現代の北畠一族子孫の実状
我々の調査範囲のことだけで、その他北畠一族の子孫に関することがあれば
お教えいただきたいです。
| 伊勢北畠宗家 | 伊勢神戸家 | |
| 浪岡北畠家 | 星合家 | |
| 西村家 | 森本家 |
系譜上の伊勢北畠宗家の後胤としては2家ある。伊勢北畠宗家・北畠具房の遺児である
北畠昌教は出羽鹿角の折戸館にて2人の子をもうけている。長男・昌清、次男は昌近であ
る。長男・昌清は文禄4年(1595)に生まれ、元和2年(1616)の父・昌教の死
去以降に折戸館から浪岡館に移った。弟・昌近も慶長5年(1600)までには生まれて
いた。昌近は北畠一族の家訓に従い、本姓・北畠を永久に名乗ることは出来なかった。兄
が浪岡館に移ったあと、空白となった旧本拠地・折戸館を相続した模様で、地元の地名を
姓とし、折戸昌近を名乗った。
北畠昌清は浪岡で長男・昌広、次男・昌範をもうけた。次男・昌範は北畠を名乗りつづ
けることはできないので、岳父・有馬吉俊の名跡を相続して有馬昌範を名乗って諸国修行
に出た。しかし、兄・北畠昌広が再興を断念して出家し、父・昌清も寛文5年(1665)
に死去したので、北畠宗家を相続した。だが有馬家のまま、再興してしまった。その後有
馬昌範から6代目範顕まで京都で公家として過ごした。⇒北畠有馬家
兄・昌広は出家したが、弟が再興に成功したことを知ると還俗、叔父・折戸昌近が慶安
3年(1650)に死去してから相続者が無く、専正寺の管理下にあった折戸館を相続し
て折戸昌広を名乗った。⇒北畠折戸家
有馬昌範が再興してから、範顕まで公家として過ごすが、幕末の動乱により滅亡してし
まい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあ
と有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲っ
て若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。
酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏
の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構
成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者の平泉澄らとは同志で共同
研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代
宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に
強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文
献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大
西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これに
より、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。
「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。
このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。
北畠折戸家は初代折戸昌近、2代折戸昌広の系統からでており、北畠有馬家の最近親の
分家である。折戸昌広は初代有馬家の有馬昌範の兄であるが、出家して家督を譲ったので
分家となったのである。折戸家は代々出羽鹿角の折戸館に居住した。有馬家が公家になる
と親族家人として公家家臣となり、有馬家領地浪岡の代官職などをつとめたものと思われ
る。そして、折戸一族の何人かは有馬氏を称して、浪岡に移住した模様である。昭和に至
り折戸氏は有馬範治とともに北畠昌教墓所発見に貢献、当時の当主・折戸三郎氏は墓所を
のちに改装している。現在も子孫の方が専正寺の井上一族とともに鹿角市内にお住まいで
ある。
・その他の伊勢北畠系統・
伊勢北畠氏の後裔を称して現在、北畠氏を姓としている一族はすべて伊勢北畠一族とは
なんのゆかりもないということを述べておく。理由としては、伊勢北畠氏は南朝一門であ
り、北朝皇統とは対立状態にあるからである。そして、伊勢北畠氏代々の家訓により、総
本家以外は「北畠」を姓とすることが許されていなかったし、それにおいても総本家が北
畠を姓とせず、有馬を姓としたために、他の一族が北畠を名乗るわけには行かないのであ
る。さらに幕末の変革で有馬家を含む既存北畠勢力が駆逐されたために、新しい北畠氏が
乱立したことにもその理由がある。この新しい北畠氏というのは、幕末において北畠有馬
家が滅亡し、南朝革命ともいわれた明治維新には南朝勢力の一部分が必要だったわけで北
畠・楠木・新田・菊池などがいたるところで乱立したのである。公立北畠氏というのが2
家あり、まず久我建通の四男・通城の家で、北畠有馬氏滅亡後すぐに北畠氏を継いだ。2
つ目は法隆寺寺侍・平岡鳩平が北畠家を創設し、北畠治房と名乗った。この北畠治房は明
治時代に司法官僚を務めている。