Somethig Else By The Kinks
"Something Else By The Kinks"は、5枚目のスタジオ録音盤として1967年に発表されている。シェル・タルミーがプロデュースした最後の作品となっているが、どこまでシェル・タルミーが関わったのか甚だ怪しいものがある。契約の関係上クレジットされただけではないのか。
本作に収められたのは、レイが書いたものが10曲、デイヴが書いたものが2曲、レイとデイヴの共作が1曲である。レイが書いた曲は、英国おそらくはロンドンの労働者階級の人々を題材とした曲が殆どであり、短編集の趣が強い。もう一歩踏み込んで、曲を厳選すればコンセプト・アルバムになったのだろうが、色々な事情があったのだろうか、それは実現しなかった。
しかし、音楽性という見地からすれば、最もバラエティに富んだ意欲作であることは間違いなく、筆者は本作を一番気に入っている。本作を"Waterloo Sunset"が入っているから好きだと言う人がいるが、そういった意見を認めないわけではないにせよ、これからキンクスのアルバムを聞いてみようとする人達に、要らぬ先入観を与える恐れがある。本作には駄曲など存在しないし、飽きの来ないアルバムである。メロディはもちろんのこと、直感で作ってしまったようなアレンジなのに、何度聞いてもどこかに新たな発見がある。また、レイのボーカルも、曲に合わせて様々なスタイルを試みており、それが曲に見事にはまっている。なるほど音程などは不安定な所も多分にあるレイ・デイヴィスだが、演唱力で充分カバーしていると言えるだろう。
現時点で、本作はデジタル・リマスターされた2種類のCDが発売されている。プラスティック・ケース盤はモノラル・マスターを使用しており、かつボーナストラックつきであり、紙ジャケ盤はステレオ・マスターを使用しているという違いがある。どちらが良いかといえば、モノラルの方が良いのではないかと思える。それはまだこの時点でのステレオ技術が発展途上にあったためであろう。
1. David Watts
2. Death Of A
Clown
3. Two Sisters
4. No Return
5.Harry Rag
6. Tin Soldier
Man
7.Situation
Vacant
8.Love Me Till
The Sunshine
9. Lazy Old Sun
10. Afternoon Tea
11. Funny Face
12. End Of The Season
13. Waterloo Sunset
The Jamが彼等の3rdアルバム、"All Mod Cons"でカバーして知名度が上がった曲(ちなみに、このアルバムのある曲は"Jonny Thunder"とそっくりなフレーズが使われている)。アップテンポで縦ノリの曲であり、ピアノ(確か、ニッキー・ホプキンスが弾いていたはず)が中心のアレンジである。ミック・エイヴォリィのドラムも面白いリズムパターンを作っている。
冒頭のナレーションは何を言っているのか分からない。すぐ後にレイによるカウント取りが入っているが、バックには逆回転テープが使われているようだ。
歌詞は、冴えない学生の主人公が、クラスの優等生でスポーツ万能、女子生徒にモテモテという非の打ち所がないデヴィッド・ワッツを羨ましがり、「デヴィッド・ワッツみたいになれたらいいのに」、と独白する内容である。しかし、この下りを
"I wanna be like David Watts" ではなく"I
wish I'd be Like David Watts"
と唄っていることからして、主人公は夢の中に逃避しているのではなく、デヴィッド・ワッツのようになれないのが現実であることを認識しているのである。ここがレイのレイらしい点であろう。
レイとデイヴの共作曲であり、先行シングルカットされ、トップ5入りしている。イントロにはハープシコードが使われ、聞きようによっては、鎮魂歌をイメージしたアレンジかなとも思える。それに対して、ボーカルパート(デイヴが担当)では、ピアノとアコースティック・ギターが使われる。リズムはR&Bであり、例えば、ストーンズの"The Last Time"と似通っている。コーラスの"la la la..."は、当時のレイの妻だったラサが担当しているが、実に美しい声を出していると思う。
