DOWNY

 

01. 葵
02. 夜の淵
03. 黒い雨
04. 象牙の塔
05. 三月
06. 無空
07. 犬枯れる
08. 月が見ている

 

 ダウニーは日本の5人組バンド(しかし、セバスチャンという欧米系の名前のメンバーがいる)である。本作は、彼らにとって2枚目のフルアルバムであり、かつポリスターというメジャー・レーベルと契約して初めてのアルバムでもある。なお、アルバムタイトルは存在しない。

 このバンドに関しては、メンバーに映像担当がいる(前述のセバスチャン)こと、そして音と映像をミックスしたライブが評判を呼んでいるらしいが、筆者はそのあたりについて非常に疎い。よってここには、CDを聞いただけで判断したことを書く。

 先に結論を書いてしまうと、「凄い、圧倒された」の二言に尽きる。こんな音を出すバンドが日本にいたとは、我が身の不明を恥じるばかりである。

 本作で展開されている音楽は、特定のジャンルに納まるものではない。メンバーの担当楽器を見る限りでは、あたかもギターバンドのようであるが、本作を聞けば、世間一般に言われている「ギターバンド」とは程遠いことが分かるはずだ。それは、キーボード楽器が使われているからといった理由からではない(ちなみに、キーボード担当者は不明である)。

 まず、本作で最も前面に出されている楽器はドラムスである。特徴としては、 変則的なダンスビートの反復あるいは無機質な変則ビートの反復と言うのが適切であろう。特にM2、M5、M6では顕著である。また、ハイハットやシンバル類の音も、他のバンドとは相当異なる。例えば、M2で聞けるハイハットらしきキットから出る音は、まるで日本刀をさやから抜くときのような、非常に研ぎ澄まされた音だ。他にもM8では、リムショットだけをリピートするという、非常に稀なことをやっている。

 なお、勘違いされると困るのだが、本作中の曲で、ひたすらダンスビートの反復で終わっているものは無い。どこかで突然のテンポ・チェンジが入るのである。もっとも、ハウス以降のダンス・ミュージックだって、突然のテンポ・チェンジが入るのは、極々当たり前のことではあるが。

 ではギターはどうかというと、リード楽器でもリズム楽器でもなく、音響楽器として使われている場合が殆どである。時に轟音ギターになることもあるが、例えばマイ・ブラディ・バレンタインが1990年代初頭に出していた音とは全く異なるように聞こえる。これは、本作の場合轟音自体が非常に短く区切られた音になっているせいだと思う。逆に、昨今一部で人気のロックンロール・バンドが出すギターの音色と殆ど同じではないかと思える箇所も多々ある(M3が分かり易い)。しかし、そうやって要素分解をすれば確かにその通りなのだが、全体としての印象は、そういったロックンロール・バンド系とは、これまた似ても似つかないサウンドである。

 ちなみに、M8だけは他の曲と異なり、ギターがメロディを奏でている。また、ベースが対旋律を弾いているのも異色である(他の曲では、ベースは左程目立たない)。

 次に、ギターと並んで重要な楽器であるキーボードについて述べる。本作で聞けるキーボードの音色はひたすら繊細である。先に挙げたドラムやギターには攻撃的要素が多少なりともあることからすると、対照的である。普通、繊細さを表現したいのならば生ピアノを使うところであろうが、彼らは電子楽器を使っている。この辺は、無機質さを更に徹底するためかもしれない。

 前述であるが、本作の重要な要素として、「無機質な変則ビートの反復」を挙げた。ビートの反復は、得てして聞き手に陶酔感を与える。これを目的化すれば、ユーロビートに代表される機能的かつ商業的なダンス・ミュージックが出来あがると考えられる。また、ハウスがアッパー系のドラッグと密接に関係していたことも周知の事実であろう。ところが、本作を聞いても陶酔感が得られるとは思えないのである。むしろ、「意識の覚醒」である。こう書くと、まるでプログレッシブ・ロックのレビューのようだが、本作を字義通りの「プログレッシブ・ロック」と捉えることは、決して間違いではないだろう。

 本作を特異性という視点から語る場合、ボーカルスタイルと歌詞も忘れてはならない。まず、ボーカルスタイルだが、声はか細く、歌詞もメロディも殆ど聞き取れない。ボーカルによって何かを伝えることを、初めから放棄していると考えて間違い無いだろう。その論拠となるものとしては、前述の「無機質性」である。考えてみれば、人間の声を無機質だと捉える人はまずいないわけで、こういう音楽性のバンドにとっては、ボーカルは「邪魔者」になってしまう。

 だが、彼らにとって、歌詞が重要なものであることも確かなようである。歌詞カードを見ると、非常に詩的な言葉が連ねられていることに驚かされる。歌詞ではなく、詩、ポエムである。であるから、メッセージを伝えるというものではないと思う。筆者も、何が言いたいのかさっぱり分からない。

 もしかしたら彼らは、「音声として伝わる言葉を重視していない、あるいは拒否している」のかもしれない。CDの購買者各自が詩を読むことにより、各々の内面で何かが喚起されることを、(密かにではあるが)期待しているように思えてならないのだ。そこには、唄うことにより解釈が限定されることを防ぐため、敢えて唄うことを放棄するという意味合いがあるようにも思えてしまう。

 

(2002-8-15)

 

 

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