北畠氏家臣団
家 臣 紹 介
北畠氏の中核を担った家臣たちを紹介いたします。
鳥屋尾 石見守 満栄(?〜1577)
北畠氏家臣の中でも筆頭格の重臣で、名は満栄という。北畠氏の家老のひとりで、軍事会計
などにもつ通じ、特に対信長戦で大河内城の兵糧攻めを予測しての糧食備蓄などは有名である。
これにより織田軍の兵糧攻めを失敗させている。石見守は「文武を得、知謀深し、万死を捨て
人を立つる無双の執事也」などとも評されており、北畠軍の軍師格としても充分な働きをして
いる。その後、北畠具教の命により、武田信玄に同盟および、上洛・信長攻めの為の船団の準
備提供を申し入れる使節団として向かうが、信玄死去により成功しなかった。そして信長への
新年賀詞に国司の名代として子・右近将監とともに挨拶に行っている。
北畠一族が田丸城に監禁されると、同僚の井上味兵衛専正とともに城に潜入、北畠具房の正
室である鶴女を救出、桃ヶ原の吉田大悪才兵庫頭の屋敷(茂原城)にかくまっている。その後
具教の弟の北畠具親が挙兵のために伊勢に来ると、具親の要請により吉田屋敷(茂原城)には
いった芝山秀時・大宮吉守と交替して、井上専正に家老職を譲る。具親のもとで、旧家臣団を
糾合して挙兵するが、川俣の戦いで戦死した。
水谷 刑部少輔 (?)
北畠氏の執権で、松阪の松尾立野城主。
織田信長の和議工作での次男の織田信雄が北畠家の養子にはいるときの論争で、北畠親成らの
和議反対派の抗議を退けて、織田信長からの人質をとったものと説明する。そして説得を重ね和
議方向に傾いていき、北畠具教・具房を説得して同意させ、織田信雄を国司の養子に迎えた。
吉田 兵庫頭 兼房(?〜1595)
北畠氏の重臣で、諸大夫。名は兼房。大悪才の号を持つ勇猛な武将。吉田兼好の末裔で、旗本
兼大目付という重職にいた。笠木御所の家老もつとめている。嫡子の小悪才兼宗は北畠具教とと
もに三瀬の変で戦死しているともあるが、小悪才是重という者が戦死している。であるから、生
存脱出説が濃厚である。吉田文庫では生存説がでている。生存説では小悪才が北畠具教の死亡を
大悪才に伝えたとされている。兵庫頭は本拠桃ヶ原(茂原)の茂原城(吉田屋敷とも)にいて軍
備をととのえていた。そのときに屋敷に鳥屋尾石見守・井上専正によって田丸城から脱出した鶴
女をかくまい、北畠昌教が屋敷で生まれている。信長に気づかれると信長の軍をひきつけて時間
を稼ぎ、昌教らを大和飯貝門跡のところまでいかせている。その後は北畠具親の挙兵にも参加し、
忠臣の誉れと信長より賞賛もうけている。それからは伊勢にとどまっており、現在も伊勢吉田文
庫に末裔の子孫の方がいらっしゃいます。志摩水軍の大将の九鬼嘉隆とは懇意であったという。
吉田 兵庫 兼宗 (?)
北畠具教の家臣。父は諸大夫の吉田兵庫頭。名は兼宗。父の号大悪才にあやかり、小悪才と号
する。北畠具教から剣術の手ほどきを受け、伊勢新刀流の創始に尽力している。北畠具教が逆臣
に殺害され、三瀬御所が攻められると奮戦したが、敗れて脱出した。ここにて戦死したとも伝え
られるが、このときに戦死したのは小悪才是重という者であって兵庫兼宗とは別人であるという。
その後、父の屋敷に戻り、軍備を整えて鳥屋尾・井上が助けた鶴女をかくまう。そして屋敷が柘
植・滝川らの織田軍伊勢組に包囲されると脱出して信長を狙撃するために旅にでる。信長が本能
寺で襲撃されたときに明智光秀軍のなかにいたとされるが、定かではない。しかし山崎の戦いで
は明智軍に参陣している。その後は全国各地を放浪し、出羽の北畠昌教のところへもいっている
ようである。最終的には九鬼嘉隆の客分として関が原の地方戦闘に参加して稲葉軍と戦っている。
井上 味兵衛 専正 (?)
