Radiohead "OK Computer"
01. Airbag
02. Paranoid Android
03. Subterranean HOmesick Alien
04. Exit Music (For A Film)
05. Let Down
06. Karma Police
07. Fitter Happier
08. Electioneering
09. Climbing Up The Walls
10. No Suprises
11.Lucky
12.The Tourist
レディオヘッドにとって3枚目のアルバム"OK Computer"は、1990年代に発表されたポップ・アルバムの中でも、最高峰に位置する一枚だと、個人的には思う。"キッドA"や”アムジーニアック"といった後続の作品が発表になってから、本作を改めて聴きかえしてみると、発表当時(1997年)には気付かなかった点が幾つか浮かび上がってくる。それを一言で表すならば、「過渡期と決算期の両側面を持ったアルバム」ということになる。「そんな無茶な表現はないんじゃないの」、とのそしりを免れないことは、承知で書いている。
元々、2ndアルバム「ザ・ベンズ」から始まったといえる彼らなりの作風は(1stは習作というか、彼ら自身が何をやりたいのか見えていないまま発表されたアルバムだと思う)、本作にて頂点に達したと言える。トム・ヨークの高音中心で時にファルセットを混ぜたボーカルは、一層繊細さを増し、時には暴力性を帯びている。ハイ・フレット中心のエレクトリック・ギター・サウンド、あるいはアコースティック・ギター、キーボードといった楽器のアンサンブルも、完成度が高い。もちろん、曲そのものの完成度があってのことだが。
ところがその一方で、ダンス・ミュージックの影響を受けているとしか思えないM1、ブラジル音楽を取りこんでプログレッシブ・ロック風の曲展開にしたM2、コンピュータ世代のサイケデリック・ロックとでも形容すべきなM3といった風に、明らかにキャパシティが拡大している。それだけなら、「順当に成長した結果だ」の一言で片付けられる。しかし例えば、M4では変なSEが使われたり、M7ではニュースの朗読そのまま使われたり、はたまたM9では、まるでテンポに合っていないドラムが使われたり、ということで、「アムジーニアック」の予告編とも位置付けられるのである。他にも、M5のボーカル・パートにおけるラフなドラミングも、メロディよりもリズムという主義の変遷の最中に出来た代物であると思う。また、エンディングに奇妙な音を入れた曲が目立つが、これも完成度の中にも実験精神を、という主張と取れなくも無い。ただし、この試みは、本作ではあまり成功しているとは思えず、むしろ次作「キッドA」になって、「ぴったり嵌まった」ように感じるのだが。
次に本作と当時のポップ・ミュージックとの関係性について述べる。本作は全体として、ギターとシンセイサイザーにより、非常に分厚いアレンジに仕上がっている。前にも書いたが、プログレッシブ・ロックとの共通性が指摘される所以であろう。英国の他のバンドと比べると、大仰にも聞こえる。90年代半ばの英国といえば、ブリット・ポップの全盛期であり、コンパクトなポップ・ソングが隆盛を誇っていただけになおさらだ。しかし、ブリット・ポップは、英国的なポップ・ミュージックの原点回帰を目指したようでいて、結局はナショナリズムと結び付き、非常に了見の狭い形になってしまった。それは、「何でも取り込む」という英国的なポップ・ミュージック本来のあり方とは程遠いものであった。
一方、レディオヘッドの場合、いきなりメジャー(パーロフォン)と契約したことで、NMEなどの英国プレスから嫌われたという経緯があったためか、ブリット・ポップ騒動には参加させられずに済んだ。更に、米国で「クリープ」がヒットしたことによって、英国そのものにこだわる必要は、最初からなかったとも言える。それがどの程度影響したのかわからないが、ともかく、レディオヘッドの音楽は、ブリット・ポップとは殆ど共通点を持っていない。むしろ、グランジ、あるいはオルタナティブに通じている面があるように思える。別の言い方をすれば、内省的ということだ。
