Supercar 「Futurama」
01. Changes
02. PLAYSTAR VISTA
03. Baby Once More
04. White Surf style 5
05. Star Fall
06. Flava
07. SHIBUYA Mroning
08. Easy Way Out
09. Everybody On News
10. Karma
11. Fairway
12. ReSTARTER
13. A.O.S.A
14. Ney Young CIty
15. Blue Subrhyme
16. I'm Nothing
スーパーカーの「フューチュラマ」は、メジャー・デビュー後3作目にして、このバンドとしての最高傑作と言えるだろう。それのみならず、2000年に発表された邦楽アルバムとしてもトップクラスに位置するものと個人的には思う。
もともと、ノイジーなギター・ポップ・バンド(個人的にはそれよりもドラムのフィルインの入れ方の方に魅力を感じるが)として世間に名を知られるようになったバンドだが、以前から打ち込みも結構使ってはいた。しかし、本作では、もはやギター・ポップ(あるいはロック)というイメージは大きく後退し、テクノロジーを駆使したポップ・ミュージックという色合いが非常に濃く出ている。
ロックに大胆に打ち込みやサンプリングを導入したバンドとしては、前作までのU2、あるいは、時節柄レディオヘッドの"Kid A"などが連想される。特に、後者"Kid A"に関しては、本作との共通性がメディアなどで盛んに言われている。筆者も本作を初めて聞いた時は、確かに両者の共通性が思い浮かんだ。しかし、何度か聞いていくうちに、共通点よりも差異の方が大きいと感じるようになった。
最も大きな差異は、"Kid A"が冷徹であり、聞き手とバンド、あるいは聞き手同士を遮断するような作品であったのに対し、本作「フューチュラマ」からはそのような意図が全く感じられない点である。本作はあくまでもポップというフィールドに立っている。また、別の見方をするならば、"Kid A"は、聞き手をその世界に没入させ、聴いている間は、現実社会への引き戻しをさせないような作品であるのに対し、本作は楽しさがまず感じられるのだが、それは虚構世界での体験ということではなく、現実社会にとどまりながらも、一寸異なった世界で遊ばさせてくれるような作品であるということでもある。
このようなことを書くと、「何だ、まるで子供向けのフィクションなのか」、と言われてしまう危険性があるが、そうではない。確かに「子供性」、「無邪気さ」という印象はあるが、それは哲学的、考察的に音作りをしたのではなく、頭の中のイメージをそのまま音にしただけという意味においてである。例えば、M16の冒頭など、バンドのリハーサルをそのまま録音したような音を使っており、「遊び心」満載とも言える。
本作は、全16曲から構成されているが、M1、M7とM12に殆どインストゥルメンタルだけの曲が配置されており、結果として3部構成と考えられる。第1部と第2部の中では、曲間は省かれているが、この試みは大成功で、1曲1曲が独立したものではなく、連続したものとして受け止められ、それが却って聴き易さ、ポップさにつながっているように感じられた。例えば、くるりの「図鑑」を引き合いに出せば、「図鑑」には、極端な展開をする曲が多く、非常に実験的で(聞き手に)挑戦的な作品であったが、本作は曲調が変化していっても、自然な流れを感じる。よって、トータル75分という大作でありながら、通して聞いてもそれほど苦痛ではない。ここらあたりは、ザ・フーのポップ性とも大いに共通するものがあると言える。例えば、M1を「序曲」と聞き比べたり、M2を「ババ・オライリィ」と聞き比べるのも一興であろう。また、M14で一旦アルバムが終了するかのような印象があり、「サージェント・ペパーズ」を意識したかのような構成でもある(多分、彼らの意識の中には無かったと思うが)。
ところで、スーパーカーは、ボーカリスト中村弘二が作詞をしないバンドとしても知られている。ただそれだけならば、エルトン・ジョンだとか、ザ・フーのロジャー・ダルトリーも同様である。しかし、彼らが唄う時は、かなり感情を込めているのだが、中村弘二の場合、感情を込めないスタイルが特徴である。本作でもそのようなボーカルスタイルは継承されているのだが、興味深いのは、YMOのボーカル(主として高橋幸宏がリードを取っていた)にあまりにも似たボーカルスタイルが聴けることである(M5、M8、M9)。本作でのテクノロジーの導入がそういう選択をさせたのだろうか。もちろん、本作をYMOの路線を真似た作品と評価することは間違いであり、90年代後半のダンス・ミュージックを経過した作品として位置付けるべきであろう。そもそも、スーパーカーがYMOをリアルタイムで聴いたはずもない。
