Village Green Preservation Society
"Village Green Preservation Society"は1968年に発表されている。このアルバム発売時のエピソードはCDのライナーノーツに譲るとして、レイ・デイヴィスのフェヴァリットであるらしい。これは、何度もインタビューでそう語っているので、間違い無いだろう。前作までは、英国おそらくはロンドンの労働者階級の人々を題材とし、観察という視点から書かれた曲が多かったが、アルバムを通してのコンセプトというものはあまり見えていなかった。しかし本作は、テーマに沿った曲を集めたコンセプト・アルバムと言えるだろう。しかし、後の「アーサー」や「ローラ」に見られるように、ストーリーに沿って曲が並んでいるわけではない。
1.Village Green Preservation Society
"Village Green" とは村の共同緑地のことであるらしいが、英国に行ったことのない身としては実感が無い。この曲のテーマは、「昔ながらのやり方を守ろう、新しいやり方を阻止しよう、僕と君(等)のために」という宣言である。歌詞の中でイギリスの伝統的な文化に多く言及しており、「神よそれらをお守り下さい」と願う姿が描かれる。ここでの「神」とはキリスト教的な神ではなく、もっと素朴な信仰心を表していると考えられる。というのは、キリスト教は道徳的な面では保守的ではあるが、物質文明の進歩に対し、ことさら批判的な立場をとっていないからである。
さて、この曲はアルバムの冒頭を飾っているのだが、続く曲との関連性について考えると、論理的には最後に配されるべきではなかろうか。この点については後述する。
2.Do You Remember Walter
旧友ウォルターを思い出して懐かしむシーンを描写した曲である。「ウォルター、君は今いずこに」という歌詞から、手紙形式を採っていないことは明らかである。本来なら、Rememberの後にコンマが入るはずなのだが、この曲ではそうなっていない。従って "you" はウォルターではなく、主人公の身近にいる人、二人の共通の旧友と取れなくもない。
中盤で「ウォルター、世界相手にどう闘おうかと語り合ったことを覚えているかい」という歌詞が出てくる。しかし、すぐ後に、「倹約してボートを買い、海へ繰り出そうとしたのに、実現しなかった/君はそうしないだろうって分かっていたけど」という歌詞が続く。「海へ繰り出す」は自由になることのメタファーであるが、ウォルターはごく平凡な(恐らくはサラリーマン生活を選択したのであろう。その顛末については、続く歌詞で唄われている。
それに対し主人公は、「分かっていたよ」と冷ややかな態度をとる。ウォルターを「だらしのない奴だ」と非難しているのだろうか。そうではなかろう。歌詞の最後は、「人々は変わってしまうもの/でもその思い出は残るんだ」で締めくくられる。つまり、そういった平凡な生活を送らざるを得ない人に対して、「仕方の無いことだよ」という態度なのである。これはキンクスの他の曲(特に60年代)にも共通することで、労働者階級として一生を送る人への共感を「諦め」という観点から表しているのである。
3.Picture Book
タイトルは写真アルバムのことである。邦題が「絵本」であるが、これは歌詞を読まずに付けてしまったのだろう。ところが歌詞の冒頭は、「年取った君自身の姿を思い描いてごらん」である。つまり、”picture” は「描く」と「写真」の両方に掛けてあるのだ。その後の歌詞の内容は、遠い昔に撮られた「君」の両親、おじ、友人達の写真のことについてである。これらの写真が撮られたのは、「君」が赤ん坊の時代のことで、主人公は「その頃君は幸せだった」と唄われる。ということは、現在の「君」は不幸なのだろうが、どういうことで不幸なのか不明のままである。
4.Johnny Thunder
ジョニー・サンダーは人名なのだが、名字はもちろん雷との掛詞である。それは冒頭の「ジョニーは水上で暮らし、稲妻を食料としている」というフレーズからも明らかだ。この歌詞からは、まるでジョニー=仙人のような印象を受けるが、別に仙人について唄っているわけではなかろう。「水上で暮らす」というのは、生活基盤が不安定なこと、あるいは定住しない様子のメタファーであると考えられる。
