7/5付けのYAHOO NEWSには、以下の見出しが付いた記事が載っている。
[本はともだち]読書感想文コンクールに寄せて/3 小学校高学年 /山梨
これは、山梨県の某小学校の校長先生が、コンクールに寄せた児童への「教え」、「訓示」である。ここでは、初めと終わりを引用する。
初め: ◇言葉の「魔力」感じ取って−−
学校週5日制が始まり、子どもたちの生活が問われているこの時こそ「読書の習慣化」を定着させるよい機会だと思います。家族や友達の中で読書を通した人間関係を深めることができるのです。
終わり: 読書の楽しみに、登場人物の生き方に、同意したり、うち消したりしながら、自分自身を見つめ、新しい自分を発見していく楽しみがあります。あたかも自分が体験しているかのような緊張感がいいですね。特に、はっとしたり、どきっとしたりする情景や心情を表す言葉の魅力(魔力)を感じ取ってほしいものです。言葉の魔力を自分の書き言葉に生かしていけるといいですね。
この文章、一見もっともな意見のようでいて、実は問題のある意見だ、と私には思えた。そのことについて、以下に述べる。
(1)この意見に一応賛成するとしてもである。小学校高学年の児童に対して、あまりにも高度な要求をしているのではないだろうか。「自分自身を見つめ」だとか「新しい自分を発見していく」などというのは、中高校生になってからすることだろう。しかも、誰に強制されるわけでもなく。もちろん、そのきっかけは「活字本」に限らないであろうが。それとも、近頃の小学生は早熟なのだろうか。
断っておくが、「小学生がそのようなことをしてはいけない、するべきではない」、と主張するのではない。
(2)「初め」のところで、「家族や友達の中で読書を通した人間関係を深める」云々という下りがある。この先生は、どうも自分の頭の中で、勝手に或る類の本だけに限定して、語っているように思える。残念ながら、読書をすることによって、人間関係がボロボロになってしまうことだって有り得るのである(猜疑心にかられたりして、である)。「本」は必ずしも正の効果をもたらす媒体ではない。いや、ひょっとしたら、負の効果の方が大きいのではないかとさえ思えるのだ。図らずもこの先生、「言葉の魔力」と語っておられるではないか。
先ほど私は、「ある類の本」と書いたが、この先生の場合、芥川龍之介ならば、「羅生門」ではなくて「杜子春」が頭の中にあるのだろう。
太宰治ならば、「人間失格」ではなくて「走れメロス」が頭の中にあるのだろう。もちろん、個人的な好き嫌いがあるのは構わないのだが、それを一般論に拡大してしまうのは、幾らなんでも行き過ぎであろう。
私はかねてより、読書感想文を小中学生に課すことには反対である。その理由に関しては、
大人でも読むに堪える文章を書ける者が少ないと考えられる読書感想文(=それだけ高度な能力が必要だということである)を、子供に課すのは酷である、
と記すに留める。
「活字を読みなさい」と言いたい気持ちは分かるけれども、その理由として、高邁な理想を掲げるのは逆効果であり、「活字本だって、本当は面白いんだぞ」と言う程度にしておくべきだろう。それから、過度な期待も抱かない方がいいと思う。
(2002-7-6)
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