幕末用語・人物事典

人物編T
(藩士・家臣・志士編)

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             梁川 星巌   (1789〜1858)
 父・豪農稲津丈太郎長高  幼名・善之丞  身分・志士 詩人  出身地・美濃国安八郡曽根村  妻・梁川紅蘭
 名・長澄 卯 伯兎 詩禅 孟緯 公図 無象 新十郎 三野逸民 夏軒老人 天谷道人 百峰 老龍庵
  19歳の時に志を立て、家業の農事を弟の長興に譲って江戸に遊学し、古賀精里に入門する。ついで昌平黌を受験するが身分格差によ
 って断念する。そのために山本北山の「奚疑塾」に入学した。そこでは、経史・詩文などを研究し、特に詩作に関しては天才的能力を発揮
 した。しかし酒豪ともなり無一文になって一時帰郷した。その後また江戸の「奚疑塾」に戻り、大田錦城らとともに北山門下十哲に数えられ
 た。このとき京都などにも遊歴、また故郷の曽根に帰った。曽根では詩作をし、1820年に一族の稲津長好の娘の紅蘭と結婚する。
  1822年、紅蘭と西遊の旅に出て広島・長崎などを訪れる。そしてまた故郷曽根に帰り、村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の詩人
 と往来した。1827年には京都で頼 山陽・日野資愛らとも交わる。1834年、江戸に入って八丁堀や水戸藩邸などに仮住まいするが、神
 田お玉が池に新居を開き「玉池吟社」と称した。隣の家は佐久間象山で、星巌と紅蘭の夫婦喧嘩の仲裁にいつもはいっていた。このころ
 にはすでに星巌は有名で、鯖江藩主の間部詮勝や彦根藩家老の岡本黄石などが詩作の添削を依頼してくるほどであった。1846年には
 突然、京都に移住し、鴨川近くに「黄葉山房」を開き、のちに川端丸太町に引っ越して「鴨沂小隠」を開く。ここでは佐久間象山や吉田松陰
 宮部鼎蔵・梅田雲浜らが出入り時局を論じる。幕府からはここを「悪謀の問屋」と評された。その後、池内大学・春日潜庵・芝山昌道・小林
 良典らが来るようになると朝廷公卿の間にも名が知られるようになった。1858年、幕府が条約調印を行うとこれに憤慨、梅田雲浜らと公
 卿に攘夷を建言、水戸藩に密勅を降下させた。間部詮勝が京都に入ると詩25首を賦して諌止せんとした。しかし井伊直弼の安政の大獄
 がはじまると真っ先に狙われることとなる。だが逮捕の直前にコレラにかかって70歳で死亡した。死後2日後に梅田雲浜が逮捕されて世
 の人は「星巌は死(詩)に上手」と評判した。
          梅田 雲浜   (1815〜1859) 
 父・小浜藩士矢部岩十郎義比  名・源二郎 定明 湖南 東塢 義質  身分・小浜藩士  出身地・若狭国小浜町竹原三番町
  祖父の生家の梅田家を継ぐ。1830年、江戸に出て崎門派の藩儒山口菅山に学び、のち帰国する。そして近江大津の上原立斎にも学
 び、その娘の信子と結婚する。1843年には京都に移り、藩管轄の「望楠軒」で講義、しばしば藩主酒井忠義に藩政批判を行い、1852年
 には海防策の建白による藩政批判により藩籍を削られる。その後ペリー再来航により水戸藩・福井藩らに攘夷の結集を促すなど攘夷運
 動にかかわる。ロシアの艦船が大坂に来航すると十津川郷士らとともに攘夷策を講じる。1856年には秋良敦之助を介して長州藩に入り
 坪井九右衛門を訪ねて長州産物御用掛となる。
  条約勅許問題がおきると、門人である中川宮家家臣の伊丹蔵人らによって中川宮と謁見、信頼を得て昇殿も許され大きな影響力を行