ただし、米国の大抵のオルタナティブ・バンドの場合、内省的であることと同時に、外界に向かって敵意を剥き出しにするようなところがあったように思う。ニルヴァーナ然り、パール・ジャム然りである。そういう「敵意」という感情は、レディオヘッドの音楽からは感じられない。そういう点からしても、通じる面はあっても、違いも大きいと言える。
こう書くと、R.E.M.はどうだ、ペイブメントは? といった疑問が返ってくるかもしれない。なるほど、レディオヘッドに最も近いバンドを強いて挙げるとなれば、この両者ということになるのだろう。もっとも、この2バンドは、レディオヘッドのような複雑な曲を作らないのだが。
アルバム全体評の最後は、歌詞についてである。まず、歌詞カードそのものだが、コンピュータのディスプレイを模した形式になっていることに目が行く。そこでは、プロンプト記号が使われたり、正規の文法から逸脱した大文字と小文字の使い分けがあったり、同じ文字を連続させたり、飾り付き文字が使われたりしている。つまりは、タイプミスあるいはコンピュータ側の出力ミスの頻出である。これは何を意図しているのだろう。個人的な意見としては、コンピューター=正確という社会通念への異議ではないかと思う。言い換えれば、コンピューターは不正確だからこそ、ポップ・ミュージシャンとしては、「OKコンピューター」なのではないか。というのも、クラッシク界と異なり、正確無比なものは、ポップ・ミュージック界では「無味乾燥」として疎まれる傾向にあるからだ。
次に歌詞そのものだが、名詞の多用が目立つ。脈絡が無く、読んでもすぐに意味が分かることは、稀である。もちろん、筆者の英語力の至らなさということもあるが。しかし、例えば歌詞ならぬ「詩」の世界では、韻の踏み方など朗読した時のリズム感など形式も重視されるように、本作の歌詞対しては、意味がストレートに伝わることよりも、韻文学としての達成度を評価すべきではないかと思われる。
以下に各曲ごとの解説を述べるが、歌詞については、殆ど触れないことにした。理由は、意味不明な点が多いからである。
M1は、雄大な感覚のボーカル・メロディと神経をかきむしるようなギター・サウンドが交互に現れる曲で、早くも1曲目にしてアルバムの印象を決定付けている。とにかく、込み入ったアレンジであり、まともな精神状態だとは思えないほどだ。明らかにマンチェスター・ブーム以降と分かるリズム感覚は、レディオヘッドがダンス・ミュージック・シーンと無関係ではないことを暴露してもいる。ドラムとベースの絡みが素晴らしい。また、トムのボーカルは歌というよりは、小説の朗読のようだ。
歌詞は、前半で「次の世界大戦の最中に/ジャックナイフの様な破壊の中で/僕は再生する」と唄われながら、最後では、「ドイツ車のエアバッグで命を救われた」とされていて、脈絡がない。前半はまさしく「夢」なのだろうか。
M2は、これもまた曲調が頻繁に変わる曲である。M1がキング・クリムゾン・ミーツ・ダンスだとすれば、この曲は、「アーサー、もしくは大英帝国の衰退並びに滅亡」期のザ・キンクスのようだ。もちろん、アレンジはレディオヘッドらしく、アコースティック・ギターとシンセサイザーとの絡み合いがメインである。
曲の展開そのものが重要なことは勿論だが、ボサノバあるいはブラジル音楽を取り入れていることを聞き逃してしまったら、惜しいと思う。
この曲の歌詞も脈絡がない。三つのパートから成り立っているのだが、パート同士のつながりがないのだ。中盤の「覚えてないの/どうして覚えていないの」、と繰り返すあたりは、タイトルの「パラノイド」を表しているのだろうが、アンドロイドとの関係性は不明だ。
M3は、M1、M2と来て、更に落ち込む曲調である。シンセサイザーとエレクトリック・ギターによる浮遊感のあるサウンドが曲調だが、いわゆる「サイケデリック」とは違うように聞こえる。また、エレクトリック・ギターといっても、ロックの常套である、オーバードライブやディストーションではなく、どちらかというと、もう1台のシンセイサイザーに近い感覚である。
