラミングは変則的で、誰も真似が出来ないような気がする。

 この曲の歌詞は、「スターの自虐的なつぶやき」と言えるかもしれない。実際、リード・ボーカルはピートが取っている。しかし、それだけに終わらない点が、この曲の歌詞の良さである。

 1stヴァースで、「俺がTVに出ているぜ/俺は嘘吐き、薄っぺらな道化者」と自虐的な歌詞を唄う主人公は、今では頼れるのはブランデーだけになってしまっている。つまり、酒で逃避しようとしているのだが、結果として、「逃げ道は無い」のである(それなのに、80年代初期にアルコール中毒になってしまったのは残念だ)。

 2ndヴァースでは、俺は嘘吐きだと唄っていた主人公が、「重責で眠れない日々が続く」と唄っている。ロック・スター、怒れる若者の代弁者であったピートが、この頃感じていたものをストレートに表した歌詞だと考えられる。しかし、本解説の冒頭にも記したように、ピートは「使命から逃げる道は無い」と結論しているのである。

 3rd、4thヴァースでは、主人公は独房に入れられている。もちろん犯罪者として服役しているのではなく、スターとしての孤独感の吐露であろう。特に、4thヴァースでの開き直りには唖然とさせられ、また笑わされる。「自分の失態なんか認めないぜ/俺はタダのクソったれ水夫さ」 オヤ、これでは、2ndヴァースでの結論は何だったのか。1stヴァースに逆戻りではないか。
 続くフレーズではもっと極端になって、「俺が書く曲群をざっと眺めれば/何が正しいのか、家でくつろぐあんたにも分かるだろう/でも、そんなことしても俺には何の助けにもならないのさ/何処にも逃げ道は無いんだから」である。これは音楽ライターへの当て付けなのだろうか。気楽なポジションにいて、歌詞を斜め読みし、あれこれ論評したとしても、作者本人には何の助けにもならないというわけである。同時にファンに対しても痛烈な批判を浴びせているのかもしれない。

 

3. Squeeze Box

 本作からシングルカットされた曲で、英国では「ジョイン・トゥゲザー」以来のトップ10ヒットとなっている。もともと、アコーディオンの弾き方を覚えようとして出来た曲らしく、リズムが軽快である。更に、メロディが簡素であることが、ヒットの要因となったのだろう。

 サウンド面では、何と言っても、バンジョーのソロが秀逸である。この曲でもM2と同様に左右両チャンネルからアコースティック・ギターが聞える。また、エレクトリック・ギターによる、カッティングとミュートのトーンが今までと違っているような気がする。

 ピート本人も「ダーティージョークのつもりで書いた」と語っているようだが、他の曲と異なり苦悩のカケラもない歌詞である。"squeeze box"とはアコーディオンのことだが、欲情過多のママの胸のことを表しているようだ。

 

4. Dreaming From The Waist

 ジョンのベースが冴え渡るアップテンポな曲。特にエンディング近くでのピートのギターとのバトルでは、ギターより速く弾くという、他のバンドでは考えられない演奏をしている。だからといって、ピートのギターが駄目ということではない。ピートのギター・フレーズはハイトーンを主に弾いており、ベースとのコンビネーションそのものが重要なのである。

 エンディング以外でも、ピートのエレクトリック・ギター(左右両チャンネルで、エレキを鳴らすというのは、ピートにしては珍しい)とアコースティック・ギターのバランスが絶妙である。その一方、キースのドラムは、矢鱈とせわしない。

  タイトルは「腰の方から夢を見る」ということだが、ピートにしては珍しい内容で、性の妄想を題材にしている。これがミック・ジャガーやロバート・プラントだったら、決して妄想ではなく現実に「俺はやっちまう」という内容になったことだろう。ところがピートは、「俺が自分自身をコントロールできる日が来るまで、俺は猥雑な夢を見る」としている。決して歌詞に書かれた「雑誌に出ているような女」とコトに及ぶのではないのである。このあたりが、ピートがジャガーやプラントのようにモテるスターではなかったことが吐露されていて、面白い。それにしても、自分の行動を抑制するために、欲望の夢を見るとは、何と示唆に富んだ歌詞だろうか。これで犯罪が無くなれば良いのだが、大抵は夢と現実の区別が付かなくなり、妄想が犯罪に具現化してしまうようだ。