 使して幕府への勅答案を擬した意見書も作った。梁川星巌・頼 三樹三郎・池内大学とともに在京の志士を牛耳り、「悪謀の四天王」のひ
 とりとされた。大老井伊直弼を斥ける計画や水戸藩への密勅降下などにもかかわる。これが彦根藩士の長野主膳の知るところとなり烏丸
 の住まいを伏見奉行所の捕吏に囲まれ、安政の大獄の一人目の逮捕者として逮捕されて江戸に護送された。小倉藩主の小笠原忠嘉の
 邸内に幽閉されたが、病にかかって45歳で死亡した。
         橋本 左内   (1834〜1859)
 父・福井藩奥外科医橋本彦也長綱  名・伯綱 弘道 桃井伊織 亮太郎 景岳 藜園 容安 篤斎 松亭 桃花晴暉楼
 身分・福井藩士・蘭学者  出身地・越前国福井城下常盤町
  1848年、15歳で「啓発録」を著す一方、藩内の儒学者吉田東篁に学ぶ。1849年、大坂に出て緒方洪庵の適々斎塾に入門して蘭方
 医学を学ぶ。その後帰国して家督を継ぎ、藩医となる。1854年、江戸に出て坪井信良・杉田成卿に入門して洋学を学ぶ。これらを藩主の
 松平慶永に認められ、医員を免ぜられて書院番となって藩の要職につく。このころには英語・ドイツ語をマスターし、藩校明道館の蘭学掛や
 学監同様心得となり、実学精神をとなえて学風を一新する。そして洋書習学所を設置して洋学の積極的摂取に乗り出す。それと同時に藩
 の重臣である中根雪江・由利公正・鈴木主税・村田氏寿らと藩政改革を行い、物産振興の裏打ちによる積極的開国貿易論を提唱する。
 そして具体的な統一国家を目指した雄藩連合構想や、日露同盟なども提唱する。将軍継嗣問題では一橋慶喜を強く推し、松平慶永から
 侍読兼内用掛に起用されて幕閣・朝廷工作を本格的に行う。
  井伊直弼により徳川慶福が将軍継嗣に決定する井伊大老失脚計画を図ったが、松平慶永が隠居等を命じられて活動が封じ込められて
 謹慎生活にはいった。しかし井伊が安政の大獄を行うと、捜索をうけて福井藩士の滝勘蔵方に預けられ、訊問をうける。その後将軍継嗣
 に関係したことが身分を越えた行為として死罪が申し渡され、江戸伝馬町の獄舎で26歳で処刑された。
               池内 大学   (1814〜1863)
 父・池内貴治  名・奉時 士辰 陶所 退蔵  身分・儒学者 医者  出身地・近江国(京都?)
  商家に生まれ、儒学を貫名海屋に学び折衷学派の儒学者になる。医者の傍ら、中川宮朝彦親王(青蓮院宮尊融法親王)や知恩院宮の
 侍講となり、公家の子弟にも儒学を教えた。条約勅許問題が起こると、中川宮・三条実万らに入説し水戸藩への密勅の降下にも暗躍した。
 これにより梁川星巌・頼 三樹三郎・梅田雲浜とともに「悪謀の四天王」と呼ばれた。
  安政の大獄がおこると中川宮から金をもらって伊勢へ逃げるが、京都町奉行所に自首し江戸に護送されて糾問をうける。そして中追放の
 刑罰をうける。この軽刑罰により尊攘派から白眼視され裏切り者と呼ばれ、大坂に隠退する。1863年に土佐の山内容堂が大坂に酒席に
 招かれて書画などを拝領するが、帰宅の途中の尼ヶ崎町1丁目で土佐の岡田以蔵らに暗殺された。50歳。その首は難波橋にさらされ、さ
 らに耳朶が脅迫文とともに正親町三条実愛・中山忠能の屋敷に投げ込まれた。
               春日 潜庵   (1811〜1878) 
 父・久我家諸大夫家令春日越前守仲恭  名・仲好 仲襄 子賛 直之助 讃岐守
 身分・久我家諸大夫家令  出身地・京都烏丸一条下ル 
  久我家の家令として久我通明・建通につかえ、有馬家との橋渡し役も勤めて有馬家家臣の芝山昌道と懇意にしていたが、通明の死後に