次に、ジョニーは孤独であることが明かされるが、その一方で、「町の人々は誰もジョニーをやり過ごせないし、打ち負かすことも出来ない」とも唄われている。ジョニーと他の人々との価値観が相容れないものであることが表されてる。とはいえ、町の人々は内心、ジョニーの生き方をうらやましく思っていることが仄めかされている。
その後ジョニーは、誰にも告げずに戦いに行ってしまう。戦いといっても、軍隊に志願したのではなく、町の人々のような人生を送ることを嫌って、飛び出して行ったのである。曲の前半では、ジョニーは世捨て人同然だったが、ここに至って、決心したのであろう。ここには、当時のごく一般的とも言える青年の姿が描かれている。さて、作者の立場は、これに対して否定なのか肯定なのか。
実は作者の心情は、ヘレナという女性を登場させて、彼女に代弁させているのである。すなわち、「彼女はジョニーの為に祈る」のである。密かに応援するというのが適切だろう。
5.Last Of The Steam-Powered Train
タイトルは「最後の蒸気機関車」だろうが、邦題は、"of"という単語を杓子定規に解釈し、「最後の蒸気機関車」となっている。
1stヴァースでは、「俺は最後の昔気質の蒸気機関車/何処に行くか分からないし/何処から来たかも知らない/俺は最後の古き良き反逆者」と唄われる。
アルバムのタイトル曲とこの曲とは密接に呼応している。時代が変わったといっても、自分自身が身上を変えられないことを吐露しているのである。
このヴァースの最後の2行は、「俺の友達はみんな中流階級だ/でもおれは博物館に住んでいるからOKなんだ」である。開き直っているようにも感じられるが、これは次のヴァース以降を際立たせるための技巧でもある。
さて、2ndヴァースであるが、ここでは「俺は世界を吹き飛ばしてやるんだ/死ぬ最後の日まで闘い続けるんだ」という歌詞が出てくる。世界の価値観を吹き飛ばすという意思の表れなのだろうが、主人公はあくまでも昔気質なのである。従って、当時のヒッピーなどの精神とは大きく異なる立場から価値観の変革を考えていることは明らかである。
6.Big Sky
争う人々や泣き叫ぶ子供達を見た大空が、悲しみに襲われるところから曲は始まる。しかし、「大空は大きすぎて地上に降りられない/大空は泣くには大きすぎる/大空は僕等が見上げるには高すぎる」というフレーズがすぐに出てくる。大空が自分の大きさを嘆くシーンである。大空は神と言い換えてもいいだろう。これは、昔は神との交流が出来たのに、今では不可能になってしまったことを嘆いているのだろうか。それとも、昔からそのようなことは不可能だったと言いたいのだろうか。この曲ではそれを明確にしていない。聞き手に解釈させたいのだろう。
ここまでは3人称(物語の記述者)の視点であったが、ここからは主人公の視点になる。といっても、両者が別人であるわけではない。単に技巧上、形式上、視点を移動させたのである。「彼等は自由を感じようとしないのだろうか/僕等はただ見ていた」という歌詞である。彼等とは争う人々を指しているのだろう。主人公からすれば、つまらないことに縛られ、争っているように見えたのではないか。ところがその2行後になると、「彼等が熱烈になれるなんて嬉しすぎる」というフレーズが出てくる。直前の傍観者たる主人公とは反対の態度であり、それを主人公は嬉しすぎるとまで言っている。これはどういうことか。恐らく、この2行は逆説的に捉えるべきなのだろう。つまり、彼等が自由に対して熱烈になってくれたら本当に嬉しい、という言いたいのだと思う。
更に、主人公の心情吐露が続く。「世界の半分でも大きすぎると感じる時/僕は大空について考える/すると大したことではないように思えるんだ」である。世界の半分は空と呼応する。なぜなら、地球の半分は地平線より上にあるからである(ここに、物理的にどうであるかといった考慮を持ちこむことは無意味である)。
この後の歌詞は、前半の3人称記述に戻る。唄われている内容は前半と大きく異なる所は無い。
7.Sitting By The Riverside
一言で言えば、川辺に座って満足感を感じるという歌である。途中で、「君と一緒に」というフレーズが出てくるのだが、歌詞の本筋とはあまり関係が無いようだ。つまり、ラブソングではないのである。どちらかというと、ワインを飲みながら川辺に座って時を過ごすのが至上の幸福だと、主人公は言いたいらしい。