 

5. Imagine A Man

 アコースティック・ギターのアルペジオで始まり、そのままボーカルパートに突入する、スローで穏やかな曲である。途中からピアノが加わるが、このピアノとアコースティック・ギターのバランスが実に上手く決まっている。

 だが、何と言っても、この曲の一番の魅力はボーカルであろう。特に、サビの"you will see the end"でのロジャーとピートのハーモニーは絶品である。そこだけでなく、ロジャーのソフトタッチのボーカルは、素晴らしいの一言に尽きる。この曲の歌メロは非常に難しいのだが。

 歌詞は、「ある男を想像してごらん/まだやり直しの効く子供のことでなく/平凡で日々の生活に囚われた男のことを」で始まる。この最初の3行がメポイントの1つになっていて、30代に入ったピートの苦い感情と観察眼がこの歌詞に生かされている。また、非常にイメージ喚起力の高い歌詞であり、舞台となっている黄昏時の海岸(黄昏時とは書かれていないのだが、そう思って差し支えあるまい)が目に浮かんでくるような気になる。

 もう1つのポイントは、「君は終わりを知るだろう」である。しかし、ここでの「終わり」とは、世界が滅びるといった類のことではないだろう。それでは飛躍しすぎるというものだ。恐らくは、若い頃持っていた夢や希望が終わるということだと思うのだが。

 以上で1stヴァースと3rdヴァースの歌詞について触れた。次は2ndヴァースである。ここでは、日々の愚劣な出来事、切望し手に入れた女性の(肉体の)こと、訪れてみたい過去のことを想像してごらん、と唄われている。1件目は、10代だったら格好良いと勘違いしてしまいそうな出来事なのかもしれない。後の2件は、表面的には綺麗に見えても、実態は、それ程良いものではない。ピートはそう言いたいのではないだろうか。であるからこのヴァースも、「君は終わりを知るだろう」で締め括られているのだろう。ここでも、夢や希望が終わるだろう、と言っているのだと思う。

 結局、この曲での「想像してごらん」は、単にぼんやりと思い浮かべるという程度のことを要求しているのではない。表面的なことではなく、奥に隠されたことまでも「想像せよ」と主張しているのである。それは、内実を直視せよという、ピートのこれまでのメッセージと同様である。しかしその一方で、理想を追求することへの決別も宣言されているようで、ファンにとっては寂しい歌詞でもあると思う。

 

6. Success Story

 本作中、唯一のジョンの作品であるが、ギター・リフを中心とした曲である。しかし、それよりも、ジョンのベースがボトムをしっかり支えていることが重要なポイントだと思える。キースのドラムは確かにパワフルなのだが、只フィル・インを入れている、という感じがしないでもない。

 後半のインスト・パートは、1967年頃の「セル・アウト」に漏れた作品群を思わせるような、ギター・トーンが使われている。

  歌詞の内容は、ロック・バンドのメンバーの生活を唄ったものである。特に、「昔は楽しかったのにな」という下りが印象的であり、当時のバンドの様子を端的に表しているかのようだ。

 歌詞の中盤は、恐らく若い時の回想であろう。主人公は、金持ちのロックスターになることを夢見ている21歳の男である。主人公の守護霊なるものが登場し、主人公に向かって「喜劇役者みたいにやってみろ」と誘惑する。この守護霊というのは、実はデビュー当時のマネージャーを指しているのかもしれない。主人公はその気になって、「ギターを壊すってのはどうだい」と応じるのだが、これはどう考えてもピートについて言及しているとしか思えない。 

 そしていきなり時代が飛び、現在に戻る。「ライブでの稼ぎのうち、税金が6でバンドには1だ/No.1レコードを作るために、もう276回目のテイクだぜ」と、いかにもうんざりした様子が描かれる。

 

7. They Are All In Love

 ピアノをメインに使った、ザ・フーの作品群の中でも最も愛らしい曲である。リズムは3/4拍子、つまりワルツである。ボーカルもコーラスを含めソフトである。この曲のアレンジで一風変わっているところは、ピアノとベースとのアンサンブルであろう。