 建通と有馬範顕の仲の悪さにより家同士の付き合いは疎遠となったが、芝山昌道との私的付き合いは芝山の死までつづいた。そして久我
 家の財政建て直しになどにつとめた。そして従五位下讃岐守に叙任された。
  五十嵐君山の門に入り、さらに鈴木恕平に朱子学を学び、山田方谷・池田草庵らには陽明学を学びさらに大塩平八郎にも学ぶ。これで
 陽明学者となる。横井小楠・梁川星巌らと交流し、塾を開いて教育もおこなう。久我家の家政で同僚の中傷を受けて辞める。だが1年後に
 復活する。条約勅許問題では、久我建通を動かして反対し、芝山昌道らとともに梁川星巌らと説得工作にあたり、水戸藩への密勅降下にも
 たずさわった。このために安政の大獄で捕らえられ、江戸に護送されて岸和田藩邸に永押込に処された。その後京都に移され幽居された。
  1862年に赦免され、さらに国事に動いた。芝山昌道の死後あたりから倒幕の志をもちはじめ、持明院近くにアジトを作って西郷隆盛らと
 交流、七卿落ちのあとには東久世家の家政も兼任する。1868年には主人久我通久が大和鎮撫総督になると参謀に就任、その後奈良県
 知事に任ぜられたが、旧幕府と通謀したとの嫌疑をうけて投獄される。疑惑が晴れて出獄したあとは引退して門弟の教育にあたった。門弟
 には末広鉄腸らがいる。1878年、67歳で死亡した。
               伊丹 蔵人   (1830〜1900)
 父・青蓮院宮諸大夫伊丹大和守重任  名・重賢 右京大進  身分・青蓮院宮家家臣(中川宮家家臣)  出身地・京都粟田
  梅田雲浜の門に学び、青蓮院宮に仕えて国事に奔走する。朝彦親王に梅田雲浜・橋本左内らを斡旋仲介するところがあった。それで安
 政の大獄に連座して中追放に処された。一時期彦根藩に拘留もされている。1862年に赦免される。1863年、朝彦親王の命を受けて湊
 川の楠木正成碑に代拝の途中、幕府捕吏に薩摩への行路と嫌疑をうけて捕まった。その後内密的に薩摩・長州らと気脈を通じて倒幕派に
 傾斜していった。1867年には左京大進に就任、中川宮家と有馬家の不穏な動きを倒幕側に通報、有馬範顕の中川宮皇位擁立事件の失
 敗の原因をつくったりした。これらの功績などにより、明治政府より徴士・内国事務局権判事に任ぜられた。そののちには明治政府の要職
 を歴任、司法中判事や司法少輔、左院中議官などの司法関係にたずさわった。1878年には元老院議官に任ぜらる。その後も日本海令
 草按審査委員や高等法院陪席裁判官等を勤め、1900年に71歳で死亡した。   
               山田 勘解由  (1834〜1898)
 父・青蓮院宮諸大夫山田筑後守時亮  名・時章 不倦斎  身分・青蓮院宮家家臣(中川宮家家臣)  
  伊丹蔵人とともに梅田雲浜の門に学び、朝彦親王に梅田雲浜・橋本左内らを斡旋仲介するところがあった。そして条約勅許問題や水戸
 藩への密勅降下問題にもたずさわった。このために安政の大獄で逮捕され、江戸で五手掛の調べをうけて押込に処された。
  赦免されると中川宮家に復帰し、倒幕派に傾斜した伊丹蔵人を退けて中川宮の信頼を得る。同僚の武田信発とともに有馬家家臣の城
 島とともに公武合体に奔走し、各方面の説得工作にあたる。鳥羽・伏見の戦いになると中川宮家の家臣を引き連れて城島とともに佐々木
 只三郎の指揮下に入ったが、すぐに負傷して京都にもどって静養している。維新後、戦闘経歴を偽って政府に出仕して堺県権参事、太政
