武闘集団公卿としての北畠有馬家
有馬昌範が北畠有馬家として家門を再興するという快挙をなしとげたときから北畠有馬家
は公卿としての第一歩がはじまりました。武家公卿と呼ばれた北畠有馬家を昌範から継いだ
のは長男の有馬範久でありました。有馬範久は有馬昌範の長男として元禄3年(1690)
3月5日、津軽で生まれますが父が家門再興して京都にいったので範久も同行しました。幼
名は吉之丞であります。元禄13年(1700)に叙爵されます。
父の死後、有馬家の2代目当主となり経済力拡大に努力しました。その時有馬家はにわか
公家というようなときで、土民に近い生活から急に公家となったので経済力はかなり困窮し
ていました。屋敷も公家屋敷が立ち並ぶ御所周辺には建てることができず、現在の中京区の
天神通近くに建ててしのぎました。一応今まで庇護を受けていた津軽氏からは祝金が支給さ
れましたが、家人の給金や家族の日々の糧に消えていきました。そこで範久は父の生前から
質素倹約に努め、景気のいい時代に蓄財につとめました。父の昌範も前の土民のような生活
を思い出し範久の倹約の姿勢に感動したといわれています。「初心忘れるべからず」を範久
は実践したのであります。範久は家芸である伊勢新刀流剣術の道場を開き、さらには和漢学・
和歌の学問所も開設して他家の家人・寺侍・一般庶民に教授して収入を得、父の死後には経
済力にも余裕がでてき、のちの飢饉の時代でも十分のりきれる経済力の基礎を築いたのであ
ります。本家はもとより、家人まで裕福にすることに成功したのであります。そして家人同
士の結束を固め、本家有馬を中心とする武家並の家人団を構成し、伊勢新刀流剣術を教え込
みました。
官位も順調に侍従・参議・権中納言と累進し、正二位権大納言となり朝議で重要な位置を
しめておりました。津軽浪岡の領地の整備にも力を入れ、実質石高以上の収入を得た時期な
どもあり、有馬家はさらに経済力向上に拍車をかけたのであります。範久の治世の後期には
有馬家の経済力は巨大化し、ついに一級の上級公家となるのであります。その有馬範久も延
享2年(1745)3月8日に死去しました。北畠有馬家経済力の祖であります。
この有馬範久の時代、江戸幕府は5代将軍徳川綱吉の治世でありました。範久が叙爵した
頃は極端な動物愛護令である生類憐れみの令が発せられており、庶民はたいへん苦しみまし
た。そして赤穂浪士の討ち入りがあったのもこのころです。元禄14年(1701)3月1
4日、勅使饗応役の浅野内匠頭長矩は江戸城松の廊下において、吉良上野介義央に遺恨から
斬りつけ、幕臣の梶川与惣兵衛頼照に取り押さえられ、即日に切腹を申し付けられ、田村右
京大夫建顕邸の庭先で切腹しました。検使正使は庄田下総守安利であります。吉良上野介義
央はお構い無しとして、栗崎道有に傷の治療を受けました。赤穂藩はお取り潰しとなり、4
月19日には家老大石内蔵助良雄が赤穂城収城使の脇坂淡路守安照らに城をあけわたし、主
家再興運動を開始していくのであります。元禄15年(1702)3月14日の内匠頭一周
忌法要あたりから吉良邸の偵察を開始、7月28日の円山会議にて吉良邸討ち入り決行を宣
言します。12月5日、討ち入りを決行しようとするも中止し、同月10日、同志の大高源
五が14日に茶会が開かれることをききだして討ち入りの日程を決定します。茶会の翌日の
12月15日午前4時、吉良邸に討ち入りを開始、2時間後の6時に吉良上野介義央を同志
の間 十次郎・武林唯七が殺して本懐を遂げて邸宅を撤収、泉岳寺に向かいます。翌日には
吉良の首を吉良家に返還、幕府の処分を待つことになりました。幕府は赤穂浪士に対し、切
腹を命じました。浪士たちは大目付仙石伯耆守久尚の指示のもと、細川越中守綱利・松平隠
岐守定直・水野監物忠之・毛利甲斐守綱元の各大名家にお預けとなり、そこで切腹しました。
このことは江戸の庶民たちの間で人気となり芝居などになり、現在も人気が絶えません。
5代将軍徳川綱吉が死去すると、徳川家宣が6代将軍に就任、側用人の間部詮房と儒学者
の新井白石が幕府政治の刷新をはかりました。まず生類憐れみの令を廃止、貨幣を改悪させ
た勘定奉行の荻原重秀を更迭し、良質の正徳金銀を鋳造させました。そして金銀の海外流出
を防ぐために、海舶互市新例を出して貿易を統制したりしました。しかし現状の積極的な解
決はあまり期待できませんでした。
そのとき巨大化した有馬家を有馬範久から継いだのは有馬範忠であります。範忠は幼名を
幸之進麿といい、正徳2年(1712)2月27日に生まれています。この人は復興したあ
とに生まれているので、幼名が公家風になっております。生まれながらの公家でありますが、
公家には珍しく武芸百般に通じ、父祖以来の伊勢新刀流剣術を極め、そして小笠原流騎射の
達人でもありました。享保10年(1725)に元服・叙爵。参議・侍従や権中納言・右近
衛少将などを歴任して、極官は正二位権大納言であります。幕府の高家の者たちと親密にな
り、幕府にも顔がきいていたらしいということであります。武闘集団公卿というふうによば