 タイトルはピートらしくない。ビートルズかジェファソン・エアプレインなら分かるのだが。しかし、歌詞の内容は、タイトルを肯定しているのではなく、むしろシニカルに見ているようである。

 1stヴァースには「神聖なるホールに行くと君はどう感じるかい/夏服は暗いホールを明るくする」というフレーズがある。神聖なるホール=暗いホールであるというのは、このホールが既に過去のものと化したことを表しているのだろう。それが夏服によって明るくなる。服というのは人間の表層的な面のメタファーであり、過去の遺物が表面的には明るく見える。まるで、ザ・フー=過去の遺物、夏服=本作のメジャー調のメロディと位置付けているかのようである。

 2ndヴァースでは、「雑誌の中の、過去の英雄と今の女王」を取り上げ、君にはどちらが似合いかな、と問いかけている。過去の英雄と今の女王が誰を指すのか、推測してもいいのだがやめておく。ここでは、雑誌の中のスターというものが、見せかけだけで中身が無いことを仄めかしている、とだけ書いておく。

 3rdヴァースでは、冒頭にも書いたように「さよならパンクス」という下りが登場する。そしてそのパンクスに向かって、「いつまでも若くハイなままでいろよ」と突き放すように唄われるのである。さて、このパンクスとは、当時の英国の若者を指しているのだろうか。そうではなく、ザ・フーのかつての姿を指しているのではないかと思うのである。つまり、過去への決別であり、このヴァースの後半で、「俺は自分をリサイクルしているんだ」につながるのだと思う。続く、「俺の小切手帳をこちらによこしな」というのは、印税を横流ししていた奴等に対して向けられた文句なのではないだろうか。

 そして上記のようなことに対して、「奴等はみんな愛の世界にいる」と唄っているのである。どうも、愛=ニセモノという図式が、この歌詞の中では成り立っているとしか思えない。結局のところ、ザ・フーをもてはやしてきた連中に対する不信感が、この曲の創作動機になっているのではないだろうか。

 

8. Blue Red And Grey

 ピートがウクレレの弾き語りをする曲である。2ndヴァース以降ではブラス隊(ジョンが演奏しているのだろう)が加わるが、まるでストリングスのような音使いである。あくまでも主役はウクレレということなのだろう。ブラスは音量も大きく派手な音を特徴とするから、こういう使い方は斬新である。

 ちなみに、最近出たパールジャムのアルバムでは、M12の「スーン・フォーゲット」なる曲で、エディ・ヴェダーが本曲と同様にウクレレ弾き語りを披露している。

 歌詞のポイントは、「ある特定の時間だけに囚われた人々もいるけど、僕はあらゆる時間が好きなんだよ」である。前者の「ある特定の時間」として、日の出の時間帯、日が昇りきった日中、暑い夕方、真夜中が挙げられている。特に、暑い夕方に関しては、赤、青や灰色のカクテルを飲みながら過ごす人を挙げていて、これがタイトルにもなっている。赤が沈む夕日、青が海、灰色が砂浜を表しているとも考えられるが、同時に赤は希望、青は悩み("feel blue")、灰色は老いることのメタファーであると思える。しかもそれぞれがカクテル、つまり単純ではなく混じり合ったものであることも仄めかされているのである。

 さて、特定の時間に囚われた人々は、それ以外の時間帯を嫌々ながら過ごすことになる。そういう行き方に対してピートは疑問を投げかけているのである。これは、「人間、良い時よりもそうでない時の方がずっと長いんだよ」、と言っているように聞える。あるいは、ファンに向かって「ザ・フーの良い面ばかりに囚われないで、悪い面を含めて受け入られるのかい」、という挑戦状を突き付けているのだろう。

 また、ピートは歌詞の後半でこうも唄っている。

僕は間違っても南フランスには行かないよ
丘の上の連中は僕を怠け者だという
でも奴等が眠っている間、僕は唄い踊っているんだ

 1行目は3行目と同じ意味を表している。南フランスつまりバカンスには行かないで、懸命に働いているんだ、と言っているのである。唄い踊るはミュージシャンの仕事である。次に、「丘の上の連中」とは、高みから論評する輩のことだろうか。つまり、「評論家連中は何も分かっていない」という批判にも聞えるのである。 