 官権少史となるが時輩に合わずに退隠、駿河台の自宅に興風女学校を設立して女子教育に携わった。1898年に65歳で死亡した。
                小林 良典   (1808〜1859)
 父・鷹司家諸大夫家令小林太宰少弐元次  名・民部権大輔 筑前守  身分・鷹司家諸大夫家令  
  代々鷹司家の家令の家で、資性剛胆で才略に富み、関白家の家政を執っていることで高名であった。中川宮朝彦親王や近衛忠煕・三条
 実万らの公卿や諸藩の藩士とも交流した。条約勅許問題などでは、最有力者の地位にあり、鷹司政通・輔煕父子を動かして水戸藩への密
 勅降下にたずさわった。有馬家家臣の芝山昌成をして橋本左内と連絡をとり、松平慶永と親しくなって一橋慶喜擁立などにも尽力する。
  安政の大獄がはじまると、黒幕とされて自宅を脱出して鷹司邸に潜伏したが捕らえられて六角獄に収容され、のちに江戸に護送された。
 そして水戸藩・福井藩の京都入説を斡旋したとの容疑で遠島に処せられた。のちに肥後人吉藩に永預に変更されたが、配所に送られる
 とちゅうで52歳で死亡した。獄中で暗殺されたともいう。
                島田 左近   (?〜1862)
 名・龍章 正辰 左兵衛権大尉  身分・九条家諸大夫家令
  石見の農家に生まれて、京都で商家の手代をしてから公家の青侍奉公から九条家の家令まで昇進したともいうし、美濃の山伏または神
 官の子に生まれて、烏丸家に仕えてから九条家の家令島田家の当主の妻で九条家老女沙田の娘婿となり島田家に入って九条家家令ま
 で昇進したともいって出自・生い立ちは諸説あってさだかではない。
  安政年間には、彦根藩士長野主膳と謀って条約勅許問題では九条尚忠を説得して幕府に加担させ、大老井伊直弼の指示のもと長野と
 ともに紀州の徳川慶福を将軍継嗣に擁立することにも奔走した。安政の大獄では、目明し文吉をつかって尊攘派を逐一探索して検挙して
 暗躍し、幕府から1万両の賄賂をとったとされている。1861年には和宮の降嫁には幕府との斡旋につとめ、江戸下向の際は供の一人と
 して江戸に随行している。京都においての権勢はすさまじく、今太閤とまでよばれた。このために尊攘派から憎まれ、1862年に京都木屋
 町の愛妾の家で薩摩の田中新兵衛ら3人に襲撃され、暗殺された。首は斬奸状とともに加茂河原にさらされた。35歳位だったという。
                宇郷 重国   (1828〜1862)
 父・九条家家臣宇郷木工権頭重幸  名・石見守 大舎人頭 内蔵権助 伊豆守 玄蕃頭  
 身分・九条家諸大夫  出身地・京都
  1831年に諸大夫に昇進した。同僚の島田左近とともに主人の九条尚忠の親幕政策を支持、安政の大獄では諸方を斡旋する。1860
 年、和宮降嫁問題が表面化すると島田左近とともに和宮の乳母である絵島を説得、絵島を通じて生母観行院ととその兄の橋本実麗を説
 得したり、桂御所の侍の塚田秀慶を通じて和宮の翻心を計るなど降嫁に尽力した。これらのことが、尊攘派の憎しみをかって1862年に
 京都丸太町の九条家下屋敷の長屋の自宅で本間精一郎や土佐の岡田以蔵らに暗殺された。首は松原河原にさらされた。40歳だった。
            長野 主膳   (1815〜1862)
 名・義言 主馬 桃廼舎  身分・国学者 彦根藩士
  25歳までの経歴は不詳に近く、肥後阿蘇の長野惟清のところで育ち、紀州にうつったという。1839年、伊勢の国学本居学者滝野知雄
 のもとで本居学を研究、その妹の多紀と結婚する。1841年、近江の三浦北庵邸に移り相楽院に高尚館という国学塾を開設する。その後