れていたので京都所司代などの幕府の朝廷監視機関に要注意とされていました。朝廷では桜
町・桃園両天皇の信任が厚く、摂家・大臣家の人々をさしおいて朝政をつかさどっていまし
た。そして武芸を父の開設した道場で教授する傍ら、茶の湯や和歌そして和漢学にも秀でて
文武両道の公卿でありました。明和3年(1766)1月と2月の津軽弘前大地震で浪岡の
領地立て直しをするが、同年の7月19日に死去しました。
このころは8代将軍徳川吉宗の治世であります。元紀州藩主でありましたが、7代将軍徳
川家継が幼くして死去したので、将軍に就任しました。吉宗は財政難を克服するため、倹約
令をだして財政支出の減少をはかりましたが、好転しなかったので今度は上げ米の制を実施
し、諸大名から1万石について100石の米を献上させ、そのかわりに江戸参勤の期間を半
年だけ短縮させるものをだしました。翌年の享保8年(1723)には足高の制を実施し、
旗本などが役職についた場合、その在任中だけ役職の標準禄高に不足する禄高を加給する制
度をだしました。そして収入増加をはかるため、新田開発を奨励したり、青木昆陽に甘藷の
栽培を研究させたりして殖産興業に力を入れました。それから豊作・凶作にかかわらず一定
額の租税を取る定免法を採用したり、株仲間を公認したりして経済体制を強化していきまし
た。政治関連では大岡忠相を町奉行に登用し、行政・裁判の基準とする公事方御定書をつく
らせたり、評定所に目安箱を設置して庶民の意見をとりいれました。これにより小石川養生
所や町火消しが設置されました。このような享保の改革を吉宗は行い、幕府の権威を回復し、
財政も余裕がみえてきました。
このころ浪岡の領地立て直しを引き継ぎ、有馬家の当主となったのが有馬範行であります。
範行の幼名は十郎麿、寛保2年(1742)5月4日に生まれています。範行は父と違って身
体が弱かったので、武術よりも茶の湯や和歌そして和漢学の道を極めたのであります。宝暦5
年(1755)に叙爵し、侍従・参議・権中納言などを歴任し、父祖の極官を越えることなく
同じく正二位権大納言が極官であります。しかし病のために長男の有馬重範に家を譲り、自邸
で隠居静養していましたが、天明元年(1781)ころに地震から復興した津軽浪岡の五本松
へ引退しました。そこでは庵館を建てて静養、津軽藩主津軽信寧の保護のもと藩内にも京都と
おなじような和歌・和漢学の私塾を開設、藩主・藩士の子弟や一般庶民の教育に貢献しました。
そして天明5年(1785)9月、浪岡にて死去しました。
このころは老中田沼意次が大きな権威を振るっていました。田沼は現実的な政治家で、徳川
吉宗の政策をさらに積極化するしかないと考えておりました。そこで大坂商人の資本を導入し
て印旛沼・手賀沼の干拓を計画しましたが、天明6年(1786)の自分の失脚で失敗しまし
た。田沼はほかにも蝦夷地の開発や銀・銅・人参などの専売制度や株仲間の積極的公認などを
おこないましたが、意次の子の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺され、江戸庶民の田沼に
対する不満が高まり、ついに失脚しました。
天明元年(1781)ころに有馬範行が津軽浪岡に引退するときに家を譲られた有馬重範は、
幼名を貞之助麿といい、宝暦13年(1763)に生まれました。父からではなく家人から父
祖伝来の伊勢新刀流剣術を習い、達人となりました。安永5年(1776)に叙爵。朝廷内で
は朝議の傍ら剣術指南役としても活動、門下生には下級公家、公家家人、寺侍が多数で父祖以
来の道場・学問所で一般庶民にも教授して広くひろめました。父の死後、浪岡の領地を相続し、
津軽藩主津軽信明にも親交があり、領地の保護を求めています。そして同地に地方行政のため
に検断役を設置しております。官位は累進し、寛政3年(1791)に従三位権中納言となり、
同13年(1801)には極官権大納言となっています。文化6年(1809)、准大臣への
昇進を病のために固辞します。一度回復して長男有馬範顕をもうけました。しかしまた病の身
となり、引退します。引退した直後の文政2年(1819)、死去しました。
幕府では田沼意次にかわって幕閣の中心となったのは老中松平定信であります。定信は田沼
時代の事業を廃止し、賄賂を禁止したりして綱紀の粛正をはじめました。政治的には助郷役の
軽減、新田開発の奨励、営利的副業の禁止などをして農民生活の安定をはかり、天明4年(1
784)までの債務を破棄するなどの棄捐令をだして武士の財政難を救援、そして飢饉にそな
えて諸藩に囲米を命じたりしました。それから火付盗賊改役の長官に長谷川平蔵を任命し、江
戸小石川に人足寄場を設置し、無宿者や軽犯罪者を収容して職業指導にあてて社会の安定をも
はかりました。しかし、定信の倹約令や風俗矯正は庶民の不満をかい、経費節減は大奥女中の
不満をかい定信は失脚しました。
このあと有馬重範の息子の範顕は幕末の時代に大活躍をするのであります。しかし、明治維
新には存在が消されてしまうなどとは夢にも思っていなかったでしょう。