歌詞は、サーカス一座の花形の道化師の死により、仲間(主人公、ライオン使い、虎などなど)が哀しみに打ちひしがれてたり、混乱している様子を扱っている。ところが、サビで主人公が「道化師の死の乾杯しよう」と唄うのである。大雑把な描写をしているので、サビの歌詞は幾つかの解釈が可能であろう。今思いつくのは、
(1)死とは天に召されることなので、哀しんでばかりいてはいけないという気持ちの表れ
(2)仲間が死んだからといっても、興業は続けなければならないという宿命の非情さを表している。これをサラリーマン社会に置き換えてみ
ることも可能である。
位なのだが。
水準の高い本作においても、1、2を争うメロディを持った曲。ハープシコードがメインのアレンジだが、ボーカル・メロディとの対比性、相補性は特に中盤において見事としか言いようがない。終盤でのストリングスの使い方も素晴らしい。
歌詞は、独身の妹サベラと既婚者で子持ちの姉プリシラの短いストーリーである。前半は気ままな独身生活を謳歌する妹に姉が嫉妬している様子を唄っているが、後半では、プリシラが自分の子供たちを見て、妹よりも自分が幸福だと思い直し、妹への嫉妬心が消え失せたことを唄っている。なんだか平凡で道徳的な歌詞にも思える。当時のレイの心境、「家庭が一番だ」をそのまま歌詞にしたのではないだろうか。
ボサノバ調ではあるが、やはりキンクスの曲だと感じる。もっとも、他のアルバムを聞いたからこそ、そう思えるのかもしれない。アコースティック・ギター2本が使われているが、1本はアルペジオを弾いており、もう1本はベース・ラインを弾いている。後者はもしかしたらアコースティック・ベースかもしれない。
歌詞はタイトルにあるように、「ノー・リターン」つまり元には戻らないということで、初恋の人に失恋した主人公の心境を唄っている。確かに過去は変えられないが、この曲では、「これからは孤独な人生を生きていくのだろう」、といささか極端に走っている。きっと主人公は10代であまりモテない男なんだろうな、と想像してしまう。ということは、M1の主人公と同一人物なのかな、と想像を膨らませてしまう。
パブでビールを片手にみんなで唄うような曲。アレンジも曲調から自然に生まれたとしか思えないもので、手拍子や合いの手が挟み込まれている。最後の歓声(声の高さからしてデイヴか)は、酔った客が上げたものと考えればいいのだろうか。
タイトルの「ハリー・ラグ」とは、ピーター・バラカン氏によれば、煙草の隠語(厳密にはラグが煙草)とのこと。まだ、こういう曲が許されていた時代なのだろう。主人公を含めて煙草好きの人々が次々と唄われるが、要するに煙=タリー・ラグに勝るもの無しという歌詞である。今のアメリカだったら、煙草じゃなくてドラッグを連想するからという理由で放送禁止になるのでは。
ちなみに、翌年にザ・フーが「リトル・ビリー」という禁煙キャンペーン用の曲をレコーディングしているが、この曲との関連性はあるのだろうか。
子供向けTV番組でかかりそうなメロディとリズム(マーチに近い)を持った曲。ブラス(一つは恐らくトランペットだろう。もう一つは筆者の無知にて分からない)がメインで使われている。ブラスバンドを意識したアレンジなのだろうが、リズムには相当気を使っている。特に、ドラムとトランペットはそうである。
タイトルは「スズ(あるいはブリキ)の兵隊」であるが、"Tin"には安っぽい、下らないという意味もある。この曲では後者の意味で使っているようだ。保守的な恐らくはサラリーマンのことを、軍隊になぞらえてからかっている。となると、サラリーマンをからかうのと同時に軍隊をもからかっているのではないだろうか。
歌詞の後半では、くだんのサラリーマンはこれまたスズの婦人を手に入れたとなっている。とすると不倫なんだろうか。それにしても、わざわざブリキの婦人つまりは安っぽい女性としているのは苦い皮肉であり、意味深である。
タイトルは求人広告のこと。イントロは美しいピアノで始まるのだが、全体的にはブルースの影響が強く、かつてのキンキー・サウンドの名残りが見られる。オルガンが使われており、特にエンディングではサイケデリックな感覚もある。ドラムは一寸変則的で、リンゴ・スターを思い浮かべることもないではない。