北畠氏の高禄の重臣。名は専正。織田信長との戦いに多数出陣し、戦功をあげるが体勢の立て
直しは難しかった。鳥屋尾石見守とともに田丸城の鶴女救出に向かい、みごとに助け出す。その
後吉田家に逗留して北畠昌教誕生を見届ける。そして鳥屋尾から家老の地位を譲り受けて北畠家
家老に就任、織田信長に探求されると昌教をつれて芝山秀時・大宮吉守ら近臣とともに大和飯貝
門跡のところへ行く。その後、本願寺にうつり顕如から「教順」という法名を賜った。本願寺が
陥落すると出羽鹿角にうつり専正寺を建立、住持となり昌教をかくまいつつ自らの娘を昌教の妻
とし、北畠家再興のための武士をあつめる。
昌教らが大湯折戸館にうつると、隠居して家老職を芝山秀時に譲る。その後昌教の次男・折戸
昌近の側近として住持をしながら折戸家の家老格となる。昌教が津軽家の客分武将となると昌教
とともに関が原に出陣したといわれるが、定かではない。その後は完全隠居して専正寺住持とし
て過ごした。現在も鹿角専正寺には遺品などがある。
大宮 入道含忍斎 (?〜1569)
北畠家の大老で、筆頭家老的重臣。阿坂の城主でもある。大宮家も北畠家に代々仕える一族で、
南北朝時代の北畠顕能の長野氏討伐などにも大宮一族が出陣しています。戦国時代では織田信長の
軍を迎え撃つ最前線である阿坂の城を守り、徹底的に抗戦、織田軍の大将である羽柴秀吉をさんざ
んに悩ませ、蹴散らす勢いでしたが、秀吉の謀略により内応者が続出、ついに阿坂城は陥落させら
れ、捕らえられて秀吉に殺害されました。
大宮 大之丞 景連(?〜1576?)
大宮入道含忍斎の長男で、名は景連または吉竹。剛勇無双の猛者であった。とくに弓の名手であ
った。父や弟たちとともに織田信長の軍から阿坂城を守り、攻撃大将の羽柴秀吉を狙撃し、秀吉の
大腿部に重傷を負わせる。これは秀吉生涯においてたったひとつの戦傷であったという。そして得
意の弓をもって織田軍の兵士を多数討ち取るが、謀略の前に屈して城は落城し、父や弟たちととも
に捕らえられて秀吉により殺害されたとも1576年12月4日に北畠政成の霧山城にて秀吉の影
武者を追って多気の青木長門守の屋敷で討ち死にしたともいう。
大宮 主膳(多気丸) 吉守 (?)
大宮入道含忍斎の次男とも末子とも、大宮大之丞の子ともいわれている。一族と同じく剛勇な人
物。名は吉守・主膳。阿坂の城にはいなかったため難をのがれた。芝山秀時とともに北畠具教暗殺
の報を聞いて三瀬に急行、途中で具教の首をもった加留左京の家臣の重内を斬り捨てて首を奪還、
そして野々口というところまでいくと多気御所北畠政成の家老芝山秀定と出会い首を渡し、秀定よ
り、具教の弟の北畠具親に急変の報告を命じられた。具親に急変を伝えたあと、具親とともに伊勢
に入るが、具親の命により芝山秀時と吉田家にいる鳥屋尾石見守の召還の使者となる。吉田家では
鳥屋尾石見守に北畠昌教の護衛を命じられて井上専正とともに吉田家に残る。織田信長に昌教が探
索されると伊勢を脱して大和から本願寺そして出羽鹿角に至る。鹿角では井上・芝山とともに津軽
軍として関が原の戦いに出陣したという。芝山秀時が死去すると北畠家家老に就任、すでに伊勢か
らきた随行武将は亡くなっており最後の北畠具教時代からの伊勢武士であった。吉守の子孫たちは
主膳という名を世襲し、公卿有馬家の家司として存続している。もうひとつ第2大宮家というのが
あり、これは生き残った大宮庶流の者たちの家で、伊勢に土着し、本能寺の変で信長を倒した明智
光秀に属して山崎の戦いに出陣している。そのうちの何人かが、吉守の意向をくみとって多気丸を
称して参陣、戦死して織田信雄の昌教探索の目をくらませている。この第2大宮家の子孫は今でも
伊勢に住んでいる。
芝山 出羽守 秀定(?〜1576)
北畠家の重臣で、多気御所北畠政成の家老。名は秀定。北畠政成の命をうけて急変の起こった三
瀬に急行中に野々口で子の芝山秀時と大宮吉守に出会って具教暗殺を知り、両人から具教の首を受
け取る。そして両人に興福寺東門院の北畠具親に急変を報告するように命じた。その後、具教の首
を葬って単身織田信長の大軍に突入、敵を蹴散らすが力つき、太刀をくわえたまま滝壺に馬もろと
も飛び込んで壮絶な戦死を遂げた。その滝は「出羽の滝」と呼ばれるようになった。
芝山 小次郎 秀時 (?)
