The Smiths "The Queen Is Dead"

 

 

 ザ・スミスは1983年にデビューし、1987年にジョニー・マーの脱退により幕を閉じた。本作「ザ・クィーン・イズ・デッド」は彼等の4枚目のアルバムにして最高傑作というばかりでなく、80年代英国ロックにおいても、その頂点を極めたと言っても過言ではないと思う。 アルバム・タイトルは本作収録のM1から取られているが、「女王は死んだ」というタイトルのため、販売拒否など物議をかもしたらしい。そのせいか、全英チャートでも最高で2位であった。

 ザ・スミスの音楽的な特徴として、ジョニー・マーのオーヴァー・ダブを駆使したギター・サウンドと、それに乗っているモリッシーの特異なボーカルを挙げる人が多いが、もちろんそれだけではない。アンディ・ルークのベースは、横揺れを基本としたファンキーなものだし、アコースティックなサウンドを多用するジョニー・マーのギターに対して音の厚みを持たせるのに重要な役割を果たしていた。また、マイク・ジョイスのドラムはテクニカルとは言えないが、タイトであり、シンバルやハイハットを多用しないことにより、ギターとの整合性を高めていたように思える。また、横ノリのアンディ・ルークに対して、マイク・ジョイスのドラミングはどちらかというと縦ノリである。リズム隊の二人の資質が異なるというのも、滅多に聞かないことである。それはともかくとして、つまり、ザ・スミスの奇跡は、4人が揃って実現したものであり、決して、モリッシー&マーだけでは不可能だったということである。

 次に、モリッシーのボーカル・スタイルについてであるが、エルヴィス・プレスリーからの影響は窺えるものの、プレスリーに顕著であった黒人のように唄う白人、という感覚はモリッシーには見られない。いや、そもそもモリッシーには「唄う」という意識が希薄だったのかもしれない。レコードのクレジットを見ると、必ず「Voice:モリッシー」と記載されていることは、この説の裏付けでもある。実際、モリッシーの唄うメロディは音域が狭く、時には単調に感じることもある。

 話題がザ・スミス全体のことに及んでいたが、ここからは「ザ・クィーン・イズ・デッド」に絞って進める。楽曲はどれもレベルが高く、埋め草は一つもないと言える。ただし、ジョニー・マーの作るメロディが、デビュー期から既に高水準であったことは周知である。となると、本作を最高作たらしめている理由は他の点にあることになる。そしてそれはアレンジなのだと思う。前作の方が実験性という点では上であろうが、本作では完成度という点で前作を上回っている。ギターやベースだけでなく、キーボード、ストリングスを組み入れ、見事に使いこなしているのである。凝ったアレンジのせいか、長い曲でもダレるという感覚は全く無い。これも前作から飛躍した点と言えるだろう。

 また、ザ・スミスが本質的にシングル・レコード・バンドであったためか、これまでアルバムの曲順については、結構無造作であったのだが、本作ではその問題も解消されていると思う。

 

1. The Queen Is Dead (Take Me Back To Old Brighty)

 冒頭は、デモ行進中の歌のように聞こえる。それが終わると激しいドラム・ソロが始まり、ボーカル・パートへと突入する。アップテンポでハードなアレンジが施されているが、モリッシーのボーカルがそれを和らげている。ボーカルメロディは2フレーズから成り立っているので、単調に思えるかもしれないが、それを補っているのが、ギター・カッティングであり、6分以上の曲なのに聞き手を飽きさせないよう、微妙な変化をつけている。特にボーカル・パートが終わった後、エンディングまでのギターとベースの絡みは見事という外無い。終盤でのギター・プレイは、恐らく初期バーズ風のギター・サウンドをカッティングのみで出そうとしたのだろう。また、キーボードも控えめではあるが使われているが、これもセンスを感じさせる使い方である。

 歌詞は、英国王室への憎悪がモチーフになってるのだが、直接的に王室打倒を叫んでいない点が面白い。まずタイトルからして「女王は死んだ」なのだから、死んでしまった者をどうやって打倒できようか。こういった斜に構えた王室批判は後にも登場する。「僕はスポンジと錆びたスパナを持って宮殿に押し入った」がそれである。この下りを間抜けで情けない主人公と解釈することも出来るだろう。そもそも、そんな武器でテロが可能なわけが無い。護衛に取り押さえられるだけなのだから。しかし、角度を変えてみれば、英国王室は、その程度の武装で突破できるほど力が無くなってしまったのだ、という主張だと解釈することも出来るのである。

