盤根錯節
 
 
 後漢の帝室には、とくに目をひくところがある。十四人の皇帝のうち
十二人までが二十歳にもならずに即位する。このことは、母である太后
が政をとり、どうしても側近の弊が強くなることを意味する。これも、
そのころの話である。
 
 
 生まれて百余日で即位した殤帝が、在位八ヶ月で死ぬと十三歳の安帝
が位についた。もちろん母の太后が政を聴き、そして太后の兄トウ隲が
大将軍になった。そのころ西北の辺境では、異民族の勢いがつよく、ヘ
イ州(今の山西・河北省一帯)と涼州(今の甘粛省)はたびたび侵略されて
いた。トウ隲は国費が足りないのを心配して、涼州を放棄し、ヘイ州に
力をそそごうとした。このとき反対したものがある。朗中の職で、名は
虞クといった。
 
 「函谷関の西は将軍を出し、
  東は宰相を出すと申します。
  昔から烈士武人には、
  関西の涼州出身がおおいではありませんか、
  このような土地を羌にまかすことは断じてなりますまい。」
 
 列座のものはみな虞クの意見についた。トウ隲は、このことからひど
く虞をにくんだ。
 
 たまたまこの頃、朝歌県(安徽省の一県)の賊が、その郡の長を殺し、
手のつけられないほどの暴威をふるった。トウ隲はこのときとばかり、
虞クを朝歌県の長に任じ、往って賊をたいらげるように命じた。このと
き、虞の知り合いや友人は、みんなくやみをのべたという。勢いさかん
な賊にぶつかって、戦死するかもしれないと思ったのだ。だが、虞クは
平気で笑っていた。
 
 「曲がった根っことか、
  入りまじった節とかにぶつからなければ、
  鋭い刃物のねうちもわからない道理ではないか。」(「後漢書」虞ク伝)
  (盤根錯節に遇わずんば、なんぞもって利器を別たんや)
 
 虞クはすすんで苦難にとびこみ、そこで自分の力をためそうとしたの
だ。ここから「盤根錯節に遇うて利器を知る」という類の言葉が、この
んで使われるようになった。平和な時には人のねうちはわからない、困
難に遇ってはじめてわかるというのである。「盤根錯節」という語で、
困難を象徴するばあいもある。
 
 虞クはたしかに盤根錯節にたえた。彼は朝歌県につくと、すぐ行動を
はじめた。前科のあるものをわざと集めて賊の中に潜入させ、その力で
賊をおびきだして殺したり、さまざまな奇策をもちいて、ついに賊を四
散させたと伝えられる。のちに羌と戦ったときも、縦横にその機知をふ
るっている。彼はそののちもたびたび功を立て、高位にのぼりはしたも
のの、もちまえの剛直さをけっしてまげなかった。そのため宮廷の側近
や宦官ににくまれてなんべんも刑をうけたが、ついに屈せず、権威にさ
からいとおして死んだ。最後まで、盤根錯節にいどみつづけたようであ
った。
 
 
 
 
河出書房新社昭和38年1月30日発行の
「中国故事物語」263pageに記載されています。
 
GO INDEX    GO HOME


e-mail Copyright Hiro@Yokohama,All rights reserved.