芝山出羽守秀定の長男。名は秀時・出羽。大宮吉守とともに北畠具教暗殺の報を聞いて三瀬に急
行、途中で具教の首をもった加留左京の家臣の重内を斬り捨てて首を奪還、そして野々口というと
ころまでいくと多気御所北畠政成の家老芝山秀定と出会い首を渡し、秀定より、具教の弟の北畠具
親に急変の報告を命じられた。具親に急変を伝えたあと、具親とともに伊勢に入るが、具親の命に
より芝山秀時と吉田家にいる鳥屋尾石見守の召還の使者となる。吉田家では鳥屋尾石見守に北畠昌
教の護衛を命じられて井上専正とともに吉田家に残る。織田信長に昌教が探索されると伊勢を脱し
て大和から本願寺そして出羽鹿角に至る。鹿角では井上・大宮とともに津軽軍として関が原の戦い
に出陣したという。井上専正が隠居すると北畠家家老に就任、北畠家再興に力を尽くすがまだ時期
ははやかった。死後は大宮吉守が家老となった。秀時の子孫たちは出羽という名を世襲し、公卿有
馬家の家司として存続している。幕末の芝山出羽昌道や昌成は子孫である。もうひとつ第2芝山家
というのがあり、これは生き残った芝山一族の者たちで、第2大宮家と同じく伊勢に土着し、本能
寺の変で信長を倒した明智光秀に属して山崎の戦いに出陣している。そのうちの何人かが、大宮吉
守と同様、秀時の意向をくみとって小次郎を称して参陣、戦死して織田信雄の昌教探索の目をくら
ませている。この第2芝山家の子孫も今でも伊勢に住んでいる。
家城 主水 (?〜1577)
北畠家の家臣で家城の城主。家木主水正・主水佑とも書くこともある。槍の名手で北畠軍のなか
でも勇猛な武将のひとりである。織田信長との戦いでは大河内の城にはいって戦い、日置大膳らと
防戦し、織田軍武将池田恒興の軍をさんざんに討ち取る。その後も曽原や森の各城にうつって織田
軍と抵抗戦をつづけた。北畠具親が挙兵するとこれに従い、挙兵して鳥屋尾石見守とともに織田軍
やそれに加担した旧北畠家臣らと戦うが、敗れて川俣で戦死した。
田原 重綱 (?〜1584)
北畠家家臣で浜田城主の田原元綱の子。織田信長軍の滝川一益の攻撃により、父・元綱が戦死し、
重綱も奮戦するが敗れて城を脱出して美濃に逃れる。のちに織田信雄に属して小牧・長久手の戦い
に羽柴秀吉軍と戦ったが、美濃加賀野井城で戦死した。
日置 大膳亮 (?)
北畠家の家臣で松ヶ島細首城主。兄には大河内城旗頭の高松左兵衛督がいる。織田信長の攻撃に
は細首城を焼き捨てて大河内城に入り家城主水らと防戦する。しかし織田信雄が養子として入ると
信雄の家臣となり、田丸城での北畠一族殺害にも関与、そして北畠具親の挙兵には鎮圧軍として2
回も退けている。その後も信雄の家臣として伊賀攻めなどに出陣した。のちに徳川家康に属するが、
まもなく死去した。
大嶋 讃岐守 (?)
北畠家の家臣でかなりの武勇の人物。北畠家が織田信雄に乗っ取られたあと一向一揆に加担する。
一族の大嶋豊後守とともに伊勢長島において一向一揆とともに織田信長と戦う。この伊勢長島の一
向一揆で織田信広と織田信次・織田信成・織田秀成ら大将5人を討ち取り、雑兵700人を討ち取
る功績をあげる。その後、一族と言われる大嶋内蔵頭が北畠の家臣帳を残すなど北畠についての遺
品も残している。
奥山 常陸介 (?)
北畠家の家臣で今徳城主。織田信長軍の織田信昌の軍に城を攻められるが、撃退している。その
後織田信長から北畠具教暗殺団の一人に指名され、領地加増の朱印などを受け取るが仮病を使って
離脱して織田信長に朱印を返還する。そして出家して西来寺近くに庵を構えて過ごした。
藤方 刑部少輔 朝成(1530〜1597)
北畠家の家臣で一族の藤方城主藤方侍従入道慶由の子で陸田の城主。名は朝成。織田信長の攻撃
には降伏して信雄の家臣となる。そして信長の命により北畠具教暗殺団の一人に指名され、家臣の
加留左京を名代として行かせた。その後は羽柴秀吉に仕え、鈴鹿郡庄野に1000石を賜り、68
歳で死去した。
藤方 侍従 入道 慶由 (?〜1576)
北畠家の家臣で一族である藤方城主。名は入道して慶由。北畠具教暗殺団のひとりである藤方朝成
の父。織田信長とも戦うが、北畠具教の最期を知り切腹して死去した。
山路 弾正大弼 (?〜1571)
北畠家の家臣で一族。正式には神戸家の家臣で神戸具盛の娘婿である山路正幽の子。高岡城主で、織
田信長の攻撃をうける。しかし弟たちと城を包囲されながらも防戦、信長を撃退する。しかし神戸家・
長野家が相次いで織田信長の養子戦略によって傘下にはいると高岡城で抵抗、神戸氏を継いだ織田信孝
によって殺害・粛清された。
長野 左京進 (?〜1584?)