 中盤では、「僕らは静かで爽やかな場所を散歩することが出来る」という歌詞が繰り返されるのだが、ここでの「僕ら」が、主人公と他の誰を指しているのか、わざと曖昧にされている。王室の誰か(皇太子?)である可能性が高そうなのだが。というのは、「君が未だに母親の言いなりになっているのなら、誰も去勢の話などしないよ」という下りがあるからである。これは、女王の操り人形の皇太子ならば、去勢=子孫断絶=革命、なんて図式は不要で、放っておいても王室は滅びると言っているようなものである。 

 後半では、パブや教会を無用なものとして退けているのだが、教会は英国では殆ど権限がないから置くとして、パブは英国の伝統文化の一つである。作者=モリッシーからすれば、パブは労働者階級を飼い慣らす装置として機能しているという思いがあるのではないか。

 

2. Frankly, Mr. Shankly

 スカビートを基本とした曲。メロディという点ではM1より上だろう。バスドラとベースをシンクロさせているアレンジは、目新しくはないだろうが、この曲に対しては合っていると思う。ボーカル・パートの間奏部におけるギターは、まるでもう一人のボーカリストのようでもある。

 シャンクリーという名は、フランクリーと韻を合わせるために付けられたのだろう。モリッシーは意外と脚韻に気を使うタイプであるらしい。

 歌詞は、スターになるために退職を願い出る若者について唄ったものである。どこかモリッシーのデビュー前を連想させる内容であるが、モリッシーは確か無職だったはずである(今で言う引きこもり)。しかし、退職するからとは言え、これだけ悪態をつく必要は無いと思えるのだが。雇い主からみれば「トンデモナイ奴」である。

 

3. I Know It's Over

 3連符のオールディーズR&Rのリズムを使ったバラードである。90年代以降のR&Bの先駆けとなるパーカッション・アレンジが入っており、今聞くと驚きである。ジョニー・マーが得意とするアルペジオも後半に聞ける。

 歌詞は本作中一番長い。終わってしまった("It's Over")恋愛関係を唄っているようでいて、実は始まりさえしなかったという設定のようである。というのも、中盤において、女性が主人公に言ったことが長々と唄われているのだが、その殆どは主人公の自慢話とそれに対する否定に終始しているからである。だが、その後(直後ではない)に来る歌詞は、「愛とは自然でリアルなもの/だけど、貴方と僕のような二人のためのものじゃない/僕の愛する人よ」である。主人公はその女性に振られてしまったというのに、それを認めず、捻じ曲がった合理化に走っている。

 以上が、歌詞の「本論」とでも言うべき箇所についてである。歌詞の冒頭と終盤は、「母さん、僕の頭に汚物が降りかかるような気分だ」、という歌詞が繰り返されるのだが、これは、自分の惨めさを表しているのだろうか。もしも、惨めさを唄うのならば、普通なら使わない表現であろう。せいぜい、「灰色の雨が降り注ぐ」の類だろうに。だが、「汚物」と言われると、自己憐憫であるようでいて、相手を侮辱しているようにも聞こえる。いかにも、モリッシーらしい表現である。

 さて、本曲中最も分からない箇所は、「もう終わってしまったって分かっている。でも僕はすがりつく」、の後半であろう。一体、何にすがりつこうというのだろうか。

 

4. Never Had No One Ever

 M3が6分以上続いた後、間髪を入れずにM4に入る。リズム・パターンはM3と似通っており、3連符をべースとしている。曲調はマイナーでスローテンポなので、M3の変奏曲という扱いなのかもしれない。

 歌詞は数行しかないし、「僕は悪い夢を見ていた/20年7ヶ月27日続いたんだ」と具体的な数値を出されても、非関係者にとっては何のことか分からない。ザ・スミスがデビューした時、モリッシーは24歳くらいだったはずだから、悪夢の期間とは、物心ついてからのことを指すのだろうか。

 ちなみに、この曲のタイトルは日本のウィルベリーの1stアルバムのタイトルに使われている。

 