 1842年、主膳は二条家に仕え、妻多紀は今城家に仕えた。そのときに埋木舎に部屋住みだった井伊直弼が主膳に入門している。
  井伊直弼が彦根藩主の座につくと、藩校弘道館の国学方に登用されて彦根藩士となった。国学・言語学・歌学の見識が高く、門人は27
 7人に及び、著述も膨大にあった。井伊直弼が大老に就任すると腹心となり、条約勅許問題では老中間部詮勝が上洛したときにこれを助
 けて九条尚忠に入説、密勅が水戸藩に降下すると京都所司代や町奉行を駆使して安政の大獄の検挙を行った。そして京都の幕府方の
 中心人物となり、「京都大老」「義言大老」とまで呼ばれた。井伊直弼が桜田門外で暗殺されたあとも、藩政を執って幼主井伊直憲を補佐
 していたが、彦根藩家老の岡本黄石らの尊攘クーデターにより獄に投じられ、1862年に48歳で処刑された。     
              吉田 松陰   (1830〜1859)
 父・長州藩士杉百合之助常道  身分・長州藩士  出身地・長門国萩松本護国山麓団子岩
 名・矩方 義卿 子義 虎之助 大次郎 松次郎 寅次郎 松野他三郎 瓜中万二 二十一回猛士 蓬頭生 無一
  一説では忍者集団の頭である忍者頭で中忍の家であるという。6歳で叔父の吉田大助の養子となり山鹿流の兵学師範の道にすすむ。
 玉木文之進などの厳しい教育を受け、11歳で藩主毛利敬親に「武教全書」を講義する。1847年には18歳で山鹿流軍学の免許皆伝と
 なり、1849年には御手当御掛を命ぜられて海岸の巡検、羽賀台の演習に参加するなどした。その後九州遊歴の旅に出て、平戸の葉山
 佐内について学ぶ。長崎・熊本と渡り、藩主に従って江戸にも赴く。安積艮斎について儒学を、佐久間象山に洋学を学ぶ。1852年には
 脱藩して東北探訪をおこなう。また江戸に舞い戻り、ペリー来航の報をうけて浦賀に行き、門人の金子重輔とともにペリーの軍艦に乗り
 込み海外渡航を企てるが失敗、幕府捕吏に捕まって獄につながれ、長州に送られて野山獄に収容される。1855年に出獄して実家杉家
 に幽閉される。ここで松下村塾を主宰、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋ら門人約80人を教育した。一説には松下村塾は藩の
 忍者養成学校だったというが、定かではない。ここでは幕府を批判し、老中間部詮勝暗殺計画などを議論、のちに野山獄に再投獄され
 この尊攘の強い影響力により、安政の大獄に連座して死罪が申し渡され、1859年に30歳で処刑された。
              関 鉄之介   (1823〜1862)
 父・水戸藩士関 新兵衛昌克  名・遠 士任 三好貫一郎 錦堆 丹楓 蘭室 桜園  身分・水戸藩士  出身地・水戸  
  1853年の黒船来航のとき、同僚の鮎沢伊太夫とともに浦賀・横浜を視察して徳川斉昭に報告している。1856年には家督を継いで
 寄騎・歩行士を経て郡方勤となり高橋太一郎・金子孫二郎らの与力となる。1858年には蝦夷地開拓調査を命じられて新潟で乗船準備
 中に徳川斉昭処分の幕命撤回を求める藩論沸騰により急遽帰国、水戸藩への密勅回達のために金子孫二郎・高橋太一郎の指示によ
 り矢野長九郎と西方へ説得に行き、同志を集める。安政の大獄がおこると高橋・金子らとともに井伊直弼暗殺を協議、そして薩摩の高崎
 五六とともに上京するが、藩命により蟄居となる。1860年、密かに脱藩して江戸に潜行、金子らの命により斎藤監物らと井伊大老襲撃