次に歌詞について述べる。以前からスーパーカーの歌詞は、感情が抜け落ちたものが多かった。しかし、その中にも皮肉が込められたりはしていた。本作においても、M6、M8のような、現状変革に対する無力感が唄われている曲もあるし、M16"I'm Nothing"に至っては、タイトル自体が「そのまま」である。そして、スーパーカーの歌詞が他のアーティスト達と比べて特異なのは、そいう自己の現状を肯定するかのような文脈になっていることであろう(とはいえ、これは世代を超えて充満する感覚にも思えるが)。しかし、本作では、無力さを一旦肯定した上で、「自分達は(音楽的に)前進するんだ」という意思も見て取れる。特に興味深いのがM11である。これは、先行シングルカットされた曲でもあるが、最後の「名曲は今も流れているよ/目の前と向き合うとそれさえも色あせていくと思ったら、負け」という歌詞は、「音楽は時代の閉塞感などに負けてはならない」、という宣言とも読めるのである。もちろん、これは決して新しい主張ではないが。
それでは、各曲毎(全てではないが)に述べる。
M1は、インストゥルメンタル曲。ノイジーなギター・サウンドに始まり、BPMが次第にアップするテクノ、そしてナイン・インチ・ネイルズのようなインダストリアル・メタルへと展開している。個人的には、「序曲」、「宣言文」のように聞こえた。
M2はタイトルが表しているように、浮遊感のある曲だが、これをダンスビートとミックスさせるという強引とも言えるサウンドである。シンセサイザーのバッキングは、ピート・タウンザンドが「ミハー・ババ」関連の曲で使った手法に近い。
M3は感情が込められていないボーカルに代わって、ギターがまるで唄っているかのような印象を与える曲である。しかし、これだけけだるいボーカルでありながら、「ベイビー、もう一度」というのがミスマッチで面白い。
M4は高速ブレークビーツを前面に出したアレンジになっている。ノイジーなギターも入っているが、決して他者を拒絶するような音ではなく、むしろ暖かく明るい感じがする。
M5は、テンポチェンジや曲調の変化が激しい。エンディングなどはエレクトロ・シンフォニーと呼んでもいいかもしれない。
M6は、まるで夢の中にいるような印象を与えるボーカル・スタイルが特徴的な曲である。歌詞にも「寝顔」というキーワードがある。
M7は、アルバム中で幕間曲のような存在である。オルゴールを模したシンセサイザーで幕を開け、やがてユルユルのダンス・ミュージックになって行く。
M8は、今までのスーパーカー・サウンドに最も近い、王道ギター・ロックである。が、その前にはひたすら電子音が鳴っているという何とも可笑しな構成になっている。歌詞は、マスコミで言われる10代の気分を冷笑するような内容にも受け取れるが、終わりの方の「全部無くなった方が、その方がいい、まだ」という歌詞は、10代だけでなく、未だにバブル再来を夢見る大人達をも冷笑しているかのようだ。
M9は、コンピュータを使って発振周波数をスィープさせたような音が耳に残る曲。上記のYMOとの類似性が一番目立っているような気がする。歌詞は、J−Popでよく言われる「前向き」を逆手に取って茶化したような内容か(そう思えた)。
M12は、シンセサイザーのループとノイジーなギターが特徴の曲。それを支えているのが、ロカビリー風のドラムである。殆どインストゥルメンタル曲である。これも幕間に相当するのだろう。そして、以降は全てスローな曲で、内省的である。
M13は、ナイジェル・ゴドリッチが好んで使いそうなギター・トーンと一寸懐かしめのメロディが特徴の曲である。トラヴィスの「ザ・マン・フー」に近いとも言える。
M14は、ギターとストリングス(シンセサイザーを使っていると思われる)が印象的な曲である。ギターのカッティングは、ありきたりと言えばそうであろう。ここで、アルバムが終了するかのような曲だ。
M15は、唯一田沢公大が書いた曲。といっても、他の曲と大きな違いは感じない。マイ・ブラディ・バレンタインのようなノイジーなギターとはっきりしないボーカルが特徴である。
M16は、西ヨーロッパ大陸がイメージされるような洗練されたポップスである。 薄くかぶさったキーボードの音色が良い。
(2001-1-17)