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風蕭蕭として易水寒し
春秋戦国の時代には、敵国の王侯を刺殺するために、一本の匕首(短剣)に全てをかけて敵地に入り込む刺客が、ことに多かった。その最も 著名なのが荊軻である。 荊軻は衞の生まれだったが、祖国に用いられず、国々を遍歴して燕に 行き、そこで巷に人望の高かった任侠の士・田光の知遇を得ていた。彼 はまた筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、いつも 二人で酒を飲み歩き、酔うと高漸離は筑を鳴らし、荊軻はそれに和して 歌い、傍若無人に振る舞っていたが、巷に酔いしれているかと思えば独 居して書を読み、また剣を磨くことも怠らなかった。 秦が着々と天下統一の歩みを進めている頃であった。韓を滅ぼし、趙 を滅ぼした秦は、趙と燕との国境を流れる易水に臨んで、将に燕に攻め 入る態勢を整えていた。その時燕の太子の丹が秦王・政を刺すべき刺客 として選んだのは、田光であった。だが田光は自分の老齢を考えて、荊 軻を薦めると、その決意を励ますために、自らは首をはねて死んだ。大 事を命じられながら果たし得ない老骨の身の、それが太子 のためになし得る唯一の道だと思ったのである。 そのころ、秦から樊於期という将軍が燕に逃れてきて太子丹の元に身 を隠していた。荊軻は秦王が莫大な賞金をかけて樊於期の首を求めてい るのを知ると、その首と、燕の督亢の地図を持って行けば秦王は心を許 して引見するに違いないと考え、そのことを太子丹に申し出た。太子丹 は荊軻を一刻も早く秦へやりたいと焦慮しながらも、樊於期を斬るには 忍びない様子である。荊軻はそれを知ると、自ら樊於期に会って死を求 めた。それが秦王に対する樊於期の恨みを晴らし、太子丹に対する恩に も報い、かる燕の憂いを除く道であると説いたのである。――樊於期は 田光がしたのと同じように、荊軻の前で自ら首をはねて死んだ。 樊於期の首と、督亢の地図とのほかに、荊軻はともに秦へ行くべき友 人を待っていた。太子丹は秦舞陽と言う若者を副使として荊軻につけた が、荊軻には秦舞陽が頼みとするに足りる男とは思えなかったのである 。友は遠方に居てなかなか来なかった。太子丹は、既に出発の準備を整 えながら荊軻が立たないのを見ると、いよいよ焦慮して、秦舞陽一人を 先に行かせようとした。荊軻は心ならずも友を待たずに行くことに決め た。秦舞陽を一人やることは危ないと思ったからである。それに時期も 切迫している。太子の焦慮も解らぬではなかった。 太子丹をはじめ、事を知っている少数の者は、服を喪服に替えて荊軻 達を易水のほとりまで送っていった。いよいよ別れの時である。高漸離 は筑を奏で、荊軻はそれに和して歌った。易水の風は冷たく人々の肌を 刺し、高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人々の心をふるわせた。秦へ 行けばおそらく生きては帰れないであろう。これが荊軻を見る最後かと 思うと高漸離は暗然と涙ぐみ、密かに涙を拭いかつ筑をかき鳴らして友 を送った。荊軻は進みながら歌った。 風蕭蕭として易水寒し、 壮士ひとたび去ってまた還らず。 その声は人々の肺腑をえぐった。人々は皆、眼を怒らして秦の方を睨 み、髪逆立って冠を突くばかりであった。――すでにして荊軻は去り、 ついに振り向くこともなくその姿は遠くなっていった。 秦へ行った荊軻は、樊於期の首と督亢の地図とを伴って、秦王政に近 づくことを得たが、匕首一閃、秦王は身を引いて、荊軻の手にはただ王 の袖だけが残った。後ろから王を抱きとめるはずの秦舞陽は、もろくも 人々にねじ伏せられていたのである。荊軻はついに志を遂げることが出 来ず、みずから自分の胸を開き、指さして秦王に刺させた。秦王政の二 十年、燕王喜の二十八年、紀元前二二八年のことであった。政が天下を 統一して始皇帝と号したのは、それから七年の後である。 (「史記」刺客列伝) |