 の計画を練り、同志17人とともに桜田門外で井伊大老を暗殺して大坂に脱するが、薩摩藩が出兵せず高橋の自刃や金子の逮捕の報
 に接して単身薩摩に行くが拒絶された。潜行を重ねて江戸に戻るが、さらに越後の雲母温泉に滞在中に水戸藩の捕吏に捕まった。そして
 江戸へ送られて伝馬町の獄で39歳で死罪となった。
            有村 次左衛門  (1838〜1860)
 父・薩摩藩士有村仁左衛門兼善  名・兼清  身分・薩摩藩士  出身地・薩摩国鹿児島城下高麗町
  示現流の達人でもあったが、千葉周作にも剣を学んでいる。実兄に海江田信義・有村雄助がいる。1858年江戸に出て、薩摩藩邸で中
 小姓役をつとめる。安政の大獄がおこると薩摩藩士の伊地知貞馨らと水戸藩士とむすんで井伊大老暗殺計画に加担、伊地知が藩命で
 帰国すると薩摩側の中心となった。1860年、水戸藩士の関 鉄之介ら17人で桜田門外で井伊大老を襲撃、大老の駕籠に近づいて井伊
 大老の首級をあげる。首を持って日比谷門まできたところを彦根藩士で大老護衛の小笠原秀之丞に後ろから頭を斬られた。小笠原をそ
 の場で倒すが、重傷で歩行困難となり鍛冶橋手前の若年寄遠藤胤統の辻番所付近で動けなくなり、大老の首を前にして23歳で自決した。
             真木 和泉   (1813〜1864)
 父・久留米藩水天宮祠官真木左門旋臣  名・保臣 鶴臣 興公 定民 湊 久寿 和泉守 浜忠太郎 紫灘
 身分・久留米藩水天宮祠官 久留米藩士  出身地・筑後国久留米瀬下町
  1823年、家督を相続して久留米藩中小姓格に列する。1832年には上洛して従五位下和泉守に叙任される。漢籍・国典に通じていた。
 1844年には江戸に行き、水戸藩士会沢正志斎や学者の安井息軒らを訪れる。その後帰国して藩主有馬頼永に藩政改革意見書を提出
 した。このころにはすでに尊王攘夷の志を持ち始め、かなり傾斜していた。1847年の孝明天皇即位式に拝謁のために上洛、三条実万や
 野宮定功ら公家や小林良典らに王政復古を説いている。1852年、久留米藩家老の有馬監物の排斥して藩論を勤王に統一しようと画策
 するが失敗、弟の大鳥居理兵衛の家に蟄居させられた。そしてここを山梔窩となずけて尊王教育にあたる。その後平野国臣や清河八郎、
 有馬新七などが来訪して国事を謀った。そして討幕挙兵を説いて討幕運動の理論的指導者となっていった。
  1862年、薩摩の島津久光の上洛により幽閉を脱出して鹿児島に入り、大久保利通・有馬新七らと動き、さらに大坂経由で京都に入り
 公卿中山家家臣の田中河内介と挙兵を謀った。しかし寺田屋事件で薩摩に襲撃されて捕らえられ、大坂の久留米藩邸に幽閉のあと国許
 で禁固に処せられた。1863年には赦免され、京都で公武合体派を解体させるために三条実美に中川宮朝朝彦親王を西国鎮撫使として
 京都から遠ざけようと計画するが、有馬範顕らの裏工作により失敗する。そして藩主有馬慶頼に藩論を尊攘一途を説いて親兵頭取となっ
 たが、藩の守旧派によって投獄させられた。長州関係者や尊攘派公卿の意見で釈放され、長州に行って藩主毛利敬親に攘夷親征・討幕
 を説き、上洛して学習院出仕の身分を得た。そして大和行幸を画策したが、8・18の政変により失敗して七卿とともに長州へ下る。
  長州では久坂玄瑞・来島又兵衛らと挙兵計画をはかり、1864年に蛤御門の変がおこると忠勇隊を結成して京都に入り、幕府軍と戦うが
 敗れて天王山に退いた。そしてその後同志16名とともに52歳で自決した。

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