この曲には、スージーとジョニーという若い夫婦が登場する。ジョニーには二人がそこそこ暮して行けるだけの稼ぎがあったが、スージーの母親が絡んできて、ジョニーの尻を叩く。要するに、もっと実入りの良い仕事を探せと要求するのである。健気(?)にもジョニーは義母を喜ばせようとして、転職を図る。ところが思い通りにことが運ばずに、恐らくジョニーは失業してしまうのだろう(明言されてはいない)。二人は貧しくなり、借金がかさんでしまう。結局二人は離婚し、スージーは母親と暮すことになる。そしてこのような結末を母親は喜んでいるのである。ありきたりといえばそうなのだが、こんなストーリーをロックバンドが唄うなんて、当時としては前代未聞だったのではないだろうか。いや、今でも希かもしれない。他のバンドならば、3人のうち誰かを批判的に扱うだろうが、この曲の場合、特に誰かを批判しているわけではない。むしろ、「どいつもこいつもしょうがねえな。でもそれが逃れられない人間の性なんだよ」、とでも言っているかのようだ。
デイヴ単独作の1曲目。オルガンがM7と同様にサイケデリックな感覚を出している。デイヴのエレクトリック・ギターはアルペジオからの発展形で、チェット・アトキンスが好きだったのではないか、と想像してしまう(間違ってもマーク・ノップラーやジョニー・マーが影響を与えるわけがない!)。この曲のドラム・パターンも一風変わっている(単に手癖なのだろうか)。ところでタンバリンと手拍子は誰が担当したのだろう。
歌詞は、冒頭では「僕を見なくていい/僕に微笑まなくていい/夜明まで愛してくれさえすれば」と、ストレートなラブソングであり、この頃のキンクスの歌詞としては珍しい部類に入るのかな、と思いきや、3rdヴァースから後は、自分を卑下したようなフレーズが続出する。要約すれば、「君は好き勝手にして構わない/夜明まで愛してくれさえすれば」、となるであろう。
デイヴによれば、「レイと自分とは人間があまりにも違う」そうだが、この曲を聞くと、なるほどと思えることもある。こういった自分を卑下した歌詞の場合、レイが唄うと、曲中の主人公はあくまでも架空の人物のように、聞き手としても判断してしまう。それに対して、デイヴが唄うと、デイヴ自身の意見表明のように聞えてしまうのだ。デイヴは演じるという行為とは無縁の人なのかなとも思える。
本作中、1967年という時代に最もはまっている曲かもしれない。幻惑的なメロディやゆったりしたテンポも確かにサイケデリック・ロック調であるが、それ以上にコーラス・ワークとアレンジがサイケであると思う。コーラスの"Ah〜Ah〜"という節回しは、例えばストーンズの「この世界に愛を」と類似性がある。アレンジでは、トランペットの使い方がM6と異なり、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」中での使われ方に類似性があるし、マラカスも効果的だ。ドラムも、シンバルを全く使っていないし、変則的なリズムを打っていて、ロックというフィールドでは逆に実験的である。ところが、歌詞はサイケデリックというかドラッグとはあまり関係がない。唯一、「あなたは虹を作る」という一節が、ドラッグ体験と関係するのかな、と思わせる程度である(ストーンズの「シーズ・ア・レインボウ」との関係は如何に?)。
歌詞は、タイトル通り、太陽について唄ったものだが、"old"つまり「年老いていること」と"lazy"つまり「ゆったりとしていること」は呼応している。ただし、英国のような高緯度地方ならではの表現でもあるが、それには大した意味は無く、やはり前者意味で捉えるべき歌詞である。
というのは、2ndヴァースでは、太陽を指して、「あなたは僕にとって唯一のリアリティ」、「僕が死んでもあなたは永遠に輝きつづけるだろう」となっているし、後半でも、「僕が若かりし頃、世界は3フィート7インチ(つまり約111cm。ということは主人公の少年時代の目の高さを言っているのであろう)」、「あなたが若かりし頃、世界は無かった」となっているからである。すなわち、自分の短い一生と太陽の無限に近い寿命とpの対比、自分の存在の小ささと太陽の存在の大きさとの対比を唄っているのである。