5. Cemetry Gates

 アナログ盤ではここからがB面なのだろう。前曲から一転してアップテンポでメジャー調の曲である。メロディ・ラインキャッチーなのだが、そこにおさまりの悪い歌詞が乗っかっているのは、ザ・スミスらしいところである。アレンジはベースを前面に出しており、そのバックでアコースティック音色感の強いギターが鳴っている。恐らく2本をオーヴァー・ダブしているのだろう。加えてキーボードも使われているようだ。

 歌詞は、剽窃や借用に頼る同業者(=作詞家)への批判や、揚げ足取りばかりしている評論家への批判だと思う。しかし、パクリを否定する一方で、「今の時代、最早どれがパクリでどれがパクリでないという判断は、どんな博識な者でも不可能だ」と主張しているように取れる部分があり、真意が何処にあるのか、故意にぼやかされている。更に、長い前振りがあったり、軽やかなテンポで唄われているので、メロディや歌詞は耳に残り易いのだが、深く意味を考えないという危険性がある。逆に、それが狙いなのだろうか。

 ところで、「君にはキーツとイエーツが味方をしている/対する僕には(オスカー)ワイルドが味方だ」という下りが、冒頭と終わりで繰り返されるのだが、これには何の意味があるのだろうか。最後には、「僕にはワイルドが味方しているから君の負けだ」とも言っている。3人とも文学者なのだが、モリッシーはワイルドに心酔していたから、こんな歌詞になったのだろうか。

 

6. Bigmouth Strikes Again

 恐らく本作中一番アグレッシブなアレンジが施された曲だろう。ドラムのフィル・インが何度も繰り返され、攻撃性を高めている。だが、ギターの音色は前曲と同様にアコースティック感が強い。ジョニー・マーにしては珍しいシングル・ノート・プレイが聞けるが、やはりマーはギター・ソロ指向のギタリストではないのだろう、それほど凄いとは思えない。それよりも終盤の高速カッティングの方が何倍も素晴らしい。

 サビメロでのモリッシーのボーカルも非常にヘンであるが、子供のようなコーラスも絡んできて、益々異様さが増幅されている。

 歌詞は、大口(ビッグマウス)を叩き過ぎる自分への嫌悪感を唄っているようでいて、実は他人への憎悪を唄っているように思う。
 「僕なんて人類の仲間入りさせてもらう権利すらないんだ。」
この一節は、自分を負け犬と認めているのではなく、自分をさげすむ人達への非難であろう。しかも、非難の文句がこれまたひねくれている。
 「今となっては、ジャンヌ・ダルクが処刑された時の気持ちが良く分かる。」
ジャンヌ・ダルクは、周囲の無理解というよりは(神から与えられたとされる)超能力に周囲が恐れをなし、火刑に処せられてしまったのだが、モリッシーはジャンヌ・ダルク=聖人、神に守られた少女と捉えて、この歌詞を書いたのでは無さそうである。単に、主人公を悲劇のヒロインになぞらえていると取った方が良いと思える。というのは、「彼女のウォークマンが溶け始めた時の」とか「彼女の補聴器が溶け始めた時の」という歌詞があるからである。ウォークマンは周囲から断絶する意志のメタファーであり(それによって他人の注意を引き付けるという効果もある)、逆に補聴器は周囲をより理解しようとする意志のメタファーと考えられる。聖人ならばそんな努力は不要である。逆に言えば、そういった懸命の努力を主人公もしているのに、という嘆きであるようにも聞こえる。いずれにしても、こんな言い方をしたら、周囲は益々主人公を疎外するようになるだろう。しかし、それを敢えて歌詞にするあたりがモリッシーらしさである。

 

7. The Boy With Thorn In His Side

 アップテンポでキャッチーな曲であり、本作中従来からのザ・スミスのイメージに最も近い曲だとも言えるであろう。モリッシーのヨーデル風ボーカルとエレクトリック・ギター(この音色がまた最高である)とが非常にマッチしている。

 歌詞は、タイトル通り「心に茨を持つ少年」から見た周囲の大人への嘆きを唄ったものである。人称が変化していくため、歌詞自体は分かりづらいと思う。例えば、冒頭は三人称で「心に茨を持つ少年は・・・」と書かれているのに、突然「僕の目を見つめながら、なぜ彼等は信じてくれないのだろう」と一人称形式になってしまうのである。2ndヴァースは更に複雑で、単数が複数になったり、三人称が一人称になり、最後は二人称になっている。最後のところなどは、「君が生きたいのなら/どうやって始めれば良い/何処へ行けば良い/誰を必要としているの?」であって、ここでの「君」こそが「心に茨を持つ少年」であり、ここで問いかけている人は一体誰なんだ、という疑問が湧く。