 

9. How Many Friends

 本作中、最もドラマティックな展開をする曲であろう。また、各楽器のトーン・バランスが最も秀でているアレンジが施された曲でもある。ピートのエレクトリック&アコースティック・ギター、ジョンのトレブル・ベース、キースのドラム、ニッキー・ホプキンス、それぞれが実にバランスよく鳴っている。ピートは今までとは異なり、シングル・ノートでバッキングをしている。これが「取り敢えずトライしました」ではなく、完成されたものとなっていることは、流石に10年選手だと思わせる。

 また、ロジャーのボーカルも、ソフトとハードの使い分けと声域の広さは、絶品である。やはり、ロジャーは、ロックボーカリストとしても頭抜けていると思う。

 「本当の友達ってどれ位いるのだろうか/片手で数えられる程度だろうか」と、タイトルがそのまま歌詞のテーマになっている。スターでなくともこのようにふと思う人は多いことだろう。もしかしたらピートは、キースのことを頭に置いて作ったのかもしれない。

 1stヴァースはファンからの激励の言葉から始まる。ファンというのが「美少年」であるというのが、以下にもピートらしい。圧倒的に男性ファンの多いザ・フーならではある。また、この美少年のファンが主人公を好きな理由が、「あんたの着ている服が好きだから」、というのもまさに自己言及的である。というのも、ザ・フーはモッズ御用達バンドとしてスタートしており、モッズは服に相当執心していたからである。そんなファンの言動に対して、主人公は、「ありのままの自分を受け入れてくれる友達って、どれ位いるのだろうか」と疑念を抱いているのである。つまり、服ではなく自分の中身まで見てくれていたのだろうか、という疑念である。

 2ndヴァースは、「映画のスクリーンに浮かんだ女性の美しい顔を見て、思わず声を上げてしまった」、で始まる。無名時代に知り合った女性が、映画のヒロイン(美しい顔とあるから、端役ではないだろう)になっていたことに驚いたのだろう。それは分かるのだが、これがテーマである「本当の友達ってどれ位いるのだろうか」、とどう結び付くのだろうか。主人公はスキャンダルを恐れたのだろうか。

 3rdヴァースは、主人公の別の人格に語り手が交替しているのかもしれない。というのは、「君について本当のことを言ってくれた人が一人もいないことに気付くだろう」、という下りがあるからだ。

 4thヴァースは、初めて契約した時のことに言及している。その契約は単なる握手以上のもので、いまでもずっと続いていると思っていた、と主人公は唄う。でも実態は逆で、お互い、陰では悪口を言っていたことが明かされる。要するに、ランバート&スタンプのことを批判しているのだろう。矛先は他の人へも向けられており、「お互い、他人の心の底までは分からないさ」、とシニカルに断定している。

 

10. In A Hand Or face

 エレクトリック・ギターが3本も使われるなんて、初めてではないだろうか。非常に複雑なコード・ストロークであり、コピーは難しいだろう。また、ベースの音も実に不思議である。まるで今のテクノのような音とリズムを刻んでいる。

 ただし、他の楽曲と比べてメロディには難があると言わざるを得ない。恐らく、元々はインストゥルメンタル曲だったのに、後からボーカル・メロディを付け足したのだろう。せっかく、実験的なトーンが聞けるのだから、ボーカル無しのまま収録した方が良かったと思うのだが。

 歌詞は、人類史において憎悪や争いが絶えなかったことに対して、可笑しいじゃないかと非難する内容になっている。1stヴァースでは容貌の差から生じる嫉妬の無意味さを、2ndヴァースでは浮浪者に対する無理解から無視を決め込む姿勢を取り上げているが、どちらも他人の内実に迫ろうとしないで、只何となく気に入らないとして争いに発展することでは同じである。殊に2ndヴァースは、冷戦や南北問題にまで想像が及んでしまう。

 ところが、サビでは「僕は回って回って行く」となっているのである。これをどう受け取れば良いのだろう。理想社会なんて有り得ないというシニシズムだろうか。あるいは反語としてか。

 

(2000-6-25)

 

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