北畠家の家臣だが、正式には長野家の家臣で国人長野氏の一族。小倭山田野の城主。織田信長の攻
撃には大河内城にはいって防戦するが、のちに織田信雄の家臣となる。その後、織田信長より北畠具
教暗殺団の一人に指名され、藤方朝成の家臣の加留左京とともに三瀬の館に行って具教を暗殺する。
羽柴秀吉と織田信雄の戸木の戦いでは信雄方の木造軍に加わったが、秀吉に寝返っている。しかし津
の半田というところで小倭の家所修理亮と争って殺されている。
柘植 三郎左衛門尉 (?〜1579)
北畠家の一族・木造家の家臣。織田信長の伊勢攻撃の時には当主の木造具政をもって織田信長に属
し、北畠一族の滝川雄利とともに伊勢の道案内をする。そして北畠軍を攻めている。織田信雄が北畠
家の養子にはいると信雄の重臣となり、北畠具教暗殺団の指揮をとる。滝川雄利とともに信雄の伊勢
組として動くが、信雄の伊賀攻めに従軍して戦死した。
天花寺 小次郎 (?)
北畠家の家臣で侍番頭、曽原の城主。織田信長の攻撃を受けたが防戦し撃退しましたが、信長は北
畠具房に圧力をかけて具房が出陣している。その後も織田信長に抵抗し、一族の天花寺蔵人佐ととも
に伊賀侍に下知もしている。
家所 修理亮 (?)
北畠家の家臣で、小倭城主及び家所の城主。一族の家所三河守は美濃の土岐軍を打ち破って功名を
あげている。修理亮は織田信長と戦い、功名をあげるが北畠軍はやぶれる。その後は小倭にこもって
いたが、のちに長野左京進を津の半田で斬り殺している。
細野 壱岐守 藤敦 (1541〜1603)
北畠家の家臣だが、正式には長野一族でもある長野家家臣。父は長野稙藤の弟細野藤光。名は藤敦。
伊勢に安濃津城を築城して城主となる。各種の北畠軍の合戦に従軍し、鷺山の戦いや塩浜の戦いに参
陣して戦功を上げる。織田信長の攻撃では長野一族として北畠具教の子の長野具藤を立てて防戦した。
しかし長野本家が信長に買収され、謀略によって長野具藤によって異心ありと攻められるが、逆に具
藤を多芸に逃亡させる。長野家が信長の弟信包によって養子相続となると、信包が年賀で清洲にいっ
たすきを攻めて長野城を奪回する。しかし信長は滝川一益の子を藤敦の養子にいれて和解する。その
後織田信包によって居城の安濃津城を攻められるが、火を放って逃れて蒲生氏郷の配下に入った。次
に秀吉にも仕えて伏見城松の丸の守将に任ぜられ、秀吉側室松の丸殿の家司となった。分部光嘉・川
北藤元の兄。
分部 左京佐 光嘉 (1552〜1601)
北畠家の家臣だが、正式には長野一族でもある長野家家臣。父は長野稙藤の弟細野藤光で、細野藤
敦の弟。名は光嘉。分部家の養子となって分部光高の跡を継ぐ。織田信長の攻撃には兄の細野藤敦に
反対して、織田信包を長野家養子に迎え入れ、信包の家臣となった。信包の命により上野城を築城し
て城代となるが、そののち秀吉に仕え、徳川家康の推薦で太閤赤母衣衆に入って上野城主1万石の大
名となる。関が原の戦いでは徳川方の東軍に属して、2万石となる。その後は近世大名となった。
服部 民部少輔 (?)
北畠家の家臣で七栗一色の城主。織田信長の攻撃では大河内城で防戦につとめ、勇士と称されるが北
畠は敗れる。その後、子孫は松阪城の城代や町奉行などをつとめ、国学者で本居宣長の門下の服部中庸
などもいる。現在も伊勢に服部氏の末裔がいる。