結局、この曲も意味深な歌詞を持っている。、表面的には素朴な原始太陽信仰(これが、後の「ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサエティ」につながるのかもしれない)のようでもあるし、人間の存在がいかに小さいものであるかという近代文明批判であ有り得るのだ。
ベースと"Ohh"というコーラスをバックにレイが唄う、いわゆる「歌もの」である。非常に親密な関係のある人にしか聞かせたくない、哀愁のあるメロディが特徴の曲である。サビでは、デイヴのギターがレイのボーカルの対旋律(こういうのを対位法というのではなかったっけ?)を弾いている。同時に恐らくチェロらしき音が鳴っているが、誰が弾いているのだろうか。いずれにしても、このチェロはあまり上手くない。覚えたてなのだろう。
歌詞の方も、昔の良き思い出を回想したもので、ドナという彼女と毎日カフェで会っていたシーンを描写している。歌詞の後半では、主人公が約束の時間に遅れてカフェに入ったら、ドナは少し前までいたことがマスター(もしくは常連客の誰か)から告げられ、これが二人の破局の原因になったことが仄めかされる。仄めかす、つまり、このことで二人は別れてしまったと明言しないところが、ノスタルジックな詩として素晴らしいと思える。過去の出来事は、細かい事柄は風化し、選別されて記憶となる。当然、別れた原因なども、現在では曖昧になっていることが普通だ。なのに、特定のことを原因だと明言してしまっては味気ないではないか。
それにしても、レイ・デイヴィスという人物は、セピア色の世界を書くことに長けているなあ、とつくづく感心させられる。
デイヴの3曲目。ギターの低音弦かベースを使ったイントロやリフが一寸マヌケな味を出しているが、これはこれで歌詞と合っている。ギターがコード・カッティングに徹しているのは、デイヴ作品にしては珍しい。エンディングにはチェロらしき楽器が使われているが、それは置くとしても当時のビートルズの類似性を感じる。
歌詞は、入院した彼女への思いが強い男について唄ったものであり、彼女の病は精神的なものとされているが、この男の行動も偏執的である。いや、もしかしたら、主人公の一方的な思いこみから逃れるために、彼女は部屋に閉じこもっているのかもしれない。
50年代以前のアメリカン・ポップス調のメロディをピアノに乗せて、レイが気取って唄うっている。この歌唱法は、現代の耳からすれば確かに可笑しいの一言である。が、しかし50年代以前はプレスリーにしろ、フランク・シナトラにしろ結構気取って唄っていると思う(だから笑っては駄目というのではない)。鳥のさえずりのSEを最初と最後に使っている。
歌詞の方だが、冒頭で「冬がやって来て/空は灰色になり/夏鳥はさえずらない/君が去ってからというもの」となっている。夏鳥が鳴かないのに、何故鳥のさえずりをSEとして使っているのか、さっぱり分からない。この曲は、M10のような過去への回想を唄っていないのである。歌詞で描かれるのは、現在の自分と現在の彼女の様子を想像したことだけである。とはいえ、主人公が彼女がいた夏を懐かしんでいることは、充分に伝わってくる。そして、主人公は「忘れないでくれ/君が戻ってくることを僕は待ち続けている」という一節は、今は冬だが、やがて夏が来ることを暗示している。
文句無しにレイ・デイヴィスの最高傑作。いや、英国産ポップ・ソングとしても5本の指に入ると断言したい曲である。ところで、この曲はメロディや歌詞の素晴らしさが語られることはあっても、アレンジの妙について語られることは希である。残念なことだ。デイヴのアコースティック・ギターによるカッティングは力強いし、エレクトリック・ギターも派手ではないが、実に決まっているし、ドラムとのコンビネーションも良いので、飽きの来ないリズムを生み出している。ラサ達によるファルセット・コーラスも美しい。そういったバックに乗せて唄う、レイのボーカルも何と言えば良いか、詩情性豊かである。
続いて歌詞について見て行く。個人的に思い入れの深い曲であるから、詳細に解釈して行くことにする。
(1)「汚れて古い川よ/夜に向かって流れて行け」