この曲でも、「神よ」という句が登場するのだが、他の曲では"God"だったのに、ここでは"Lord"である。この単語は明らかにキリスト教における神を指す。
8.Animal Farm
「この世界は大きくて半分狂っている」という出だしで始まり、故郷に帰ろうとする決意(それほど大げさではないが)を唄った曲である。主人公の故郷は、犬や猫、羊や山羊がいる田舎の農場であるのだが、それ自体には大した意味は持たせていない。故郷の何を称えているのかと言えば、それは、そこに暮らす人々がリアル(正直、作りものでないこと)であることであるそうだ。レイの他の曲でも、ロンドンで生活する人達の型にはまった生き方を皮肉った歌詞が多々あるので、同系統の思想といえるのだろうが、ここでは一歩踏み込んで、「狂っている」とまで言っている。
この曲では、主人公が都会で生活するうちに彼女が出来たことになっている。そして主人公は彼女を連れて故郷に帰ろうとする。この辺については、別途解説を書いたので省略する
9.Village Green
タイトル曲と似たタイトルが付いているが、まったくの別物である。ただし、この曲の方がかなり早くから出来ていたので、アルバムを作るきっかけとなった曲でもあるらしい。
曲の序盤では故郷のVillage Greenを回想するシーンである。主人公はその場所が好きで、Daisy(ひなぎく)という彼女もいたのだが、名声に惹かれ、彼女を残して都会に出てきた、と唄われている。
中盤になると、主人公がVillage Greenに帰りたいと唄うのだが、主人公が思うVillage Greenは現存しないとも唄われている。古い建築物は希で、アメリカ人観光客への見世物でしかないVillage Greenが今の状態なのである。おまけに、Daisyは別の男と結婚している。それならば普通帰りたくないと思うのだろうが、主人公は違っており、「Daisyに会おう/そして笑ってVillage Greenについて語り合うんだ」と唄う。余程都会での生活が嫌だと感じていることが、ここに表れている。
10.Starstruck
スターを追っかけまわす尻の軽い人物をからかっている曲である。レイにしては珍しく、「僕(私)というスターに会って君は感激している」と唄っている。そんな人物相手に都会の光に目がくらんでいる/君はおかしくなっている」などなど辛辣な皮肉を浴びせている。曲の後半では、この人物に対する忠告のような言い回しになっているが、果たしてそのように受けとっていいものなのか、甚だ怪しい。
その一方で、「この曲でのスターの追っかけ役は、主人公に他ならないと解釈することも出来る。何しろ”I”と”you”しか登場しないのだから、性別は不明なのである。つまり故郷を捨て、都会に出てきた主人公の日常に対して、スターという第三者を設定し、それに語らせているということである。
11.Phenominal Cat
「昔々、恐ろしい少年達の国に一匹の猫が住んでいました」という歌詞で始まることから分かるように、一種の創作童話とも取れる曲である。タイトルは「驚くべき猫」であるが、歌詞を読むと、「どこが驚くべきなんだ」という突込みをいれたくなる。どちらかというと、怠惰な生活(木の上に座り、食べることだけに精を出す猫のようだ)を送っている猫の話である。
曲の最後の方に、猫が3歳の時に体験した話が、3人称の体裁で語られている。「昔彼は、香港に行って人生の秘密を知った/遠く渡る海と空の秘密も知った/そこで彼はダイエットをやめ/木の上に座って/永遠に自分自身を食らうことにした」である。なんとも奇妙な話である。この猫は3歳の時に全てを知ってしまったというのは、すなわち、達観したということであろう。「海と空」という、ある意味で無限の広がりを持つものをキーワードとして出していることからして、「自分には大したことなど出来はしない」と思ったとも解釈できるのである。だから怠惰な生活を送ることにした。そこまでは、まあ分からぬことではない。問題はその次の、「永遠に自分自身を食らうことにした」である。自分自身を食っていたら、太るとは思えないのだが。
ここは、想像力を働かせて読み解く必要がある。「自分自身を食う」とは、比喩である。つまり、持っている能力を無駄にしてしまうとか、そういった意味と捉えるべきなのであろう。
