学者としての清河八郎

世間の多くはその剣客としての名を知ってその学者としての一面を知らない、 もとより北辰一刀流兵法免許を得ている剣士であるが、 学者としても一家をなしている。塾には文武指南所という看板を掲げたそうだが 一人で学問と剣道を教授する塾は江戸広しといえども清河塾以外になかったという。

保管されている主なもの
  ・旦起私乗   6冊    山形県指定文化財
  ・西遊記     8冊    山形県指定文化財
  ・清河八郎の薯書並詩文  多数
  ・筆書幅  多数  ・同志筆書幅    ・屏風  書簡など多数
  ・その他明治維新新資料など
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魁がけて またさきがけん 死出の山
  まよいは せまじ皇の道
文久三年(34歳)4月13日、この日清河八郎は上ノ山藩士金子与三郎宅に招待されていた。当時清河八郎は山岡鉄舟宅に起居していたが、この朝隣家の高橋泥舟宅に立寄って扇を求めこの歌を書いた。泥舟これをみて不吉を感じ金子邸行きを止めたが、清河八郎は泥舟登城後泥舟の妻の止むるをきかず強いて金子邸に行き、夕刻の帰途麻布一ノ橋々畔において府の刺客佐々木只三郎等六人によって襲殺された。

清河八郎
天保元年10月10日、出羽荘内清川村に生まれる。 18歳江戸に出て、経学を東條一堂塾・安積良斎塾・湯島の聖堂など 、当時の最高学府に学び、剣は千葉周作の玄武館に学び、
北辰一刀流兵法免許を得、弱冠25歳を以って江戸神田三河町に清河塾を開いた文武兼備の英士であった。 明治維新は主として薩摩・長州・土佐など関西雄藩の志士によって推進されたものであるが、清河八郎は東北の一僻地清川村に生まれ、これら雄藩の志士に互して、
常に主導的に風雲を起こした活躍は、明治維新史上特筆すべきものである。 
 「近世日本国民史」の薯者徳富蘇峰は、清河八郎をもって
「維新回天偉業の魁」と称している