この「汚れた古い川」というのは、テムズ川のことであるが、同時にイギリスの古いもの、伝統的価値観のメタファー(隠喩)とも取れる。それが「夜に向かって流れて行かねばならない」、つまり、見えなくなる、消えていかねばならない、としている。しかし、これを、「古い秩序の破壊」と解釈することは、レイの言動とは矛盾する。どちらかというと、あきらめの心境なのではないかと思える。鴨長明作「方丈記」の冒頭とも共通する感覚と言ったら、少々行き過ぎだろうか。
(2)「人々がとても忙しそうにしている/それが僕をくらくらさせる」
ここでの人々とは、勤め帰りのサラリーマンのことだろう。「みんな、何故そんなにせわしないのだろう」と主人公が違和感をあらわにしている。
(3)「友達は要らない/ウォータールーの夕日を見つめていれば/僕は天国にいるんだ」
ここで「夕日」を沈み行く古い価値観と受け取れば、「新しい価値観を共有できなくても構わないんだ」という意思の現れと解釈することができる。あるいは、ロンドンは霧の都と言われる位、晴れの日が少ない土地柄であるから、夕日を見ること自体が、貴重な体験なのかもしれない。そうだとすると、「僕は他人には出来ないことを体験しているんだ。」という意味にも取れるのである。
(4)「毎日窓から世界を見ている/でも夕方はとても寒い/ウォータールーの夕日は素敵だ」
このフレーズは、主人公が孤独であることを重ねて表現している。主人公は窓から夕日を見ることくらいしか、この時間帯にすることがないのだろう。「寒い」は孤独をあらわす常套句でもある。それでも「ウォータールーの夕日」にこだわっている。
(5)「テリーとジュリーは毎週金曜日にウォータールー駅で待ち合わせる」
テリーとジュリーとはある映画の主人公からとった名前とのこと。ちなみに、テリーの方はテレンス・スタンプのことで、ザ・フーのマネージャーであったクリス・スタンプの兄でもある(何故かここでもキンクスとフーはつながっている)。
(6)「でも僕は怠け者で/立ち寄ってくれる人がいない/だから夜は一人で家にいる」
これも、主人公が孤独であることを、またしても強調している。「僕は怠け者だから」というくだりは、多少自虐的ではあるが、労働者階級
の防衛本能と見ることも出来る。本当は、テリーとジュリーのカップルがうらやましい、と思っているのではないか、と聞き手に考えさせる。
(7)「でも僕は恐くない/ウォータールーの夕日を見つめていれば、僕は天国にいるんだ」
またしても主人公は強がるのである。しかし、一体何に対して「恐くない」と思うのだろうか。孤独への恐怖を感じないという受け取り方が、もっとも素直ではある。
(8)「大勢の人々がハエのように行き交う/ウォータールーの地下鉄駅」
ここでも、「ハエのように」といって、駅で行き交う人々を茶化している。大勢の人々がごった返してはいるが、そのうちどれくらいの人が知り合いなのだろうか。たとえ知り合いだったとしても、単なる仕事上の付き合いだとかの類ではないのか。そのような主人公の問題提起がこの行には隠されているように思える。あるいは顔のない、どうでもいい存在という意味で使っている可能性もある。
(9)「しかし、テリーとジュリーはウォータールー橋を渡る/彼等は安心を感じているだろう」
(8)から3番の歌詞に入っているのだが、実は3番になって、視点が移動していることに気付く必要がある。2番までは、孤独な主人公からの視点であったのに、3番になると、より客観性を帯びた人物(特に誰かとは言えない)の視点になるのだ。映画のナレーションと言えるかも
しれない。あるいは、先ほどの主人公が、テリーとジュリーの感情を、離れたところから見ていて推測しているのかもしれない。
(10)「彼等には友達は要らない/ウォータールーの夕日を見つめていれば/彼等は天国にいる」
カップルが、デートの最中に友達が欲しいと思うわけない、と思うのだが。いずれにしても、彼等はウォータールーの夕日を見て、幸福感に浸っていると断定されている。しかし、二人が幸福を感じるのは、別にウォータールーの夕日を見ているからではなく、ただ一緒にいるからなのかもしれない。それでも、「ウォータールーの夕日を二人して見つめているから、他に何も要らないくらい幸福なんだ」と、作者は断定するのである。このあたり、少々強引ではある。しかし、第三者から見た歌詞にすること、しかも断定調にすることで、主人公だけでなく、「誰でもウォータールーの夕日は素晴らしいと感じられるんだよ」、という主張が強まっているのである。これはかなり技巧的であり、聞き手は無意識のうちに、作者の意図に共感してしまうような気がする。