タイトルが「地下世界のホームシックにかかったエイリアン」でありながら、歌詞中では、エイリアンは、上空で地上風景のビデオ撮影をしていることになっている。うーむ、訳が分からない。
M4は、殆どアコースティック・ギター一本のバッキングにトムのボーカルが乗っている。スローでメランコリックな曲調である。後半、変なSEや話し声が登場するのは、上に書いた通りである。
歌詞は、もしかしたら「僕」側からの無理心中の誘いなのだろうか。
M5は、本作の中では、普通のギター・ポップと言える曲であろう。比較的とっつき易いメロディである。もっとも、ブリット・ポップ勢と異なり、この曲は、メジャー調なのに心底ハッピーには聞こえない。
M6は、ピアノとアコースティック・ギターによる流麗なイントロで幕を開け、その後、(1)シャウト気味のボーカル・パート、(2)「アビーロード」期のポール・マッカートニー風ピアノ弾き語り、(3)教会音楽風のボーカル・パート、(4)ノイズ・ギターとドラムだけのパート、と展開して行く。(2)では、ラフでラウドなドラミングがバックで鳴っている。単調なリズム・パターンだが、これは狙ってのことだと思う。
M7は、曲とは言えないだろう。ニュース風の語りである。「詞」の内容は、健康生活そのものを送っている人を描写したもののようだ。ただし、その人が自分なのか、第三者なのか分からないが(人称代名詞が出てこないのである)。
M8は、本作中最もギター・ロック的な曲であろう。アップテンポでとっつき易い曲調であるが、そうは言っても、突然のテンポ・チェンジやブレークが入ったりするので、いわゆる「UKギター・ロック」とは一線を画している。U2のボノの下手な物真似のようなボーカルは、トムらしくないと思うが、一体何のためなのだろうか。
M9は、「電子楽器時代のレクイエム」のように聞こえてしまう曲である。前半は、ささやくようなボーカル(エフェクトが掛かっている)、変な話し声、缶を叩いているようなドラムが特徴で、中盤になると、これにシンセサイザーが加わる。ドラムは曲のテンポに全く合っていないが、ふざけているのではなく、「ポリリズム」の亜種と見るべきだろう。というのは、後半の、ストリングスによりオーケストレーションのパートでは、まともなドラミングになっているからだ。
歌詞は、警告や驚愕の無い、静かな生活を描写したものであろう。恐らくは都会ではなく、郊外の家での生活であろう。しかも、"final fit"という句があることからして、主人公は引退した人なのかもしれない。まるで、レイ・デイヴィス(キンクス)の世界のようである。ただし、レイ・デイヴィスは、「ヴィレッジ・グリーン」、「アニマル・ファーム」といった、農業を基盤とする社会を念頭に置いているのに対し、トム・ヨークの場合は、現代化の波が来た後の郊外生活を歌詞にしている点が大きく異なる。時代の差と言ってしまえば、それまでなのだが。
M10は、全体として穏やかなフォーク調の曲である。エンディングも極く普通だ。トムのボーカルは、デヴィッド・ボウイ風である。聞きどころは、イントロのオルゴール風の音かもしれない。
歌詞は、妄想そのもののようだ。「サラ、僕をまた殺してくれ」というのも変だし、そう言っているそばから、「僕は君の大英雄/僕らは危険な所に立っている」、だの「国家元首が僕を招いた/けれども僕には彼のための時間は割けない」、などと言うのは、輪をかけておかしい。
M11は、マイナー調のスローな曲である。トムのボーカルはボノに似ていると思う。左チャンネルから聞こえるアヴァンギャルドなギターと、右チャンネルから聞こえるアルペジオ奏法のコントラストが面白い。これは、まさしく彼らのライブ形態そのものだ。
M12は、前半は、トムの天使のようなボーカルが堪能できる、マイナー調のスローな曲である。まるで哀悼歌のようだ。バッキングもシンプルである。その後、ツイン・ボーカルになり、やがて分厚いアレンジになっていくが、これはアルバム最終曲らしくない展開だ。
蛇足だが、最後の「チン」という音、日本人だと通夜や葬式を連想してしまうのだが、鎮魂の意味でもあるのだろうか。
(2001-12-2)