このように解釈して行くと、この曲はある意味でシニシズムへの警告を唄っていると取れることが分かる。
12.All Of My Friends Were There
主人公はスターという設定であり、一人称の歌詞に終始する。主人公にとって、頂点に登りつめた日のことが唄われている。頂点と言いながらも、同時に主人公は落ち込んでしまったと唄われている。心ならずスターに祭り上げられてしまったことへの違和感が窺われる。
主人公が演説を始めると、聴衆は熱狂し始めるのだが、突然主人公は、「みんないなくなって欲しい」と思う。何か失敗してしまったのであろうか。丁度その時主人公の目に映ったものは、友人全員とそのまた友人達であった。この後、「友人の友人」は客席から去ってしまうが、主人公の友人は、立って見つめていたとされている。主人公は友人達をありがたく思うとともに、友人の友人たちのことは、「彼等はどうせ僕の友人じゃないし」と思うのである。まるで昔からの格言のような場面である。
次のヴァースは年月が経ってからの話である。主人公ははずっと仮面をつけて生きてきたと唄っている。それはスターとしての仮の姿で、公衆の面前に姿をさらしつづけてきたということだろう。ところが主人公はやがて嫌気が差してしまい、スターの座から身を引いてしまう。ここでは最後のステージを終えた時に、誰も不満を言わなかったことになっている。まるで当時人気に陰りが見えたキンクスのことを唄っているようでもある。
最後のヴァースはスターを辞めた後の心境を吐露する場面である。「神様、有難う、また以前の正常な生活に戻れました」と言って、主人公は昔良く通ったカフェに行く。そこには昔からの友人と、その友人が待っていたのである。
主人公がどのような扱いを受けたか明確には語られていないが、最後の行を見ると、歓迎されたようである。
13.Wicked Annabella
アナベラは魔女らしい。歌詞の冒頭は、「暗く怪しげな家/キリスト教の狂気もここにはやって来ない/邪悪なアナベラは、かつて誰も見たことがない悪だくみをしようとしている」となっている。ここで注目すべきは、「キリスト教の狂気」云々である。邪悪というのは、あくまでもキリスト教的視点からの形容であって、単なる異宗教徒であるという含みがここにあるのである。
次のヴァースにも"sinful"という単語が出てくることからも、この仮説は裏付けられる。しかし、レイはどちらの立場にも与していないのである。ただ淡々と物語を語っているだけなのだが、ここに観察者レイ・デイヴィスの特徴が表れている。
次いで、「僕」がアナベラに魅惑された体験談になる。前節までと形式的に異なることが2点ある。
(1)前節までは現在形であったのに対し、ここの場面は完了形もしくは過去形である。
(2)前節までは語り手の人称が不明なのに対し、ここでははっきりと"I"という一人称になっている。
それが終わると、子供達に語りかける場面になる。ここでは、また現在形に戻るとともに、人称不明つまりはナレーション形式になっている。このヴァースを要約すれば、「良い子供達は近づくべきではない」ということである。それではまるで説教者ではないか、という批判の声が上がりそうだが、それは無意味である。繰り返すようだが、レイは観察者の立場から歌詞を書いているのだ。
さて、この曲を、キリスト教文化が伝わる前の童話として捉える向きがある。それは誤りではないが、コンセプト・アルバム中の曲に対する批評としては不充分である。この曲でのアナベラとは、当時台頭していたヒッピーなどの非キリスト教的な文化を指しているのだろう。それに対して「良い子供達は近づくべきではない」というのは、まだ判断力を持たない子供達を、そういう類に触れさせていいのだろうか、という違和感を表しているのではないだろうか。
14.Monica
状況設定が不明なため、聞き手にとって幾通りにも解釈できる歌詞である。
冒頭のフレーズからモニカは娼婦であることが仄めかされる。そして、「モニカを愛しているのはモニカ自身に違いない」というフレーズにより、偽者の愛情という点が指摘される。ただ、これは少々陳腐と言えなくも無い。
2ndヴァースでは、「君」が登場する。この人物はモニカにあれこれ口説き文句を言いたいのだが、語り手は「君は決してプロポーズしないだろう」と言っている。理由は、モニカは君が知っていることは全て知っているからだそうである。つまりモニカの方が上手ということだろう。