ところで、この曲をTV番組で披露した時(ビートクラブ?)、デイヴは何故か眼鏡をかけている。最後には外すのだが。それに、持っているギターがフライングVなのである。どうもフライングVというとマイケル・シェンカーのイメージが強すぎる為かもしれないが(いや、高崎晃という人もいるかもね)、曲とのズレが大きいのではないかとも思う。大した問題ではないが。
(2000-5-12)
<蛇足もいいところ> (あまり真に受けないで下さい)
上記は本作に対するオーソドックスな解釈である。ところが、ここで筆者は敢えてひねくれた("kinky")解釈を打ち出そうと思う。
M1であるが、この曲中の主人公はキンクスに重なってしまう。対するデヴィッド・ワッツはストーンズあたりかな、とも思える。
M2では、既に述べたことだが、「仲間が死んだからといっても、興業は続けなければならないという宿命の非情さ」は、まさし売れっ子のロックバンドの宿命でもある。キンクスの場合、メンバーの死がこれまで無いという、これまた稀有なバンド(例を挙げていたらきりが無い)でもあるのだが、この曲での「道化師」は、バンド・メンバーではなく、例えば身内の誰か(デイヴィス兄弟は姉の一人を少年時代に失っている)で、人気者だった人を指していると考えてもいい。
M3は、当時まだアイドル的存在だったキンクスのことを、誰かが「いいよなあ」と言ったことに対して、「ロック・スターなんて、外見は派手だけど、大して良いもんじゃないよ」との婉曲的反論であるとも解釈できる。
M4は、ロックスターになることと引き換えに、幼馴染の友人を失ってしまったことを、どこか後悔している歌であると解釈することも出来る。スター=孤独という図式は敢えて言うべきことでもないが。M10も似たような図式が成り立っていると思う。
M7におけるスージーの母親とは、所属事務所やレコード会社を指していると取ることも出来る。バンドでやっていて幸福だったのに、「もっとヒット曲を書け、(商業的な面で) ビートルズのようになれ」と、彼等が尻を叩いてくる様を皮肉っているかのようだ。結末はピート・クワイフの脱退(これはややこしい)やレイの脱退宣言(すぐに撤回したそうだが)を暗示してもいるのではないか。
M9は、当時のロック界を取り巻く喧騒に、どうしても馴染めなかったレイの心境を吐露しているかもしれない。ロックスター(殆どが20代半ばより下)達の視界はそれほど広くないはずなのに、オピニオン・リーダーの役目を負わされることへの危機感をレイが持っていたのかもしれない。
M12は、偶然かもしれないが、このアルバムあたりからキンクスのレコード売上げは落ち込んで行く。まさに「季節の終わり」である。
M13における、ウォータールーの夕日に魅せられた囚われの主人公とは、ロックスターであり(録音スタジオから見えた風景と解釈することも可)、至極当たり前ではあるが、友人と呼べる人はいない(バンドメンバーだって怪しいものだ)。周囲にいるのは、金儲けしか頭にない奴、おこぼれに預かろうとする奴である。また、「ウォータールーの夕日を見つめていれば、僕は天国にいるんだ」という一節は反語であり、天国の人=死人=過去の人という自己卑下の婉曲表現でもある。伝統的価値観を大事にしたいと願うレイ・デイヴィスは、ロックスターなるパブリック・イメージや「進歩が人類を幸福にする」といった価値観との共存点を見出せず、違和感を持っていた。そういったことがこの曲で発露したのではないか。
つまり本作は、次作「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」の予告編とも取れるのだ。もちろん、これはレイの無意識な面にスポットライトを当てての解釈である。次作を巡ってトラブルがあったようだし、この曲からすんなりと自作に移行したわけではないのである。