 あくまでも推測でしかないのだが、人称が何度も変化し、視点が不明確であるのは、心に茨を持っているのは、特定の少年だけではなく、他の誰もがそうであるということを、裏の意図として潜ませたかったからかもしれない。

 

8. Vicar In A Tutu

 リズムやギターはカントリー調なのだが、モリッシーのボーカルによって、単なるカントリーのコピーから脱している。ギターはグラム・パーソンズあたりからの影響か。

 歌詞は、主人公が教会の内部を屋根裏から覗き見した光景を唄ったものである。そこでは、ヴィカー(教区牧師)が、テュテュというバレリーナ用の短いスカートを穿いて踊っていたのだという。しかし、ポップ・ミュージックの歌詞にありがちな、教会糾弾という歌詞ではなく、主人公はこの牧師を蔑んでいるわけではない。「彼は自分の人生を生きたいだけなんだ」、と共感を寄せているのである。後半になると、「彼は次の日説教壇に立ち/自由や安堵を以って/無知やゴミや不健全さと戦う」という歌詞もあって、裏と表のあるこの牧師を支持していることが分かる。このことから作者の意図を推測すると、(1)宗教の退廃は必然的なものである、(2)女装趣味の男性を支持する、(3)人間に裏表があって当然である、という3点が浮かび上がってくる。ものの見方によって何通りにも取れるのが、モリッシーの作る歌詞なのだから、どれが正解ということは無いのである。

 

9. There Is A Light That Never Goes Out

 ミッドテンポでメリハリの利いた曲。ベースが前面に出たアレンジであるが、ここでのベースは本当に素晴らしい。良いノリを生み出していると思う。一方サビではストリングスが加わるのだが、ベースとの絡みがこれまた非常に良いし、メロディを最大限に引き立てていると思う。

 歌詞は、家族から疎外された主人公から「君」に宛てたラブソングである。この歌詞を「究極のラブソング」と評した人がいたが、それは「君と一緒に死ねるのなら、それは最高の死に方だ」とか「君と一緒に死ねるのなら、それは僕の喜びであり、名誉なことだ」という歌詞があるからだそうだ。西欧ではどうなのか分からないが、日本では演歌の世界に上記のような死生感が唄われていることがしばしばあるから、これを「究極のラブソング」というのは、どうかと思う。まあ、演歌では「名誉」なんて言葉は使われないだろうが。ただし、「君の車でドライブしよう」と言っているのが男であるモリッシーであるのが、従来のロックの歌詞とはジェンダーという点で正反対であることは指摘しておきたい。いや、もしかしたら、「君」も男であある可能性も高いのだが。

 ところが、この曲の歌詞は、上記のような意味の裏に隠された意味を持っていると考えられる。それは、冒頭に、「音楽が流れ、若くて活気のある人々がいる所に連れて行ってくれ」という下りがあるからである。この一節と、「君のそばで死ねるなら最高だ」という歌詞は、当時(1980年代半ば)のMTVを中心とした音楽業界への反発と、「シンガーたる者は、明日にも死ぬという気持ちでステージに立たなくてはならない」、というモリッシーの有名な発言を歌にしたではないかと思わせるのである。

 

10. Some Girls Are Bigger Than Others

 ボリュームを一旦上げ、すぐに下げ、また上げという録音がされている。この技法自体に何らかの意図が含まれているのか分からないが、敢えて推測すれば、ラジオを模しているのだろう。それによって、アンチMTVというザ・スミスの姿勢を強調しているとも考えられる。この曲での聞きどころは、サビのぱーとである。"some girls bigger than others"というメロディを、ボーカルは繰り返しているのに対し、ギターは1回目はこれと全く同じメロディを弾き、次に異なるメロディを弾くという、ポップ・ソングの王道から外れたことをやっているのである。この辺りのセンスには脱帽せざるを得ない。

 歌詞は、タイトルの「何人かの女の子は他よりも大きい」を繰り返す以外に特に何も言っていないようであるが、このタイトルは、何かのことわざのもじりなのだろうか。

 

(2000-9-22)

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