19歳の時に志を立て、家業の農事を弟の長興に譲って江戸に遊学し、古賀精里に入門する。ついで昌平黌を受験するが身分格差によ
って断念する。そのために山本北山の「奚疑塾」に入学した。そこでは、経史・詩文などを研究し、特に詩作に関しては天才的能力を発揮
した。しかし酒豪ともなり無一文になって一時帰郷した。その後また江戸の「奚疑塾」に戻り、大田錦城らとともに北山門下十哲に数えられ
た。このとき京都などにも遊歴、また故郷の曽根に帰った。曽根では詩作をし、1820年に一族の稲津長好の娘の紅蘭と結婚する。
1822年、紅蘭と西遊の旅に出て広島・長崎などを訪れる。そしてまた故郷曽根に帰り、村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の詩人
と往来した。1827年には京都で頼 山陽・日野資愛らとも交わる。1834年、江戸に入って八丁堀や水戸藩邸などに仮住まいするが、神
田お玉が池に新居を開き「玉池吟社」と称した。隣の家は佐久間象山で、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁にいつもはいっていた。このころ
にはすでに星巌は有名で、鯖江藩主の間部詮勝や彦根藩家老の岡本黄石などが詩作の添削を依頼してくるほどであった。1846年には
突然、京都に移住し、鴨川近くに「黄葉山房」を開き、のちに川端丸太町に引っ越して「鴨沂小隠」を開く。ここでは佐久間象山や吉田松陰
宮部鼎蔵・梅田雲浜らが出入り時局を論じる。幕府からはここを「悪謀の問屋」と評された。その後、池内大学・春日潜庵・芝山昌道・小林
良典らが来るようになると朝廷公卿の間にも名が知られるようになった。1858年、幕府が条約調印を行うとこれに憤慨、梅田雲浜らと公
卿に攘夷を建言、水戸藩に密勅を降下させた。間部詮勝が京都に入ると詩25首を賦して諌止せんとした。しかし井伊直弼の安政の大獄
がはじまると真っ先に狙われることとなる。だが逮捕の直前にコレラにかかって70歳で死亡した。死後2日後に梅田雲浜が逮捕されて世
の人は「星巌は死(詩)に上手」と評判した。 |