Dodgy "Homegrown"
01. Staying
Out For The Summer
02. Melodies Haunt YOu
03. So Let Me Go Far
04. Crossroads
05. One Day
06. We Are Together
07. Whole Lot Easier
08. Making The Most Of ...
09. Wating For The Day
10. What Have I Done Wrong ?
11. Grassman
ドッジーは90年代に活躍した英国のバンドである。メンバー間の不和により、現在では解散状態にあるため、最近では全く話題に上ることがないが、当時は、特に良い曲を作るバンドとして、UKロックファンには認知されていたと思う。
本作「ホームグローン」は、彼らにとって2枚目のアルバムである。発表は1994年。ちなみに、タイトルを和訳すると「自家製の」という意味になるが、どうも自家栽培した大麻を表しているらしい。M11のタイトル"grassman"も「ハッパ男」つまりは「大麻愛好家」の意味である。
90年代前半の英国ロック・シーンでは、簡潔なメロディというものが再評価されていたように思う。つまりは、60年代への憧憬なのだが、これには、CDによる旧譜の再発が大きな役割を果たしていたことは間違い無いだろう。当時話題になったバンドの多くが、ビートルズ、キンクス、ザ・フーからの影響を口にしていた(1994年には、突如としてザ・スミス・フォロワーのバンドが続出したが、いずれにせよ、曲の質という文脈では大差ない)。ドッジーも、そういったバンドの一つであった。
だが、ドッジーを際立たせていたのは、CDの完成度であったと思う。その一つが、コーラスを含めたボーカルである。当時のロック/ポップシーンでは、際立ったコーラス・ワークを聴かせてくれたバンドであった。
本作を聴くと、まず第1にポップで良質なメロディが揃ったアルバムであることが分かると思う。捨て曲は一つも無いと言っていいだろう。また、アレンジにおいても、トランペット(M2、M4)だけでなく、ピアノ(M3)、チェンバロ風の音(M5)、ハモンド・オルガン(M6)といったキーボード楽器の使い方にも上手さを感じる。このあたりは、やはり中後期ビートルズ、パイ時代のキンクス、ザ・フーあたりから学んだ成果であろう。特に、M5は全く異なる2つのメロディ・ラインを3拍子でまとめており、野心的な曲である。
とはいえ、M5はアルバム中の流れという点では収まりが良い。異様なのは最後のM11である。他の曲がいずれも4分半未満なのに対し、M11だけが7分強という異様な長さになっている。しかも、曲の長さ自体を充分に使った構成になっている。開始2分までは通常のギター・バンドがよくやる構成なのだが、その後聖歌隊をバックコーラスに加えたり、ギター・ソロを挟んだりもしている。更には、開始後6分後には一旦無音状態になって再び音が鳴るという、70年代初期ロック的な「大仰」とも言える構成である。とはいえ、聞き手の過去の体験によっても印象は様々であろうが、アーティスト・エゴ丸出しという印象は薄い。そういったことは置いても、曲タイトルがアルバム・タイトルに結びつくこと、歌詞に内包されたテーマ(後述する)からして、本作中最も重要な曲であると、筆者は考えている。
彼らの音楽性は、確かに60年代中期の英国ロックがベースになっているものの、それだけではないということも指摘しておかねばならない。それは、本作にはライブ感覚が巧みに取り入られていることである。元々「ドッジー・クラブ」を主催したり、またライブではインタ−・プレイを披露することが多いバンドであったから(直接見たことは無い)、当然のことなのだろうが。
60年代中期の英国ロック/ポップ・シーンは、ビートルズに象徴されるように、優先事項がライブからレコードへと転換して行った時期であった。これには録音技術の進歩が大きく関わっていたことは従来から指摘されていたが、国際的な商業的成功という点も、同様に関係しているのである。
だが、録音技術の先端を利用したレコード制作は、その代償としてライブ感覚が失われ易い。実際、後期ビートルズのレコード制作においては、ライブ感覚あるいはダイナミズムというものは、優先順位の3番目以降に置かれていたような気がする。
さて、ここで音楽から少し離れて、彼らの姿勢について書いてみることにする。冒頭、本作のタイトルについて言及したが、ドッジーは大麻解禁論者であることは間違い無さそうだ。この点を捉えて、また彼らの音楽性からして「60年代かぶれ」との批判をするのは正しくないだろう。確かに、大麻の肯定は60年代のロック・シーンとは共通するが、ドッジ−のメンバーは、60年代の風潮とは異なり、「大麻が、人間を高みに持ち上げ、幸福にする」などとは主張していなかったような記憶がある。個人の嗜好を権力が取り締まるのは間違いだ、主張していただけだろう。だからこそ、「自家製の・・・」なのだと思う。
また、ドッジーは非常に政治にコミットしたバンドでもあった。当時、ボスニアにまで出かけて行ったロックバンドは、U2以外にはドッジーくらいである(ただし、危険度という点では両者には相当の隔たりがあったようだ)。一方、60年代のロック・アーティスト達も結構政治的主張はしていたが、彼らはマス・メディアに向けて主張するにとどまり、実際に現地に赴いたりすることはなかった。この点からしても、ドッジーは60年代懐古バンドでは無いと言えると思う。 勿論、60年代には60年代の事情があったのであって、筆者は60年代のアーティストを批判するわけではない。
ところで、そういった政治に深く関わるバンドでありながら、彼らの書いた歌詞には、政治的な姿勢を鮮明にしたものは殆ど見られない。本作では、M1において労働者階級の悲哀や階級制度への反抗が見受けられる。だが、その他M3、M4、M8、M9、M11には、解釈の仕方によっては政治的な匂いを感じるけれども、旗色は不鮮明である。残りはラブソングだろう。となると、「言葉よりも実行を」のバンドなのだろうと判断してしまいそうだが、M11の歌詞を読むと、どうも単純に割り切れないようにも思える。例えば、こんな一節がある。
僕らを疑おうとする嵐が来る/僕らは怒りを感じないだろう/今や世界は無価値だ/僕は運命を知った
M11の歌詞全体は、戦争のために死んでいくしか道がない若い男女について書かれているようだが、英国人ならば、戦争で死ぬという事態は、さほど切迫したものではない(今だって、イラク空爆で死ぬのは操縦ミスくらいだ)。だからこそ、「戦争には反対だ」だの「政治家は愚か者」という歌詞なら生まれるが、「戦争のために死ぬという運命を受け入れる」という歌詞は生まれ難い。
つまり彼らは、他人に対して、「実行」を強制しているのではないのだろう。それよりも、想像力が豊かになることが先だと主張している、と考えられるのである。
ところで、このような歌詞に対して、「逃避だ」あるいは「後ろ向き」といった批判が出されるかもしれない。しかし、そういうことを言うのは、大抵が安全なポジションにいる人間ではないだろうか。
(2002-4-14)