次にコーラスパートがある。ここでは、「僕はモニカを失ったら生きていけない/他の奴等はモニカを買うことなんか出来ない」と唄われる。「僕」が誰なのかという点については、2通りの解釈が成り立つ。一つは語り手である。とすれば語り手は単なる第三者ではなく、モニカに片想いをしていることになる。もう一つは、「僕」を2ndヴァースにおける「君」と取ることである。とすれば、このパートは、2ndヴァースの「君」の独り言ともとれるし、モニカへの口説き文句とも取れる。ただし、口説き文句だとしたら、お粗末なレベルだとは思うが。
3rdヴァースは、その前半が「君は昼の光を選べ/僕は夜の陰を選ぼう/みんな、モニカは夜を行くって知っているから」である。光と陰が対句になっている。君に対してモニカを諦めろと言いたいのだろう。では、「諦めろ」と言う根拠は何処にあるのか。それは後半に示されている。すなわち、「モニカは自分が正しいことを君に証明しようとして、間違ったことをしでかすだろう」である。「間違ったこと」が意味深なので、「君」に対して説得力は持たないだろう。ところで、ここでの語り手は、「君」とはライバル関係にあるのだろうか。だとすると、「みんな知っているから」では語り手が抜け駆けすることが出来ず、語り手が夜の陰を選んでも無意味である。
15.People Take Pictures Of Each Other
3曲目の"Picture Book"とつながりのある曲であろう。こちらも家族の中で過去に写しあった写真を話題にしている。この曲では「彼等が実在したことを証明するために」というフレーズが反復されたり、「その瞬間は永遠に続く」などと唄われたりしている。地位も名誉も無い人々への共感を託した曲と言えるだろう。
<総評>
このアルバムは、冒頭にも述べたように、ストーリーに沿って曲が並んでいるわけではない。逆に、聞き手が自分なりにプロットを組み立ててみることが暗に要求されている。そこでここでは、そのプロットを構築してみよう。
主人公は田舎の出身である。同郷にジョニー・サンダーと言う変人が住んでいたが。彼はある時決心して、故郷を出ていってしまう(M4)。主人公は、それに感化されたわけでもないだろうが、憧れの都会に出てくる。主人公はそこでスターに祭り上げられるのだが、どうも居心地がよくない。軽薄な追っかけに付きまとわれたり(M10)、ステージで失敗しそうになったりする。だから主人公はスターの座から降りてしまう(M12)。
そんな主人公にも彼女が出来る。彼女に感化されたのではないだろうが、今までの自分を振り返り、故郷について思いを馳せ(M9)、結局彼女を連れて故郷に帰ろうとする(M8)。
故郷に帰ってきた主人公は、安住の地を見つけたような気分になる(M7)。そして家族や友人のことを回想する(M2, M3, M14, M15)。地元に伝わる伝承物語を思い出したのか、あるいは読んでみたりすることによって(M10, M13)、主人公は教訓を得る。そして、彼は現在の世界の状況に危機感を抱き(M6)、ある決意をする。それが、「昔ながらのやり方を守ろう、新しいやり方を阻止しよう」であり(M1)、「俺は世界を吹き飛ばしてやるんだ/死ぬ最後の日まで闘い続けるんだ」(M5)なのである。
さて、このアルバムは発売当時の経緯もあって、英国では全く話題にもならなかったらしい。また、「昔ながらのやり方を守ろう」という歌詞の表層面だけを見て、「後ろ向きだ」、「ノスタルジーにおぼれているだけ」、といった批判をされたのかもしれない。しかし、レイが主張したかったのは、文化の安直な同化に警鐘を鳴らすことであり、60年代末の風潮への違和感だったのだと思う。「世界は一つ」というスローガンへの違和感(反発心と言うのは、レイには似つかわしくない)と言い換えても良かろう。
とにかく、当時時代遅れだと誤解された本アルバムであるが、その後の世相はどうであったか。アメリカ黒人によるニュー・ソウル・ムーブメントや第三世界の台頭(民族衣装を着用して公の場に出ることは、その象徴である)は、「世界は多様」という発想が根元にある(時々行き過ぎてしまうことは否定できないとしても)。すなわち、これらの目覚めた動きをキンクスの本アルバムが予告していたと言っても過言ではなかろう。現在では、「早過ぎたアルバム」と評されることも、至極当然なのである。